「賃貸なんて恥ずかしくないんですか?」――その一言が、31年間まっとうに生きてきた私の人生を否定した瞬間だった。
高級レストランの個室。息子の信吾と婚約者まりさん、そしてそのご両親との顔合わせの席。柔らかな照明と上品なBGMに包まれたその空間で、まりさんの父親がまるで値踏みするように私を見下ろした。
「うちは代々持ち家でしてね。いや、今時賃貸なんて恥ずかしくないですか?」
私は税理士として31年働いてきた。朝7時から夜10時まで、中小企業から上場企業まで200社以上の顧問先を抱え、年収1500万円。投資用不動産も5件所有している。家賃収入だけで月80万円。自宅を賃貸にしているのは、資産を効率的に運用するための、税理士としての合理的な判断だった。
でも、そんな説明をする前に、まりさんの母親が笑いながら畳みかけてきた。
「まあ、ゼイリスさんでもお金がないのかしら?それとも、ローンを組めないとか、信用がないのかしら?」
その言葉のひとつひとつが、刃のように私の胸に突き刺さった。
そして、息子の信吾は――黙っていた。
「信吾、お母さん、賃貸なの?私、ちゃんとした家庭の人と結婚したいんだけど。」
まりさんの言葉に、信吾はただうつむいて言い訳を始めた。
「いや、母さんは仕事が忙しくて……」
その瞬間、私はすべてを悟った。この息子は、私を守ってはくれない。
「皆様、少しよろしいでしょうか?」
私は静かに、しかし氷のような声で言った。
「いいわけではありません。決断です。この結婚、私は反対します。信吾、この婚約は破棄しなさい。」
個室の空気が凍りついた。
「母さん、何を言ってるんだ!」
「あなたに反対する権利があるんですか?賃貸暮らしの分際で!」
まりさんの父親が顔を真っ赤にして怒鳴る。母親も捨て台詞を吐いた。
「そうよ!あなたみたいな貧乏人に、うちのマリがもったいないくらいよ!」
私は表情を変えなかった。でも、心の中では静かに怒りが燃えていた。
「信吾、なんとか言ってよ!」まりさんが泣きまねをしながら訴える。
信吾はためらいながら言った。
「母さん、ちょっと言いすぎだよ。ありのご両親だって、悪気があったわけじゃ……」
その言葉で、私の心は決定的に冷めた。
「悪気がない?では、私を公然と侮辱したのは何なのですか?信吾、あなたは私の息子です。でも、私を守れないなら、この結婚は祝福できません。」
私は立ち上がった。テーブルの向こうでまりさんの両親が激昂し、信吾が何か叫んでいたが、私にはもう聞こえなかった。
「お母さん、ひどい!私たちの幸せを壊すつもりなの!?」まりさんの泣き声が部屋に響く。
そのとき、私はひとつの決断を心に決めた。
――この息子には、私は必要ないのだと。
翌朝、私は信吾に一通のメッセージを送った。
「あなたの幸せを願っています。ただし、それは私を侮辱した家族のなかではなく、自分の足で立てるようになってからです。もう連絡は不要です。」
それが、私から息子への最後の言葉になった。
それから数年後、信吾はまりさんと別れていたことを人づてに聞いた。
「母さん、ごめん。やっと分かったんだ。僕が間違ってた。」
彼は謝罪の電話をかけてきた。でも、私はただ静かに電話を切った。
「ごめんねでは済まないこともあるのよ。信吾。」
私は鏡の前で、長年咲き続けた桜の木を眺めながら思った。――私の人生は、決して恥ずかしいものではなかったのだと。
いや、私は誰にも、もう二度と侮辱させない。
その日、私は信吾に最後の手紙を書き、そして、すべてを整理するために弁護士のオフィスへ向かった。
それは、私の新しい人生の始まりだった。



