豊かな遺体として墓地に眠ること。それがどれほど惨めなことか、塚本総一はまだ知らなかった。葬式に誰も泣いてくれない人間がいる。花を手向けてくれる人間がいない。長年積み上げた数字が通帳の中でだけ輝き、その死を悼む声がただの一つも上がらない。そういう死に方がある。総一はその可能性を自分のこととして考えたことが一度もなかった。
2026年1月の関東地方は、朝から底冷えのする日が続いていた。総一は61歳。神奈川県の物流企業で事務職員を務めていた。身長は168センチほどで、長年の節制からくる細さが全身ににじんでいた。頬の肉は削ぎ落とされ、首筋はたるみなく張っている。それは健康的な引き締まりではなく、消耗を続けた結果の細さだった。
毎朝6時に起きる。連所の電球は一番ワット数の低いものに変えてある。顔を洗うと鏡の中の自分が薄ぼやりと見えるが、総一は気にしない。明るい照明は電力の無駄だ、と長い時間をかけて自分に言い聞かせてきた。出勤前の朝食は、前日の夕方に半額シールの貼られた弁当を温め直したものだ。
スーパーが値引きシールを貼り始める時間帯を、総一は熟知していた。夕方5時半から6時の間に、弁当売り場が値引きを始め、総菜は6時を過ぎると50%引きになる。総一はその時間に合わせて退社し、自転車を飛ばしてスーパーに駆け込む。今年に入ってから、その作業が一段と切実なものになっていた。物価の上昇は止まらなかった。
去年の秋から、スーパーの棚を見るたびに値段が上がっている。マヨネーズが180円から230円になり、食パン一斤が200円を超えた。総一が長年近所のスーパーで買ってきた半額弁当でさえ、400円近くするものが増えてきた。400円の半額は200円。以前は300円台の弁当が150円になっていたのに、その差額は50円。総一の頭の中では、その50円の差がじわじわと目を覚まさせていく。
総一には、節約が信念だった。それは生まれつきの性質ではない。むしろ、背負わされたものだった。総一の母は、総一が物心つく前から「無駄遣いは罪」と繰り返し、家計簿を毎日欠かさずつけていた。父は夜遅くまで働き、帰ってくるたびに疲れた顔で「金は増やすより減らさない方が大事だ」と言った。総一はその言葉を聞いて育った。」
学校では、総一はいつも古びた服を着ていた。母は新品の服を買う代わりに、親戚からもらった古着を縫い直して着せた。友達が新しいゲームを持ってくると、総一だけがそれを買ってもらえなかった。欲しいとは言えなかった。言えば母の顔が曇り、父の溜め息が聞こえてくるからだ。
大学に進学しても、それは変わらなかった。アルバイトで稼いだ金は、すべて学費と生活費に消えた。それでも総一は、初めて自分のために何かを買いたいと思った。それは書籍だった。古本屋で100円の文庫本を買うたび、胸が高鳴った。しかし、それはすぐに罪悪感に変わる。無駄遣いだ、と。
社会人になってから、総一は自分の収入をすべて管理するようになった。給料が入ると、まず積み立て口座に一定額を移す。残りは食費、光熱費、住居費に分ける。交際費という項目はなかった。同僚に飲みに誘われても、いつも「用事がある」と断った。断り続けるうちに、誘われなくなった。
30代の頃、総一は同僚に「お前、金をどうしてるんだ」と聞かれたことがある。「貯金してる」と答えると、相手は不思議そうな顔をした。総一はそれ以上説明しなかった。貯金が何か悪いことのように思われるのが、理解できなかった。ただ、自分の生き方は間違っていない、と信じていた。」
40代になると、総一は一人で静かに暮らすことに慣れていた。休みの日は図書館で過ごし、安い弁当を買って帰宅する。テレビは見ない。新聞は読まない。情報は必要最低限でいい。部屋は常に片付いていて、家具は最小限。それが総一の生活だった。
50代になると、物価の上昇が目につくようになった。食品の値段が少しずつ上がるたび、総一は節約の方法を調整した。安い店を探し、半額シールを狙うのはその頃からだ。それでも通帳の数字は増え続けた。総一はそれを自分の成果だと思った。人生で積み上げてきたものは、他に何もなかった。」
そして、61歳の冬。総一は葬式に参列するため、東京の斎場へ行った。亡くなったのは、かつて同じ職場で働いていた同僚の一人だった。名前は山田。総一と同年代で、定年まで勤め上げた男だ。久しぶりに見る斎場は、どこか古びていて、葬式に参列する人はまばらだった。
総一は受付に立ち、香典を差し出した。金額は3000円。相場より低いが、総一は迷った末にその金額を選んだ。無駄遣いはできない。それが総一の信念だった。
葬式は静かに進んだ。読経が流れ、参列者たちは焼香を済ませる。総一もその列に並び、焼香をした。しかし、そのとき総一の目に留まったのは、祭壇に飾られた遺影だった。山田は笑っていた。総一が知っている山田は、いつも同じ薄い笑みを浮かべていた。それは社会人としての冷たい笑みだった。しかし遺影の中の山田は、違う。総一は山田のその顔を見たことがなかった。」
焼香の後、総一は席に戻った。隣を見ると、山田の家族らしき人々が祭壇の近くに座っている。総一はその姿を見て、ふと自分を考えた。もし自分が死んだら、誰が葬式に来てくれるだろうか。同僚はもういない。家族もいない。友人もいない。ただ、預金だけがある。それは通帳の中だけで輝く数字だ。
葬式の後、総一は斎場の外に出た。冷たい風が吹いていた。空は一面の曇り空で、太陽は見えない。総一は立ち止まり、自分の手を見た。寒さで少し震えている。その手は、何のためにあるのか。数字を蓄えるためだけなのか。総一は初めて、自分の人生の意味を考えた。」
家に帰ると、いつものように電気を点けた。しかし、その日は照明が暗く感じられた。総一は電球を交換するために、倉庫から新しい電球を取り出した。少し迷ったが、ワット数の高いものに変えた。部屋が明るくなった。総一は思わず目を細める。その明るさが、今まで自分が逃げていたもののように感じられた。」
その夜、総一は布団に入ってからも眠れなかった。天井を見つめながら、亡くなった同僚の顔を思い出す。山田は、本当はどんな人生を送っていたのだろう。そして、自分はどうなのか。
翌朝、総一はいつもより早く目が覚めた。今日は休日だった。スーパーに行く必要はない。総一は久しぶりに散歩に出かけた。公園を歩きながら、木々の寒さに耐える姿を見た。それは総一自身の姿のように感じられた。
散歩から帰ると、総一は机に向かった。通帳を開き、数字を確認する。それは正確に増え続けていた。しかし、その数字は何も語らない。総一は通帳を閉じ、しばらく考え込んだ。
何かが足りない。何かを間違えてきた気がする。しかし、何をどう変えればいいのか、総一にはわからない。61年間、節約だけを信念に生きてきた。それ以外の生き方を、知らないのだ。
総一は立ち上がり、電話をかけた。相手は、かつて同じ職場で働いていた同僚の一人だった。名前は田中。山田とは違う、気軽に話せる相手だった。
「もしもし、田中さん。塚本だけど」
「おお、塚本か。久しぶりだな。どうした、急に」
「いや、ちょっと話したいことがあってな」
総一は田中と会う約束をした。数日後、駅前の喫茶店で会うことになった。総一が他人と会う約束をしたのは、何年ぶりだろう。
その日、総一は喫茶店に行く前に、久しぶりに服を買った。古着屋で、安いシャツを一枚。それでも、総一にとっては大きな変化だった。
喫茶店に着くと、田中はすでに待っていた。田中の顔は、以前と変わらず穏やかだった。総一はコーヒーを注文した。それは節約を考えれば贅沢な選択だったが、総一は注文した。
「山田の葬式、行ってきたんだ」
「ああ、そうだったのか。俺は行けなかったんだ」
「そうか」
「でも、山田も寂しかっただろうな。家族はいたけど、仲は良くなかったって聞いたよ」
総一は黙っていた。田中は続けた。
「俺たちも、もうそんな年だよ。自分の人生がどれだけ人の心に触れてきたか、考えるべきだな」
その言葉は、総一の心に深く響いた。自分は、人の心に触れてきただろうか。触れるために、何かを与えたことがあるだろうか。
総一は家に帰り、通帳を見た。数字は変わらない。しかし、総一はその数字の意味が変わり始めたことに気づいた。
明日から、何かを変えよう。総一はそう思った。しかし、何をどう変えればいいのか。その答えは、まだわからない。
総一は小さなノートを取り出し、ペンを握った。何か書こうとして、手が止まる。何も書けない。何を書けばいいのか、わからない。
それでも、総一はノートを閉じなかった。



