バーバ、開けて、助けて。
深夜の玄関のベルに飛び起きて、ドアを開けると、そこには雨でずぶ濡れになった11歳の孫の優が立っていた。パジャマ姿で、顔を真っ赤に蒸気させ、小刻みに震えている。何も言わずに抱き寄せると、体が熱い。タオルで拭きながら体温を測ると、39度の高熱。
「どうしたの? こんな時間に」
優は震える声で言った。「パパとママは海外旅行に行ってて、僕一人で家にいたんだけど、熱が出て怖くて」
その言葉に血の気が引いた。まさか、高熱の子どもを一人残して海外旅行? あまりの衝撃に声を失う。震える手で優の額を冷やしながら、何とか声を絞り出す。
「明日から一週間、ハワイなんだって。バーバには内緒で行くって言ってた」
その瞬間、私の中で何かがプツンと切れる音がした。42年間、区役所で真面目に働いてきた。息子夫婦のマイホームの頭金に800万円を渡し、孫の世話までしてきた私への報いがこれなのか?
優を抱きしめながら、私は心の中で静かに決意した。もう二度と、こんな理不尽は許さない。必ず、すぐに直してやる。
優を寝かしつけた後、私は一人リビングに座り込んだ。私は山本かよ、68歳。26歳で区役所に就職してから42年間、一度も休まず勤め上げ、定年後も嘱託職員として働いている。夫を10年前に失ってからは、息子の琢磨が心の支えだった。彼がまほさんを連れてきた時は、心から祝福した。
五年前、琢磨が「母さん、マイホームを建てたいんだけど」と切り出した時、私は迷わず退職金から800万円を渡した。「これで頭金にしなさい。あなたたちの幸せが私の幸せだから」
その家は、実は私が相続した土地に建てられた。夫の実家から受け継いだ都内の一等地で、今なら更地でも3500万円は下らない価値がある。でも、私は息子家族のために無償で提供した。名義は私のままだが、それは単なる手続き上の問題だと思っていた。
さらに、優が小学校に上がってからは、塾代として月8万円を3年間払い続けている。年金とパート収入をやりくりして、そのまま返してきた。
あの日、私は優を連れて、息子夫婦が帰国する日に玄関で待っていた。
「帰ってきたわね、楽しかった?」
まほさんは驚いた顔をして、「あら、お義母さん? どうしてここに」
私は優の手を握りしめ、静かに言った。「優が熱を出したの。あなたたちが留守の間、一人で」
琢磨が顔色を変えた。「え、優、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわ。39度の熱よ。私が看病したけど、もし私に連絡できなかったらどうなってたか」
まほさんは口を歪めて、吐き捨てるように言った。「だって、前から予約してた旅行だったし。優ももう11歳だし、大丈夫だと思ったのよ。それに、お義母さんが面倒見るでしょって思って」
その言葉に、何かが冷たく固まった。「あなたたち、私を何だと思ってるの? 最初から、私が面倒を見るつもりで行ったの?」
琢磨が間に入ろうとした。「母さん、まほの言い方もきついけど、悪気はなかったんだ」
「悪気がなくて、子どもを一人にするの?」
まほさんは肩をすくめた。「もういいでしょ。子どもは無事なんだし。それに、これからはあんまり口出ししないでもらえる? 私たちの子育てだから」
私は息をのんだ。「あなた」
「それに、あの家のこと。今は私たちが住んでるわけだし、名義を変えてくれないと、ちょっと面倒で」
私は自分の耳を疑った。土地を無償で提供しただけではなく、頭金まで出したのに、名義を変えろ?
「名義は私のものよ。でも、それは安心のためであって…」
「安心のため? お義母さん、そろそろ自分の老後のこと考えた方がいいんじゃない?」
まほさんは冷たく笑った。「もう年金ももらってるし、お義母さんがいなければ、優の塾代も浮くしね」
「塾代は私が払うって、約束したでしょ」
「でも、もう十分でしょ。これからは自分たちでやりますから。あんたはもう、私たちの生活に口出ししないでください。そういうの、ほんとにウザいから」
琢まほの後ろで、優が小さく震えていた。涙をこらえているのがわかった。私の手から力が抜けた。
「…わかった」
私は優の手を引いて、家に入った。リビングで優を抱きしめながら、私は心に決めた。もう、この家には頼らない。全部、自分で片をつける。
翌朝、私は郵便局に行き、通帳を開いた。残高を確認すると、老後資金として積み立ててきたものがある。私はそれを全部、息子夫婦の口座に振り込もうとは思わなかった。その代わり、ある弁護士の連絡先を調べた。
数日後、弁護士事務所で、私は書類をテーブルに並べた。土地の登記簿謄本、800万円の入金記録、塾代の振込明細。
「先生、この土地と、このお金、全部、今から取り返します」
弁護士は息をのんだ。「山本さん、これは…かなり長い戦いになりますよ。相手はご子息ご夫婦ですよね」
「ええ、でも、もう決めました。彼らには、私はもう使い物にならないから、捨てられたんです。でも、この土地は私のもの。それを取り戻すのは、私の権利です」
「わかりました。では、まず内容証明郵便を送りましょう」
その日、私は優に会いに行った。学校の門の前で待っていると、優が小さな花を一輪、私に差し出した。
「バーバ、これ、庭に咲いてたから」
「ありがとう、優」
私は優を抱きしめて、言った。「もう、怖い思いはさせないからね。バーバが、ちゃんとするから」
優は私の顔を見上げ、微笑んだ。「うん、バーバは強いもんね」
私は、これから始まる争いを思った。でも、子どもの純粋な目を見ると、怖くはなかった。私は間違ってない。この悪夢を終わらせるのは、私の責任だ。
内容証明が届いてから、一週間後、琢磨から電話がかかってきた。
「母さん、何考えてるんだよ。あの土地は僕たちの家なんだぞ」
「あの土地は、私のものよ。あなたたちに渡したのは、頭金だけ。それだって、無理して出したお金よ」
「でも、母さん…」
「琢磨、あなたは私の息子よ。でも、あなたはまほさんの言いなりになって、私をないがしろにした。私はもう、あなたを信じない」
電話の向こうで、まほさんの声がした。「あのババア、どうせ死んだら持ってくもんもないくせに」
私は背筋を伸ばした。「それがあなたの本心あなたね、まほさん。では、弁護士を通して話しましょう」
そして、電話を切った。
家の鍵を全て変え、荷物をまとめる準備をした。私は、この家を出ていくつもりはない。もしも彼らが強硬手段に出たら、私もその用意はできている。
優が時々、こっそり遊びに来る。そのたびに、私はお菓子を用意して、一緒にテレビを見る。優は言う。「バーバ、僕、バーバのとこが一番好き」
私はその言葉に救われる。でも、この戦いはまだ終わらない。私は、自分のものを取り戻すまで、絶対に諦めない。



