「クソ書きの消毒よ。感謝してよね。」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になった。周りの音が遠くに消えていく感覚。目の前には、息子の頭からビールをかけた男の人が立っている。いや、違う。彼は確かにお母さんを呼んだ。でも私には息子しか見えなかった。息子の小さな肩が震えていて、シャツからビールの匂いが立ち上っていた。
私は夫と息子の3人で、自治体主催の家族パーティーに参加していた。年に一度の公民館でのイベントで、息子はこの日をずっと楽しみにしていた。最近、夫は仕事が忙しくて家族で過ごす時間が少なかった。だから、今日こそゆっくりしようと思っていたのに。
夫のスマホが鳴ったのは、料理が運ばれてきた直後だった。会社からの電話らしく、彼は「先に楽しんでてくれ」と言って小走りで外に出ていった。息子は少し不満そうだったけど、好きな食べ物が並んでいるのを見てすぐに機嫌を直した。私はその姿を見て安心して、息子と一緒に食事を楽しんでいた。
その時だった。
「あれ? なんでこんな所にいるの?」
聞き覚えのある声に、私は嫌な予感がした。振り返ると、同じ幼稚園に息子を通わせているほのかさんが、ニヤニヤしながらビールのグラスを片手に近づいてくる。彼女は夫がヤクザの若頭ということで、いつも周りを見下すように振る舞っていた。私は正直、彼女が苦手だった。でも、面と向かってトラブルを起こすのは避けたかった。
「こんにちは。今日は家族で来てるんですね」
私は作り笑いを浮かべてそう言った。でも、ほのかさんは私の態度が気に入らなかったらしい。
「あんた、私に敬語使わなくていいわよ。どうせ私より歳下でしょ。」
そう言って、彼女は私の息子を見下ろした。
「この子、あなたの息子? なんか、あなたにそっくりね。貧乏臭い顔が。」
息子には聞こえていないと思った。でも、その瞬間、息子は目を大きく見開いていた。彼女の言葉が届いていたんだ。
「おばさん?」
息子の小さな声に、ほのかさんは笑った。
「あら、あなたのお母さんはあんたよ。おばさんじゃないのよ。でも、そうね、あんたはお母さんに似て、貧乏臭いわね。」
私は唇を噛んだ。でも、それ以上に何か言うとややこしくなる。私は息子の手を引いて、席に戻ろうとした。でも、ほのかさんはそれを許さなかった。
「ちょっと、話はまだよ。」
彼女は私の腕を掴んだ。そして、何を考えたのか、自分のビールのグラスを息子の頭からゆっくりと傾けた。
「この子、あなたに似て、目がウザいんだよね。」
ビールの液体が、息子の頭からシャツに染み込んでいく。息子は泣きもせず、ただ固まっていた。私は叫ぶこともできなかった。
「なんで…どうして…」
やっと出た声は、かすれていた。ほのかさんは依然として笑っている。
「あら、なんだか気分が悪くなっちゃった。私、帰るわ。」
彼女はそう言って、振り返りもせずに立ち去ろうとした。私は息子を抱きしめて、何度も「ごめんね」と謝った。息子は「大丈夫」と言ってくれたけど、その目は少し悲しそうだった。
夫が戻ってきたのは、それから10分後のことだった。息子が泣いているのを見て、彼は何があったのかと聞いてきた。私は正直に話した。すると、夫は驚くほど冷静に言った。
「ちょっと、彼女に話をしたほうがいいよ。調停はできないけど、せめて謝罪してもらおう。」
私は最初、それで丸く収まると思ったんだ。ほのかさんが謝ってくれたら、それで終わりにしようって。でも、それが大きな間違いだった。
次の日、夫がほのかさんの家に行って話をしてきた。ところが、彼女は「あの子が自分からぶつかってきた」と言い張って、謝るどころか逆ギレしたらしい。挙句の果てに、「幼保連携型認定こども園に言うからね」と脅してきたそうだ。
私はどうしていいのか分からなかった。息子は学校には行けていたけど、昼寝の時間になるとビールの匂いを思い出すのか、震えることがあった。ほのかさんはそれを知ってか知らずか、幼稚園でも毎日、私に嫌がらせをしてくるようになった。
「今日も貧乏臭いわね。そんな服着てくるなんて、恥ずかしくないの?」
そんなことが、毎日続いた。私は財布のことで頭がいっぱいだった。夫も仕事で疲れていて、話を聞いてもらえなかった。息子のためにも、それ以上大きなことを起こしたくなかった。
あの日、私は一人で公園で息子を見守っていた。そこに、ほのかさんが現れた。
「あら、お前も来てたの。」
彼女は私の隣に立って、息子のほうを見た。そして、突然こう言ったんだ。
「俺の息子が、あんたの息子に何かされたら困るんだよ。」
私は彼女の言葉の意味が分からなかった。すると、ほのかさんは続けた。
「まあ、お前の息子は貧乏臭いから、うちの息子と遊ばせたくないって言ってんだよ。」
その時、息子がブランコから降りて、私のところに走ってきた。
「ママ、カキ氷食べたい。」
息子はほのかさんの存在に気づいていなくて、無邪気に言った。私はほのかさんから目をそらして、息子に「いいよ」と答えた。それから息子の手を引いて、売店に行こうとした。
ところが、ほのかさんが私の腕を掴んだ。
「待ちなさいよ。話はまだ終わってない。」
私は振り返った。そして、初めてちゃんと彼女の顔を見た。
「一体、何がしたいんですか?」
私の声に怒りが混じっているのを感じた。ほのかさんは一瞬、驚いたようだったけど、すぐにまた笑った。
「何がしたいって、あんたに思い知らせてやりたいんだよ。自分がどれだけ可愛いか分からないからね。」
「どういう意味ですか?」
「この前のパーティーのことよ。あんた、私にビールをかけたでしょ? 私の評判を落とそうとしてるんでしょ?」
私は言葉を失った。彼女は逆に私を加害者に仕立て上げようとしているんだ。
「そんなこと…してないです。あなたは子どもにビールをかけたんですよ。」
「あんたの息子が私にぶつかってきたんだよ。だから、ビールが零れたんだ。愛想笑いはやめなさいよ。」
もう駄目だ。この人と話しても平行線だ。私は息子の手を強く握って、その場から離れようとした。
「逃げるの?」
ほのかさんの声が後ろから聞こえた。でも、私はそれ以上関わりたくなかった。
それから一週間後、突然、幼稚園から連絡が来た。
「お母さん、少しお話があります。」
私は園長先生の前で、事情を説明した。すると、園長先生は困った顔で言った。
「ほのかさんから、お宅の息子さんがうちの園児をいじめているという報告が届いています。」
私はまた頭が真っ白になった。
「息子が…何ですって?」
「ええ、具体的には、お宅の息子さんがほのかさんのお子さんに、絵本で頭を叩いたとか…」
「そんなことはありません!」
私は思わず声を上げた。でも、園長先生は冷静な口調で言った。
「お気持ちは分かりますが、複数の園児が目撃していると言います。」
私は家に帰って、夫に話した。夫は「どうすればいいんだ」と頭を抱えた。私たちは弁護士に相談することにした。
弁護士の先生は、私たちの話を聞いて、こう言った。
「それは、立派な名誉毀損ですね。相手に慰謝料を請求できますよ。」
私は少し迷った。警察沙汰にすると、ほのかさんの夫はヤクザだ。それでも、もう我慢したくなかった。
「お願いします。」
私は夫と一緒に、正式に訴えることを決めた。
数週間後、私たちの元に一通の手紙が届いた。ほのかさんからの謝罪文だった。彼女は、私の息子が彼女の息子をいじめたというのは嘘だったと認めていた。幼保連携型認定こども園での調停の結果、彼女が嘘をついていたことが明らかになったんだ。
手紙にはこう書いてあった。
「この度は、私の誤った行動であなたとあなたのご家族に多大なるご迷惑をおかけしました。深くお詫び申し上げます。」
私はその手紙を何度も読み返した。涙が止まらなかった。息子はようやく普通の生活に戻れた。ほのかさんはあの後、幼稚園に来なくなった。しかし、その話を聞いて、私はあることを思い出した。
そういえば、ほのかさんの夫はヤクザの若頭だって言っていたけど、調停の時に何も言ってこなかったな。どうしてだろう。
しばらくして、私は偶然、聞いてしまった。ほのかさんの夫は、実はもう年月と一緒にいなかったと。彼女は「旦那は海外にいる」と言っていたけど、本当は3年前に離婚していたらしい。
つまり、ほのかさんのあの強気な態度は、全部見せかけだったんだ。夫の地位は本当ではなかった。彼女はそれにすがって、みんなを見下していたんだ。
私は何か複雑な気持ちになった。腹立たしいけど、どこか哀れでもあった。息子は今、幼稚園でたくさんの友達と楽しそうに遊んでいる。夫も仕事が少し落ち着いて、家族と過ごす時間を増やしている。
あの日、ほのかさんにビールをかけられた時は、もう終わりだと思った。でも、今はこうして普通の生活を送れている。そして、私は学んだ。誰かを貶めることで、自分が上に立つことはできないと。
私たち家族は、今年の家族パーティーにも参加するつもりだ。その時は、ほのかさんはいないだろうけど。



