特別報酬は確認したかね?今回は特別に弾んでおいたよ。すれ違いざま、社長が機嫌よく声をかけてきた。私は足を止め、静かに答えた。はい。5000円。確かにいただきました。すれ違う社員がちらりとこちらを見た。社長の笑顔が一瞬だけ止まるけれど、私はそれ以上何も言わなかった。訂正する気はもう残っていない。50億円を動かす決済基盤。その心臓部に毎朝たった1人で鍵をかけ直しているのが誰か、この人は知らない。靴の底で母の店の古い鈴が小さく鳴った。毎朝かける人がいて初めて店になるの。銭湯を営んでいた母の口癖だった。明日の朝、この会社は凍りつく。これは26歳の私が、50億円のシステムを静かに閉じた日の記録である。
私の名前は相沢千尋。冥王システムという会社で決済基盤の保守を担当している。社内での呼ばれ方は大抵「保守の人」だ。名前で呼ばれることはあまりない。母は誰よりも早く会社に着く。まだ照明の落ちた薄暗いフロアで自分の席に座る。鞄から母の店の古い鈴を取り出し、机の端に沿って置く。指先で1度だけチリンと鳴らす。それから端末を立ち上げ、いつもの手順でサインインする。これが私の1日の始まりの儀式だった。
社員たちが出社してくる頃には、私はもう画面の前で静かに数字を見つめている。相変わらず早いね。暇なんじゃない?経理部長の桑野さんが通りすがりに笑った。私は曖昧に頷くだけで、何も言い返さない。保守係というのは、動いているものをただ見守るだけの係。そう思われていることはよく分かっていた。会議に呼ばれても、私の意見を求める人はいない。議事録を取り、資料を配り終われば真っ先に片付けをする。それが私に割り当てられた役回りだ。
先週、港百貨店との50億円の契約が決まり、フロアは湧いていたけれど、その輪の中に私を呼ぶ声はない。私は端の席で、いつも通り基盤の動きを見つめる。昼休み、後輩の愛奈さんだけが私の隣でお弁当を広げてくれる。千尋さん、いつも1人で全部背負い込みすぎですよ。愛奈さんはそう言って、少しだけ頬を膨らませた。私は笑って卵焼きを1つ分けた。窓の外には灰色の横浜の空が広がっている。
母が営んでいた下町の銭湯を、ふと思い出した。毎朝1番に暖簾をかけ、あの鈴を鳴らして母は店を開けていた。毎朝かける人がいて初めて店になるの。母の声は今も鈴の音の中に残っている。
その日、港百貨店の役員を招いた説明会があった。壇上に立ったのは専務の黒岩さんだ。この決済基盤は、私が構想から設計まで責任を持って作り上げました。黒岩さんは胸を張り、スクリーンを差した。社長は満足そうに頷いている。さすがだ。黒岩君のおかげで、うちは大きな仕事を掴んだ。社長の言葉に、会場から拍手が湧いた。私は1番後ろで、こぼれた資料をそっと拾い集める。
質疑の時間になり、技術担当が1つ質問を投げた。障害時に二重決済をどのように防止するのですか?黒岩さんの言葉がそこで止まる。額にうっすらと汗が滲んだ。会場が水を打ったように静まる。私は手元のメモに短い行だけを描いた。それをそばにいた愛奈さんにそっと渡す。愛奈さんが小さく手を上げ、その一文をそのまま読み上げた。先方の技術担当が深く頷く。なるほど。よく考えられていますね。黒岩さんは何事もなかったように話を続けた。
説明会が終わり、港百貨店の役員たちが帰っていく。黒岩さんは満足げに社長と握手を交わしている。あの質問に答えられたのは、私が設計したからだ。誰も気づかない。私は静かに席を立ち、端末の電源を落とした。明日の朝、この会社は凍りつく。私は自分が毎朝かけている鍵を、もう二度とかけないだろう。



