「やっぱり中卒でパートなんかしてる人間はダメね。」
私は歯を食いしばって耐えた。隣に6歳の名雪がいてくれなければ、大きな声で言い返していただろう。親をなくしたこの子を見捨てておいて、この子のいいところを何も知らないくせに。
私が何も言わないのをいいことに、バリーは言葉の暴力を浴びせ続けた。
「かわいそうな子ね。普通に生まれてくればよかったのに。」
その言葉で、私の怒りは限界を超えた。
「今、何と言いましたか?『普通』ってどういう意味ですか?」
腕の中で震える名雪を抱きしめ、私は誓った。この子を傷つける人間は絶対に許さない。何があっても、私はこの子を守り抜く。
私の名前はさやか。45歳。独身。数年前に両親を見送り、実家で一人暮らしをしている。今でこそ健康だが、子供の頃は入退院を繰り返していた。高校卒業を目前にした頃、長期入院したため、最終学歴は中卒だ。その後、父の紹介で地元の印刷会社にパートとして働き始め、今に至る。
若い頃は結婚に焦った時期もあったが、今は気楽で自由な一人暮らしが気に入っている。弟の家族が頻繁に遊びに来てくれるので、寂しくはない。弟の嫁のくるみさんとは、本当の姉妹のような関係で、とても仲がいい。
名雪は6歳。笑顔のかわいい、素直な子だ。発達の特性があり、小学校の支援級に在籍している。人と話すのが苦手だったり、こだわりが強かったりするが、私は気にしたことがない。本が大好きで、興味を持ったことは時間を忘れて調べる、一生懸命な子だ。
「また近いうちに遊びにおいでね。」
いつものようにそう言って、弟家族を見送った。その2週間後、弟夫婦が交通事故で亡くなった。
病院から連絡を受けた時のことは、よく思い出せない。気がつくと、私は泣き崩れていた。
弟はまだ42歳。くるみさんは36歳だった。あまりにも突然の別れだった。
葬儀の日、私は斎場に並んだ二人の写真を見つめ、呆然としていた。もう、帰ってこない。残されたのは、6歳の名雪だけだ。
名雪は葬儀の間、ほとんど言葉を発しなかった。ただ、小さな体を震わせ、私の袖を握りしめていた。
誰が名雪を引き取るのか。私は真っ先に考えた。すぐに親戚に連絡を取ったが、みんな言葉を濁すばかりだった。「うちは無理だ」「一人で育てるのは大変だろう」……。
私は、くるみさんの両親に会いに行った。名雪の祖父母だ。
「くるみさんのお母さん。名雪のことは、私が引き取ります。」
そう言った私を、くるみさんの母は軽蔑したような顔で見た。
「何を言ってるの?え?あなたが名雪を引き取って育ててくださるんですか?まさか、そんなわけないでしょ。」
「どうしてですか?」
私は耳を疑った。
「だって、あんた、中卒でパートでしょ?子供一人をまともに育てられるわけないでしょ。それに、あんたは『普通』じゃない。名雪も『普通』じゃない。そんな人に、この子は育てられない。」
くるみさんの母は、そう続けた。私は怒りで体が震えた。だが、名雪の前では感情を抑えなければならなかった。
「私は全力で名雪を守ります。学歴も、仕事も、関係ないはずです。名雪が幸せに暮らせる場所を作ります。」
「あんたに何ができるの?障害のある子を抱えて、働きながら育てるなんて無理に決まってるでしょ。」
くるみさんの父も、厳しい口調で言った。
「私たちが名雪を引き取ります。何とか育てます。」
私は反論した。しかし、くるみさんの家族は譲らなかった。
「法律上、あんたには権利がない。私たちが親権を取る。」
このままでは、名雪は彼らに奪われる。私はどうすればいい?私は二人の祖母に、名雪を育てるための計画を必死に説明した。仕事はパートだが、貯金はある。実家も資産もある。だが、祖母たちには「苗字が違う」「血の繋がりが薄い」という理由で聞く耳を持たなかった。
私は法律相談に行った。すると、弁護士は言った。
「親権は通常、血の繋がりのある祖父母が有利です。ですが、あなたの場合は、親権を獲得するために裁判を起こすことができます。子供の最善の利益を主張し、しっかりとした養育環境を証明できれば、可能性はあります。」
これは戦いだ。私は決意した。名雪のために、何があっても戦おう。
その夜、名雪は私の布団に入り、小さな声で言った。
「さやかおばちゃん、僕、一緒にいたいよ。」
私は名雪を強く抱きしめた。
「大丈夫。おばちゃんは、絶対に名雪を守るから。」
次の日、私は仕事を早退し、区役所で書類を集め、弁護士の指示に従って準備を始めた。司法書士にも相談し、養育計画書を作成した。パートのシフトを増やし、貯金をさらに増やした。有給休暇も使い、面接や調停に臨む時間を確保した。
しかし、事態は思わぬ方向へ動いた。くるみさんの両親が、私と名雪の前に現れたのだ。
「名雪、一緒に帰ろう。おじいちゃんとおばあちゃんの家で、一緒に暮らそう。」
くるみさんの母は、名雪の手を取ろうとした。
名雪は、私の後ろに隠れて、首を振った。
「いやだ……さやかおばちゃんがいい。」
その瞬間、くるみさんの母の顔色が変わった。
「あんた、名雪を洗脳してるの?ひどい人ね。」
そんな言い方はない。私は名雪を守りたいだけなのに。
私は名雪を抱き上げ、家に連れ帰った。そして、弁護士に電話をした。
「もうダメです。向こうは強硬手段に出ています。どうすればいいですか?」
弁護士は冷静に言った。
「彼らに違法性があるわけではありません。ただ、あなたが親権を得るためには、裁判所にあなたの環境の素晴らしさを証明する必要があります。これまでに準備した書類では、不十分かもしれません。実際にあなたが名雪の面倒をしっかり見ているという実績が、もっと必要です。」
私は、さらに資料を集めることにした。仕事を休み、名雪の学校や療育施設の先生から推薦の手紙をもらった。近所の人にも協力を仰ぎ、私が名雪のために時間を費やしていることを証明できるようにした。
そんなある日、弟の葬儀から半年が経とうとしていた。私は、名雪を連れて、弟夫婦の墓参りをした。
「どうしてパパとママは、僕を置いていったの?」
名雪がぽつりと言った。私は何と答えればいいのか分からなかった。
「……パパとママは、名雪のことをずっと愛してたよ。今も、お空の上から見守っているよ。」
そう言うのが精一杯だった。
それから数日後、くるみさんの母から電話がかかってきた。
「あんたに一度会いたい。話がある。」
指定されたのは、喫茶店だった。私は名雪を学校に預け、その店へ向かった。
向かいの席に座ったくるみさんの母は、以前より穏やかな表情をしていた。
「……あんたの努力は、よく分かってきたよ。名雪も嬉しそうだ。だが、私はあんたを信用できない。あんたは『普通』の人間じゃないだろう。」
また、その言葉だ。
「『普通』って何ですか?」
「あんたは、独身で、中卒で、パートでしょ。名雪に、将来困らないようにちゃんとした教育を受けさせる余裕があるとは思えない。」
私は、机の下で拳を握りしめた。
「私は、名雪が一番幸せになる道を選びます。学歴や仕事がどうだと言うんですか。私は名雪を愛しています。それだけで十分じゃないですか?」
「愛だけでは飯は食えないだろう。」
くるみさんの母は、嘲るように笑った。
私は、持参した養育計画書と、推薦の手紙を見せた。
「これは、私が名雪を育てる準備ができている証拠です。私は働きながらでも、名雪に安定した生活を与えられます。貯金もあります。」
くるみさんの母は、書類を一瞥しただけだった。
「こんなもの、何の意味もないよ。法廷では、血の繋がりのある私たちが有利だ。どうしてもと言うなら、裁判で決着をつけよう。」
私は、深呼吸をした。
「いいです。裁判しましょう。私は絶対に名雪を手放しません。」
その場で、対立は決定的になった。
数週間後、家庭裁判所に調停の申し立てがあった。私は弁護士と一緒に、すべての準備を整えた。調停当日、私は緊張しながら、法廷の扉をくぐった。
調停人は、まず私とくるみさんの両親の話を聞いた。私は、名雪との生活をどうしていきたいかを、涙をこらえながら語った。名雪が夕飯を食べている時の笑顔、寝る前に本を読んであげる習慣、療育の先生と連携しながら学校生活を支えていること……。
くるみさんの両親は、「私たちが名雪に安定した環境を与えられる」と主張した。
調停人は、最後に名雪の希望を聞いた。
名雪は、小さな声で言った。
「さやかおばちゃんと、一緒にいたい。」
その言葉で、調停人は大きくうなずいた。
「今回の調停では、お子さんの意思を尊重します。親権者は、さやかさんとします。」
私は、涙があふれ出た。くるみさんの両親は、無表情のままだったが、何も言えなかった。
その日の夜、私は名雪に、調停の結果を伝えた。
「名雪、これからもずっと、一緒にいるよ。」
名雪は、目を輝かせて、うなずいた。
「うん!おばちゃん、大好き!」
私は、名雪を抱きしめた。その腕の中で、ようやく安心できた。
あの日、バリーの言葉を聞いた時から、私はずっと戦ってきた。私は、中卒でパートかもしれない。それは認める。だが、名雪を愛する気持ちは、誰にも負けない。
私は、もう「普通」であることを気にしない。名雪と一緒に、私たちだけの「普通」を作っていけばいい。
翌朝、私は新しい仕事の面接に行く準備をした。パートから正社員への道を探すことにしたのだ。名雪をしっかり育てるために、もっと安定した収入が必要だった。
玄関で靴を履く名雪に、私は言った。
「行ってくるね。学校でいい子にしてるんだよ。」
「うん!おばちゃんも、頑張ってね!」
名雪が笑顔で手を振る。私はその姿を見て、胸が熱くなった。
私は手を振り返し、これから歩んでいく道を、力強く踏み出した。
「さあ、新しい一日が始まる。」
そう呟いて、私はドアを開けた。



