買い物中のショッピングモールで、4年間一度も歩けなかった娘が突然車椅子から立ち上がったんだ。車椅子生活の小学生のままで、ずっと医者からは「もう歩けないかもしれない」と言われ続けていたのに。娘はフラフラの足取りで、俺の隣にいた上司の元へ歩いていった。そして彼女に抱きついて、こう言ったんだ——「ママ、やっと会えた」と。俺は目の前の光景を信じられず、上司は青ざめて震えていた。すると娘が続けて言った…

買い物中のショッピングモールで、4年間一度も歩けなかった娘が突然車椅子から立ち上がったんだ。車椅子生活の小学生のままで、ずっと医者からは「もう歩けないかもしれない」と言われ続けていたのに。娘はフラフラの足取りで、俺の隣にいた上司の元へ歩いていった。そして彼女に抱きついて、こう言ったんだ——「ママ、やっと会えた」と。俺は目の前の光景を信じられず、上司は青ざめて震えていた。すると娘が続けて言った...

その日は朝から雲ひとつない晴天だった。土曜日、俺にとっては何より大切な日になるはずだった。仕事も休みだし、何よりマナと久しぶりに二人で出かけられる日だったから。

日常のすべてを変えてしまう出来事が起きるなんて、そのときの俺はまったく気づいていなかった。

マナの車椅子を押しながら歩く。人混みが多い土曜日のショッピングモールは、車椅子の移動には正直きつかった。ぶつからないようにゆっくりと進む俺たち。

「ねえパパ、あのお店行きたい!」
「おう、わかったよ」

そう言ってマナの指さす方向へ進もうとしたそのとき、背後から声がかかった。

「あれ?直人くん?」

振り返ると、そこにいたのは直属の上司である由里香さんだった。仕事ができて、誰にでも優しくて、それでいて近寄りがたいほど綺麗な人。噂では結婚しているとか、いやバツイチだとか、いろいろ聞いたことがあるけど、本人の口から聞いたことは一度もなかった。俺としては、ただただ尊敬できる上司という認識しかなかった。

「直人くん、買い物?」
「あ、はい。娘と二人でちょっと」

由里香さんは俺の隣に立つ車椅子のマナに視線を落とし、優しく微笑んだ。

「そちらが娘さん?」
「はい、マナといいます。ほら、マナ、挨拶して」

俺はマナに声をかけた。マナは普段、車椅子に乗っているから、相手と目を合わせるときは上を見上げる形になる。俺も自然にマナの方を見た。

その瞬間、俺の視界に映った光景に、言葉を失った。

マナが車椅子から立ち上がっていた。

「マ……マナ?」

足元はおぼつかなく、まるでバランスを取るのがやっとの状態だった。それでもマナは、ゆっくり、ゆっくりと一歩を踏み出した。

俺は何が起きているのか理解できなかった。この何年か、マナは一度も自分の足で立ったことがなかった。医者からも「歩けるようになるかどうかはわからない」と言われていた。それが今、車椅子から立ち上がって、何かを目指して歩いている。

マナの進行方向には、由里香さんがいた。

「ママ……」

マナはそう言った。

ママ?今なんて言った?俺は自分の耳を疑った。娘が口にしたその言葉が、どうしても現実のものとは思えなかった。

由里香さんの顔色がみるみる変わる。体が小刻みに震えているのが見えた。

「あ、あなた……ひょっとして……」

由里香さんはマナを見つめたまま、一言も発せないようだった。マナはそのまま歩き続けて、由里香さんの足元までたどり着き、彼女のスカートの端を小さな手で掴んだ。

「ママ、やっと会えた」

その言葉で、俺の中で何かが崩れ落ちる音がした。

俺は昔、マナの母親について聞かされたことがある。彼女はマナがまだ幼い頃、交通事故で亡くなったと聞いていた。その悲しみを抱えながら、俺はシングルファザーとして必死にマナを育ててきた。マナが事故に遭ったのも、その何年か後のことだ。心と体に深い傷を負って、それでもなんとか立ち直ってきた。

そのマナが今、俺の上司である由里香さんのことを「ママ」と呼んでいる。

考えられる可能性はひとつしかなかった。

「まさか……由里香さんが……?」

俺は混乱していた。由里香さんもまた、真っ青な顔でマナを見下ろしている。彼女は知っていたんじゃないのか?それとも、今ここで初めて娘と顔を合わせたのか?

「マナ、おい、どういうことだ。母さんは……」

「違わないよ、パパ。この人がママだよ。写真で見たからわかる。ママの顔、忘れたことなんてないもん」

マナの声はしっかりしていた。震えているのはむしろ俺と由里香さんの方だ。

「ゆ、由里香さん、一体どういうことですか?説明してください。あなたは確か……」

「やめて……」

由里香さんは力なく首を振った。

「やめて、直人くん。ここでは話せないわ」

「ここで話せないって、じゃあどこで話すんですか?今すぐ説明してもらわないと困ります!」

俺の声が大きくなる。周りの買い物客がこちらを振り返るのがわかった。由里香さんは唇を噛みしめ、それから小さく口を開いた。

「……私があなたの家を出て行ったのは、あの事故の後よ。マナを守るためだったの。あなたには言えなかった。今も、言うつもりはなかった。まさか、こうやってマナと会うことになるなんて……」

「守るため?どういう意味だ。今は違うって言いたいのか?」

由里香さんは何も答えなかった。

マナは相変わらず由里香さんのスカートを掴んだまま、顔を上げて彼女を見つめ続けている。その目はなぜか、俺に向けられる時よりもずっと輝いていた。

何年も、俺はマナのために生きてきた。彼女の笑顔を取り戻すために、毎日仕事から帰ってきては世話を焼き、週末はどこかへ連れて行き、事故の後遺症で落ち込む彼女を何度も励ました。その間、マナが母親のことをどれだけ想っていたのか、俺はちゃんと向き合ってこなかったのかもしれない。

「マナ、家に帰ろう。話はまた今度でいい。今日はもう出かけるのをやめるぞ」

そう言って俺はマナの手を取ろうとした。しかしマナは首を振った。

「いやだ。ママと一緒にいたい」

「マナ!」

「パパはわかってないよ。パパはずっと、ママは死んだって言い続けてた。でもママは本当は死んでなかった。ママはここにいる。なんで一緒に暮らせないの?なんで会いに来てくれなかったの?」

マナの目から涙がこぼれ落ちる。由里香さんはその涙を見た瞬間、耐えきれなくなったようにしゃがみ込んでマナを抱きしめた。

「ごめんね、マナ。本当にごめんね……私が悪かったの。あなたを傷つけるくらいなら、もう会わない方がいいと思ってた。でも、こんなに大きくなって……あなたのことはずっと見てきたのよ。知ってた?いつも遠くから、あなたのことを見守っていたの」

「え……?本当?」

「本当よ。学校の門の前で、車椅子に乗ってるあなたを見てた。あなたが100点のテストを先生に見せて笑ってる姿も、見てた。あなたが元気になって、笑えるようになったのを見て、私も嬉しかったの」

由里香さんの言葉を聞いて、マナの口元がほんの少しだけ緩んだ。しかし俺の方は、全く笑えない状況だった。

「あなた、ずっと俺たちを監視してたのか?」

「監視じゃない。見守ることしかできなかったの。私はあなたに言われる筋合いはないわよ。だってあの日、私が家を出るって言ったとき、あなたは何も言わなかったでしょ。むしろ、そうした方がいいって頷いたのはあなたの方よ」

俺は何も言い返せなかった。確かに、あの日、彼女が家を出ると言ったとき、俺は止めなかった。それどころか、「それがマナのためだ」と自分に言い聞かせて、彼女を送り出したんだ。

あの事故の後、マナの心は粉々に砕けていた。母が死んだと思っていたから。そして、母の死を機にマナが心も体も壊れていったのは、俺のせいでもあった。彼女に真実を話す勇気がなかったから、あの日からずっと、マナは何も知らないまま大きくなった。

「マナ。帰ろう。今はまだ、すべてを受け入れるのは難しい」

「やだ。ママが死んでなかったって、やっとわかったのに。パパ、私たち、ママと一緒に住める?また4人で暮らせる?」

4人?いや、俺たちは3人だ。俺とマナと由里香さん。それで3人。娘のマナが言う「4人」という言葉が響いた。マナはまだ、事故で死んだと思っているもう一人のことを数えているのか?いや、待て。マナは何を知っているんだ?

「マナ、お前、何を言ってるんだ?4人って……」

マナは不思議そうな顔で俺を見上げた。

「パパ、もしかして知らないの?ママのおなかの中に、赤ちゃんがいるんだよ」

俺は由里香さんの方を見た。由里香さんは何も言わず、ただマナを抱きしめたまま俯いていた。その反応が、何よりも雄弁だった。

「……妊娠してるの?」

由里香さんはゆっくりと頷いた。

「そうよ。マナのお父さんの、直人くんの子どもよ」

俺の頭の中は真っ白になった。じゃあ、俺と由里香さんは、まだそんな関係だったのか?いや、待てよ。そんなわけがない。

俺と由里香さんは一度たりともそういう関係を持ったことはない。上司と部下として、あの日までただの同僚だった。それが、どうして彼女が俺の子どもを妊娠しているって言うんだ?

「嘘だろ。そんなはずない。俺とあなたは……」

「直人くん、あなたはあの日のことを覚えていないの?事故の後の、あの夜のこと。あなた、病院で泣き崩れて、私が隣にいたときに……」

あの夜のことは、俺はほとんど覚えていない。マナの容態が急変したと連絡が入り、病院に駆けつけた。俺は必死で祈って、それから……。

「記憶がねえ。本当に、あの夜のことは……」

「あなたは自分が何をしているのかわからないほど深酒してた。私が家まで送って、ずっと介抱してたのよ。そのときに……」

由里香さんはそれ以上言わなかった。マナはまだ彼女の隣で、話の内容を半分も理解していない表情だった。

確かに、あの日マナは奇跡的に命は助かった。しかし、俺は自分を責め続けていた。自分のせいで娘がこんな目にあったと。その苦しみから酒に逃げた夜があった。

まさか、その結果がこれか?

「でも、あなたはあの夜のことを一切覚えていない。それでも私は、あなたに責任を取れなんて言うつもりはなかった。ただ、この子だけは……私の中で大事に育てようと思ったの。でも、まさか今日、ここでマナと会うことになるなんて」

「ママ、抱っこして」

マナはそう言って由里香さんに両腕を伸ばした。由里香さんは、涙を堪えながらマナを膝の上に抱き上げた。

俺はその光景を、何も言わずに見つめることしかできなかった。長年、娘のために尽力してきた。マナのためなら何だってしてきた。けれど、自分が娘の本当の苦しみの原因にもなっていたなんて、思いもしなかった。

「パパ、ママと一緒に住みたい」

マナはその一言を、なんの迷いもなく言い放った。

俺は答えられなかった。

この瞬間、俺の家族は崩壊するか、あるいは新しい形で再生するかの、二つに一つだった。しかし、その答えを出すための情報は、まだあまりにも少なかった。

「……おい、由里香さん。今日はもう帰ろう。マナも、な。明日、ちゃんと全部話そう」

由里香さんはゆっくりと立ち上がり、俺を見つめた。

「……わかったわ。明日、話しましょう」

マナは、まだ不満そうだった。しかし、久しぶりに母に会えた歓びと、理解しきれない状況とで、それ以上は何も言えなかったようだ。

「マナ、パパのところへおいで」

マナは渋々、車椅子から降りて俺の方へ歩いてきた。まだ、足元はふらついていた。しかし、さっきまでよりもよっぽど力強い足取りだった。

「パパ、私、ママのことが知りたい。ママとずっと一緒にいたいの」

「……わかった。明日、パパもママにいろいろ聞くから」

マナはこくりと頷いた。

帰り道、俺は車椅子を押しながら、さっき見た光景を反芻していた。マナが立ち上がり、由里香さんのもとへ歩いていく姿。それが俺にとって、何よりも大きな衝撃だった。

数年ぶりに歩いて見せた娘の足取りの、なんとたくましかったことか。

「パパ、ママのこと、本当は生きてたんだね」

「……ああ。そうみたいだな」

「すごく嬉しい。ずっと会いたかったんだ」

マナはそう言って、何かを堪えるように唇を噛んだ。俺は何も言えなかった。ただ、車椅子を押す手に、ほんの少しだけ力が入った。

明日、由里香さんと話す。何もかもの真実を。俺が知らないこと、忘れていること。それから、マナの本当の幸せがどこにあるのか。

その答えは、まだ誰にもわからない。

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