ねえ、これ。
背後から声がして振り返ると、義母が何かを差し出していた。古びたコートだ。季節外れの、くびれた一着。思わず間の抜けた声が出た。義母はそのコートをぐいぐいと私の方へ押し付けてくる。
「持っていきなさい。」
短く、それだけ。拒否する隙すら与えない。私は戸惑いながらも、そのコートを受け取った。本当に意味が分からない。どうして今、こんなものを渡されるのか。頭の中に疑問が浮かんでぐるぐる回る。
「出ていくならさっさと言って。」
急に強い口調になった義母。そのまま背中を押され、強引に外へと追い出される。
「ちょっ、ちょっと──」
ギリギリで靴を履き替え、バランスを崩しそうになりながら玄関の外へ出る。背後でバタンとドアが閉まった。
しばらくその場に立ち尽くした。手には古いコート。夜の空気がひやりと肌を撫でる。
「だから何なの、これ?」
小さく呟いても、答える人はいない。妙な違和感だけが残った。
私の名前は三枝美歳。平日は会社で事務職として働きながら、家のこともこなす。いわゆる兼業主婦だ。
職場では目立つタイプではないと思う。けれど頼まれた仕事はきっちりやるし、細かいミスにもよく気づく。「みおさんに任せておけば安心」と言われることも多く、気づけば雑務から調整役まで何でも引き受けるようになっていった。
それで損をしたと思ったことはあまりない。誰かの役に立っていると実感できるのは、単純に嬉しいから。性格はよく「明るいよね」「面倒見がいい」と言われる。場の空気が重くなればつい軽口を叩いてしまうし、落ち込んでいる人がいれば隣に座って話を聞いている。自分でもそういう性分なのだろうとは自覚していた。
加えて言えば、気の乗らないことでもやると決めた以上は徹底的にやりたい。そういう面倒な部分もある。
日々の生活は至って普通だ。平日の朝は少し早めに起きて、朝食と弁当を作ってから出勤する。仕事が終われば寄り道はほとんどせずに帰って、夕食の準備や片付け、翌日の準備に追われた。
その何もない日常を、私は嫌いではない。夜、一息つく時間が好きだ。温かい飲み物を手にして、その日の出来事をぼんやり思い返す。うまくいったことも、ちょっとした失敗も。まあいいかと受け入れて、静かに一日を終える。心の安寧のために必要な時間だった。
三歳年上の夫・拓也と結婚して三ヶ月。まだまだ新婚と呼べる時期だろうが、私はすでにこの結婚を後悔し始めていた。彼はずっと本性を隠していたのである。
付き合っていた頃の拓也は、火の打ち所がないほど優しかった。私の話をじっくり聞いてくれるし、細やかな気遣いもしてくれた。週末は一緒に出かけ、私の好きなカフェを探してくれるような男だった。
ところが結婚して一緒に暮らし始めると、それまでの態度が嘘のように変わり始めた。最初は些細なことだった。皿洗いをお願いすると「疲れてるんだ」と渋る。ゴミ出しも、私が声をかけるまで動かない。気づけば家事は私の仕事という扱いになっていた。
それでも私は耐えていた。新婚だし、お互い慣れるまで時間がかかるものだと思っていた。夫のために、家のために、一生懸命働いてきた。
だけどある夜、スマホを見ていた拓也が突然キレた。
「お前、いつまで友達とLINEやってんだよ。家事もろくにしないくせに。」
「え? 今、仕事の連絡を…」
「言い訳すんな。どうせ暇なんだろ。」
その日から、彼の言葉はどんどん鋭くなっていった。ちょっとしたことで怒鳴る。私が何か言い返せば「うるさい」と一蹴。優しかった面影はどこにもなかった。
それでも私は離婚を考えなかった。周りに「結婚して良かったね」と言われている手前、認めたくなかったのだ。自分が選んだ相手だというプライドもあった。
拓也が家に帰ってこない夜が増えたのは、結婚して二ヶ月が過ぎた頃。残業だと言っていたが、明らかに嘘だった。ワイシャツから香水の匂いがする。スマホはいつも逆さまに置かれ、画面は絶対に見せてくれなかった。
私は耐えてきた。気づかないふりをしてきた。夫の浮気を疑ったところで、その確証がなければ何もできない。それに、認めたら自分のこれまでの全てが崩れてしまいそうで怖かった。
そんなある日、私は遂に証拠をつかんでしまう。携帯の修理に出そうとした拓也のスマホ。その隙に通知が目に入った。女からの甘いメッセージ。過去のやり取りまで見てしまった。
彼は本当に浮気をしていた。しかも、相手は私の数少ない女友達だった。大学時代から付き合いのある友達。二人が二股をかけていたのは、かなり前からのようだった。
頭が真っ白になった。ショックと怒りと悲しみで、何が正しいのか分からなくなった。しばらくぼんやりと画面を見つめ、そして気づいた。このまま我慢していても、何も変わらない。私はこの家を出る決心をした。
夫には何も言わなかった。どうせ話し合っても埒があかないし、怒鳴られるだけだと分かっていたから。私は静かに荷物をまとめた。衣類、書類、少しの思い出の品。コーヒーメーカーだけは持って行く。それは二人で選んだものではなく、私が独身時代から使っていたものだった。
夜が明けて、日曜日の朝。拓也はまだ寝ていた。私はリビングに置き手紙を残した。
『お世話になりました。離婚届は役所に置いておきます』
それだけ書いて、玄関に向かった。
その時だ。背後から声がした。
振り返ると、義母が立っていた。拓也の母。どうやらたまたま訪ねてきたらしい。私の荷物を見て、状況を察したのかもしれない。
義母は何も聞かなかった。ただ、古びたコートを差し出した。それは私のものではない。季節外れで、くびれた形。一体何のために? 聞く間もなく、義母はコートをぐいぐいと押し付けてくる。
「持っていきなさい。」
「えっ…いや、でも…」
「出ていくならさっさと言って。」
義母の口調は冷たかった。私は押し出されるようにして玄関の外に出た。背中でドアが閉まる音。
寒空の下、手に持ったコートを見下ろす。どうして渡されたのか、さっぱり分からない。ただ、何か引っかかるものがあった。
私はそのコートを後で見ようと思い、まずは駅へ向かって歩き始めた。
実家に戻るつもりはなかった。両親にはまだ何も話していない。姉がいるから、しばらくはそちらに身を寄せよう。そう考えながら、スマホで連絡を取ろうとした。
だが、電源を入れた瞬間、気が変わった。いや、姉に迷惑をかけるのは申し訳ないし、両親に心配をかけるのも避けたかった。結局私は、友人宅を転々としながら、生活を立て直す道を選んだ。週末には役所で離婚届を出し、その後は一人で新しく部屋を借りて引っ越した。
新しい部屋は小さかった。ワンルームで、家具もほとんどない。それでも、拓也の影がない空間は気持ちが軽かった。夜、一人でお茶を飲む時間は、昔と変わらず私を落ち着かせてくれた。
ある時、ふとあの義母のコートを思い出した。クローゼットにしまったままだった。何か手がかりがあるかもしれないと思い、引っ張り出してみた。ポケットを探ると、硬いものが当たる。
中から出てきたのは、古びた鍵と一枚のメモだった。
メモにはこう書いてある。
『これは私が昔、家を出る時にくれたもの。あなたにも必要なはず。』
鍵は、義母の実家の蔵の鍵だと判明した。後に分かった話だが、義母も若い頃、夫に暴力を振るわれて苦労していた。自分が逃げ出す時に、実母がこのコートと鍵を渡してくれたのだという。
義母は、私にも同じように自由になれる道を用意してくれていたのだ。
私は鍵を持って、一度だけ義母の実家を訪れた。蔵の中には、義母が昔まとめていた書類や写真が詰まっていた。その中に、拓也の母が書き残した日記があった。そこには、拓也の父親からのDVの記録と、離婚を考えていた当時の想いが綴られていた。
私はそのすべてを読み終えた後、日記を元の場所に戻した。そして、鍵をポケットにしまい、これからは自分自身の人生を歩んでいこうと強く思った。
新しいアパートの窓から見える夕日は、あの家で見ていたものよりずっと美しかった。私はそこで、一人、静かに生きていくことを決めた。



