朝の仕入れは何百回と繰り返してきた日常の一部だ。俺、霧谷陸はいつものように発泡スチロールの箱を軽トラックに積み、レストラン同島へ向かった。祖父の代から続くこの店との付き合いは、大切な縁だ。俺にとってもそれは信念のようなものだった。
納品作業を終え、いつものように帰ろうとしたその時、店のオーナーである洞口神兵が声をかけてきた。「ちょっと被害室で話があるんだけど。」
妙な胸騒ぎを覚えながら通された先で、唐突に彼は言い放った。「なんかさ、肉の仕入れ最近ちょっと高くね?半額にするか、契約終了か選んでくんない?」
その一言で、俺の中の何かが静かに凍った。信頼とは、こんなにも簡単に踏みにじられるのかと。
俺の名前は霧谷陸。この町で霧谷精肉店という小さな店を営んでいる。祖父の代から続くこの店は、今年で創業70年を迎える。祖父の霧谷誠一が戦後間もない頃に立ち上げたのが始まりだった。あの頃は物も食料もない時代だった。若かった祖父は、毎日腹をすかせて食事も取れない暮らしをしていたという。そんな中で手を差し伸べてくれたのが、まだ開業して間もなかったレストラン童島の創業者で、現店主の祖父にあたる童島タオさんだった。若者が飢えているのを見て、自分の店の料理を惜しげもなく祖父に振る舞ってくれたらしい。金がないと伝えても、タオさんは一度も代金を求めなかったという。
たった一杯のスープでも、人の体と心を救う力がある。祖父はそう言って、あの人の味を一生忘れなかった。祖父はその恩を生涯忘れなかった。やがて自らも精肉店を構え、少しずつ軌道に乗り始めると、真っ先にタオさんに申し出たそうだ。「今度は俺があなたに返す番だ。」
それ以来、霧谷精肉店はレストラン童島に対して破格の価格で肉を下ろすようになった。ときには赤字になることもあった。それでも祖父は一言も文句を言わなかった。商売は損得じゃない。恩義が先だ。祖父の背中がそう語っていた。
父の霧谷慎もその方針を引き継いだ。俺が小さい頃から父の口癖は同じだった。「この代はな、帳簿に乗らねえけど、絶対に返さなきゃいけねえもんなんだよ。」
父はレストラン童島との独占契約を続け、他の飲食店からの仕入れの申し出があっても全て断っていた。その姿勢は愚直とさえ言えた。
そして今、そのレストランの現オーナーが、祖父の代から積み重ねてきた信頼を、一方的に切り捨てようとしている。「半額にするか、契約終了か選んでくれ」だと?
俺は言葉を失った。怒りよりも先に、悲しみが込み上げてきた。祖父が大切にしてきたのは、ただの商売じゃない。命の恩人への感謝、その連鎖だ。それを「高い」という一言で終わらせるのか。
だが、俺にはすぐに答えを出せなかった。もし契約を終了すれば、店の経営は立ち行かなくなる。半額を受け入れれば、赤字が続くのは確実だ。どちらを選んでも、祖父が築いたものを壊すことになる。
帰りの車の中で、俺は祖父の言葉を思い出していた。「あの人の味を忘れるな。どんな状況でも、恩を忘れるな。」
その夜、俺は眠れずに考え続けた。そして次の朝、一つの決意が固まった。ただ、それを実行するまで、誰にも話すことはできない。
数日後、俺はレストラン童島の厨房に呼ばれた。洞口神兵が、契約書をテーブルの上に置いて待っていた。
「決めたのか?」
俺はゆっくりと頷いた。そして、口を開いた。
「いいえ。私は選びません。」
洞口神兵は眉をひそめた。「どういう意味だ?」
俺は手に持っていた紙をテーブルに置いた。そこには、祖父が書き残していた一通の手紙が写し取られていた。それは、タオさんが創業当時に祖父へ宛てた感謝の手紙とは別に、祖父がタオさんの死後、その息子である現オーナーの父へ宛てて書いたものだった。
「これは、おじいさんがあなたの父上に宛てた手紙です。ここにはこう書いてあります。『我が家の店は、あなたの父上の恩がなければ成り立たなかった。今後とも、値段に関わらず最高の肉をお届けする。それは約束だ』と。」
洞口神兵は手紙を読み、しばらく沈黙した。そして、冷ややかに言った。「昔の話だ。今は時代が違う。」
「ですが、あなたの父上はこの約束を守り続けました。あなたのおじいさんも、私たちの祖父も、その想いを大切にしてきました。それを、あなたは『高い』という一言で壊すのですか?」
洞口神兵は笑った。「商売は情じゃない。コストだ。それに、今の時代にそんな古い考えは通用しない。」
俺は言った。「わかりました。では、契約を終了しましょう。ただし、これまで通りの価格で納品を続けます。もしご不満なら、表に出ても構いません。」
洞口神兵の顔色が変わった。「ふざけるな。独占契約がなければ、うちは他の仕入れ先を探す。お前の店なんかに固執する理由はない。」
「固執する必要はありません。ただし、この町で誰が本当に信頼できるか、皆が知っているだけです。」
俺はそう言って、店を後にした。後ろで洞口神兵が何か叫んでいたが、振り返らなかった。
あれから数週間、レストラン童島は他の業者から肉を仕入れていた。しかし、すぐに評判は立った。味が変わった、鮮度が落ちた、と。常連客が減っていき、店の売上も下がり始めた。
ある日、洞口神兵が俺の店に現れた。疲れ切った顔で、言った。「すまなかった。もう一度、取引をさせてほしい。」
俺は少し迷ったが、祖父の言葉を思い出した。「恩は返すものじゃない。繋ぐものだ。」
「わかりました。ただし、今回の契約は、あなたの父上が祖父から受け継いだ条件をそのままに。半額でも、値下げでもありません。これまで通り、最高の肉を提供します。それでよければ。」
洞口神兵は深く頭を下げた。「ありがとうございます。おじいさんには、申し訳ないことをしました。」
それから、レストラン童島は少しずつ元の評判を取り戻した。俺の店も、以前のように安定した取引が続いている。祖父や父が守ってきたものを、俺も守り続けていくつもりだ。
今でも、あの手紙は店の引き出しに大事にしまってある。祖父の字で書かれた一言、「恩は忘れるな」。それが、俺の商売の信念だ。
これからも、霧谷精肉店はこの町で、祖父が始めたことを続けていく。誰かのために、一杯のスープが誰かの心を救うように、俺もまた、誰かの人生を支える存在でありたいと思う。
そんなある日のことだ。店を閉める準備をしていると、見慣れない女性が入ってきた。年は二十代半ば、執事服を着ていた。
「霧谷陸さんですね。」
「はい。何か御用でしょうか?」
「私は、洞口家の執事の娘、と申します。実は、洞口家の当主があなたに会いたいと。」
「洞口家の当主?」
「はい。洞口神兵の父、洞口秀治さんです。」
俺は驚いた。洞口秀治は、数年前から病で寝たきりだと聞いていた。だが、その人に呼ばれるとは。
翌日、俺は久しぶりに童島レストランの奥の座敷に通された。そこには、車椅子の老人がいた。洞口秀治だった。
「おお、来てくれたか。すまないな、急に呼び立てて。」
「いえ、お会いできて光栄です。」
洞口秀治は、ゆっくりと言った。「君の祖父には、本当に世話になった。私の父は、君の祖父に一目置いていてね。あの人がいなければ、この店は今頃どうなっていたか。」
俺は何も言えず、ただ頷いた。
「今回のことは、私からも謝らせてほしい。あの馬鹿息子が、恩を忘れるようなことをして。私が体調を崩してから、店の采配を任せていたのだが、どうも価値を履き違えていたようだ。」
「いえ、もう解決しました。」
「聞いている。君が祖父の手紙を持ち出して、一喝したそうだな。」
洞口秀治は笑った。「君は祖父の血を引いている。本当に、あの人に似ている。」
俺は照れくさかったが、嬉しかった。
「ところで、君に聞いてほしいことがある。」
「なんでしょう?」
洞口秀治は、懐から一通の封筒を取り出した。
「これは、私の父が君の祖父に宛てて書いた手紙だ。当時、君の祖父が店を始めたときに、励ましの言葉を送ったらしい。だが、君の祖父は受け取らなかったそうだ。『恩を返すのは私からです。どうかお受け取りください』と。父はその言葉に感激して、しかし手紙は送り続けた。君の祖父は、結局一度も開けなかったらしい。」
俺は封筒を受け取った。古びた紙には、童島タおの署名があった。
「これを、君に預ける。君の代で、開けてくれ。」
「いいんですか?」
「ああ。もう、誰が何と言おうと、これは君のものだ。」
俺は封筒を大切にポケットにしまった。その夜、店の明かりの下で、封筒を開けた。便箋には、達筆な字でこう書かれていた。
「霧谷さん。あなたが店を開いたと聞いて、本当に嬉しく思います。あなたがかつて私の店で食べたスープを、今度はあなたの店で誰かに振る舞う番です。私は、あなたの将来を楽しみにしています。どうか、真っ直ぐに、自分の信念を貫いてください。あなたの成功を祈っています。」
俺は目頭が熱くなった。祖父はこの手紙を読んでいない。だが、俺が読んだ。そして、この言葉を次の世代に伝えていくことが、自分に課せられた使命なのかもしれない。
翌日、俺は店を開ける前に、祖父の写真に手を合わせた。「じいちゃん、手紙をありがとう。俺、頑張るよ。」
それからも、霧谷精肉店は今日も開いている。祖父が教えてくれた味と、恩を忘れない心。それが、俺の生きる道だ。



