「お前の列はここじゃねえ。ボロ制服で大口店をやる気かよ。こっちは本業で忙しいんだ。ATMで勝手にご自由にどうぞ。大人の顔が見えるのは窓口だけだ。」
東方シティ銀行、上災駅前支店。令和8年11月、平日の午前10時。窓口の中央に立つ25歳の新人行員、高橋連は手元の受付票を乾いた音でめくった。今日も暇つぶし客かよ、と呟くように視線を上げた。
窓口の前に立っていたのは、都立高校3年生の松島美、18歳。擦り切れたブレザーに、角のすり減った鞄。かかとの減った靴。それでもその目だけは、静かな光を帯びていた。彼女の手には母の預金通帳と、臨時の優先窓口票が握られていた。
友人の窓口経路、とだけ書かれたメモ。そして通帳に貼られた小さなオイシール。美は口を開いた。母の遺産を全額引き出したい、と。
高橋は笑った。全額引き出しは受けられない。理由は手続きだと言い放った。不服なら親を連れてこい、と。制服で大口は企画外だ、ここはお前の遊び場じゃない、と。
美は静かに頷いた。分かりました、失礼します。声は震えなかった。涙も抵抗もなかった。まるでこの日が来ることをずっと前から知っていたかのように。
ロビーの椅子で何人かの客がこちらを見ていた。誰かがスマホを構え、シャッター音を消した。ひどくないですか、と小さく声を上げた人物もいたが、その声はすぐに誰かの咳でかき消された。
店長の野村新一、52歳が小走りで駆け寄ってきた。しかし高橋は振り向きもせずに言い放った。「父が遠取りです。口を出さないでください」
野村は一瞬立ち止まり、何かを飲み込むように小さく首を振った。止めなくていい、と。その目が静かにそう語っていた。
美は振り返らずに銀行を出た。外の冬の風が頬を刺すように冷たかった。母の形見の手帳を胸に抱えて。
その日の夜。開けないままだった母の手帳を、美は初めて開いた。中学3年の春、母が病室で細い字で何かを書き続けていたことを思い出しながら。
最後のページに、母の文字はこう書いてあった。「美へ。もし銀行で止められたら、この番号にかけなさい。必ず助けてくれる人がいるから」
そしてそこには、1本の電話番号と、ある人物の名前が残されていた。
翌朝、美はその電話番号に手をかけようとしていた。しかしそのとき、スマホに一通の通知が入った。銀行の取引明細だ。母の口座から、全額が引き出された記録があった。美が窓口にいたその日の昼頃、つまり高橋が乗り込んでくる前に。
美は手を止めた。これは一体、どういうことなのか。



