「おい、何してる。やめろ」
声を張り上げた瞬間、男の動きが止まった。公園のベンチの陰で女性を押さえつけていた男は、振り返ることもなく逃げ去った。地面に崩れ落ちた女性は意識を失っていて、俺はそのまま病院に付き添った。知らない人を見捨てる選択肢なんて、最初からなかった。
そこへ、携帯が鳴った。会社の社長からだった。大事な取引先との会議をすっぽかしたことへの怒りを、受話口の向こうでまくし立てられる。
「シャツを運をかけた仕事を投げ出し、見知らぬ女を優先するとはな。やはりお前は首だ」
「それでも、人一人の命が大事です」
「愚か者め。出ていけ」
もう十分だった。
「わかりました。辞めます」
社長は一瞬驚いたように黙ったが、すぐに嘲笑を漏らした。
「今に見ていろ。お前のような正義感振りかざす男が、どれだけ長くもつか」
俺の名前は渡辺達也。幼い頃から正義のヒーローに憧れて生きてきた。弱きを助け、悪を倒す。それは今も変わらない。辞表を叩きつけた後も、胸の中に迷いはなかった。
思い返せば、最初に正義を貫いたのは小学生の頃だ。都会から転校してきた菊口弓は、クラスに馴染めずいつも一人だった。男子は可愛いと騒ぎ立てたが、女子は冷たかった。見かねた俺が声をかけると、弓はほんの少しだけ微笑んだ。その笑顔がずるいくらい綺麗で、子供心に胸が詰まった。
帰り道が同じだと分かって一緒に下校し、最初は俺の家で遊び、次は弓の家に呼ばれた。そこで弟のユウゴと出会った。流行りのゲームが共通の話題ですぐに打ち解け、二人で夢中になっていると、弓がすねた。
「もう二人だけで遊んでずるい」
俺は自分のゲーム機を弓に渡した。
「友達なら一緒に遊ぼうぜ」
そう言った瞬間、弓の顔に花が咲いた。初めてゲームをするとは思えないほど上達が早くて、頭の良さを感じた。
それから数週間後、弓の家に呼ばれた時のことだ。弓の母から意外な話を聞かされた。
「弓はね、昔から優しすぎる子で。いじめられていた子をかばって、自分が標的になってしまったの。だから転校を決めたのよ」
それを聞いて、俺の胸は熱くなった。弓を守りたい。正義のヒーローが本気でそう思った瞬間だった。
ところがある日、クラスで弓が泣いているのを見た。弓の机に、嫌な文字が殴り書きされていた。「邪魔。消えろ」。俺は拳を握りしめ、クラスの男を問い詰めた。ところが、手がかりは掴めず、翌日弓の机にはまた新しい言葉が増えていた。しかし、弓は泣くのをやめて、自分で机を拭き始めた。
「達也くん、ありがとう。でも、もう大丈夫。私は負けないから」
その目は、静かに燃えていた。
それから何年か経ち、俺は真面目に働きながら、困っている人を助けてきた。会社を辞めた後も、フリーで小さな仕事をいくつか掛け持ちし、夜はボランティアで地域の見回りをしていた。ある日、コンビニの店長になった幼馴染のユウゴから連絡があった。
「姉ちゃん、最近変なストーカーに絡まれてるみたいでさ。俺じゃどうにもならなくて」
弓のことを思い出すだけで、昔の気持ちが蘇る。俺はすぐに店へ向かった。
だが、店に入った瞬間、レジの向こうに立っていたのは見覚えのある顔だった。
「達也くん、久しぶり」
それは弓だった。大人になり、少し痩せて、目元が大人びていた。
「店長って、弓だったのか」
「うん。ユウゴが急に店を継ぐって言い出して、私が手伝ってるの」
弓は笑った。あの日の笑顔のままだ。俺は胸が締め付けられた。
「それで、ストーカーのことなんだが」
「うん。実はね、昨日も来たの。夜遅くに、商品も買わずにずっとこっちを見てるだけで」
「どんな男だ?」
「四十代くらいの男性。髪が薄くて、灰色のコートを着てる。あと、左手に指輪をしてなかった」
その特徴を聞いて、俺は背筋が凍った。一昨年、パワハラで訴えられて解雇された元同僚の特徴と一致した。
「心当たりがある。お前を辞めさせた元社長の関係者かもしれない」
「え?」
「俺が会社を辞めた後、あの社長は部下に嫌がらせを繰り返して、訴えられてたんだ。もしかしたら、恨みを俺に向けてきたのかもしれない」
弓の顔から血の気が引いた。
「達也くんのせいじゃない。そんなこと、思わせないで」
「でも、お前に危険が及んでるのは事実だ」
その時、店のガラス戸に誰かの影が映った。灰色のコートを着た男が、こちらをじっと見ている。慌てて振り返ると、影は消えていた。
「今の…」
「逃げられた。くそっ」
弓の手が震えている。俺はそっと弓の手を握った。
「大丈夫。俺が守る」
「達也くん…」
翌朝、俺は携帯を見て凍りついた。見知らぬ番号から、メッセージが届いていた。
「昔の女を守れると思うな。正義の味方が、どれだけ不器用か思い知らせてやる。お前の大事なもの、壊すのが先だ」
送信者の名前は表示されず、番号も使い捨てのようだった。俺はすぐにユウゴに電話をかけたが、繋がらない。弓にもかけたが、出ない。嫌な予感がした。店へ急いだ。
店の前にはパトカーが停まっていた。店員が青ざめた顔で、警察官と話していた。
「店長の弓さん、今朝から連絡が取れなくて。店も開けられなかったんです」
俺の頭の中は真っ白になった。スマホには、メッセージが届いていた。
「助けたければ、夜九時に北の倉庫へ来い。一人で。警察を呼んだら、もう会えない」
俺は拳を握りしめ、倉庫へ走る準備を始めた。正義のヒーローが、最も危険な戦いに足を踏み入れようとしていた。



