「お前の親父の遺産5億円、全部うちの母さんの名義に変えておいたからな。お前はもう用済みだ。さっさとこの家から出て行け」
その一言で、温かかったはずのリビングの空気が一瞬にして凍りついた。だが、この時、目の前で下卑た笑いを浮かべる夫と義母は、まったく気づいていなかった。数日後、自分たちが全てを失い、絶望のどん底で生きた心地もなく泣き叫ぶことになるという事実に。
父が亡くなってから一か月半が過ぎていた。四十九日の法要も無事に終わり、ようやく少しだけ肩の荷が下りたような気がしていた週末の午後だった。秋の深まりを感じさせる冷たい風が窓を揺らし、西日がリビングの床に長く伸びた影を落としていた。私はキッチンに立ち、冷え切った体を温めるために温かいほうじ茶を入れていた。湯気がふわりと立ちのぼり、香ばしい香りが鼻をくすぐる。少しだけ心が安らぐ、そんな静かな時間だった。
ドスドスという遠慮のない足音が廊下から響いてきた。足音の主は夫の剣一だった。その後ろからは、こそこそした足のような独特の足音を立てて、義母の枠が続いている。二人はリビングに入ってくるなり、どかっとソファに腰を下ろした。まるで自分たちがこの家の絶対的な支配者であるかのような、ふんぞり返った態度だった。剣一はテーブルの上に、どさりと分厚い茶封筒を投げ出した。
「おい、お茶はまだか?さっさと持ってこい」
剣一の目は異常なほどぎらぎらと怪しい光を放っていた。義母もまた、口元を手で隠しながら、まるで何かを企んでいるような薄気味悪い笑みを浮かべている。私は無言のまま、三つの湯のみをお盆に乗せてテーブルへと運んだ。剣一の前に湯のみを置いた瞬間、彼は待っていましたとばかりに口を開いた。それが冒頭の一言だった。
「お前の親父の遺産5億円全部うちの母さんの名義に変えておいたから。お前はもう用済みだ。さっさとこの家から出て行け」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。父が遺してくれた、一代で築き上げた会社の株や不動産、そして預貯金。その総額がおよそ5億円になることは、私自身も弁護士から聞かされていた。しかし、なぜそれが義母の名義になっているというのか。剣一は投げ出した茶封筒を指差しながら、にたりと笑った。
「この書類を見ろ。全部、俺の母さんの名義に書き換えてある。お前には一切、権利はないんだよ」
私は封筒を開け、中身を取り出した。そこには、確かに父の遺産の大半が義母の名義に変更されたことを示す書類が入っていた。信じられなかった。父が亡くなってから、私は悲しみに暮れながらも、手続きを進めてきた。弁護士にも依頼し、全てが順調に進んでいると思っていた。なぜ、こんなことが起こるのか。
「そんな…どうして…」
「どうして?決まってるだろ。お前が父ちゃんの実の娘じゃないってことだ。お前は、母ちゃんが連れてきた連れ子だ。遺産を相続する資格なんて、最初からありゃしないんだよ」
剣一は、そう言って大笑いした。義母も、「そういうことよ」と、勝ち誇ったように頷いた。私は、目の前が真っ暗になった。私が父の実の娘ではないことを、私は知っていた。だが、父は私を実の娘以上に可愛がってくれた。そして、遺言書には確かに私の名前が相続人として記されていたはずだった。
「父さんの遺言は…私は相続人だって…」
「遺言?あんなもの、もう無効だよ。お前の父ちゃんは、死ぬ前に遺言を書き換えたんだよ。全部、俺の母さんに遺すってな」
剣一は、そう言って、別の書類を差し出した。そこには、確かに父の署名と思われるものがあった。しかし、私はその署名を見て、違和感を覚えた。父の字は、こんなに汚くない。何かがおかしい。
「この署名、本当に父さんのものなの?」
「ああ、そうだよ。文句あるのか?」
剣一は、不機嫌そうに睨みつけてきた。私は、その場で何も言い返せなかった。心の中では、ここがおかしいという確信が膨らんでいた。だが、それを証明する手立てが、今の私にはなかった。
「もういいだろ。とっとと荷物をまとめて出て行けよ」
剣一は、そう言って立ち上がると、私の腕を掴んだ。そして、無理やり玄関に向かって押し出そうとした。私は、必死に抵抗した。
「ちょっと待って!私は、まだ何も…」
「うるさい!お前に話すことは何もない」
義母も立ち上がり、私の顔を見て、いやらしく笑った。
「本当に可哀想にね。でも、これが現実よ。あなたは、もうこの家に居場所はないのよ」
その言葉に、私は激しい怒りと悔しさが湧き上がってきた。だが、今は何を言っても無駄だと、私は悟った。私は、掴まれた腕を振りほどくと、黙って荷物をまとめ始めた。心の中では、ある計画を立てていた。絶対に、このままでは終わらせない。
翌日、私は父が生前に付き合いのあった弁護士の事務所を訪れた。書類と署名の疑念を話すと、弁護士は驚いた顔をして、こう言った。
「ちょっと待ってください。ご主人の言うことは、おかしいですね。確かに、お父様の遺言書は、あなたが相続人になるように書かれていました。署名も、私が立会人として確認していますから、間違いありません」
「では、あの書類は…」
「偽造の可能性が高いです。あなたのお父様の遺言書には、もう一人、立会人がいます。その方に確認を取ってみましょう」
私は、その言葉を聞いて、少しだけ希望が湧いてきた。その後、弁護士は、もう一人の立会人に連絡を取り、事実確認を始めた。数日後、立会人から「あの署名は偽物です」という証言を得ることができた。
私は、その証言を手に、警察に相談した。警察は、偽造書類の疑いで、剣一と義母の家宅捜索を開始した。捜索の結果、書類を偽造した証拠が次々と見つかった。義母は、私の父の遺産を狙って、書類を偽造していたのだ。
「なぜ、そんなことを…」
「なぜ?お前の父ちゃんの金が欲しかったからだよ。あの金があれば、俺たちは一生遊んで暮らせたんだ」
剣一は、逮捕された後も、反省の色を見せなかった。義母も、「私は何も知らない」と言い張ったが、証拠は揃っていた。二人は、書類偽造と詐欺の罪で起訴された。
一方、私は弁護士と共に、遺産の全てを取り戻す手続きを進めた。父が遺してくれた会社も、不動産も、預貯金も、全てが私の元に戻ってきた。私は、父の形見であるその会社を、父の想いを胸に、立て直していくことに決めた。
あの日、リビングで夫に言われた言葉。今も、その言葉は忘れられない。だが、あの日の苦しみが、今の私を強くしてくれた。私は、もう彼らの言葉に振り回されることはない。私の人生は、私のものだ。



