朝の7時、六本木のビル45階。俺は社長室のデスクで、3つのモニターを同時に眺めていた。左がアジア市場の動向。中央がヨーロッパの株価。右が自社の経営指標。
ノックの音がして、秘書の美里奈が入ってきた。
「おはようございます、社長。本日のスケジュールをお持ちしました」
「ありがとう。9時の役員会、議題の4番目を後ろに回してくれ。先に資金調達の話を片付けたい」
「承知しました。あと、お父様から2度ほどお電話がありました」
俺は一瞬、画面から目を離した。親父からの電話は珍しい。
「親父か。後でかけ直す」
「お父様、少しお声が枯れていらっしゃるようでした」
美里奈はそれだけ言って、静かに部屋を出ていった。
俺の名前は太田聡。42歳、独身。東京大学医学部を卒業し、医師免許を持っているが、白衣を着たことは数えるほどしかない。在学中に立ち上げたITベンチャーが当たり、今ではグループ会社を束ねる経営者になっている。世間では「IQ180」だの「令和の天才」だのと呼ばれているが、本人にしてみればただの数字遊びだ。頭の回転が早いというだけで、人間として優れているわけではない。それは俺が誰よりもよく知っている。
特に女性に対しては、小学生の頃から苦手意識がある。理由は単純で、論理が通じない場面が多すぎるからだ。いや、正確に言えば、論理ではなく感情で動く場面に俺がついていけない。それで何度か痛い目を見て、そのまま現在に至る。42にもなって情けない話だが、こればかりはどうにもならなかった。
9時きっかりに役員会が始まった。テーブルを囲んで12人の幹部が並んでいる。正面に座る男が口を開いた。会社のナンバー2、佐藤修。45歳。俺の右腕であり、多分唯一俺を本当に理解している人間だ。
「議題に入る前に、社長、1つよろしいですか」
「なんだ?」
「先日お話しした地方の医療法人への投資の件です。先方から正式に打診がありました」
俺はペンを置いた。医療法人。親父が電話をかけてきた件と繋がっているような気がした。
「母体は東北の中核都市、人口30万の総合病院ですが、経営が傾いていまして。再建を支援してくれるパートナーを探しています」
「……ええ、まあ、視察ということで」
俺は相手の話を聞きながら、違和感を覚えた。この医療法人の名前、どこかで聞いた覚えがある。だが、すぐには思い出せない。
会議が終わった後、俺は佐藤を呼び止めた。
「あの医療法人、詳しい資料をくれ」
「わかりました。ただ、社長、1つ気になることが」
「何だ?」
「先方の理事長が、あなたのことを知っているようでした。あなたの名前を出した瞬間、表情が変わりました」
俺は眉をひそめた。知り合いの可能性はある。だが、それが誰なのか、すぐには思い浮かばない。
その夜、俺は久しぶりに実家に電話をかけた。親父の声は、確かにいつもよりかすれていた。
「聡か。元気か」
「ああ。で、何の用だ。2回も電話してきたんだろ」
「……実はな、母さんが倒れた」
「何? 今どうなってる?」
「命に別状はないんだが、入院してな。それで、病院の話なんだ」
親父の話によると、母が入院したのは、まさにあの医療法人が運営する総合病院だった。しかも、親父はその病院のことを知っていると言う。幼い頃、俺がぜんそくで何度も通った病院だった。
「なんでまたその病院に?」
「いや、それが……。昔の主治医が今、理事長をやってるらしいんだ。その人が、お前に会いたいって言ってるんだ」
「会いたい? 誰に?」
「お前に。投資の話とは別に、どうしても会って話がしたいって」
俺は受話器を握りしめた。昔の主治医。名前は思い出せないが、確かに記憶の中に、優しい声の医者がいた。毎回、俺の呼吸を聞きながら、丁寧に説明してくれた。
「……わかった。週末、病院に行くよ」
「頼む。母さんも喜ぶ」
その週末、俺は東北の病院へ向かう新幹線に乗った。窓の外には、雪をかぶった山々が広がっている。ビジネスとは無縁の、静かな景色。だが、俺の心は落ち着かなかった。
病院に着くと、受付で名前を伝えた。しばらくして、一人の女性が現れた。歳は50代後半だろうか。白い髪をきれいにまとめ、穏やかな笑みを浮かべている。
「太田聡さんですね。お会いできて光栄です。私は理事長の佐伯と申します」
「こちらこそ。母がお世話になっています」
「いいえ、こちらこそ。あの、お父様から伺いましたが、聡さんは昔、ここで診ていただいたそうですね」
「ええ、まあ。ぜんそくで」
「あの頃の先生は、私の父なんです」
俺は驚いて、彼女の顔をもう一度見た。確かに、どこか見覚えのある雰囲気だった。
「父は今、隠居していますが、聡さんのことはよく覚えていますよ。あなたが来るのをずっと楽しみにしていました」
佐伯理事長に案内されて、俺は病院の中を見学した。建物は古いが、清潔で、職員の態度も丁寧だ。だが、経営状態は確かに厳しいらしい。空き病室が目立ち、最新の医療機器も入っていない。
「正直にお話ししますと、この病院はこのままでは持ちこたえられません」
佐伯理事長は率直に語った。だが、その目は力強かった。
「私はこの病院を守りたい。地域の医療を守りたい。そのために、あなたの力を貸してほしい」
「でも、投資の条件は厳しい。経営権を譲っていただかないと、うちとしては動けない」
「……それは、承知しています。ただ、どうか、地域の人たちのために考えていただけませんか」
俺はその言葉を聞いて、考え込んだ。純粋な善意だけでは経営は成り立たない。だが、彼女の誠実さは本物だと感じた。
そして、その夜、俺は父から衝撃の事実を聞かされることになる。
「聡。本当はな、母さんが倒れたのは、別の理由があるんだ」
「別の理由?」
「母さんは、この病院のことを知ってたんだ。かつて、ここで医療ミスがあった。患者が亡くなった。その患者っていうのが、母さんの昔の友人でな」
「……そんな話、初めて聞いた」
「母さんはそのことを知って、ショックを受けて倒れたんだ。亡くなったのは、もう20年以上前のことだが、母さんは今もそのことを引きずっている」
俺は言葉を失った。医療ミス。患者の死亡。それが、今、投資を考えている病院で起きていた。しかも、母の友人が被害者だった。
「その患者っていうのは、どんな人なんだ?」
「名前は……竹内っていう女性だった。若い頃、母さんと同じ看護学校に通っていたらしい」
竹内。その名前には、覚えがなかった。だが、俺は調べることにした。この病院の過去に、何があったのか。
翌日、俺は佐藤に命じて、あの病院の過去の医療事故について調べさせた。すると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。
当時の院長は、佐伯理事長の父、つまり俺のかつての主治医だった。そして、竹内さんが亡くなったのは、彼の手術中だった。
「手術中に何かあったのか?」
「記録が残っていません。当時のカルテも、手術記録も、一切が消失しています」
消えた記録。それはつまり、故意に隠された可能性が高い。
俺は病院に再び電話をし、佐伯理事長に直接会うことを求めた。だが、彼女は電話に出なかった。代わりに、秘書がこう伝えた。
「理事長はしばらく体調を崩しておりまして、会うことができません」
「……わかりました。また連絡します」
俺は受話器を置き、窓の外を見た。六本木の夜景が見える。ビジネスの世界では、こういう隠蔽はよくある。だが、今回はそういう問題ではなかった。自分の過去と、母の過去が繋がっている。しかも、そこで一人の患者が亡くなっている。
俺は母を見舞うため、再び病院へ向かうことにした。今度は、直接佐伯理事長に会うつもりだった。
病院に着くと、まず母の病室へ行った。母はベッドに横たわっていたが、意識はしっかりしている。
「聡、よく来てくれたね」
「母さん、体調はどうだ?」
「もう大丈夫よ。ただ、ちょっとびっくりしちゃってね」
「……竹内さんのことか?」
母は一瞬、表情を固くした。それから、ゆっくりと話し始めた。
「竹内さんとは、看護学校で一緒だったんだ。夢があって、明るくて、いつも仲間を引っ張っていくような人だった」
「それで、どうして亡くなったんだ?」
「手術中に容体が急変して……。術式が問題だったって噂になったけど、真実は誰も知らない。病院は事故ではなく、持病の悪化だって発表したわ」
「……嘘かどうかは、わからないってことか」
「そうなの。でも、私は納得できなかった。竹内さんは決して持病みたいなもので死ぬような人じゃなかったから」
母の話を聞いて、俺の疑念は確信に変わりつつあった。あの病院は、何かを隠している。そして、今、経営難に陥っている。もしかしたら、それは過去の罪の代償なのかもしれない。
俺は病院の院長室へ向かった。佐伯理事長はそこにいるはずだった。ドアをノックし、返事を待った。
「どうぞ」
中に入ると、佐伯理事長がデスクに座っていた。疲れた表情だったが、目はしっかりと俺を見ていた。
「太田さん。またお会いしましたね」
「ええ。率直に聞きます。竹内さんという患者さんのことです。あの手術で何があったんですか?」
佐伯理事長は、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「……あの日のことを、私は今でも覚えています。父は、あの手術を失敗したと思っていました。術式に問題があった。それが原因で、竹内さんは亡くなった。父は、それを認める勇気がなかった。そして、事故を隠してしまった」
「それが、記録が消えていた理由か」
「はい。父は、すべてを揉み消すよう指示しました。私も、その指示に従いました。この病院を守るためだと信じていたんです」
「……あなたも、共犯者ってわけか」
「……そうなります」
俺は深く息を吐いた。過去の罪。そして、現在の経営難。すべてが繋がった。
「では、この病院への投資の話ですが、白紙に戻します」
「……はい。それは、覚悟していました」
「ただし」
俺は彼女を見た。
「あなたと、あなたのお父さんが真相を公表するなら、投資を考えてもいい」
佐伯理事長は、俺の言葉を聞いて、しばらく考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。私がすべてを話します。父にも話します。この病院のため、地域のため……。いえ、過去の罪を償うためです」
それから数週間後、佐伯理事長は記者会見を開き、過去の医療事故を認め、謝罪した。父である元院長も、同じく公に謝罪した。
病院は、一度は大きな批判にさらされた。だが、その後、再建計画が公表され、地域の支援も集まるようになった。
俺は、投資の話を再開した。今度は、条件を変えて。経営権は譲ってもらうが、佐伯理事長には医療顧問として残ってもらうことにした。彼女は、病院を守るために誠実に謝罪した。その姿勢を、俺は信じることにした。
母は、ほどなくして退院した。病院を出るとき、母は俺にこう言った。
「聡。あなた、あの病院を救ってくれたのね」
「別に、救おうと思ったわけじゃない。ただ、公平でありたかっただけだ」
「それでいいのよ」
母は優しく笑った。
俺は今、もう一度、あの病院の理事長室にいる。佐伯理事長は、新しく再建された病院の館内を案内してくれている。
「新しい医療機器も入りましたし、職員も増えました」
「そうだな」
「太田さん。本当にありがとうございます」
「礼はいい。これからもよろしく頼む」
俺はそう言って、軽く手を挙げた。数字では測れないものが、ここにはある。それを、俺はようやく理解したような気がした。



