「おい、健太、無事か!?」無線の向こうで必死の息遣いが聞こえた。その船は波に飲まれかけているのに、エンジンは壊れていた。俺はかつて世界の海を設計した男だ。でもこの小さな漁港で船底を磨くだけの、ただの中年に落ちぶれていた。昨晩の嵐の予感が当たり、若手の健太が沖で遭難した。みんなは俺の警告を信じなかった。田辺さんは「あいつも限界かもな」と言った。健太の声は震えていた。「は瀬さん、かろうじて……で…

「おい、健太、無事か!?」無線の向こうで必死の息遣いが聞こえた。その船は波に飲まれかけているのに、エンジンは壊れていた。俺はかつて世界の海を設計した男だ。でもこの小さな漁港で船底を磨くだけの、ただの中年に落ちぶれていた。昨晩の嵐の予感が当たり、若手の健太が沖で遭難した。みんなは俺の警告を信じなかった。田辺さんは「あいつも限界かもな」と言った。健太の声は震えていた。「は瀬さん、かろうじて……で...

俺の名は瀬サト。42歳。かつては世界有数の海運会社で航路設計の責任者を務めていた。太平洋、インド洋、大洋——世界中の海をデータと経験で読み解いてきた。だが今の俺は、こんな小さな漁港で古びた漁船の船底を磨いている。工具を握る手に塩風が当たる。不思議と悪くない感覚だった。

「おい、は瀬、そっちのボルトもう1本閉めといてくれ」

声をかけてきたのは田辺さん。この港で30年以上海と生きてきたベテラン漁師だ。頑固そうな顔をしているが、人の厚さはこの港で俺はもう知っていた。

「はい。これでどうですか?」
「ああ、ばっちりだ。あんた、本当に手先が器用だな。どこで覚えたんだ?」
「昔から機械をいじるのが好きで」
「ああ、まあ、腕があるのはいいことだ。このくらい動いてくれりゃ、また海に出られる」

こう言って田辺さんは遠くの水平線に目を向けた。その目が少しだけ曇って見えた。

「最近、量はどうですか?」
「ひどいもんだよ。去年の半分も取れない。潮の流れが変わっとる。長年やってきたが、こんなことは初めてだ」

重い言葉が塩風に溶けていく。

「は瀬さん、修理終わったら今日の記録まとめといてください」

明るい声でかけてきたのは若手漁師の健太、28歳。まだあどけなさが残る顔。

「わかった」
「うるさいやつだな」
「は瀬さんもお疲れ様です。いつも助かってます」
「こちらこそ」

健太は笑って走り去っていく。その背中を見ながら、田辺さんが静かにつぶやいた。

「あいつも、そろそろ限界かもしれない」
「どういうことだ?」
「都会に出ようかなんて、最近ちらっと言い出してな」

俺は何も言わなかった。ただ工具を握る手に少しだけ力が入った。この港も限界に来ているのかもしれない。かつて俺が設計してきた航路は、何百隻もの船を安全に導いてきた。だが今の俺には、この港に何かしてやれるものがあるんだろうか。

海は変わらず静かだった。だが、その静けさの奥に何かが潜んでいる気がした。

午後になって、空の色が変わり始めた。俺は港の橋で修理道具を片付けていた。風が急に強くなる。頬に当たる塩風の質がさっきとは明らかに違う。これは嵐の前兆だ。

遠くの空が鈍い灰色に染まっていた。風、波の立ち方、空の色——長年世界の海を読んできた俺には、それが何を意味するかすぐに分かった。だが、この港の連中はまだ気づいていない。

「は瀬さん、そろそろ戻ろうぜ」

田辺さんが声をかけてきた。

「いや、ちょっと待ってくれ。この風、おかしい」
「何言ってんだ。こんなのよくあるだろ」

俺は空を見上げた。雲の動きが速い。これは通常の夕立じゃない。

「30分でここを離れるんだ。船を沖に出すな。網も全部回収しろ」

田辺さんは俺の顔を見て、何か言おうとしたが、口を閉じた。長年海と生きてきた彼にも、何か感じるものがあったのかもしれない。

「分かった。すぐに伝える」

彼が走り去っていく。俺は港をぐるりと見渡した。船が何隻かまだ出ている。あの中に健太の船もあるはずだ。

「健太、早く戻れ」

俺は声にならない呟きを飲み込んだ。そして、港の見張り塔に急いだ。高い場所からなら状況を確認できる。

塔に登ると、視界が開けた。海はまだ穏やかだが、沖のほうに黒い雲の壁が迫っている。俺の経験が警告を発していた。このままだと、戻れなくなる船が出る。

俺は無線を握った。

「こちら見張り塔。全船に告ぐ。すぐに港へ戻れ。嵐が来る。繰り返す。嵐が来る」

雑音混じりの応答が返ってくる。だが、まだ出ている船の数が気になる。

「健太、おい、健太、応答しろ」

無線が沈黙する。心臓が跳ねた。

「健太、頼む、返事をくれ」

しばらくして、かすかな声が聞こえた。

「は瀬さん……今、戻ってます」

安心と同時に、波が高くなり始めたのが見えた。

「急げ! 早く」

俺は港の照明を全て点けた。暗くなりつつある海に光を当てる。数隻の船が戻ってくる。だが、健太の船はまだ沖のほうだ。

「健太、どこだ?」

無線からは雑音ばかりが聞こえる。風が唸りを上げ始めた。波がどんどん高くなる。俺の手は無線機を握る力が入る。

「見えた」

遠くに小さな光が見えた。健太の船だ。だが、その進路に巨大な波が立ちはだかっている。

「健太、そのまま直進するな! 波を斜めに取れ!」

しかし、無線は沈黙したままだ。波が光を飲み込もうとしている。俺は思わず叫んだ。

「健太! 早く避けろ!」

その瞬間、波が小さな船を巻き込んだ。光が消える。

心臓が止まるかと思った。だが、次の瞬間、光が再び現れた。船が波の向こうに立っている。健太は何とか生きている。

「健太、無事か!?」

「は瀬さん……かろうじて……でも、エンジンがやられた」

声が震えている。状況は最悪だ。このままだと、船は流されていく。

「健太、聞け。港の入り口の灯りに従って進め。何があっても、その方向から逸れるな」

「でも、エンジンが……」

「手で漕げ! できるだろ! お前、若いんだから、死ぬ気でやれ!」

無線から、ハァハァという息遣いが聞こえる。健太が必死になっているのが分かる。俺は港の外に目を凝らした。だが、波はさらに高くなっている。

「健太、もう少しだ。頑張れ」

時間がゆっくり流れるように感じた。何度も波が光を隠し、そのたびに心臓が締め付けられた。しかし、健太の船は少しずつ近づいてきている。俺は無意識に祈っていた。

「もうちょっとだ!」

船が港の入り口に差し掛かった瞬間、最後の大波が襲ってきた。俺は思わず目を閉じた。

そして、ガツンという音が響いた。

目を開けると、健太の船が岸壁に激突していた。船体が大きく傾いている。彼の姿が見えない。

「健太!」

俺は塔を飛び出し、岸壁へと走った。波が足元を砕く。雨が顔を叩く。だが、そんなことは構わなかった。

「健太、どこだ!」

岸壁の縁に、かろうじて彼の腕が見えた。俺は身を乗り出して、その腕を掴んだ。

「健太、しっかりしろ!」

彼は意識を失っていたが、息はしていた。俺は彼を引き上げ、安全な場所まで運んだ。

後から田辺さんが駆け寄ってきた。

「健太! 無事か!?」

「かろうじて……だが、船はやられた」

田辺さんは安堵の表情を浮かべ、そして俺を見た。

「は瀬さん、助けてもらった。あんたがいなければ、この子は死んでたかも」

「俺が警告しただけだ。船が無事ならよかったんだが」

「船は直せる。命は取り戻せないからな」

その言葉に、何かが胸に響いた。俺は港に何もできることがないと思っていた。だが、今日、初めて自分の知識と経験が誰かを救った。

雨が小降りになり始めた。風も徐々に収まっている。港は静寂を取り戻しつつあった。

「は瀬さん、俺からも言わせてくれ」

声のほうを見ると、健太が立っていた。擦り傷だらけだが、しっかりと立っている。

「ありがとうございます。……それで、改めて聞きます。この港で、これからも働いてくれませんか? 俺はまだまだ学びたいことが山ほどある」

俺はしばらく彼の顔を見つめた。その目は、もう昨日までの不安な少年の目じゃなかった。何かを決意した、強い目だった。

「……ああ、俺もまだまだ修繕が必要そうだな」

「は? 何言ってるんですか? は瀬さんは十分すごいですよ」

「そう言ってくれるのはありがたいが、海は俺よりずっと手強いからな」

そう言って、俺は初めて笑った。港の夜の明かりが、徐々に静まる海を照らしていた。俺の居場所は、ここにあるのかもしれない。そう思える夜だった。

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