「あんた誰? 何日か前に来たときはいなかったじゃない?」
病室に現れた見知らぬ男に、俺はそう聞かれた。ミントグリーンの作業服を着たまま、ベッドの脇に立っている。
「今井公平です。昨日まで給食しておりました」
「は? 新人が給食? ふざけんじゃないわよ。マジ受ける。なんでそんな仕事してたおっさん雇ってんのよ。首よ」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。俺は52歳。とある建設会社に勤める会社員だ。指定されているミントグリーンの作業服を着て、朝は会社の周りの掃除を自主的に行っている。誰も手伝いますとは言ってくれないが、それでいい。俺自身の仕事の流儀でもあるし、竹の音を聞くだけで身が引き締まるのだ。
日中はそれなりに仕事を行い、帰り際は部下の残務処理を行う。会社の方針で残業を心がけているからだ。
「ほら、君たちいいよ。この処理なら俺がやっておくから帰りなさい」
一応、管理職待遇のため俺は残業代も含まれた給与をもらっている。みんな仕事を残さないようワークシェアで仕事をしているが、それでも処理量が多くタスクがこなせない場合は俺が引き受け終わらせる。職場のみんなも俺に仕事を託すことはなるべく避け、きちんと仕事をこなしてくれるのでありがたい。
しかし数ヶ月に1度、業務量が半端なく多い時がある。転勤時期で新人が配属されたり、会社の再編で新しい業務が舞い込んだりして、俺自身がてんてこ舞いになってしまった。新人の主導教育は信頼できる部下の斎藤に頼んだが、新しい業務を終えマニュアルを作り、社員へレクチャーを行う段階で俺は無理をしすぎてしまったようだ。
恥ずかしいことに、自宅で倒れ救急搬送をされてしまった。妻が大げさに救急車を呼んでしまったのが災いして、病院では精密検査を行うことになってしまった。職場からは安全衛生の担当者が病院へ飛んできた。
「ただの過労でもこの勤務状況では許されるものではありません」
俺に根コ説教を行い、無理やり3週間の休業を言い渡されてしまったのだ。ただの過労で、明日には退院予定だった。幸いなことに少々血圧が高めだが、他に異常はなく自宅安静で良いことになっていた。しかし老体となっては面倒だというか、会社の性質上、災害事故はすぐにマスコミに流れてしまうため担当者が目を光らせているのだ。
入院中は部下の斎藤もやってきた。斎藤も俺に説教を始める。
「今井さんは現場が好きすぎるんですよ。年齢的なこともあるんですから、少し立場をわきまえて若手に業務を任せてください」
「いや、任せてはいるんだけどなあ」
俺がのほほんと答えると、斎藤は俺の反省のなさに腹を立てたらしく、声を荒げていく。
「そんなこと言って、土日も会社にいるじゃないですか。そういうとこですよ。体壊すから家に帰れって何度も言ったじゃないですか」
その声の大きさに看護師がやってきて、「この患者さんは過労で入院してるんですよ」と、斎藤を病室からつまみ出した。
一部の部署では24時間対応の宿直業務もあるため、俺が無理すると他の人も無理をすることが当たり前となってしまう。だからわがままを言わずに休養し、充電期間に当てさせてもらった。充電期間中はエアコンの掃除をして、インターネットで株価の動向を確認し、パソコンアプリのトランプゲームに没頭していたら、あっという間に過ぎてしまった。
ようやく復職できると意気込んで出社。俺はミントグリーンの作業服を着用し、いつものように朝の掃除から始めようとした。すると、見知らぬ若い女が話しかけてきたのだ。
「あんた誰? 何日か前に来たときはいなかったじゃない?」
俺は自分の名前と、入院していたことを説明した。すると女は鼻で笑った。
「私はフェアリー女子大学を卒業したから、なれるべくしてこの会社に入ったのよ。あんたみたいなおじさんが何でこんな仕事してるの?」
それだけ言い放って、デスクに座ってしまった。
俺は斎藤に事情を聞こうとした。斎藤は困った顔で説明する。
「あれが新しい派遣社員です。今井さんが休んでいる間に来ました。でも、正直言って仕事を覚える気が全然ないんです。いつもスマホをいじってるだけで」
「そうか。まあ、新人だからな。時間をかけて覚えてもらえばいいさ」
俺はそう言って、自分のデスクに向かった。すると女がまた話しかけてきた。
「あんた、コーヒーは? 朝のコーヒーはないの?」
「え?」
「給食の人でしょ? コーヒーくらい淹れてくれても良くない?」
俺は呆気に取られた。確かに給食の仕事もしていたが、それはあくまで業務の一部だ。新人にコーヒーを淹れるために雇われているわけではない。
「すみません。私は給食の仕事はしていますが、コーヒーを淹れるためにいるわけではないんです」
「は? 給食なんだからお茶出しくらいするでしょ? 使えないなあ」
女はそう言って、イヤホンを装着しスマホをいじり始めた。
その日から、女の攻撃は続いた。俺が作業服を着ていると文句を言い、掃除をしていると文句を言い、給食の準備をしていると文句を言う。何をしても「使えない」「おっさん」と罵られる。
ある日、給食の準備をしていると、女が突然怒鳴ってきた。
「ちょっと! 私のコーヒーはまだ?」
「あの、今は給食の準備中ですので、終わったらお持ちします」
「終わったら? そんなの待てないわよ。あんた、私より年上でしょ? 年上のくせに、こんな仕事もテキパキできないの?」
周りの社員たちが静まり返った。斎藤が慌てて間に入ろうとしたが、女は止まらない。
「昭和の人間は本当に使えないわね。時代遅れのくせに、給料だけもらってるんだから、コーヒーくらい淹れなさいよ」
俺は何も言わずに、コーヒーを淹れて女のデスクに置いた。女は文句も言わずにコーヒーを飲み始めた。
でも、これだけでは済まなかった。数日後、会社の朝礼で、課長が突然こう言った。
「今井さん、ちょっといいですか。新しい派遣社員の方から、セクハラの報告が上がっています」
「え? セクハラ? 誰が誰に?」
「今井さんが、ですよ」
俺は言葉を失った。何を言われているのか、まったく理解できなかった。
「私はこの会社で一番若い女性です。今井さんというおじさんが、いつも私のことをチラチラ見てくるんです。キモいんですけど」
女が前に出てきて、そんなことを言ったのだ。
「ちょっと待ってください。私はそんなことしていません」
「してるわよ。仕事中もずっと私のことを見てるじゃない。年寄りのくせに、若い女の子にちょっかい出してるって言われても仕方ないでしょ」
周りの社員たちがざわつき始めた。斎藤が慌てて説明しようとする。
「課長、それは誤解です。今井さんはそんな人じゃありません」
「でも、実際に報告があったんだ。今井さん、しばらく自宅待機してもらえますか。調査が終わるまで」
俺は何も言い返せなかった。ショックで頭が真っ白になった。50年以上生きてきて、こんな屈辱的なことは初めてだった。
自宅待機の間、俺は何もできなかった。妻も驚いていた。
「信じられないわ。あなたがそんなことをするわけないもの。会社は何を考えてるの?」
妻が会社に電話して抗議しようとしたが、俺は止めた。
「待ってくれ。まだ調査中だ。俺が何か言えば、逆に俺が悪いように見られる」
でも、その調査はなかなか進まなかった。女の証言だけが一人歩きし、俺の弁明は聞き入れられなかった。
2週間後、ようやく調査結果が出た。だが、それは不公平なものだった。
「今井さん、今回の件は『事実無根』ではあるが、職場の雰囲気を悪くした責任を取ってもらう。ここでの勤務は難しいという判断になった」
俺は解雇ではなかった。しかし、別の支店への転勤を言い渡された。しかも、降格処分だ。管理職待遇から一般職へ。給料も大幅に減るという。
斎藤が激怒して、課長に食ってかかった。
「おかしいでしょ! 今井さんは何も悪くない! なんで今井さんが処分されるんですか!」
「でもな、斎藤。この件が外部に漏れたら、会社のイメージが悪くなる。派遣社員の言い分を尊重するのが、当社の方針なんだ」
俺は斎藤を止めた。これ以上、斎藤が立場を悪くするのは避けたかった。
「いいよ、斎藤。俺が転勤する。それで丸く収まるなら」
そう言って、俺は静かに荷物をまとめた。ミントグリーンの作業服を脱ぎ、新しい支店に移る準備をした。
新しい支店には、新しい作業服があった。同じミントグリーンだった。
「今井さん、こちらでよろしくお願いします」
新しい上司がそう言った。俺は作業服を身に着け、小さく頷いた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
そう言って、俺はまた朝の掃除を始めた。竹の音を聞きながら、静かに、淡々と。
あの女が自分の目先の快適さのために、人の人生を壊しても何とも思わない世界。俺はそれを思い知った。でも、俺にはまだ、やるべき仕事がある。部下のために、家族のために、そして俺自身のために。
ミントグリーンの作業服が、今日も朝日を浴びて光っていた。



