父は何も言わずに店を畳んだ。その理由をずっと知らずにいたんだ。昨日、俺の店に田所という男が予約を入れた。彼こそ、父を追い詰めた張本人だって知った時、手が震えた。父の遺したデミグラスソースには秘密がある。俺は今夜、それをその男の皿に盛り付けるつもりだ。父の背中を見て育った俺は、料理でしか復讐できない。田所の前で、俺は最後の一皿を出す前に、こう言った。「これは、私の父のレシピです。」彼の表情が凍…

父は何も言わずに店を畳んだ。その理由をずっと知らずにいたんだ。昨日、俺の店に田所という男が予約を入れた。彼こそ、父を追い詰めた張本人だって知った時、手が震えた。父の遺したデミグラスソースには秘密がある。俺は今夜、それをその男の皿に盛り付けるつもりだ。父の背中を見て育った俺は、料理でしか復讐できない。田所の前で、俺は最後の一皿を出す前に、こう言った。「これは、私の父のレシピです。」彼の表情が凍...

厨房に立つと鉄の匂いと油の匂いが混ざって鼻に届く。俺はソースの鍋をかき混ぜながら火加減を一段だけ落とした。俺の名前は悟、42歳。フレンチレストラン「ラルミエール」のオーナーシェフだ。かつて俺は料理人だった。海外の学会で名前を呼ばれ、若手の星と言われた時期もある。留学先の手術室では、嫉妬として何人もの命に触れた。その白衣を脱いだのは5年前のことだ。病院から呼び戻された日、父はすでに意識が薄れていた。俺は父の手を握ったが、最後の言葉を交わすには遅すぎた。俺の成功を誇りに思うと繰り返していたらしい。

俺は鍋の前で軽く息を吐いた。煮込みがようやく望んだ深さになった。味見をしようとスプーンを口に運ぶと、父の店の味が一瞬よぎる。ホールからコツコツと足音が近づいてきた。

「シェフ、明日のリストを最終確認しておきました。」

神やれ奈はソムリエ兼マネージャーだ。35歳で、知的で物静かで、誰にも見せない強さを持っている。俺がこの店を構えると決めた時、真っ先に来てくれた人間だった。

「ありがとう。今晩のワインはペアリングを少し変えていいか?」

「ええ、お任せします。田所様の好みも一応抑えてありますので。」

その名前を聞いて、俺は手を止めた。田所春雄。父の店を事実上閉じさせた男だ。胸の奥にまだ消えない怒りがある。幼い頃の俺にとって、父の厨房は世界の全てだった。昭和の終わりに開いた小さな洋食店。洋食はいつも客で賑わっていた。俺はカウンターの隅の丸椅子に座って、父の背中を眺めて育った。鉄のフライパンが揺れる音。玉ねぎを炒める焦げ茶色の香り。何時間も煮込まれたデミグラスソースが店中に重く漂う。父は無口だった。客には笑顔を見せたが、家ではほとんど口を開かない。ただ料理を出す時だけは目が違った。肉を切る音、皿に盛り付ける指先、全てに迷いがなかった。

その店がしまったのは、俺が大学生の時だった。ある日のことは奇妙なほどよく覚えている。父は朝いつもより早く起きて、店の前の道で嘔吐していた。俺が声をかけると、父は吐き気を抑えずに言った。

「悟、今日でここは閉める。驚かせて悪いな。」

「どうして急に?客は減ってなかっただろ?」

「お前には関係ない。俺の勝手だ。」

父は何も説明しなかった。店を畳んだ後の父は、まるで魂を抜かれたように静かだった。毎日、庭の植木をいじるだけ。料理をしようともしなかった。俺はその理由を尋ねたが、父はただ首を振るだけだった。卒業後、俺は病院で働きながら料理の勉強を続けた。食への情熱だけは消えなかった。そして、いつか自分の店を持ちたいと思った。

店を開く準備をしている時、俺は再び田所の名前を聞いた。田所は大手の外食チェーンの幹部で、地域の小さな店を次々と買収していた。父の店も、その策略にかかったらしい。父は借金を背負わせられ、店を手放さざるを得なかった。田所は父のレシピを手に入れるためだけに、あらゆる手段を使ったという。父は最後まで口を割らなかった。だから、借金だけが残った。

怒りと悔しさが混ざった感情が、俺の中で渦巻いた。でも、俺は知っていた。父は誰にも打ち明けなかったが、田所に対する憎しみを心にしまい込んでいた。そして、その憎しみは俺にも受け継がれていた。

田所が今日、この店に予約を入れている。神やれ奈の言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが固く締まった。明日のリストを見ると、確かに「田所春雄様、7時、お二人」と記されている。俺は歯を研ぐ準備を始めた。しゃっしゃっという石の上を走る細い水音が、厨房に響く。父がいつもそうしていたように。

俺の心拍数が上がる。父の無念を、今ここで晴らすことができるかもしれない。でも、どうやって?俺はシェフだ。料理でしか表現できない。父のデミグラスソースには、何か秘密がある。田所はそれを欲しがっていた。もしかしたら、俺のソースにその秘密を込めれば、田所は何かを感じるだろうか。いや、それだけでは足りない。俺は田所に、父が背負った苦しみを思い知らせたい。

夜、店が閉まった後、俺は父のノートを開いた。昔、父が使っていた料理のメモ帳だ。そこには、独特のレシピが書かれている。しかし、最後のページにはこう書かれていた。「このソースは、正しいタイミングと温度でなければ、決して完成しない。手を抜いたら、味が死ぬ。」父の言葉が、心に刺さる。俺は明日、田所に料理を出す。そして、そのソースに真実を込める。

前日の準備が終わった後、俺は神やれ奈に声をかけた。

「神やれ奈、明日の田所の料理、俺が直接出すことにしたい。」

彼女は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。

「わかりました。何か特別なことを?」

「ああ、父のレシピで、特別なディナーを用意する。田所に伝えてくれ。」

神やれ奈は何かを感じ取ったようだが、何も言わなかった。ただ、目だけが少し揺れた。

翌日、朝から俺は厨房に立った。野菜を刻む音、肉を叩く音。全てが丁寧で、一つ一つの動作に集中している。ソースの鍋からは、父の店と同じ香りが立ち上る。正しいタイミングと温度。手を抜かない。

夕方、予約の時間が近づいた。ホールには、田所の姿が現れた。白髪混じりの紺色のスーツ。見覚えのある低い声。俺は深呼吸をして、カウンター越しに田所を見つめた。

「お久しぶりです、田所さん。ラルミエールへようこそ。」

田所は笑顔で返した。

「噂は聞いている。若き天才シェフの店にな。」

俺は一礼して、調理を始めた。父が遺したデミグラスソースを、白い皿の上で広げていく。田所は一口、ソースを味わった。表情が微妙に変わった。何かを思い出した顔だ。俺はその瞬間、心の中で誓った。この料理で、父の痛みを伝える。しかし、田所は何も言わずに、次の皿を待っている。俺はまだ、最後の一皿を出していない。

Thumbnail