「この役立たずが、食べるだけしかできないくせに。」
息子の大輝が放った言葉と同時に、私の目の前で茶碗が弧を描いて舞った。次の瞬間、茶碗が床に落ちて砕ける音が、静かな朝のダイニングに響き渡る。割れた破片が私の足元まで飛び散り、温かい煮物の汁が車椅子の膝にかかった。
でも、私は声を上げることすらできなかった。
「また同じようなものばかり作って。少しは考えたら?」
大輝の冷たい視線が私を刺す。隣に座る嫁の恵理は、まるで何も見ていないかのようにスマートフォンを眺めていた。
「大輝、それは言いすぎだろう。」
夫の高志が小さな声で言い留めるが、大輝は聞く耳を持たない。
「父さんは黙ってて。毎日毎日、この役立たずの世話をするのがどれだけ大変か分かってるのか?」
胸が締め付けられるような痛みを感じながら、私は静かに微笑んだ。誰も気づいていないけれど、この微笑みには深い意味が込められている。明日、私は車椅子で近郊へ向かう。そして全てが変わるのだ。
私は岡本志乃、68歳。5年前の交通事故で車椅子生活を送るようになったが、それまでは中学校で38年間、国語教師として働いてきた。
思い返せば、大輝はとても優しい子どもだった。幼い頃は「お母さん大好き」と言って抱きついてきた温かい記憶が、今でも心に残っている。
大学の学費として800万円、結婚式の費用に500万円、そして新居の頭金として1000万円。私は退職金のほとんどを息子のために使った。
「お母さん、俺たちが絶対に面倒を見るから安心して。」
車椅子生活になった時、大輝はそう約束してくれた。あの時の優しい眼差しを、私は忘れることができない。
けれど、時間と共に何かが変わっていく。
最初は些細なことだった。
「お母さん、もう少し自分でできませんか?」
恵理の言葉に冷たさを感じるようになったのは、同居して初めて半年が過ぎた頃だろうか。今では私の部屋は家の一番奥の狭い和室だ。息子夫婦の部屋は広く、新しいタンスで溢れている。食事も別々に取ることが増えた。
「いつまでここにいるつもりなの?」
恵理のその言葉を聞いた時、私の中で何かが静かに変わり始めた。
息子夫婦の態度は、日を追うごとに冷たくなっていく。
ある日の午後、私が車椅子でリビングへ向かおうとすると、廊下に買い物袋が置かれていた。車椅子では通ることができない。
「恵理さん、ここに荷物があって通れないの?」
私が声をかけると、恵理は面倒そうに顔を上げる。
「え、それくらい自分で何とかしてくださいよ。」
ため息混じりの声に、胸が痛んだ。結局、夫の高志が荷物を動かしてくれたが、恵理が謝ることはなかった。
夕食の支度も、私の苦労の種になっていく。車椅子で台所に立つのは想像以上に大変だ。それでも、家族のためにと思い、毎日頑張ってきた。
「お母さん、もっと早くできないんですか?もう7時過ぎてますよ。」
恵理の言葉には、いつも棘がある。
「ごめんなさいね。足が不自由だと、どうしても時間がかかって。」
「それなら最初から作らなくていいのに。外で買ってきた方が早いですから。」
私が38年間、毎日家族のために作ってきた料理。その全てが否定されたように感じた。
ある晩、リビングでテレビを見ていると、大輝が帰ってくる。
「リモコン取ってくれよ。」
そこは私から3メートルほどの距離にある。車椅子では簡単に届かない。
「ちょっと待ってね。今、動くから。」
私がゆっくりと車椅子を動かそうとすると、大輝がイライラした声を出す。
「もういいよ。自分で取る。」
そう言って、大輝は自分でリモコンを取った。私のために何かをしてくれることは、もう一切なかった。
私は自分の部屋に戻り、押し入れの奥から古い封筒を取り出した。そこには、私が教え子だった弁護士に依頼して作ってもらった書類が入っている。もうすぐ、その時が来る。
翌朝、私は車椅子で近郊の銀行へ向かった。そこには、私が長年こつこつと貯めてきた預金があった。息子たちに内緒の、私だけの財産だ。
窓口で書類を提出し、手続きを終える。銀行を出た時、私は深いため息をついた。
帰宅すると、玄関に大輝と恵理が立っていた。
「お母さん、どこに行ってたんですか?」
恵理が探るような目で私を見る。
「ちょっと、買い物に。」
私は平静を装って答えたが、手が少し震えていた。
その夜、夕食の席で、大輝が一通の書類を手に取った。口座名義変更通知書。その瞬間、大輝の顔色が変わった。
「なんだこれ?」
大輝の声が震えている。恵理も書類をのぞき込み、顔を真っ青にした。
私の銀行口座の名義はすでに変更されている。そして、その預金は私だけのものではなくなっていた。
「お母さん、これはどういうことですか?」
恵理が怒りを込めた声で問い詰める。
私は静かに微笑んだ。あの日の朝、茶碗が割れた時と同じ微笑みだ。
「ずっと考えていたの。あなたたちが、私を『役立たず』と呼ぶたびにね。」
私の声は思ったより落ち着いていた。
「この家を出ていくわ。もう我慢しなくていいもの。」
大輝と恵理は言葉を失っている。私は車椅子をゆっくりと部屋へ向かわせた。
そして翌朝、私は静かにこの家を去った。頼りにしていた人たちに見捨てられた私は、それでも笑顔を絶やさなかった。新しい人生が、今始まる。



