「お前より若い女と再婚したんだ。お前が別れてくれたおかげで、俺は幸せだよ」
彼の口から出た言葉に、私は一瞬、耳を疑った。久しぶりに会った元夫・リツは、以前よりずっと意地悪そうな表情を浮かべていた。そして、隣に立つ女性を誇らしげに抱き寄せる。
「紹介するよ。俺の最高の相手、ノアだ。すごく可愛いだろう?」
ノアは勝ち誇ったように微笑んでいた。彼女は私からリツを奪えたと思っているのだろう。しかし、私は彼女の本性を知っている。悲しみも悔しさも湧いてこなかった。むしろ、笑いが込み上げてきた。
「はあ。」
「何笑ってんだよ。強がってるのか?」
「違うわよ。それで幸せなんだ。」
私はそれだけを告げて、幼い息子・真白の手を握り、会場を後にしようと背を向けた。
「待てよ。どういう意味だ?」
周囲を気にしないリツの怒鳴り声が響く。私たちは掴まれる前に、急いで出口へ走った。
私の名前は原岡美月、32歳。69歳の父、68歳の母、8歳の息子・真白の4人で実家に暮らす会社員だ。毎日は楽しく充実している。
そんな私には、かつて夫がいた。名前は使井リツ。中学生の頃に知り合い、高校生の頃から交際を始め、お互いが社会人になってから6年後に結婚した。二人の実家の間に一軒家を建て、入籍後はそこで暮らし始めた。優しい彼と生活する中で、何度も「結婚できてよかった」と心から思っていた。
しかし、結婚して2年が経った頃、生活は一変した。リツの帰りが遅くなり始めたのだ。理由は「残業」だと言う。彼の勤務する会社は滅多に残業がないと聞いていたから、最初はその言葉を信じた。
だが、1ヶ月経っても彼の帰り時間は変わらない。むしろ日を追うごとに遅くなっていた。
「最近、随分残業が多いわね。」
純粋に気になっただけだった。しかし、リツはなぜか戸惑った様子で返事をする。
「う、そうか。」
「忙しそうで心配だわ。」
「気にしなくていいんだぞ。俺は自分のペースで仕事をしているし。」
困った表情を浮かべる彼に、私は続けた。
「今まであまり残業ってなかったでしょう。あなたが入社して6年は経つけど。」
その瞬間、彼の表情が少し変わった。
「会社は変化し続けてるんだよ。いきなり残業が来たり、仕事が増えたりするんだ。お前のところもそうだろう。」
「私はあまり経験がないかな。」
嘘をつかず正直に話すと、彼は眉間にしわを寄せた。
「まあ、お前に話しても理解できないか。着替えてくる。」
「ちょっと…」
リツは自分を肯定してほしかったのだと気づいた。引き止めようとしたが、すでに彼は寝室へ向かっていた。少し怒っている様子も見えたので、次に会う時が気まずい。私はキッチンへ足を運び、大きくため息をついた。数分もしないうちにリツが夕食を食べに来るはず。気を取り直して、炊きたてのご飯が入っている炊飯器に手を置いた。
10分後。予想とは違い、リツは普段通り機嫌よく食卓にやってきた。
「今日も相変わらず美味しそうだな。」
「ありがとう。たくさん食べてね。」
内心ほっとしつつ、私も食卓につき、食事を始めた。その後、寝る支度を終えた私たちはそれぞれの部屋へ行く。家を建てる際、一人の時間が欲しいという意見があり、別々に部屋を設けたのだ。
ベッドに寝転び、リツとの会話を思い返す。交際を始めてから喧嘩をしたことはあるが、いつもの言い合いとはどこか違った気がした。ただ、具体的な違和感は見つけられない。心のざわつきは消えず、私は諦めて眠りに落ちた。
翌日からも、リツの残業は続いた。私は毎晩、一人で夕食を食べ、彼の帰りを待った。ある日、彼のワイシャツからふわりと香る、私には覚えのない柔軟剤の匂い。
「リツ、これ…いつもと違う匂いがするけど。」
「ああ、会社の近くのコインランドリーを使い始めたんだ。家の柔軟剤とは違うんだろう。」
そう言う彼の目は、少し泳いでいた。私はその時、何かを感じたが、深く考えないようにした。
それから数週間後、リツが以前よりも頻繁にスマホをいじるようになった。画面をこちらに向けることは決してなく、メッセージが来るたびに、わずかに口元が緩む。
「誰と連絡取ってるの?」
「仕事の同僚だよ。」
短く答える彼に、私はそれ以上聞けなかった。
家の中では会話が減り、沈黙が増えていった。リツは週末も「仕事が溜まっている」と言って出かけていくようになった。私は一人、リビングで真白を遊ばせながら、彼の帰りを待つ日々が続いた。
ある夜、リツが風呂に入っている時、彼のスマホが震えた。画面には「ノア」という名前と、ハートマークのメッセージが表示されていた。
「今日も会えて嬉しかった。また明日ね♡」
私はその場に立ち尽くした。頭が真っ白になる感覚だった。リツが浮気をしていることは、これで確信できた。
リツが風呂から出てくると、私は震える声で尋ねた。
「ノアって誰。」
「…誰って、会社の後輩だよ。何か見たのか?」
「見たわよ。『今日も会えて嬉しかった。また明日ね』って。これが仕事の関係なの?」
リツは一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに開き直ったように言った。
「お前には関係ないだろ。」
「関係ない?私はあなたの妻よ。」
「妻?もう俺たち、冷めてるだろ。お互いのためだ。別れよう。」
その言葉が、心臓を直接えぐるように響いた。家を建て、家族として積み上げてきたすべてが、軽く投げ捨てられた瞬間だった。
私は何も言い返せなかった。ただ、涙が溢れて止まらなかった。
リツは淡々と続けた。
「俺はノアと結婚する。お前と真白は実家に戻ればいい。この家は売る。」
「真白は…息子よ。あなたの一人息子でしょ?」
「俺は新しい家族を作るんだ。真白はお前が育てろ。」
私はその場に崩れ落ちた。リツは冷たい目で私を見下ろしていた。
離婚を決意した私は、調停を経て、リツとの離婚が成立した。真白の親権は私が持つことになった。リツは養育費を払うことを約束したが、その約束はすぐに反ゆされた。
彼はノアと再婚し、新しい家で暮らし始めた。私たちは実家へ戻り、両親と真白と共に新たな生活を始めた。
最初の数ヶ月は、どん底だった。真白が「パパに会いたい」と言うたび、心が引き裂かれる思いだった。しかし、両親が支えてくれた。父は真白を公園に連れて行き、母は私の話を何度も聞いてくれた。
私は仕事を続けながら、真白を育てる日々を送った。最初は辛かったが、少しずつ、日常が戻ってくる。会社の同僚たちも、何も言わずに優しく接してくれた。
そんな時、ノアの本性を思い出す。彼女はリツと付き合っている間も、他の男性と連絡を取り合っていたことがあった。私は見かけたことがある。しかし、リツに言っても信じなかっただろう。
「あの人は、自分が幸せになるためなら、誰でも利用する。」
私はノアのことをそう理解していた。リツはきっと、いつかその本性に気づくはずだ。
それから2年が経った。真白は小学1年生になり、すくすく育っている。私も仕事に慣れ、生活のリズムを取り戻していた。
ある日、共通の友人から、リツがノアと離婚したという噂を聞いた。
「リツがノアの浮気で家を追い出されたらしい。」
私はそれを聞いても、特別な感情は湧かなかった。ただ、本当にそういう結末になるだろうとは思っていた。
噂によると、ノアはリツと結婚した後も、複数の男と関係を持っていたらしい。リツがそれを知り、激怒したが、ノアは何の悪びれもなく出ていったそうだ。リツは家も失い、職場も辞め、今はどこでどうしているのか分からないらしい。
そして今、私はこの再会の場に立っている。リツはノアではなく、別の女性と一緒にいた。あの「ノア」という名前は、もうリツの隣にはいない。
「お前より若い女と再婚した。別れてくれたおかげで幸せだ。」
リツは笑った。隣の女性は若く、美しい。しかし、私は知っている。リツが選ぶ女は、いつもそういうタイプなのだ。
「それで幸せなんだ。」
私はそう言って、真白の手を握り、会場を出た。リツの怒鳴り声が背中に響いたが、振り返らなかった。
「待てよ。どういう意味だ?」
その声を聞きながら、私は思う。あなたはまだ、何も分かっていない。
私は真白と共に、実家へ帰る。そこには父と母が待っている。温かい夕食と、笑い声がある。
リツが新しい幸せを追いかける間、私は真白と共に、小さな幸せを積み重ねていった。彼が失ったものは、もう戻らない。
そして今、私は思う。私は決して、彼に負けていない。むしろ、彼よりもずっと幸せだと。
リツが再び幸せを掴めるかどうかは分からない。しかし、それは私にとって、もう関係のないことだ。
私は真白と共に、これからの人生を歩んでいく。



