「なんで首になったお前がいるんだ?現実を受け入れられずに出社しちゃったとか?」
一月前まで同僚だった男が、俺を見てあざ笑う。
「ああ、もしかして清掃員として雇ってもらったのか?バカなお前には営業の仕事は向いてなかったもんな」
人のことを落とし入れておいて、よく言うよ。俺がこの会社を辞めざるを得なくなったのは、間違いなく目の前で笑っているこの元同僚のせいだ。俺が営業に向いていなかったなんて、この男にだけは言われたくない。
「まあいいや。俺はお前みたいな仕事のできないバカを相手にしている暇ないから。俺はお前と違ってできる男だから、これから5億の商談で忙しいんだよ」
俺の怒りに気づいているのかいないのか、元同僚は俺を追い返そうとした。だが、俺もこれ以上こんな男と一緒にいるのはごめんだ。さっさと要件を済ませて帰ることにしよう。
「実は俺も商談でここに来たんだ」
「はあ?何言ってるんだ?そんなくだらない嘘言って恥ずかしくないのかよ」
「嘘じゃない。その5億の商談を破棄するために来たんだよ」
俺はさっと名刺を差し出す。元同僚は俺の名刺に書かれた文字を見るや、どんどん顔色が悪くなり、ガタガタと震え出した。
首になってからたった1月の間で起こった俺の劇的な変化。それに元同僚は恐れおののくこととなったのだった。
俺の名前は水野大輔。大学を卒業後、第一希望だった大手企業に入社し、花形の営業部に配属された。営業部に配属になった時、嬉しく思う気持ちと、やっていけるかという不安な気持ちがあった。人を引きつける術が自分にはあるとは思えなかったからだ。
しかし、配属されたからにはいい成績を残したい。そこで俺は、頑固な真面目さで勝負することにした。子供の頃から親にも先生にも友達にも真面目だと言われていたし、俺自身その自覚があった。むしろ、俺はそれだけが取り柄だと思っていた。だからこそ、営業の場でも真面目さを武器に戦うしかない。
取引先の相手のことは会う前にしっかりと調べ、相手とのコミュニケーションがうまくいくように心がけた。取引先に見せる書類の作成にも丁寧に時間をかけて、気持ちが少しでも伝わればと思い努力をした。社内の人にいい評価がもらえないと取引先の人にも気に入ってもらえるはずもないと思い、内勤業務もしっかり取り組んだ。
すると、持ち前のやる気が伝わっていったのか、徐々に成果が出せるようになっていく。上司や取引先からの評判も良くなり、次第に重要な仕事も任されるようになった。
「君の仕事は丁寧で本当に信頼できるよ」
「ありがとうございます。これからもご期待に添えるよう頑張らせていただきます」
努力してきたことが評価してもらえるのは本当に嬉しい。その分仕事量や責任も増え大変さも感じるが、それ以上にやりがいを感じていた。同僚にも信頼してもらい、相談やお願いをしてもらえることも多くなり、人間関係も良好だ。
しかし、それでも人間関係とは難しいもので、どうしても気の合わない人間もいる。同じ営業部に配属された同期入社の木村がそうだった。木村は華があり、目立つことが好きで、コツコツと仕事に取り組む俺とは正反対のタイプだ。口もうまく人を引きつける話術があり、入社当初から上司に可愛がられていた。しかし、上司の目がないと態度が悪くなる裏表ある性格や、人を小ばかにして楽しむ癖が、俺はあまり好きではなかった。
俺は顔を見るたびに馬鹿にされ、悪口のようなことも言われる。
「お前、取引先のことそんなに下調べしてんの?無駄なことして容量悪いんだな、お前」
いちいち俺のパソコンを覗き込み、俺のやっている仕事にケチをつけてくる。
「俺は木村みたいに口もうまくないから、しっかり調べていくようにしているだけだよ」
俺がそう言うと、木村は俺を下げるような目で見て鼻で笑った。
「確かにな。俺と違ってお前地味だし、営業に向いてないもんな」
コツコツと仕事をすることが悪いかのように言って馬鹿にしてくる木村に、少し腹を立てることもある。どうして同期の木村にこんなことを言われないといけないのか。しかし、それにいちいち反応して怒っていたら、ストレスでこっちが潰れてしまう。どんな職場であれ、付き合いがうまくいかない相手の1人や2人はいるだろう。仕事に支障がなければ無理に仲良くする必要もないと割り切るようにして、相手にしないようにしていた。
そんな日々を過ごしていたある日の朝礼で、今度大きな商談があると上司から話があった。そこで、今回その商談の担当者に水野君が抜擢されることが決定した。突然名前を言われて驚いてしまう。
「水野君は最近成績も伸びていて、取引先からの評判もいい。みんなサポートしてあげてくれ」
そう言って朝礼が終わる。驚きと嬉しさの感情で立ち尽くす俺に、同僚たちも「すごいな」と声をかけてくれた。俺は改めてしっかり仕事に取り組むことを決心し、机に戻る。よし、やるぞと思い、パソコンに目を向けた時に、木村が俺の元に近づいてきた。
「お前、どんな手を使ったんだ?」
木村は険しい顔で俺にそう聞いてきた。
「どんな手ってどういうこと?何を言っているのかわからない」
俺も質問を返す。すると木村は鼻で笑いながら呆れたような顔をしてきた。
「とぼけなくていいから。お前が大きな商談の担当なんて、何か手を回したに決まってるからな」
どうやら木村は、俺が担当に抜擢されたことが気に食わないようで、俺が手を回していると思っているのだろう。俺は質問の意味が分かり、だんだんと腹が立ってくる。
「俺は何もしてない。コツコツと仕事に励んでいるだけだ」
怒りから少し感情的になって、少し強い口調で言う。そんな俺に木村は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「あ、そう。お前なんて全然仕事ができないのに、上司も騙されているんだな」
木村はそう言うと、さっさと立ち去っていく。なぜ木村にこんな嫌味を言われないといけないのか。イライラしながら木村の背中を見送ったが、すぐに深呼吸して自分を落ち着かせた。俺をしっかり見て評価してくれる人たちのことだけを考えようと冷静になる。木村の言葉なんて気にしないようにして、今まで通り一生懸命仕事に取り組むことにした。
しかし、ある時、他の同僚が少し言いづらそうにこんなことを言ってきた。
「木村さんが水野君の愚痴を色々な人に言っているらしいよ」
「愚痴ですか?」
「どうして俺の方が仕事ができるのに水野の方が評価が高いのかわからない。みんなあいつが仕事できないこと知らないんだってね」
この言葉を聞いて思わず俺も苦笑いになってしまう。俺に直接悪口を言ってきているだけならまだしも、他の人にもそんなことを言っていたなんて少し驚いた。
「水野君が評価されているから嫉妬しているんだよ。あんまり気にすることないよ」
同僚はそう言って励ましてくれる。俺自身も今は木村のことを気にしている場合ではないと思い、考えないようにしていた。
ところが、その数日後、急に険しい顔をした上司から呼び出された。少し怒っているようにも感じ、何かしてしまったかと不安な気持ちになる。上司に呼ばれ会議室に入ると、そこには木村の姿もあった。木村は悲しそうな顔で俯いている。
「木村君から、君に嫌がらせを受けていると訴えがあった」
思いもしなかったことを言われて驚いてしまう。だが、すぐに木村が上司に嘘を言って俺の評価を下げようとしているんだと気づいた。木村が悲しそうな顔で俯いているのも演技だとすぐに分かった。俺は焦ってはいけないと自分に言い聞かせ、冷静に本当のことを伝える。
「木村に嫌がらせをした覚えは全くありません」
「そうか。だが彼は、君に『お前は自分1人では何もできないから、俺の仕事に協力だけしていればいい』と言われたと証言しているよ」
上司は厳しい顔で俺を見ながら言う。俺は強く否定をする。
「そんなこと1度も言ったことはありません。この際なので言わせていただきますが、いつも僕を馬鹿にするのは彼の方です」
すると、黙り込んでいた木村が口を開いた。
「今の言葉聞きました。いつもこうやって高圧的な態度で俺に悪口を言ってくるんです」
木村は上司の情に訴えるようにそう言った。木村の演技に俺も呆れてしまう。
「大丈夫だよ、木村君。落ち着いて」
上司が厳しい表情のまま木村をなだめ、それから俺を見た。
「木村君からは、君にアイディアや企画を奪われたという訴えもある」
「違うんです。僕の話も聞いてください」
「落ち着きなさい。私も別に全てを木村君の言を信じているわけではない。わけではないが、こういった問題はデリケートでね、噂が流れるだけでも取引先や顧客に悪印象を与えてしまう」
上司はそう言うと、大きなため息を1つついて見せた。
「君は仕事熱心で真面目だと評価していたのに、残念だよ」
必死に訴えかけるも、上司はそんな俺を疑いの目で見るだけだった。俺はただ真実を伝えようとしているだけなのに、もう何も言えなくなってしまう。ちらりと上司の後ろにいる木村を見ると、ニヤニヤとした顔で俺を見ながら笑っていた。俺は腹が立って仕方がなかったが、どうすることもできなかった。
「残念だけど、今回の大きな商談の担当は外れてもらうよ。このような訴えを起こされた人間を、大事な商談の担当にはできない」
上司はそう言って去っていった。上司が部屋から出たことを確認すると、木村はケラケラと笑い出した。
「やっぱお前バカだな。なんであんな嘘をつくんだよ」
「嘘でも信じてもらえたのは俺だから。結局お前は容量の悪いバカだったってことだ」
木村はそんなむちゃくちゃなことを言って、満足な顔で会議室から出ていった。
大きな商談の担当からは外されてしまったが、他の仕事を頑張るしかない。そう思っていたのだが、その日から会社で俺の根も葉もない噂話がささやかれるようになった。
「あいつ、木村の企画奪って上司に気に入られようとしていたらしいぞ」
俺にも聞こえる声で同僚たちがそんな話をしている。今まで仲良くしていた同僚たちにも疑いの目で見られ、次第に居場所を失っていった。大きな商談の担当から外されてしまったという事実が、噂話に真実を持たせてしまっていた。
俺はだんだんと仕事に集中できなくなってしまい、ついには退職することを決意した。誰も俺を信じてくれない場所で、これ以上頑張ることはできなかった。退職届を提出すると、上司は引き止めてくれることはなく、ただ短く「引き継ぎはしっかりするように」とだけ言われた。これまで俺が担当していた仕事は、同期ということで全て木村が引き継ぐことになった。
それからバタバタと引き継ぎ書を作成し、退職日を迎える。俺が1人寂しく会社を出て行こうとすると、玄関ホールに木村が現れた。
「邪魔な奴がいなくなってくれて清々するわ」
木村は最後まで俺に嫌味を言ってくる。
「バカはバカらしく頑張って仕事を探すんだな」
憎たらしい木村の笑顔にイラっとしたが、行動を起こすほどの気力はない。俺は何も言い返さず、会社から立ち去った。
それからあっという間に1ヶ月が過ぎた。俺は幸運にも巡り合えた新たな就職先で仕事に励んでいた。
「ふう。緊張するな」
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。俺はその日、フルスの会社を訪問していた。ここに来るのはもちろん、退職した日以来である。
「はあ。なんで?」
「よし、行くぞ」
気合いを入れて足を踏み入れたのもつかの間、玄関ホールで木村と待ち合わせした。
「なんで首になったお前がいるんだ?」
木村は俺を見て目を見開き、驚いた顔をしている。
「もしかして清掃員として雇ってもらったのか?バカなお前には営業の仕事は向いてなかったもんな」
こちらが何か言うよりも先に、木村はそんなことを言って絡んできた。まだ1月しか経っていないので当然といえば当然だが、木村は変わっていないようで、以前のように好き放題悪口を言ってくる。最も、木村は何年経っても変わらないような気がするが。
「まあいいや。俺はお前みたいな仕事のできないバカを相手にしている暇ないから。間違いだから早く帰れよ」
木村は好き放題言って絡んで、それで満足したのか俺を追い返そうとする。
「こっちはお前と違って仕事ができるから、これから5億の商談で忙しいんだよ」
ニヤニヤとした顔で自慢するように言った。だが、俺もそれを聞いてやっと口を開けた。
「俺もその件でここに来たんだ」
「はあ?何言ってるんだ?そんなくだらない嘘言って恥ずかしくないのかよ」
呆れた顔をして嘲笑う木村に、俺は言う。
「嘘じゃない。その5億の商談を破棄するために来たんだよ」
「何をバカなことを」
木村がお腹を抱えてケラケラと笑い出す。俺はそんな木村に自分の名刺を突き出した。木村はめんどくさそうに名刺を見ると、驚いた表情で何度も俺と名刺を交互に見て確認をしている。それは商談先の会社名と営業課長という役職が書かれた俺の名刺だった。
俺は木村の言っている5億の商談相手である会社に就職をしていた。その会社は、元々退職まで俺が担当していた取引先の会社だ。その会社の社長にはお世話になっており、俺は退職後、社長から連絡をもらう。
「水野君、退職したって聞いたけど、どういうこと?」
「担当者が変わったと言われて、君のことを聞いてみたら驚いたよ」
俺は追い出されるように退職したため、担当していた取引先にまともに挨拶する暇がなかった。そのため、俺を心配して連絡をしてくれたのだ。
「すみません。しっかり挨拶もできずに」
俺はもう退職もしていたため、隠す必要もないだろうと、本当のことを全て話して説明した。すると、その取引先の社長は木村や俺の会社の上司に大激怒した。
「なんだそれは?そんなことおかしいじゃないか。その同期の嘘を信じて、何も調べずに君を悪者にする会社も間違っている」
社長は自分のことのように怒ってくれており、その言葉だけで俺は救われた気がした。
「でも、もういいんです。また新しい就職先を探して頑張ろうと思います」
俺はもう退職した会社に未練もなく、就職先を探している最中だった。
「それなら、うちの会社に来てくれないか?君の真面目にコツコツと取り組む能力は、うちに来ても即戦力になる」
突然のスカウトに本当に驚いたが、すごく嬉しかった。すぐに働かせてもらうことになり、その会社でも営業の仕事をやらせてもらった。社長は俺の能力を買ってくれて、課長にも抜擢してもらえたのだ。
そして、木村の5億という商談が、元々フルスの会社で俺が担当していたこともあり、よく分かっているだろうということで担当者に選ばれた。多少の戸惑いはあったが、それでも当初は商談を進めるつもりでいた。相手の担当が木村であろうと、私的な感情を捨てて、会社のためになるのならばそうしなければいけない。
ところが、木村の提案を見て驚かされた。担当になった木村が勝手に俺の案を練り直していたのだ。その結果、お粗末な内容へと変化してしまって、契約できるものではなかった。社長にも「君からきっぱり断ってきて」とお願いされ、今日ここに来たのだった。
商談相手である会社に就職したことを話すと、木村の顔は見る見るうちに顔面蒼白になっていく。
「そんなの納得できない。おかしいじゃないか」
木村はまだあまり信じられないようだった。
「おかしいのはこの内容だ。とても契約できるものではない」
俺はきっぱり伝えるも、木村は全然納得していない。
「俺に嘘を言われて退職するはめになったことに怒っているから、契約しないんだろう」
「そんなことはしないよ。仕事として、これは契約できないと言っているんだ」
「そんなこと言って、ふてくされてるだけだろ」
「何とでも言えばいいよ。契約は破棄させてもらうから」
何を言っても冷静にそういう俺が本気だというのが伝わったのか、今度は焦ったように必死に説得をしてきた。
「そんな冷たいこと言わないでくれよな。同期だろ。この契約がなくなったら困るんだよ。謝るから」
嘘をついて俺を落とし入れた人とは思えない言葉だ。俺はだんだんと今まで木村に言われたことを思い出し、少し嫌味を言う。
「そんなこと言われても変わらないよ。仕事ができるって言ってたのに、こんな内容に変更するなんて驚いたよ」
すると案の上、木村はまた大声を出して怒る。
「お前、なんだよ偉そうに。その調子に乗ってる態度が気に入らなかったんだよ」
はあ。もう木村と話すことはない。商談の破棄は決定事項だから。もう木村と話していても時間の無駄だ。俺はきっぱりと言い去った。
その後、仕事の外回り中に偶然会った後輩から、木村のその後を教えてもらった。木村は俺から引き継いだ案件を次々にダメにし、花形の営業から外されてしまったそうだ。他の案件でも、木村は自分の色を出そうと練り直し、解約していたらしい。さらにその後、俺の時と同じように木村の噂は広まり、居場所をなくして退職したそうだ。
俺の話を信じてくれなかった上司からも連絡が来た。
「君の担当していた取引先が、水野君でなければ契約はなかったことにさせてもらうと言ってきたんだ。俺が社長に話すから、また戻ってきてくれないか」
焦って困っている様子が伝わってくる。だが、今更そんなことを言われても遅い。入社してからずっとお世話になっていた取引先の方には申し訳なく思ったが、戻る気はなかった。
「せっかくご連絡いただきましたが、もうそちらに戻る気はありません」
きっぱりと断ると、上司は「なんであの時信じなかったのか」と自分の行動を悔いていた。だが、上司にも木村にも同情する気はなく、自業自得だと思ってしまう。
俺は新たな会社で、これまで通り真面目に仕事に取り組んでいる。突然課長に抜擢された俺には部下もできた。今の会社は、みんな仲良く協力して仕事をしようという社風だ。職場環境もよく、今となってはあの時退職して本当に良かったと思う。
俺は上司という立場になったが、しっかり人を見て評価できる人間であろうと決心している。大変なことはこれからもあるだろうが、この先も変わらずに真面目にコツコツ頑張っていこうと思う。



