その日、銀行のロビーに響いた笑い声は、私がこれまで浴びせられたどんな侮辱よりも鋭く刺さりました。
「おじいさんが2億円持っていたら、私が遠取りになりますよ。」
スーツを着た男が、私の古びたコートを見下ろしながら、同行の仲間たちにウインクして見せたのです。
冬の気配が漂う火曜日の午後、私は84歳の長谷川健造として、東京・丸ノ内にある菱和銀行本店に用事がありました。
靴は3年前に買った運動靴で、靴底はすり減り、歩くたびに地面の砂利が足裏に伝わってきます。
子供たちには何度も「ちゃんとした服を着て」と言われましたが、苦しい時代を生き抜いてきた私には、どんなに暮らしが良くなっても質素な格好を選ぶ習慣が染みついていたのです。
銀行のガラス扉を押すと、暖かい空気が顔を包みましたが、同時に冷たい視線も感じました。
大理石の床が続く広いロビーには、スーツ姿のビジネスパーソンや高級ハンドバッグを抱えた女性たちが並び、誰もが私を見るなりヒソヒソと話し始めました。
「あのおじいさん、ホームレスじゃない?」
「生活保護の人みたいね。ここは福祉センターじゃないのに。」
そんな声が耳に入りましたが、私は平然と番号札を取り、椅子に腰を下ろしました。
発券機の前でも、後ろに立っていたサラリーマンが「おじさん、これ使い方わかりますか?」と尋ねてきました。
まるで私が文字も読めないと思っているかのような口調でした。
「ええ、わかりますよ。」
私は微笑んで答え、番号札を取りましたが、彼の表情はどこか落ち着かない様子でした。
待合席に座って周りを見渡すと、天井の高い華やかなロビーにはシャンデリアが輝き、行員も顧客も皆きちんとした身なりをしていました。
そんな中で、私だけがひどく浮いて見えたのでしょう。
隣の席にいた中年女性は、私をチラチラ見ながら席を移動し、「あら、なんだか臭うわね」とつぶやきました。
向かい側に座っていた大学生らしき若者は、友人に電話しながら「ここの銀行にマジで変なおじいさんがいるんだけど、ホームレスみたいなんだけど、何しに来たのかわかんないよ」と話していました。
それでも私は冷静でした。
これまでの人生で、人々の偏見や潜入感は数えきれないほど経験してきたからです。
私は手に持っていた古びたビニール袋から通帳を取り出しました。
表紙はすり切れ、銀行のロゴもかすんで見える通帳でしたが、その中に秘められた内容を知る者は誰もいませんでした。
私自身でさえ、時々信じられなくなるほどの数字が、そこには記されていたのです。
やがて窓口の番号が呼ばれました。
「お次の方、どうぞ。」
私はゆっくりと立ち上がり、カウンターへ向かいました。
応対したのは若い女性行員で、彼女もまた私の姿を見て、ほんの一瞬、眉をひそめました。
「ご用件は何でしょうか。」
「預金を引き出したいのです。」
「金額はいくらですか?」
私は通帳を差し出しながら、静かに言いました。
「全額です。」
行員は通帳を開き、画面を確認しました。
すると、彼女の手が突然止まりました。
顔色が変わり、何度も画面と通帳を見比べ、そして周囲を見回しました。
「少々お待ちください。」
彼女は慌てて上司を呼びに行きました。
その様子を、ロビーの人々は何気なく眺めていましたが、やがて状況が変わっていくのを感じ始めました。
スーツを着た支店長が走ってきて、私に深々と頭を下げました。
「お待たせして申し訳ございませんでした。長谷川様、どうぞ特別室へ。」
特別室に通された私は、支店長と行員たちに囲まれ、丁寧なお茶を出されましたが、私は何も求めていませんでした。
ただ、自分の金を引き出したいだけだったのです。
しかし、行員たちの表情は固く、誰もが私の一挙手一投足を見つめていました。
私は再び言いました。
「全額引き出します。」
支店長は額の汗を拭いながら、震える声で尋ねました。
「現金でよろしいのですか?」
「そのつもりですが、何か問題がありますか?」
「い、いえ…ただ、この金額ですと…」
そのとき、先ほど笑い声を上げたサラリーマンが、用事を終えて特別室の前を通りかかりました。
彼は私の姿を見て、またあの老人かと軽く鼻で笑いましたが、窓口の行員が彼に何かを囁くと、顔色が一瞬で真っ青になりました。
彼は立ち止まり、私の方を向き直し、何か言おうと口を開きましたが、言葉が出てきませんでした。
私は静かに立ち上がると、支店長に向かって言いました。
「では、手続きを進めてください。」
そして、私はもう一度、先ほどのサラリーマンを見つめましたが、彼はただ俯くしかありませんでした。
その日の午後、菱和銀行本店のロビーは、異様な静けさに包まれました。
私が全額を引き出し、古びたコートのポケットに通帳をしまって銀行を去る際、後ろから「長谷川様、せめて警護を…」という支店長の声が聞こえましたが、私は振り返らずに歩き続けました。
翌日、その銀行には私に関する噂が広がっていました。
あの老人がもっていたのは、単なる預金ではなかったのです。
私は、あの日、ある約束を果たすために、すべてを引き出したのでした。
そして、それは私の家族にとって、思いもよらない波紋を投げかけることになるのです。
私が家に戻ると、息子夫婦と孫が待っていました。
「じいちゃん、どこ行ってたんだよ。また銀行か?」
息子は軽い調子で言いましたが、私が何も答えずに座ると、妻だった頃の写真を眺め始めた私を見て、何かを感じ取ったようでした。
「何かあったのか?」
「いや、ただの用事だ。」
私はそう言って、話題をそらしましたが、心の中ではすでに決断を固めていました。
三日後、私は弁護士事務所を訪れました。
そして、あの通帳の内容をすべて明かし、遺言書を書き直したのです。
弁護士は驚きの表情を浮かべましたが、私は淡々と指示を続けました。
「この金は、私が信頼する人にしか渡さない。誰が相応しいのか、私が決める。」
その知らせを聞いた息子夫婦は、すぐに私の家に押しかけました。
「じいちゃん、何考えてるんだ!俺たちが跡を継ぐんだろう!」
息子は声を荒らげましたが、私は静かに答えました。
「お前たちは、私が銀行でどんな扱いを受けたか知らないだろう。人は見かけで判断する。だが、私は最後に、本当に見るべきものを見せてやることにした。」
息子は理解できず、怒りと困惑が入り混じった表情を浮かべましたが、私はもう何も言いませんでした。
ただ、窓の外を見つめながら、あの銀行の日々を思い返していました。
そして、私は静かに言いました。
「すべては、あの日、銀行のロビーで決まったのだ。」



