「あんた、その顔むかつくんだよ。表に出ろや。」
その言葉が飛び出した瞬間、店の中の空気が凍りついた。俺は井上高弘。不動産会社の社長だ。この街の小さなスナック「ブルーバード」に立ち寄って、ママが用意してくれた酒を一杯だけ飲んで帰るのが日課だった。
今日は特別なバーボンが手に入ったらしく、ママは嬉しそうにそれを差し出してくれた。だが、店に入った瞬間から違和感があった。カウンターの隅で騒いでいる三人組。どう見ても場違いな連中だった。
「ねえ、あの連中、さっきからエスカレートしてるわよ。多分、会計見てぶっ飛ぶわよ。」
ママが小声でそう言って、苦笑いを浮かべた。三人は二十代半ばといったところで、テネシーウィスキーを二本も開けている。しかも、その酒をまるで味わわずにがぶがぶと飲んでいる。
「おい、あんたら。その酒、一本いくらだと思ってるんだ?」
ママがついに耐えかねて口を開いた。だが、三人の一人が反論する。
「ぼったくりかよ。ここは安い店だって聞いたんだぜ。」
「酒以外にもいろいろ食べてるでしょ。チャージ料も込みでこの値段なんだからね。」
「ママ、やめとけよ。」
俺はカウンター越しにママを制した。だが、その瞬間、一人が立ち上がってこちらに向かってきた。
「てめえ、何見てんだよ。」
「見てねえよ。騒ぐなって言ってるだけだ。」
「うるせえな。この店の客だって言うなら、黙って飲んでろよ。」
「お前たちこそ、静かに飲めないなら出て行け。」
その一言で事態は悪化した。三人が一斉に立ち上がり、俺に掴みかかろうとしてきた。
「この野郎、ぶっ殺してやる。」
最初の一人がテーブルの上の灰皿を掴んで投げつけてきた。俺はそれを避け、そのままカウンターを飛び越えて三人の前に立った。
「命が惜しければ、ここでやめた方がいいぞ。」
俺はそう言って、次の瞬間には一番近くにいた男の足を踏みつけた。痛そうに腕をさすりながら立ち上がろうとする男を、今度は頭を踏みつけて押さえつけた。
「おい、やめろ!痛い!」
「静かにしろって言ったんだよ。」
残りの二人も怯んだ様子で、じりじりと後退した。だが、一人がポケットから何かを取り出そうとした。
「やめろ、そんなもん出したら大事になるぞ。」
その声は、店の奥から聞こえた。振り返ると、カウンターの影から一人の老紳士がゆっくりと立ち上がっていた。
「この店の客に手を出すのは、俺が許さん。」
老紳士はそう言って、ゆっくりと三人の前に立った。その目は、紛れもなくヤクザの目だった。
「あんたら、どうやらこの店のことを知らないようだな。」
「何だ、じじい。関係ねえだろ。」
「関係あるんだよ。この店は、俺の店だからな。」
その言葉に、三人の顔色が変わった。老紳士は懐からゆっくりと煙草を取り出し、火を点けた。
「この店に来る客は、皆俺の客だ。お前たちのように騒ぐ客は、二度と来なくていい。」
「ふざけんなよ。」
一人が掴みかかろうとしたが、その瞬間、老紳士の手が動き、相手の腕を逆手に取っていた。
「これ以上、俺を怒らせると、どうなるか分かってるだろうな。」
三人はようやく事の重大さに気づいたのか、金を置いて慌てて店を出て行った。
店の中には静寂が戻った。ママが安堵のため息をつきながら、カウンターに新しい酒を置いた。
「お疲れ様、高弘さん。あの人たち、どうやら土地のことを知らなかったみたいね。」
「ああ。だが、あの老紳士は誰なんだ?」
「ああ、あの人ね。この界隈の顔よ。昔はかなり怖い人だったけど、今はもう引退してるの。」
俺は老紳士に礼を言おうと目をやったが、彼はもうカウンターの隅で静かに酒を飲んでいた。
「おい、さっきはありがとう。助かったよ。」
「別に。店主として、店の平和は守らなきゃならんからな。」
老紳士はそう言って、微笑みながら酒を一口含んだ。俺も自分の酒を手に取り、その日の騒動を振り返りながら杯を傾けた。
それから数日後、俺はその老紳士と再び出会うことになる。だが、その時はまさか、俺の人生を大きく変えるような話を聞くことになるとは思ってもいなかった。
老紳士は俺に、こう言ったのだ。
「高弘さん、君に頼みたいことがあるんだ。」
「何でしょう?」
「実は、私の知り合いがアパートを売りたがっていてね。君に仲介を頼みたいんだ。」
「それはありがたいですが、なぜ俺なんですか?」
「君のことは調べてある。腕が良くて、信用できると聞いている。それに、あの日の対応を見て、君は信頼に足る男だと分かった。」
老紳士の言葉に、俺は少し驚いた。確かに、不動産会社を経営する者として、大口の仕事は悪くない話だ。だが、そのアパートというのが、どうやら相当に訳ありらしい。
「そのアパート、もう十年以上空き家になっているらしいんだ。」
「空き家ですか?それはまた、厄介ですね。」
「ああ。だが、君なら売却まで持っていけると思ってね。ただし、一つだけ条件がある。」
「条件?」
「そのアパートを見に行って、まず現状を確認してほしい。そして、そこで君が見たものについて、口外しないと約束してほしいんだ。」
俺はその言葉に、何か不穏なものを感じた。だが、ビジネスとして引き受けることにした。
「分かりました。引き受けましょう。」
「ありがとう。では、三日後にあの場所で待っている。」
そう言って老紳士は、アパートの住所が書かれたメモを俺に渡して立ち去った。
三日後、俺はそのアパートを訪れた。古びた建物で、確かに長年無人だったようだ。玄関の鍵を開けて中に入ると、ほこりとカビの匂いがした。
部屋の中は荒れ果てており、壁には何かを書いたような跡が残っていた。俺はそれに近づいて読み取ろうとしたが、文字はかすれていて判別できなかった。
すると、奥の部屋から突然物音がした。俺は警戒しながら音の方向へ歩いた。すると、そこには布にくるまれた何かがあった。
俺がその布をめくると、中からは古びた書類の束が現れた。それはどうやら、このアパートの賃貸契約書のようだったが、そこに記された名前は……。
俺は思わず息を飲んだ。それは、この街の名士である愛川家の名前だった。だが、愛川家は何年も前にこの土地から姿を消しているはずだった。
なぜ、彼らの契約書がここにあるんだ?
俺は老紳士に連絡を取ろうとしたが、彼の携帯電話にはつながらなかった。翌日、俺は老紳士の家を訪ねたが、彼はすでに亡くなっていたという。
老紳士の死は、心臓発作によるものだった。だが、俺はどうしても気になって仕方がなかった。あの契約書が何を意味するのか、そしてなぜ老紳士が俺にそれを見せたのか。
俺は独自に調査を始めた。すると、愛川家が姿を消したのは、このアパートで起きたある事件が原因らしいと分かった。それは、十年前にこのアパートで一人の女性が変死した事件だった。
女性は愛川家の娘で、自殺と処理されたが、実際は殺人だった可能性が高いという。そして、その事件には、この街の誰かが関与しているかもしれない。
俺はその事件の真相を追い求めることにした。だが、その過程で、俺の身に危険が及ぶことになる。
ある夜、俺のアパートの部屋のチャイムが鳴った。ドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。
「井上高弘さんですね。」
「何の用だ?」
「ちょっと、お話がしたいんです。あなたが最近、愛川家のことを調べていると聞いて。」
俺は警戒してドアを閉めようとしたが、男はすんでのところでそれを押し開けた。
「おい、何を……。」
「あなたの身の危険を感じて、警告に来たんです。愛川家のことから手を引いてください。そうしないと……。」
男はそう言って、背広の内側から何かを取り出そうとした。俺は反射的に一歩後退した。
「おい、やめろ!」
その時、廊下の向こうから別の声がした。
「高弘さん!」
振り返ると、ママが立っていた。彼女は男に向かって「この辺でやめておきなさいよ」と叫んだ。男はママを見て、何かを考えるように一瞬止まった。
「……。覚えておけよ。」
そう言って、男は背を向けて階段を下りていった。ママは息を切らしながら俺のところへ駆け寄った。
「大丈夫?高弘さん。」
「ああ、何とか。ママ、何でここに?」
「老紳士が亡くなる前に、あなたに何かあったら知らせるようにって、私に伝言を残していたのよ。それで、心配になって。」
「そうだったのか。ありがとう。」
「それに、老紳士から預かりものがあったのよ。」
ママはそう言って、一通の封筒を取り出した。封筒には「井上高弘様」と書かれていた。
「老紳士が、もしものことがあった時に渡すようにって。」
俺は封筒を開けた。中には、一枚の写真と手紙が入っていた。写真には、若い頃の老紳士と、見覚えのある一家が写っていた。
手紙には、こう書かれていた。
「高弘さんへ。この写真の家族を覚えていますか。彼らは愛川家です。私はかつて、彼らの家の執事をしていました。彼らが姿を消した理由は、私が知っています。それは、私のせいでもあります。あなたに真実を知ってもらうことが、私の最後の務めだと思っています。封筒の中の写真の裏に、情報があります。どうか、これを見て真実を明らかにしてください。」
写真の裏には、古い新聞記事の切り抜きが貼られていた。それは、十年前の変死事件を報じる記事だった。記事には、事件の詳細が簡潔に書かれていたが、その中に、俺の不動産会社の名前が載っていたのだ。
「何でうちの会社が?」
俺は困惑した。だが、すぐに思い当たることがあった。十年前、俺が会社を立ち上げたばかりの頃、確かに愛川家から土地の売却依頼を受けたことがあった。だが、私たちはその話を断ったはずだった。
何故、そこに俺の会社の名前が?
俺はその日のことを思い出そうとしたが、どうしても曖昧だった。もしかすると、愛川家の失踪事件と、俺の会社には何か関係があるのかもしれない。
俺はその真実を確かめるため、調査を続けることにした。だが、その夜の出来事が、俺の中で深い闇を生むことになった。
翌日、俺はママと共に、老紳士の遺品を整理することになった。遺品の中から、古い日記帳が見つかった。そこには、老紳士の心情と、愛川家に起きた出来事の詳細が綴られていた。
日記によると、老紳士は愛川家の執事として働いていたが、ある日、愛川家の当主が莫大な借金を抱えていることを知った。そして、それを解決するために、土地を売却する計画が立てられた。だが、その土地をめぐって、ある不動産会社が関わっていたという。
その不動産会社こそ、俺の会社だった。
日記にはこう書かれていた。「井上高弘という男に買収された土地が、愛川家の不幸を招いた。」
俺は血の気が引いた。確かに、俺は若い頃、多くの土地を買収してきた。だが、それが愛川家の不幸に繋がっていたとは思いもしなかった。
「どうして、こんなことになっているんだ?」
俺はママに重い口を開いた。ママは厳しい顔で答えた。
「高弘さん、あなたは知らなかったかもしれないが、愛川家の土地を買いたいと言ってきたのは、あなたの会社じゃないか?」
「確かに、そうかもしれない。だが、私は不当な取引をした覚えはない。」
「あなたが正当な取引をしたと思っているなら、それでいいかもしれない。だが、愛川家はその取引が原因で崩壊したのよ。」
ママの言葉に、俺は何も言えなかった。確かに、私の会社の関与が何かしらの影響を与えたのかもしれない。そして、老紳士はそれを知っていながら、俺に真実を伝えようとしたのだ。
俺は決意した。この真実を突き止め、必要ならば償うために。
だが、俺の調査が進むにつれ、街の空気が変わっていくのを感じた。そして、ある日、俺は駐車場で数人の男に囲まれた。
「井上社長だな。ちょっと話がしたいんだが。」
「何の用だ。あれから手を引けという警告か?」
「察しがいいな。そうだ。お前が余計なことを調べれば、お前の会社を潰すことになるぞ。」
「何だ、その脅迫は。」
「本気だぞ。お前の過去を暴露することだってできるんだ。」
男たちは意味深な笑みを浮かべて立ち去った。俺はその後、会社の業績が怪しく落ち込み始めるのを感じた。だが、それでも俺は調査をやめなかった。
ある日、俺は古い書類の中から、十年前の取引に関する契約書のコピーを発見した。そこには、愛川家の土地を買収した際の記録が残っていた。だが、その契約書には、俺の会社とは別の会社名が書かれていた。
「これは……。何だ?確かに、うちの会社ではない。」
俺は更に調査を進めた。すると、その会社は、俺の会社と提携関係にあったことが分かった。そして、その会社の代表は、かつて俺の会社の従業員だった男だった。
その男は、今ではこの街で成功していると聞く。もしあの男が愛川家の土地を不正に取得していたとしたら、俺の会社の名前を利用していた可能性がある。
俺はその男に会いに行くことにした。男は高級クラブの常連らしく、夜にそこに行けば会えると聞いた。
俺は夜の街へと繰り出した。男がいるというクラブに足を踏み入れると、そこは銀座の高級店と見紛うような場所だった。カウンターに座っている男を見つけ、隣に座った。
「久しぶりだな、前田さん。」
「おお、高弘さん。どうしたんだ、こんなところに?」
「少し、昔の話をしたいと思ってね。」
「何だ?急に改まって。」
「十年前の愛川家の土地の話だ。」
その瞬間、前田の顔色が変わった。
「……。何で、その話が出るんだ?」
「知ってるだろう。あの土地の取引、お前が不正に関与したんだな?」
「何を言ってるんだ。お前の会社が買ったんだろう。」
「違う。あの契約書には、お前の会社の名前が載っている。調べたんだ。」
前田は少し間を置いて、冷たい笑みを浮かべた。
「だから、なんだっていうんだ?今さら蒸し返して、どうすんだよ。」
「愛川家が崩壊したのは、あの取引のせいだ。そして、老紳士はそれを知っていた。もしかしたら、お前は人を死に追いやったのかもしれない。」
「法律的に問題なければ、何の問題もないだろう。」
「そうか。ならいい。俺は警察に届け出るつもりだ。」
「ふっ。好きにしろ。」
俺は立ち上がって店を出ようとした。すると、前田が後の声をかけてきた。
「高弘さん。お前、その話を深く掘るなよ。お前自身が傷つくことになるぞ。」
「何だ?脅しのつもりか?」
「忠告だ。愛川家のことは、もう忘れたほうがいい。」
その言葉が、かえって俺の決意を固めた。翌日、俺は警察署に足を運び、得た情報を提供した。警察は真剣に取り合ったが、その日のうちに、俺の事務所に疑いの目が向けられるようになった。
地元の新聞に「不動産会社社長、恐喝容疑で捜査」という見出しが躍った。俺は知らない事実で濡れ衣を着せられたのだ。
だが、それでも俺は折れなかった。真実を証明するために、俺はあの老紳士の日記に記された場所を訪れることにした。そこには、愛川家が隠した重要な証拠があると書かれていた。
日記には、ある山奥の小さな神社の裏手に、古い金庫が埋められていると記されていた。俺はそこへ向かった。
山道を進み、目的の神社にたどり着いた。裏手に回ると、確かに古びた金庫が草むらに埋もれていた。俺は掘り起こして金庫を開けた。中には、一通の封筒と、何故か一台の古いカメラが入っていた。
封筒を開けると、そこには愛川家の当主から老紳士への手紙が入っていた。手紙には、ある不動産会社の代表が、不正な手段で土地を取得しようとしていることが綴られていた。その代表の名前が、前田だった。
手紙にはこうあった。「もしこの手紙を読んでいるなら、私の家族を守ってほしい。そして、真実を明らかにしてほしい。」
俺は手紙を握りしめ、強い決意を胸に抱いた。そして、カメラを手に取った。中にはフィルムが残っており、それを現像すると、十年前の事件現場の写真が写っていた。
写真には、前田と、そして愛川家の娘が何かを話している様子が写っていた。さらに、その後に娘が倒れている写真もあった。
これだ。これが証拠だ。
俺は警察にこれらの証拠を提出した。警察は再び捜査を始め、前田を事情聴取に呼んだ。前田は最初は否認したが、写真と手紙の内容を突きつけられると、ついに白状した。
「……。そうだ。俺がやったんだ。愛川家の土地を手に入れたかったんだ。あの娘は邪魔だったんだ。」
前田は逮捕された。俺の濡れ衣も晴れ、会社の信用は回復した。
あの老紳士が伝えたかった真実が、これで明らかになった。俺は老紳士の墓前に報告し、感謝の言葉を捧げた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで、少しだけ償いができました。」
そう言って、俺は花を手向けた。
それから、俺は以前の日常に戻った。スナック「ブルーバード」に立ち寄り、ママが淹れてくれる酒を一杯飲んで帰る、穏やかな日常だ。
「おい、また今日も一杯飲っていくのかい?」
「ああ。ここが一番落ち着くんでね。」
「そうかい。今日も仕事がうまくいったみたいだな。」
「まあな。それに、真実を知ることができて、少し気が楽になったよ。」
「そうだね。お互い、隠し事はないのが一番だよ。」
俺とママは、静かに笑い合った。そして、俺はその日の酒をゆっくりと味わった。
その日から、俺はもう二度と、過去を振り返らずに前だけを見て生きようと決めたのだ。



