空港の入国審査を終えて、ふうっと息を吐いた瞬間だった。「おい、そこの女。止まれ」背後から警備員の声が飛んできた。私は何もしていない。ただの旅行者だ。なのに彼は私のスーツケースを勝手に開けて、服を掻き回しながら言った。「日本人か。何か隠してるな?」パスポートを返されても、その後ろで誰かと耳打きしている。私は急いでホテルへ逃げ込んだが、違和感が消えない。翌日、古書店で手に入れたあの書類のせいで、…

空港の入国審査を終えて、ふうっと息を吐いた瞬間だった。「おい、そこの女。止まれ」背後から警備員の声が飛んできた。私は何もしていない。ただの旅行者だ。なのに彼は私のスーツケースを勝手に開けて、服を掻き回しながら言った。「日本人か。何か隠してるな?」パスポートを返されても、その後ろで誰かと耳打きしている。私は急いでホテルへ逃げ込んだが、違和感が消えない。翌日、古書店で手に入れたあの書類のせいで、...

長いフライトを終えて、ようやく異国の地に降り立った。小さく息を吐くと、何時間も同じ姿勢でいた体は凝り固まっていたけれど、新しい空気を吸い込める喜びで心は軽くなる。周りを行き交う人々は皆、忙しそうだ。再会を喜ぶ家族、大きな荷物を抱えて足早にゲートへ向かうビジネスマン、期待に胸を膨らませた観光客。その誰もがそれぞれの物語を持っている。

私もまた、ひとつの大切な目的を持ってこの国を訪れていた。誰にも言えない秘密の任務。でも今はまだ、その緊張を心の奥にしまい込み、ごく普通の旅行者を装って入国審査の列に並んでいた。

私の番が来て、審査官にパスポートを渡すと、いくつかの簡単な質問に答え、にこやかに「ありがとうございます」と告げてようやく解放された。あと少しで出口だ。スーツケースのキャスターが軽やかな音を立てる。

その時だった。

「おい、そこの女。止まれ」

低く命令するような声が背後から飛んできて、私の足はその場に縫いつけられた。振り返ると、体格のいい男性警備員が腕を組んで立っていた。彼の視線は、まるで獲物を見定めるかのように、明らかに私だけを狙い定めていた。周りの人々は何事かと一瞬こちらを見るが、自分には関係ないとばかりにすぐ目をそらし、足早に通り過ぎていく。

どうして私だけ? 単純な疑問が頭に浮かんだ。私は何か怪しい行動をしたわけでも、目立つ格好をしていたわけでもない。強いて言うなら、この場にいる多くの欧米人とは違う、小柄なアジア人女性であることくらいだ。

警備員は私の前にゆっくりと歩み寄ると、上から下まで値踏みするように見た。その目には尊敬のかけらもなく、ただ面倒な仕事が増えたことへの苛立ちと、隠そうともしない軽蔑の色が浮かんでいた。

「パスポートを見せろ。それから、そのバッグも」

高圧的な態度に、私は心の中でかっ、と熱くなるのを感じたが、ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。静かに頷き、先ほど閉まったばかりのパスポートを再び取り出した。警備員はそれをひったくるように受け取ると、だらだらと雑にページをめくる。

「日本人か」

「ええ」

「観光で?」

「はい」

「どこに行くつもりだ」

「……市内のホテルです」

警備員は鼻で笑うと、私のスーツケースを足で軽く蹴った。

「中身はなんだ」

「服と、身の回りのものだけです」

「開けろ」

周りの視線が痛い。私はしゃがんでスーツケースを開けた。折りたたんだ服の下から、化粧ポーチや小さな本が見える。警備員はそれを睥睨するように見下ろすと、突然、手を伸ばして中を掻き回し始めた。服の下のほうまで、乱暴に。

「待って、それは」

「黙れ」

私は奥にしまってある、ひとつの小さな封筒に視線が釘付けになった。そこには、私がこの国に来た本当の目的が入っている。警備員の指が、その封筒に触れようとした瞬間、心臓が凍るような感覚が走った。

このまま見つかれば、すべてが終わる。

「……何か、問題でも?」

声が震えなかったのは、幸運だった。警備員はジロリと私を見る。時間が、とてつもなく長く感じられた。

「……」

彼は何かを探すように目を細めたが、やがて「チッ」と舌打ちをして手を引き、スーツケースの蓋を雑に閉めた。

「さっさと行け」

私は急いでスーツケースを閉めて立ち上がった。心臓はまだばくばく鳴っている。パスポートを返され、逃げるようにゲートをくぐった。

だが、出口へ向かう通路の途中で、私は足を止めた。

後ろを見ると、あの警備員が、まだ私のほうを見ている。彼は誰かと耳打ちをしているようだった。

私は振り返らずに、歩き続けた。ホテルへの道すがら、頭の中で考えを巡らせる。あの警備員はきっと、私がただの旅行者じゃないと何かを感じ取っていたのかもしれない。でも、もう引き返せない。

ホテルの部屋に着いて、ドアを閉めると、鍵をかけた。スーツケースから封筒を取り出し、中身を確認する。すべて無事だ。私は深く息を吐いて、窓の外に広がる見知らぬ街を見た。

これから、本当の仕事が始まる。

翌朝、私は下調べをしたとおりの場所へ向かった。それは青空市場の片隅にある、小さな古書店だった。店主は初老の男で、私を見ると一瞬、目を動かした。しかし、特に何も言わずに、棚から一冊の分厚い本を取り出した。表紙はぼろぼろで、読めない文字が刻まれている。

「あなたが、あれを探している人ですか」

私は黙って頷いた。店主は本をカウンターの上に置き、無言で店の奥を示した。私は本を受け取り、奥へ進んだ。そこには、倉庫のような部屋があった。古い書類や段ボール箱が積まれている。

「こっちです」

店主は一つの段ボールを開けた。中には古い写真や、封筒に入った書類が入っている。私は慎重にひとつひとつ目を通した。

「これだ」

私は手を止めた。その書類には、ある名前が記されていた。それは、私がこの国に来た目的を裏付けるものだった。

「これを持って、あとは黙って出て行きなさい」

店主はそう言って、私に書類を手渡した。私はそれをバッグにしまい、礼を言って店を出た。

外に出ると、明るい日光が目に染みた。しかし、すぐに違和感を覚えた。市場の向こう側に、昨日の警備員の姿が見えたのだ。二人の男と一緒にいる。彼らはこちらの方をじっと見ていた。

私は急いで路地に入った。だが、背後から足音が近づいてくる。

「そこの女、止まれ!」

警備員の声が響く。私は狭い路地を全力で走った。角を曲がり、荷車をひっくり返し、人ごみに紛れようとする。しかし、相手は追跡に慣れているのか、どんどん距離を詰めてくる。

「くそっ」

私は走りながら、携帯電話を取り出した。あらかじめ決めてあった緊急連絡先に、短いメッセージを送る。

『見つかった。場所を移動する』

するとすぐに返信がきた。

『地下鉄を使って、南の駅で待っている』

私は地下鉄の駅を目指して走り続けた。息は切れ、胸は締め付けられるように痛い。階段を駆け下り、ホームに飛び込む。電車がちょうど停まっていた。私はドアが閉まるギリギリで飛び乗った。

後ろで警備員がホームに駆け込んできたが、電車はもう動き始めていた。彼は悔しそうな顔で、拳を壁に叩きつけた。

私は座席に沈み込んだ。心臓はまだ早鐘を打っている。

「……危なかった」

電車が次の駅に着き、私は人混みに紛れて別の路線に乗り換えた。その後も何度も乗り換え、確認しながら、ようやく南の駅に着いた。改札を出ると、一人の女がベンチに座って新聞を読んでいた。私のことを待っている。

近づくと、女は顔を上げ、静かに言った。

「無事で何より。それじゃあ、これからは私の指示に従って」

私は頷いた。

「あなたの書類は、こちらで預かる」

そう言って、女は私のバッグから、例の書類を取り出した。少し躊躇ったが、私は指を離した。

「……わかりました」

「よくやった。ここから先は、別の人間が動く。あなたはもう、出番はない」

「私の任務は、これで終わったんですか?」

「ええ。あなたの役割は、ここまで」

女はそう言うと、書類をバッグにしまって立ち上がった。そして、無人の改札のほうへ歩いていく。

私はしばらく、その背中を見つめていた。

「……これで、終わりなのか」

私は、自分がやってきたことの意味を噛み締めた。危険な任務だった。しかし、やり遂げた。

空港に着いたとき、私はもう一度、あのゲートを見た。昨日の警備員はいなかった。あの事件も、もう過去のものだ。

私は小さく息を吐き、新しいゲートの前に立った。もう一つ深く息を吸い込む。

「さて、これからまた、元の生活に戻るか」

誰に言うでもなく、静かに呟いた。

新しい土地に足を踏み入れるときの、あの感覚。それは、何かが始まる予感と、何かが終わった安堵が混ざったものだった。私はスーツケースを引きずり、新しい空の下を歩いていく。

そして、次の任務のことはまだ決まっていないけれど、この物語はここで一区切りつく。

私は、また誰かのために動く日が来るまで、静かに準備を続けるだろう。

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