夕食の最中、テーブルの向かいで夫が何気なく箸を動かしていた。そのとき、私のスマホが突然震えた。画面に映った名前を見て、私は思わず手を止めた。岡田千春。かつての義母だ。元夫と離婚してから、一度も連絡を取っていなかった相手。なぜ今、このタイミングで?
通話ボタンを押すと、耳をつんざくような怒鳴り声が飛び込んできた。
「何やってるんだい!夫がガンで入院してるってのに、なぜ病院に来ないんだ!冷たい女だな。妻失格だよ!」
あまりの剣幕に、私は思わずスマホを耳から離した。ガン?入院?夫?その言葉を聞き取った現夫が、心配そうに私の顔を覗き込む。私は軽く目配せをして、静かに話し始めた。
「お母さん、今私は夫と食事中です。ですが、お母さんがおっしゃる“夫”とは誰のことですか?」
向こう側が一瞬、凍りついた。
「はぁ?どういうことだ?息子は、お前が浮気して遊び歩いてるって言ってたぞ…」
その言葉で、ようやく状況の輪郭が見えてきた。元夫は義母に離婚の事実を一切伝えていなかったのだ。自分が離婚したことも、慰謝料を踏み倒していることも、キャバ嬢と不倫していたことも。
「お母さん、まずお伝えします。私と息子さんは、もう1年以上前に離婚しています。」
その瞬間、受話器の向こうで小さな悲鳴のような息が漏れた。元義母は何も知らされていなかった。この電話が、長く続いたすれ違いと嘘の終わりの始まりだった。
私はもともと、20代半ばで岡田洋介と結婚した。最初の数年は、地方都市にある広い一軒家で、義母の千春と3人で暮らしていた。義母は明るくて大らかで、家をいつも綺麗に保つ几帳面な人だった。私はそんな義母に気後れしながらも、家事を手伝い、少しずつ距離を縮めていった。
やがて私たちは親しくなり、義母も私を可愛がってくれるようになった。それが、数年後のある日、突然の転機が訪れる。洋介に東京本社への異動の辞令が下りたのだ。
「お母さんを一人ぼっちにしてしまうわね…」と私が言うと、洋介は笑って答えた。
「何言ってんだよ。母さんを年寄り扱いするなって。あの人は俺らより元気だよ。」
確かに義母は背筋がピンと伸びていて、力仕事も難なくこなす人だった。それでも、家が急に静かになる寂しさを想像すると、胸が痛んだ。だが会社の命令には逆らえない。数週間後、私たちは東京での新生活を始めた。
東京は華やかで、どこへ行っても人の波で溢れていた。地方で静かに暮らしてきた私には、どこか落ち着かない環境だった。そんな不安をさらに募らせたのは、夫の変化だった。転勤後、彼の帰宅時間はみるみる遅くなっていった。
「ちょっと残業が続いてさ。」
最初はそう言って笑っていた。しかし、それが連日続き、11時を過ぎても既読すらつかない日が増えた。日付が変わる頃、ようやく玄関の鍵が回り、洋介が申し訳なさそうに帰ってくる。
「悪い。今日も遅くなった。」
私は疑いたくなかった。浮気を疑うほど、私は狭量ではないと思っていた。しかし、ある日、彼のスマホに映った女性との頻繁な連絡に気づいてしまった。それでも私は見なかったことにしようとした。
本当に、私は見て見ぬふりをしていた。ただ、その「見て見ぬふり」が、自分をどこへ導くのか、まだ知らなかったのだ。
***



