初めての見合いの席で、相手の人は私にこう言った。
「無理に笑わなくていいですよ。」
私の作り笑いをまっすぐに見ながら、その人の目はとても優しかった。ホテルのラウンジには私のスーツ姿が場違いに映るくらい、周りはみんな上品な服を着ていた。だけど、その人の作業着姿の方が何倍も目立っていた。
私はこの席に姉の代わりに座ることになっていた。姉は忙しいから、とママに言われて、私は黙ってスーツを借りてきた。私の役目は、笑顔でいて、話を合わせて、その場をやり過ごすこと。それだけだった。
でも、その人は最初から見抜いていた。私が誰かを演じていることを。そして何より、あの手。荒れてひび割れたその人の手が、そっと湯飲みを包んだ時、私は暴かれたような気持ちになった。何年も水に洗剤にさらされてきた手。釣り銭を数え、揚げ物を油から上げ、重い包みを抱える手。私の父の手に似ていた。12年前に死んだ父の手に。
「お父さんと同じ手だな。」
思わず口から出てしまった言葉に、自分で驚いた。いや、本当は言うつもりなんてなかった。だけどその人は、驚くどころか、枯れた笑い声をあげて「そうかもな」とだけ言った。
私の名前は相沢はか、27歳。商店街の外れにある小さな揚げ物屋で働いている。母と姉と三人暮らし。父が亡くなってから、私の人生はずっとそうだった。高校を出る少し前から働いて、給料はその日のうちに母に渡す。手取り月15万円、決して多くはない。でも、その封筒が私の手元に残ったことなんて一度もない。
給料日の夜は決まってこうだ。母が食卓の上に手のひらを差し出す。私は黙って封筒を置く。それでいい。それがこの家の決まりだった。何を着るか、どこへ行くか、何を食べるか、いつも誰かが決めて、私はただ従ってきた。姉に何かあると、私が代わりになる。今回の見合いもそうだった。
姉は綺麗だった。私とは正反対に、母に可愛がられて育った。姉は何かを相談するときだけ私に話しかける。今回も「ちょっとだけ代わりに出て」と言われて、私は断れなかった。ママが一言「行きなさい」と言えば、それで終わり。私はスーツを借りて、ここに座っていた。
相手の人の名前は、最初はまだ知らなかった。作業着が似合う、大きな手の男性。見合いの席で、アパートの近くで小さな工場をやっていると聞いた。妻を亡くして、10年一人でやってきたらしい。自分の店と従業員を守るために、朝から晩まで働いていると言っていた。
「本当は、紹介される気はなかったんだ。」
その人は自分の湯飲みを指先でなぞりながら、ぽつりとこぼした。
「でも、顔を見たら、こりゃ断れねえと思ってね。あなたが来てくれて、よかった。」
私はどう返せばいいのかわからなかった。ただ、その言葉が妙に温かく胸に残った。帰り道、姉に「どうだった?」と聞かれて、私は「別に普通だった」とだけ答えた。姉は「そう」と興味なさそうに流した。
翌日、いつものように店の油を揚げていると、その人が店先に立っていた。驚いて手を止めると、彼は照れくさそうに小さなカードを差し出した。
「また会えますか。今度は、ゆっくり話したいんです。」
そのカードには、彼の名前と電話番号が書いてあった。私はどうしていいかわからなくて、封筒の中にしまった。そして家に帰ってから、その封筒を開けた。けれど、封筒の中からはカードではなく、一枚の薄い紙が出てきた。
そこには母の字でこう書いてあった。
「この人とは、姉が結婚する。あなたはこの見合いを、何もなかったことにしなさい。」
私の手は震えた。何が起きているのか、一瞬わからなかった。見合いの翌日に、姉が結婚? 私が座っていたのは、姉の席。姉は最初から、自分がこの人と結婚するつもりで、私を行かせたのだ。私の代わりに、相手の反応を探るために。
「お前はこの縁談を壊すなよ。」
母は言った。声は低く、有無を言わせない硬さがあった。
「姉ちゃんには、もっといい生活をさせてやりたいんだ。お前のわがままで台無しにしたら、勘当だからな。」
私の中で何かがぷつんと切れた。今までの27年、全てがこの言葉のために存在していたかのようだった。私はこの家のために働いて、買い物をして、料理をして、誰かを演じてきた。そして、最後に残ったのは「勘当」という言葉だけだった。
その夜、私は眠れなかった。朝になると、いつものように起きて、弁当を作った。しかし、今日は姉の分を。
「これ、持って行きな。」
私は姉のランチバッグに、弁当箱ごと詰めた。姉は気づかずに笑った。
「ありがとう。久しぶりだね、お前の弁当。」
私は何も言わなかった。ただ、心の中で決めた。
もう、私はいらない。
荷物は一つにまとめた。着替え少しと、父の写真だけ。母に見つからないように、夜中にそっと家を出た。行き先は、決めていた。あの作業着の人の工場。カードに書いてあった住所だ。
翌朝、工場の門をくぐると、彼が油の匂いのする作業着姿で出てきた。私の姿を見て、少しだけ目を見開いた。
「何があった?」
私は、震える声で言った。
「私、家を出てきました。居場所がありません。」
彼は一瞬黙った。そして、緩く一度だけうなずいた。
「話は中で聞くよ。まずは、コーヒーでも。」
そう言って、彼は私を工場の中へ促した。昼間の騒音の中で、私は自分の人生のことを話した。母のこと、姉のこと、見合いの本当の意味。彼は最後まで黙って聞いていた。
「俺からは、一つだけ言える。」
彼は立ち上がると、私の方を向いた。
「あの見合いの席で、俺はお前が好きだと思ってた。作業着姿の俺を、お前はちゃんと見てくれた。それを奪うのは、いくら姉でも許せねえよ。」
その言葉に、私はやっと心から涙が出た。
それから数日後、彼の紹介で、私は同じ商店街の洋品店で働き始めた。給料は少し安いけど、自分のために働いているという実感があった。母は一度だけ電話をかけてきた。
「家に帰ってきなさい。」
「いいえ。」
私は静かに言った。
「私は、私の人生を自分の手で選びます。」
それきり、電話はかかってこなかった。しばらくして、母と姉が渡したいものがあると、私たちの小さなアパートにやってきた。その日、私は彼と一緒にいた。
母は封筒を差し出した。中には、私が何年も渡した給料の一部が、通帳に入っていた。
「お前のためにためとった。」
母は言った。私をまっすぐ見て。
「ごめん。あの封筒のことは……私が間違ってた。」
私は黙って受け取った。反省の涙に、私も少しだけ目をうるませた。
今度は、私がこのお金で何をするか。まだ決めていない。でも、もう誰にも決めさせない。
私は彼と、あの小さな店を一緒に守っていくつもりだ。そして、いつか自分の店を持つ。そんなことを、静かに夢に見ている。
彼は言う。
「俺の工場も、一緒にやるか?」
私の手を握りながら。その日から、私は裸の笑顔で生きることを覚えた。無理に作らなくても、自然と出てくる笑顔があるのだと。その笑顔を私にくれたのは、あの見合いの席で、最初に私の作り笑いを見抜いた、この人の手だった。


