「3倍だ。これが最低ラインだ」――取引先の社長・谷口は、会議室に入るなりそう言い放った。傲慢な笑みを浮かべて。うちだけができる技術だから、無理なら打ち切りだ、と。何度も値上げを飲まされてきた俺は、その日、静かに資料を広げた。もう誰にも言っていない準備を終えていた。社内ではずっと我慢を強いられてきた。現場を守るために頭を下げ続けてきた。そして今、谷口の会社が、内側から崩れ始めていることも知って…

「3倍だ。これが最低ラインだ」――取引先の社長・谷口は、会議室に入るなりそう言い放った。傲慢な笑みを浮かべて。うちだけができる技術だから、無理なら打ち切りだ、と。何度も値上げを飲まされてきた俺は、その日、静かに資料を広げた。もう誰にも言っていない準備を終えていた。社内ではずっと我慢を強いられてきた。現場を守るために頭を下げ続けてきた。そして今、谷口の会社が、内側から崩れ始めていることも知って...

会議室に入るなり、谷口克は椅子にふんぞり返って言い放った。
「でさ、今後の納入単価なんだけど、うちの処理工程、他社じゃ真似できないでしょ。だから3倍。これが最低ラインね」

傲慢な笑みを浮かべ、足を組み直す谷口。サニテックが持つ高熱処理の表面技術は、業界でも数社しか扱えない特殊なものだ。それを盾に、ここのところ値上げと納期変更を繰り返してきた。

「無理なら打ち切りでいいよ。どこも真似できないし、困るのはそっちだしね」

これは交渉ではなく、脅しだった。俺が車内報告用の議事録を取ろうとすると、谷口は鼻で笑う。
「録音? いやいや、そんなのいらないっしょ。うちの機嫌を損ねたらどうなるか、分かってるでしょ」

俺は静かに資料を広げた。もうこちらの準備は終わっている。

俺の名前は村瀬直樹、38歳。製造会社「生徒マテリアル」で購買課長を務めている。工場で使う部品や材料を、必要な数だけ、必要な時期に、必要な価格で仕入れるのが仕事だ。とはいえ、単純な買い付けではない。現場の声を聞き、要求を整理し、外注先と調整し、納期を詰める。一つでもずれればラインが止まり、納品が遅れ、クレームの嵐になる。信頼できる協力会社を見極める目と、冷静に交渉をまとめる力が求められる仕事だ。

その中でも、最も神経を使ってきた相手がタニテックだった。そして今日、向き合っている谷口がその社長だ。

谷口は元々、現場上がりの技術者だったらしい。独立して自分の工場を立ち上げ、誰にもできなかった加工技術を完成させた。最初のうちは腕も良く、仕事に対する誠実さもあったと聞く。だからこそ、うちの会社も信頼して取引を始めた。だが、そういう人間が少し売れ始めると、人が変わるのはよくある話だ。

谷口は、自分の技術が業界で評価され、引き合いが増え始めた頃から急に態度を変えた。
「これができるのはうちだけ」「値上げに応じないなら、困るのはそっちだ」

そんな言葉を盾に、強気な要求を突きつけてくるようになった。

確かに、谷口の会社の加工技術は貴重だ。正直、うちの製品を任せられる会社は限られていた。だからこそ、現場を守るために何度も頭を下げ、条件を飲んできた。だが最近は、技術の誇りではなく傲慢さしか見えなくなっていた。納期を守らない。理由を聞けば「人が足りない」と言い、品質に問題があっても「こっちのせいじゃない」と言い放つ。それでいて、請求書だけはしっかり送ってくる。

社内でも、タニテックとの取引を見直すべきだという声が上がり始めていた。品質保証部や現場の班長たちも、苦言を呈してきた。俺自身、いつまでも甘い顔をしていられないと感じていた。だからこそ、この半年間、密かに動いてきた。別の協力会社と技術開発のテストを進め、谷口の向場がなくても問題ない体制を整えてきた。

結果として、今ならいつでも切り替えができる段階まで来ている。さらに、谷口の工場で最近起きている問題も把握済みだった。資金繰りの悪化、社員の退職、設備の老朽化。外には見せていないが、内部はかなり危険な状態だ。

俺は資料を机の上に置き、谷口を見据えた。
「谷口社長、ご提案は理解しました。こちらも検討の上、正式に回答いたします。今日のところは以上でよろしいでしょうか?」

谷口は一瞬、面食らった顔をしたが、すぐに不機嫌そうな表情に戻った。
「……は? それだけ? 継続の確約はないわけ?」

俺は微笑みを浮かべたまま、立ち上がった。
「ええ。回答は改めて、文書でお送りします」

そう言って、俺は会議室を後にした。谷口の顔が、少しだけ引きつっていたのを、俺は見逃さなかった。

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