電話の向こうから聞こえたあの言葉を、私は今でもはっきり覚えている。
「ガキ増えて生活大丈夫?そう。」
その瞬間、病室の空気が凍りついた。私の腕の中で眠る生まれたばかりの娘。そして、家族を捨てて愛人と再婚した元夫タヤは、一切悪びれる様子もなく、わざわざ私を煽ってくる。こちらの反応をうかがっているのが手に取るようにわかった。
私は大きく息を吸った。タヤが冷笑を浮かべているのが目に浮かぶようだ。
「お前と違ってな。」
明るく返すと、一瞬タヤが面食らった気配がした。腕の中で眠る娘の顔を見ながら、私は穏やかに続けた。
「再婚おめでとう。新婚旅行も楽しんで。」
「なんだよその言い方。」
「何って、普通に祝ってるんだけど。」
「つまんねえ女。」
吐き捨てるように言うと、タヤは私の返事を待たずに電話を切った。1ヶ月後、私が地獄を見ることになるとも知らずに。
私の名前はも田。24歳。と呼べる相手は、岐阜にいる野修二ただ一人。2歳の時に両親を亡くし、天涯孤独の身となった私は、父の弟だった修二に引き取られた。その家庭環境や育ちのせいで、学校では何かと目立つ存在だった。影で噂話をされるのはまだマシな方で、面と向かって暴言を吐かれたり、手を上げられたりすることもあった。最初は黙って受け流していたが、次第に容赦なくやり返すようになった。哀れまれるくらいなら、怖がられた方が楽だと思ったからだ。
高校を卒業すると同時に、私は修二の元を離れた。ほとんど家出のような形で、実家には一生戻らない覚悟だった。勢いに任せて上京した私は、生きるためにガムシャラに働き、やがて水商売に流れついた。金と引き換えに、若さと健康を失っていく。
こんな生活に疲れ果てた頃、ホストクラブの幹部補佐をしていたタヤと出会った。私は20歳。彼は25歳だった。深く考えないまま交際を始め、なし崩し的に結婚した。心のどこかで、家族というものに憧れていたのかもしれない。あの時の選択が、自分の人生で最も大きな破滅の始まりになるとは、当時の私は知るよしもなかった。
結婚して3ヶ月ほど経った頃、何の前触れもなくタヤは勤めていたホストクラブをやめた。その日の明け方、玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。キッチンで洗い物をしていた私は、その音に手を止めた。
「お帰り。」
返事すらない。リビングに入るなり、彼はそのままソファーに倒れ込んだ。全身から香水とアルコールの匂いが漂っている。
「タヤ、何かあったの?」
「店、やめてきた。」
「え?」
「店長も支配人も、もう終わってる。どいつもこいつもバカばっかり。あんな店、こっちからやめてやったわ。」
ソファーに寝転がり、天井を見上げたまま、タヤは不機嫌そうに吐き捨てた。突然のことに驚いた私は水を止め、濡れた手をタオルで拭きながら振り返った。
「やめたって…今日?」
「そうだよ。こっちはかなりやってやったのに。くだらないことで口出しされてさ、やってらんねえだろ。今の店でトップになっていつかオーナー目指すんじゃなかったの?それに支配人には何年もお世話になってるんでしょ。」
「ああ、恩を返すとか考えてた時期もあったけど、ぶっちゃけもうどうでもいいわ。あの店じゃなくてもオーナーにはなれるし。」
タヤの口調には、悪びれる様子が一切ない。水商売はただでさえ不安定な業界だ。仕事をやめて収入がなくなれば、生活に影響が出るのは明らかだった。しかし、その場で彼を責めたところで、さらに苛立つだろう。話を前に進めるため、私は努めて穏やかに声をかけた。
「そうなんだ。大変だったね。」
「ああ。次の店はもう決めてあるから、心配すんな。」
そう言うタヤの目は、まったく笑っていなかった。それから数日後、彼は新しい職場を見つけたと言った。だが、その職場の名前を聞いた時、私は違和感を覚えた。それは、私の働いている店の系列だった。タヤは何かを企んでいる。そう直感した。
そして、その直感はすぐに現実のものとなる。タヤは私の同僚たちに手を出し始めたのだ。最初は噂話程度だった。しかし、次第にそれは確信へと変わっていった。彼は私の稼ぎを当てにしながら、私の職場で派手に遊んでいた。
「お前の稼ぎじゃ足りないんだよ。もっと稼げよ。」
そんな言葉が飛ぶようになった。私は耐えていた。娘のために。家族のために。だが、タヤはさらにエスカレートしていく。ある日、私の貯金通帳を見たタヤは、勝手に金を引き出していた。
「何してるの!?」
「俺の金だろ。俺が働いて稼いだ金だ。」
「それは私が…」
「うるせえな。どうせお前の金も俺がいてこそのもんだろ。この家に住めるのも、飯が食えるのも、全部俺のおかげだってことを忘れんなよ。」
タヤの言葉に、私は言葉を失った。この人と結婚したのは、間違いだったのか。心の中で、そう呟く自分がいた。
それから数ヶ月後、私はタヤの浮気を決定的に知ることになる。彼のスマートフォンに届いたメッセージ。そこには、見知らぬ女性との卑猥なやり取りが並んでいた。私は震える手で画面を見つめ、そして、タヤを問い詰めた。
「これは何?」
「ああ?何だよ。」
「この女とのやり取り。浮気してるんでしょ。」
「浮気?別に遊んでるだけだよ。お前と違って、俺は自由なんだよ。」
「自由って…私はあなたの…」
「お前は何?ただの同居人だろ。籍入れただけで、俺の自由が奪われると思うなよ。」
その言葉で、私は完全に悟った。この人とは、もう終わりだ。離婚しよう。心に決めた。だが、タヤは簡単に離婚を認めようとしなかった。話し合いをしようとすると、彼はいつも暴力で押さえつけた。私が逃げようとすると、娘を人質にすると脅した。
「出て行くなら、娘は置いていけ。」
「そんな…娘は私の…」
「俺が引き取る。お前みたいな女に育てられるより、俺の方がマシだ。」
タヤの脅しに、私は何も言えなくなった。娘を手放すことだけは、どうしてもできなかった。私は耐えることを選んだ。娘のために。いつかここから抜け出すために。
そして、その時が訪れる。タヤが愛人と再婚すると言い出したのは、娘がちょうど1歳になった頃だった。
「お前とは離婚する。もういいだろ。」
「…うん。」
「新しい女と結婚するんだ。お前みたいな女とは、最初から結婚するべきじゃなかったんだよ。」
タヤの言葉は、これまでに受けたどんな傷よりも深く、私の心をえぐった。私は何も言えなかった。ただ、うつむいて、涙がこぼれるのを必死に堪えた。
離婚が成立したのは、それから1ヶ月後のことだった。娘の親権は私が持つことになった。タヤは養育費を払うと言ったが、あてにはならなかった。実際、最初の数ヶ月だけで、その後は一切支払われなかった。
それでも、私は自由になった。暴力も、暴言も、脅しもない生活。娘と二人、慎ましくも平和な日々が始まった。私は昼はパート、夜は水商売の仕事を掛け持ちして、何とか生活を立て直した。疲れていたが、それでも、あのタヤと暮らしていた日々よりは、何百倍もマシだった。
そして、私は新しい恋人と出会った。名前を元太という。彼は普通のサラリーマンで、私の過去も、娘がいることも、すべて理解して受け入れてくれた。優しくて、穏やかで、タヤとは正反対の男だった。私は彼との結婚を考え始めていた。
そんな矢先のことだった。病院で産んだ娘の診察の帰り、私は見てしまった。そう、あの日、タヤから電話がかかってきたのだ。愛人との間にもう子どもが生まれたと。そして、あの言葉。
「ガキ増えて生活大丈夫?そう。」
あの声を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。憎悪。怒り。そして、何よりも、この男に負けたくないという強い意志。私はここで終わらない。絶対に、見返してやる。娘を幸せにして、この男が想像もできないような幸せを掴んでみせる。
私は通帳の残高を確認した。貯金は、ほぼ底をついていた。だが、それでも、私は決意を固めていた。これから、何をすべきか。私はスマートフォンを手に取り、ある人物に電話をかけた。修二おじさんに。実家を飛び出してから、一度も連絡を取っていなかった、最後の頼みの綱に。
「もしもし…おじさん?私だ。も田だ。」
電話の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。修二おじさんは、私の声を聞いて、驚きつつも、歓迎してくれた。彼は今も岐阜で一人暮らしをしているという。私は涙をこらえながら、全てを話した。家族を捨てたこと、水商売に流れ着いたこと、タヤとの結婚と離婚、そして、今の状況。
「…そうか。大変だったな。」
修二おじさんの声は、昔と変わらず、温かかった。
「おじさん…私、もう一度、やり直したい。娘と一緒に、ここを離れたい。でも、お金もないし…」
「いいよ。こっちに来なさい。おじさんは一人だから、寂しかったんだ。君も、娘さんも、いつでも来なさい。」
その言葉に、私は涙が止まらなかった。私は、娘と一緒に、岐阜へ向かうことを決めた。タヤからも、この街からも、逃げるように。いや、逃げるんじゃない。新しい人生を始めるために。
私は、タヤに最後のメッセージを送った。
「私は、あなたより幸せになる。」
それを送信した後、私は通帳を閉じ、娘を抱き上げた。さあ、ここを出よう。新しい人生を始めよう。
そして、私は、あの男の言葉を、一生忘れないだろう。あの言葉が、私を強くした。あの言葉が、私をここまで導いた。
「ガキ増えて生活大丈夫?そう。」
その言葉は、今、私の中で、決意の炎に変わっている。



