その夜、一枚の紙がテーブルの上に滑ってきた。離婚届だった。妻の名前はすでに書かれていた。俺はただそれを見つめることしかできなかった。何か言わなければと思っても、言葉は喉の奥で詰まって出てこなかった。
妻は言った。「もう沈みかけた船に乗っていられない」と。父が残した海辺の古い民宿と、1億円の借金。継ぐかどうかで揺れていた俺のことを、妻はそう見ていたのだ。
その時、小さな手が俺の指にそっと触れた。8歳の娘だった。娘は俺の手をぎゅっと握り、母親の顔をまっすぐ見上げて言った。「パパが守るなら、私も守る。」
迷いのない声だった。俺はその手の温かさに、崩れそうになるのをこらえるのがやっとだった。
金もない、味方もいない。父は死に、妻には見捨てられた。40歳を過ぎるまで、うつむいてばかりの人生を送ってきた男に残ったのは、1億円の借金と8歳の娘だけだった。それでも、この小さな手のぬくもりだけは本物だった。
何もかも失ったと思ったこの夜が、俺と娘の人生を丸ごと変えていくことになるとは、その時の俺はまだ知らなかった。
俺の名前は川瀬遼介、42歳。これといった取り柄のない、うつむきがちな会社員だ。顕微鏡メーカーの営業を20年近くやっている。同期はとっくに課長になっているのに、俺は未だに係長のままだ。大きな失敗はしないが、大きな手柄も立てられない。上司の顔色をうかがい、取引先に頭を下げ、月末の数字に一喜一憂する。そういう毎日をただ繰り返してきた。
家を買い、車のローンを組み、娘を育てる。人並みの暮らしを守るだけで、いつも精一杯だった。胸を張れるものなど何ひとつ持っていない。ただひとつ、娘の美咲だけが俺の宝だった。
父とは長い間、疎遠だった。海辺の小さな港町で古い民宿を営む父のことを、正直うっとうしく思っていた。母を早くに亡くしてから、俺はその町を出て、二度と戻らないつもりで生きてきた。だから、あの雨の夜、父の死亡を告げる一本の電話がかかってくるまで、俺は自分の人生がこんな風に根っこからひっくり返るなんて、想像もしていなかったのだ。
電話の声は淡々としていた。「ご臨終です。至急、こちらへ来てください」。俺はその言葉を聞いても、実感がわかなかった。あの頑固で偏屈だった父が死んだ? いや、もう何年も会っていない。連絡すらろくにとっていなかった。
翌日、俺は美咲を連れて、久しぶりに港町へ向かった。駅を降りると、潮の香りが懐かしくもあり、苦くもあった。父の民宿は、海の見える高台にあった。古びた瓦屋根に、錆びた看板。『潮騒荘』と書いてある。
中に入ると、埃が舞った。畳は傷み、障子は破れ、台所は油でべとついていた。それでも、父がここで長年、ひとりで切り盛りしてきた気配がそこら中に残っていた。俺は重い気持ちで帳簿を開けた。すると、目の前に広がったのは、莫大な借金の記録だった。
ある日、美咲が古い引き出しから日記を見つけた。「ねえパパ、これ、おじいちゃんの日記?」
俺は何気なくページを開いた。そこには、父の愚痴や後悔が綴られていた。最後のページには、こう書いてあった。
「遼介に申し訳ない。借金だけ残してしまって。でも、どうかこの民宿を守ってほしい。ここで生まれた子が、ここで育った思い出を、どうか忘れないでほしい。」
俺は日記を閉じ、しばらく言葉を失った。父は俺を嫌っていたと思っていた。でも、違った。父は愛していたのだ。ただ、それを伝えることが下手だっただけなのだ。
その夜、俺は美咲と古い縁側に座った。月明かりが海に反射して、銀色に光っていた。俺は娘に言った。「美咲、この民宿を立て直してみようと思う。」
美咲は笑顔でうなずいた。「うん!私、手伝うよ!」
次の日から、俺は会社を辞めた。周りは驚き、呆れた。妻はすでにいない。上司は引き止めたが、俺の決意は固かった。
俺は民宿を掃除し、壁を塗り替え、修理できるところは直した。美咲は学校から帰ると、いつも俺を手伝ってくれた。ふたりで古い畳を運び、障子を張り替え、庭の草を抜いた。
最初の一週間、宿泊客はゼロだった。落ち込む俺に、美咲はこう言った。「大丈夫だよ。パパが一生懸命なら、きっと誰かが来てくれるから。」
俺は食器を洗いながら、思わず涙がこぼれそうになった。この子がいるから、頑張れる。この子がいるから、もう逃げたくない。
ある日、地元の漁師のおばさんが、ふらっと寄った。彼女は「うちの息子が来るかもしれない」と言って、帰っていった。すると、翌週、息子夫婦が子ども連れで泊まりに来た。
「部屋は古いけど、海がきれいで、とても落ち着く」と言ってくれた。俺は初めて、客の笑顔を見た。それが何よりも嬉しかった。
口コミが少しずつ広がった。『潮騒荘』は、再び人々が集まる場所になっていった。俺は朝早くから仕入れに出かけ、魚をさばき、料理を振る舞った。上手くいかないことも多かった。それでも、そのたびに美咲が励ましてくれた。
ある雨の夜、一人の老婦人が訪ねてきた。「昔、ここで息子を産んだんです」と、彼女は言った。「あの部屋を覚えていますか? 窓から海が見える、あの部屋です。」
俺は彼女を案内した。彼女はしばらく窓の外を見つめ、ぽつりと言った。「あんた、親父さんにそっくりだね。あの人もね、いつも雨の日は、こうして窓から海を見ていたよ。」
その言葉に、俺は胸が締め付けられた。父もまた、この場所で、誰かを待ち、何かを想っていたのだろう。
数年後、『潮騒荘』は、あの頃よりも賑やかになっていた。借金も少しずつ減り始めた。ある春の日、美咲と一緒に庭に花を植えた。背伸びしながら、娘が言った。「ねえパパ、ここで生まれてよかった?」
俺は娘の髪を撫でながら、こう答えた。「ああ、生まれてよかった。そして、ここに来られて、よかった。」
あの夜、離婚届がテーブルに突き出されたとき、俺は何もかも失ったと思った。でも、本当は、あの日から俺は、初めて何かを手に入れたのかもしれない。父の想い、娘の信頼、そして、自分自身の生きる道を。
海辺の民宿は、今日も静かに潮騒を聞いている。



