診察室の扉を開けたのは、俺が捨てたはずの過去からの使者だった。佐伯美穂は笑顔で挨拶したが、その目は何かを深く探っていた。「先生、なぜここを選んだんですか?」と彼女が問いかけた時、3年間閉ざしてきた心臓外科医としての記憶が音を立てて甦った。彼女の父の名前を聞いた瞬間、俺は全てを悟った。それは偶然ではない、完全な再会だった。そして彼女は言った。「一度、父に会っていただけませんか?」——俺がこの町…

診察室の扉を開けたのは、俺が捨てたはずの過去からの使者だった。佐伯美穂は笑顔で挨拶したが、その目は何かを深く探っていた。「先生、なぜここを選んだんですか?」と彼女が問いかけた時、3年間閉ざしてきた心臓外科医としての記憶が音を立てて甦った。彼女の父の名前を聞いた瞬間、俺は全てを悟った。それは偶然ではない、完全な再会だった。そして彼女は言った。「一度、父に会っていただけませんか?」——俺がこの町...

春の終わりの午後、診察室の窓から見える山並みは霞んでいた。俺は本名を捨て、田村浩という名でこの町に生きている。カルテの山を前にペンを止めた。この町に来て3年が経つ。患者は農家の老人が多く、膝の痛みや血圧の管理が仕事の大半を占める。かつて手術室のライトの下で心臓に触れていた手が、今は聴診器を握る。それでいいと自分に言い聞かせながら、毎日をやり過ごしてきた。

受付の田中さんが顔を覗かせたのは午後2時を過ぎた頃だった。
「先生、山地グループから視察の方がお見えです。」

医療支援事業の一環として、都市部の企業がこの地域の診療所に関心を持ち始めているという話は聞いていた。正直、来て欲しくなかった。目立ちたくない俺にとって、外部の人間が来ることは歓迎できない。
「通してください。」
それでも断れる理由もなかった。ドアを開けて入ってきたのは30代ぐらいの女性だった。スーツ姿だが堅苦しさがなく、診察室の古びた椅子を前にしても、どこか場所に馴染もうとする様子が見て取れた。
「佐伯美穂と申します。父が運営する医療支援事業の現場で、こちらにお伺いしました。」

お嬢様という言葉が似合う佇まいだった。だがその目が違った。室内をさりげなく見渡す視線は、品定めではなく理解しようとするものだった。薬品の棚、古い診察台、待合室から漏れ聞こえる患者たちの話し声。彼女はその全てを丁寧に受け取ろうとしていた。

「どのくらいの患者さんが来られますか?」
「1日で20人前後です。慢性疾患の管理が中心で、往診は月に数回あるかどうか。」
「往診はどうですか?」
「週に3回。山の方に、1人では動けない患者が数人います。」

美穂はメモを取りながら、時折り顔を上げて俺を見た。資料を確認するのではなく、俺の言葉そのものを聞こうとしていた。
視察が終わり、玄関先で彼女を見送った後、俺は不思議な感覚の中にいた。

それから美穂は1度や2度ではなく、たびたび診療所を訪れるようになった。最初は視察という名目だったが、やがてそれは自然と変わっていった。彼女は患者の待合室の隅に座り、老人たちの話を聞いた。医療費の不安。近くに専門医がいないもどかしさ。救急車が来るまでの長い時間。それを彼女は手帳に書き留め、しかし決して軽い慰めの言葉を口にしなかった。

ある日、最後の患者が帰った後、美穂は診察室の窓の外を眺めながら言った。
「この辺り、夕方になると空が綺麗ですね。」
「慣れると気づかなくなりますが。」
「もったいない。先生、ちゃんと見てますか?」
「仕事が終わる頃には暗くなってますから。」
「それは働きすぎです。」

そう言って彼女はふっと笑った。その笑い方が思いのほか自然で、俺は少し面食らった。肩書きからは想像できない、飾り気のない笑顔だった。

それからは診療が終わった後に、2人で少し話すことが増えた。美穂は地域医療の話だけでなく、時折り他愛もないことも口にした。
「先生って、休みの日は何をしてるんですか?」
「特に何も。本を読んだり、山を歩いたり。」
「いいですね。今度、どの山がおすすめか教えてください。」

返事に詰まった俺を見て、美穂はまた笑った。

ある日、最後の患者が帰った後に彼女は聞いた。
「田村先生は、なぜここを選んだんですか?」
「縁があったので。」
「縁ですか?」
「ここが必要としてくれたんです。」

美穂はしばらく黙っていた。
「都会の大病院では、患者さんの顔が見えないって聞きます。ここでは先生、皆さんの名前を全部知ってる。」
「小さな診療所ですから。」
「そうじゃなくて。先生が見ようとしているんだと思います。」

返す言葉がなかった。俺はつい、彼女が来る日を待つようになっていた。3年間閉ざしていた心が、確かに動き始めていた。

ある日、美穂からこんな申し出があった。
「一度、父に会っていただけませんか?」

「……ご心配をおかけしました。」
「先生、今から伺ってもいいですか?」

「田村先生、心臓外科のご経験は?」

「……何を、だ?」
「気づいてたさ。」
「じゃあ、なぜ何も言わなかったんですか?」

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