夫が切り出したのは、隣町の義兄一家に関する話だった。義兄の転勤が決まり、単身赴任する間、妊娠中の義兄嫁と子供たち4人を我が家で預かってほしいと言うのだ。夫の説明によれば、単身赴任中の家賃を浮かせるために、賃貸暮らしの義兄一家がうちとの同居を望んでいるらしい。
我が家は一軒家とはいえ、そんな大所帯を受け入れる余裕はない。義兄嫁のエミリさんとは、年に数回顔を合わせる程度の間柄で、親しくもない。それなのに、いきなり自宅というプライベートな空間へ引き入れるのは、どうしても抵抗があった。
子供たちは全員男の子で、一番上は17歳だが、他はまだまだ手のかかる年頃だ。私は反対したが、夫は義兄の頼みを聞き入れたい様子だった。
「エミリさん、今年で37歳だろう。高齢出産になるし、兄貴としてはそばに誰かいてほしいんじゃないかな」
夫はそう言って食い下がる。私は閃いた。「お母さんに同居してもらえばいいんじゃない?」
しかし、夫は首を横に振った。「実は母さんとエミリさんは仲が悪いらしい。一応、母さんにも聞いてみたけど、静香さんに協力をお願いしたいって言われたよ」
義母は自分の嫌いな人をとことん遠ざける性格だ。遺産で贅沢な生活を楽しんでいる義母にとっては、義兄嫁との同居なんて面倒以外の何物でもないのだろう。その言葉を聞いて妙に納得してしまった自分が恨めしい。
「家族なんだから助けるのは当然だろ。頼むよ」
夫はいつになく真剣な表情だった。今まで兄弟仲は良くも悪くもないといった印象だったのに、ここまで必死に義兄を助けようとする姿勢に違和感を覚える。
私が考え込んでいると、黙って聞いていた母が口を開いた。「健さんは忘れているみたいだけど、ここは私の家よ。勝手に話を進めないでくれるかしら」
母の一言で夫の顔色がさっと変わった。「嫌だな、お母さん。もちろん、そんな勝手なことはしませんよ」
夫は愛想笑いを浮かべるが、口元は笑っていても母の目は全く笑っていない。夫はこれ以上何も言えなくなり、「また後日話し合おう」と言い残して、そそくさと自室に引っ込んでいった。
翌日から、夫は私に冷たくなった。口をきいても「うん」「そう」の一言だけ。まるで私が悪いことをしたかのような態度だ。
数日後、夫のスマホに義兄からの着信があった。通話の内容は聞こえなかったが、夫は眉をひそめながら何やら頷いていた。その夜、風呂上がりの夫が思い詰めた顔で言った。
「静香。なんでお前はそこまで冷たいんだ? 家族なんだぞ」
「冷たいのはどっち? 私や母の気持ちを考えないで、勝手に決めようとしたのは健でしょ」
「勝手に決めてない。相談してるんだ」
「相談? 義兄さんから頼まれて、もう受け入れる気満々だったくせに」
言い争いはヒートアップした。夫は「もういい」と怒鳴ると、リビングを出て行った。
次の日、夫は会社を休んだ。理由を聞くと、顔色が悪いまま「体調が悪い」とだけ言う。本当は義兄の件で何かあったんじゃないかと、私は直感で感じていた。
その夜、義母から電話があった。「静香さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
義母の声は普段より硬かった。「健さんがね、エミリさんのところに行ったみたいなのよ」
「え?」
「今日、エミリさんから連絡があってね。健さんが一人で来て、『家を出て一緒に暮らさないか』って言ったんだって」
私は言葉を失った。夫が、まさか…。
「驚いたわよね。私も驚いたわよ。だって、健さんがそんなことするなんて…」
義母の言葉を聞きながら、私はこれまでの夫の行動を思い返していた。義兄の頼みをそこまで必死になって叶えようとしていた理由。それは、本当に兄のためだったのだろうか?
いや、違う。エミリさんが39歳の妊娠というのは事実かもしれないが、夫がそこまで思い詰める理由が他にあるはずだ。
「静香さん? 聞いてる?」
義母の声で我に返った。「はい、聞いてます…」
「それでね、エミリさんが言うには、健さんは『静香とはうまくいってない。もう離婚するつもりだ』って言ったらしいのよ」
私は受話器を握る手に力が入った。心臓がドクドクと鳴り響く。
あの人、まさか…本気なの?
翌朝、夫は何もなかったかのように朝食を食べていた。私は昨夜の電話のことは伏せたまま、夫の顔をまっすぐ見て尋ねた。
「健。一つだけ聞かせて」
「何?」
「あなたは…私と離婚したいと思ってるの?」
スプーンを置く音が静かに響いた。夫は一瞬だけ固まると、何事もなかったように言った。
「何言ってるんだよ。急に」
「本当に?」
「ああ、本当だよ。何か変なことでも聞いたのか?」
その口調はまるで役者が台本を読んでいるようだった。私は義母からの電話の内容を伝えた。夫は顔色ひとつ変えず、ゆっくりと立ち上がった。
「お袋の言うことなんて、半分も信じるなよ」
それだけ言うと、夫は弁当も持たずに家を出て行った。背中に、何か決定的なものを感じたのは気のせいだろうか。
その日の夜、夫は帰ってこなかった。電話しても出ない。メッセージも既読にならない。翌朝も、翌々日も、連絡は一切なかった。
三晩目、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、見知らぬ女性が立っていた。若くて綺麗な人で、お腹が少し大きかった。
「えっと…健さんの…」
「わかってる。あなたがエミリさん?」
女性は微笑んだ。「ええ。健さんから聞いてない? 私、健さんの子供を妊娠してるの」
私はその場に立ち尽くした。すべてのピースが、ようやくはまった。義兄の単身赴任なんて、最初から作り話だったのだ。夫とエミリさんは、ずっと…。
「だから、健さんを私にください」とエミリさんは言った。「お願いします」
私はドアを閉めた。その音が、私の結婚生活の終わりを告げているようだった。



