あなたはもう十分大人なんだから、小さなアパートで十分でしょ。
夫の清志の言葉が、まるで他人事のように聞こえた。貧乏人は貧乏らしく、狭い部屋がお前にはお似合いだと言うのだ。
そして、その時だった。私の中で何かが固まっていくのを感じたのは。
私は38年間、休むことなく介護の仕事に従事してきた。この家を建てた日のことを今でも鮮明に覚えている。朝の5時に起きて、必死に働いた。
500万円の頭金は、独身時代から必死に貯めたお金と、結婚後の必死の節約で捻出したものだ。銀行の記録を見返せば、すべて数字として残っている。毎月のローン18万円のうち、12万円を自分の給料から38年間一度も滞納なく払い続けた証拠だ。
毎朝、どんなに声をかけても、息子のタクミから返ってくるのは素っ気ない返事だけだった。夫の清志は新聞を読むだけで、家事を手伝うことなど一度もなかった。
息子が跡取りだからだ、そう自分に言い聞かせてきた。月に12万円、38年間ずっと。すべて同じだ。
「母さん、いつまでここにいるつもり?」
ある日、タクミが弱々しく言った。すると、すぐに嫁の恵里が遮った。
「あなた、お母さんの味方をするの?」
「いや、そういうわけじゃ…」
そして、恵里が信じられない言葉を放ったのだ。彼女は、私がこの家にどれだけのお金を払ってきたかを知らない。いや、知っていたとしても、気にしないのだろう。
「もういいだろう」清志はテレビを見ながら、面倒そうに言った。深い皺の刻まれた疲れた顔だった。
その夜、私は何かが完全に音を立てて壊れるのを感じた。限界をはるかに超えていたのだ。包丁を置かなければ、何をしてしまうか分からなかった。しかし、それはもう過去のことだ。
彼はまた自分の部屋に戻っていった。窓の外を見つめると、涙が一筋こぼれ落ちた。しかし、私はすぐにそれを拭った。泣いている場合ではない。
鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。疲れてはいるが、目にはまだ力がある。私はこれまで、何のために生きてきたのだろう。答えは返ってこない。
もう、この人たちのために我慢する必要はない。それは怒りであり、決意だった。その言葉を口にした瞬間、私の中で何かが完全に変わった。
これからやるべきことを整理しなければ。私の手はもう震えていなかった。最初に書き留めたのは「法律相談」という言葉だった。その時が来たのだ。感情的になっていては、完璧な計画は立てられない。
女は強くあらねばならない。当時は理解できなかったが、今は分かる。長い一日が終わろうとしている。明日から、私は動き始める。誰も、私の中で何かが変わったことには気づいていない。
私はすべてを注意深く保管していた。
「沢村さん、この記録は完璧ですね」弁護士の水津氏が電卓を叩きながら言った。「頭金の500万円も含めて、合計5972万円です。ご主人の負担は約30パーセントしかありませんね」
しかし、この夫と一緒にいる理由はもうない。まず、ご主人と息子さん夫婦の会話を録音してください。証拠があれば、裁判で有利になります。私は弁護士の説明を聞きながら、メモを取った。
この物件なら、1ヶ月以内に買い手が見つかるはずです。その場合は、弁護士に相談しながら進めるのが良いでしょう。私はすべてをメモした。不動産会社を出た後、駅近くのカフェに入った。一人で住むには十分な広さだ。それで十分だ。
「いつまでグズグズやってるんだ?」そう言われた時には、もうすべての重要な書類をファイルにまとめ終えていた。私の怒りは冷たい決意に変わっていた。そして、彼らにその結果を思い知らせてやると決めたのだ。
書類をバッグにしまった。しかし、私の心の中では、確かに嵐が近づいている。準備は完了した。
私は水津氏の前に3通の書類を置いた。ためらいはない。私は一筆一筆、丁寧に署名した。静かな部屋に、ペンの動く音だけが響いた。38年間の想いを一文字ずつ込めるように、手続きは完了した。
その後、不動産会社へ向かった。もう後戻りはできなかった。しかし、後悔はなかった。私の家族は、私の心の中で何が起きているのか、まったく気づいていなかった。
「どうせまた金の無心だろう」清志が当然のように言う。彼らはまだ私をATMだと思っている。
そして、運命の日がやってきた。
「みなさんに、大切なお話があります」
リビングにテレビの音だけが不自然に響いていた。
「何ですか?」恵里が無表情で尋ねた。私は長い準備期間の中で、心を決めていた。誰も言葉を発することができない。しかし、私は揺るがない。
「私たちはどうすればいいんですか?」タクミが尋ねる。しかし、私は一歩も引かない。
「あなたたちは、貯金がいくらあるの?」
3人とも顔色が真っ青になった。私が厄介者だと見なす人と一緒にいる理由はない。あなたの言葉を、そのままお返しします。「あなたは他人じゃない。私たちは同じ血を分けた家族でしょう?」「同じことをお願いします」
それはこちらのセリフだ。1ヶ月以内に、出て行ってください。清志がすがりつくように言う。私も同じことを言った。
私は静かに玄関のドアを閉めた。タクシーに乗り込むと、運転手が優しく尋ねた。私は二度と振り返らないつもりだ。
それは、南向きの明るい2LDKの部屋だった。誰の目も気にせず、自分のペースで生きられる空間。清志からも、タクミからも、恵里からも、毎日何十件もの着信があった。最初は無視していたが、ある日、電話に出ることにした。
「母さん、僕たち家族だろ?」「助けてくれ」「家族なら、自分の母親を厄介者扱いしたりしないでしょう?」「あの時は悪かった」「申し訳ないけど、その謝罪では…」
次に、恵里からの電話もかかってきた。私は、彼らの番号をすべて着信拒否にした。
ある日、家の前で3人を見かけた。3人とも、ひどく疲れ果てた顔をしていた。彼らは、もはや私とは何の関係もない人々だ。
バルコニーでコーヒーを飲みながら、空を見上げる。私はとても長い間、耐えてきた。しかし、我慢にも限界がある。私の息子は、母を守ろうとすることは一度もなかった。
私の人生は、まだ始まったばかりだ。



