「あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は出ていけ」 定年退職したその日、妻と娘にそう言われて、使い古したバッグを投げつけられた。何十年も家族のために働いてきたのに、最後は金ずる扱いで追い出された。中卒の私をずっと見下していた妻は、退職金を全部奪って、新しい男と結婚するつもりだったらしい。でも、彼女たちは知らなかった。私が定年後に密かに準備していた計画を。…

「あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は出ていけ」 定年退職したその日、妻と娘にそう言われて、使い古したバッグを投げつけられた。何十年も家族のために働いてきたのに、最後は金ずる扱いで追い出された。中卒の私をずっと見下していた妻は、退職金を全部奪って、新しい男と結婚するつもりだったらしい。でも、彼女たちは知らなかった。私が定年後に密かに準備していた計画を。...

ただいま。

電気を消され、真っ暗な玄関で、私の声だけが虚しく響いた。仕事で疲れて帰ってきても、妻の香りの「おかえり」も、娘のすみれの「おかえり」も、もう何年も聞いていない。二人はテレビに釘付けで、振り向きもしない。挨拶すら返してもらえない。透明人間になった気分だ。

唯一、ペットの犬だけが尻尾を振って寄ってきた。娘が「絶対私が世話をするから」と言って買った犬なのに、トイレの世話も散歩も、結局全部私の仕事になっている。

私は建設会社で働く作業員だ。休日は実家を継いだ兄の農業を手伝っている。もうすぐ定年を迎える、ごく普通の中年男性。ただ、昔実家が貧乏で進学できず、最終学歴は中学校。つまり中卒だ。

「夕飯は残っているのか?」

妻に声をかけると、妻はじろりと睨んだ。

「今いいところなのに。冷蔵庫になんかあるでしょ。勝手にチンして食べてちょうだい」

それだけ言うと、また韓流ドラマに熱中する。私はため息をついた。まだ返事をしてくれただけましかもしれない。残業で遅くなった日は、家中の電気を消して寝ているし、朝は遅くまで起きてこないから、私が朝ご飯を準備する。

いつからこうなってしまったんだろう。家族のためにずっとガムシャラに働いてきたのに、その家族から見向きもされない。虚しさが込み上げてくる。

昔はこんな風ではなかった。結婚当初、私が風邪を引いて熱を出せば、「大丈夫?」と心配して、優しく看病してくれた。お粥も作ってくれた。今では「私たちに映さないでね」と言うだけ。妻は自分と娘が第一で、次にペットの犬。私のことは二の次どころか三の次で、犬の方が高級な餌を食べている。ただし、トイレの世話は「汚くて臭い」と私にやらせるし、散歩だって「日に焼けるのは嫌」と妻も娘も行かないから、私が代わりに行っている。

私は冷蔵庫にあった残り物をそのまま食べた。レンジで温めても、味気なさは変わらない。

妻の香りとは、私の勤めている建設会社の忘年会で知り合った。香りは派遣コンパニオンの一人で、私は一目惚れした。その場の勢いで告白し、結婚することになった。香りにはバツイチで、まだ幼い娘のすみれがいた。相手の男が浮気をして、香りとすみれを残して出ていってしまったそうだ。私は香りに同情したし、連れ子のすみれのことも大切にしようと決めた。

最初の何年かはうまくいっていたと思う。すみれもよく懐いてくれて、私たちは本当の親子のようだったし、幸せだった。ところが結婚して三年目くらいだろうか、香りは徐々に隠していた本性を表してきた。私の給料では足りないと言い出したのだ。

中卒とはいえ肉体労働だから、収入はそれなりにある。フォークリフトの運転資格も取ったし、真面目に働いているから部下も何人もいる。それなのに香りは、「これっぽっちじゃ全然足りないわ。あんたみたいな中卒のおじさんの妻になってやったのよ。私をもっと贅沢させてくれなきゃだめ。あんたも、いつまでも妻が若くて綺麗な方がいいでしょう。女は金がかかるんだから、しっかり稼いできなさいよ」と、私にもっと働いてくるように要求した。

妻は自分が高卒だからと、中卒で年上の私を馬鹿にしてくる。確かに私が五つも上だ。学生時代なら大きな年の差かもしれないが、いい大人になれば五つくらい誤差みたいなものだと思う。

私が「土日は仕事を休んで、すみれと遊んでやりたいんだ」と反論すると、香りは私を見下して言った。

「あのね、あんたみたいなおじさんと可愛いすみれが一緒にいたら、すぐ不審者として通報されるわよ」

「そんなわけないだろう。親子なんだから」

私は悔しさでいっぱいだった。私が言い返すと、今度は娘のすみれが妻そっくりの顔で言い出した。

「おじさん、本当の父親じゃないし、日焼けて真っ黒でゴキブリみたいだから、一緒にいたくないの」

その言葉に、私は雷に打たれたようなショックを受けた。家族としてうまくいっていると思っていたのは、私だけだったのかもしれない。頭が真っ白になった。

後で分かったことだが、日焼けして真っ黒な私が「貧乏臭い」と、妻がすみれに悪口を吹き込んでいた。他にも「実の親じゃない」とか、色々言っていたらしい。確かに香りもすみれも色白の美人だ。私は外仕事で炎天下にいる。じりじりとした暑さに耐え、滝のような汗を流しながら家族のために働いているのだ。真っ黒になるのはしょうがないのに。

「私たちのために、お金を稼いできてよ。それがあんたの仕事。『絶対に苦労はさせない。一生二人を養います』って言ったじゃない」

妻は、ため押しのように私のプロポーズの言葉を持ち出した。私は唇を噛んだ。確かに私は言った。そうやって約束して結婚したのは本当だ。でも、ちょっと話が違うだろう。

私はこの時ようやく分かった。香りは出会った当時、夫から逃げられて、いやいやコンパニオンとして働いていたわけだ。私が一目惚れして告白したけれど、正直、香りのような美人が私のような中卒の現場の作業員と結婚してくれるはずがない。心のどこかで思っていた。でも、せっかく手に入れた生活が幸せすぎたから、気づかないふりをしていた。香りは一度も私に「愛してる」と言ってくれたことはないのに。

香りが必要としていたのは、金ずるとなる都合のいい再婚相手。私を愛しているから結婚したわけではない。あまりにもショックで、この時私は離婚を考えた。何せまだ香りとの間に子供ができていない。本当はすみれに妹か弟を作ってあげたかったが、今まで子宝に恵まれなかった。それもそのはず。香りからはあの手この手で夜の営みを断られ、気づけば夜の生活は全くなくなっていたし、私を見下す相手に頭を下げてまで関係を持ちたいとは思えなかった。

ある意味これはチャンスだ。結婚する時に養子縁組をしたが、実子ではない。自分が惚れて結婚した相手に一生責任を持つと誓ったものの、さすがに金ずる扱いをされては辛いし、面白くない。ところが弁護士に相談したら、現状では難しいと言われた。妻に浮気や不倫などの不貞行為があったわけじゃないし、この程度では重大な理由には当てはまらないという。妻からのATM扱いは重大な理由じゃないのか。

私は弁護士事務所からの帰り道、珍しく居酒屋に寄り道し、シコ玉酒を飲んで帰った。あまり記憶がないが、どうもこの時私は妻に聞かれるまま、弁護士との話を喋ってしまったらしい。「ふうん。そうなんだ」という妻の声と、ニヤニヤとした嫌な笑顔だけが記憶にこびりついた。

多分それが決定的な出来事だったのかもしれない。私は離婚を諦め、ただ仕事に逃げた。仕事中は仲間から人間扱いをしてもらえるし、ガムシャラに働けばそれなりに成果が出る。土日も家にいると妻と娘から文句を言われるし、実家の兄の農業を手伝うようになった。農家は人手と体力が勝負なところがあり、私は大歓迎され、とても嬉しかった。

月日が経ち、すみれもすっかり大きくなって、ますます妻そっくりになっていく。見た目は色白で美人だけど、冷たい人間で、他人は自分に尽くして当然と思っている。私立の高校を卒業後、ニートになった。妻と一緒に毎日が日曜日のような生活を送っていて、私とはほとんど口を聞かず、目が合えば睨みつけてくる。誰のおかげで生活できると思っているのかと言ってやりたいけど、そんなことを言えば喧嘩になるから我慢だ。どうも婚活をしているようだが、理想が高すぎて誰も捕まえられないらしい。

定年退職が来月となったある日、妻から聞かれた。

「ねえ、あんた定年後ももちろん再雇用してもらうのよね」

「いや、もう肉体労働は大変だからな。そろそろのんびり過ごしたいと思っているよ」

長年、何もしない妻と娘を横目に、馬車馬のように休みもなく何十年も仕事だけをしてきたのだ。少しは休みたい。すると妻は、

「はあ? 生活費はどうやってお金を稼ぐつもり? あんたまさかずっと家にいるつもりなの」

と、語気を変えて聞いてきた。実は定年後にある計画を立てていたのだが、私はとぼけて答えた。

「年金暮らしだっていいじゃないか。それなりに貯金はあるだろう。贅沢しなければ大丈夫さ」

「いやよ。ふざけないで。一生贅沢させてくれるって言ったじゃない。あんたなんて、金を稼ぐしか能のない中卒男のくせに」

妻はヒステリーを起こして怒り出した。私は落ち着いて言った。

「なあ、香り。私ももう定年なんだ。仕事をやめてもいい年齢だぞ。そろそろ私にも休みをくれないか」

「冗談じゃないわ。あんたに休みなんて必要ないわよ。そんなことを言うんだったら、私にも考えがあるからね」

妻は私を睨みつけると、足音荒く出ていった。

それからまた数週間。先週無事に定年退職した。リビングでくつろぐ私を、妻と娘が苦々しげに見ているのは知っていたが、自分の家だし無視していた。すると妻がご機嫌で言ってきた。

「すみれが婚活サイトで知り合った男の人と結婚できるかもしれないの。大学出身のイケメン社長よ」

私は特に何とも思わず、「それは良かったじゃないか。おめでとう」と返事をする。ずっとニートでスネかじりだった娘がようやく幸せを掴んだのだ。まあ、めでたいことだろう。妻は私の反応に、

「あんたも察しが悪いわね。だから中卒はダメなのよ」

と言い放った。驚いた私に向かって、妻はニヤっと意地の悪い笑みを浮かべた。

「だからさ、あんたはATMとしてはもう用済みなのよ。定年退職の無職は出ていけ」

娘も一緒になって、「あはは。ママも言うわね。ずっとおじさんが目障りだったのよ。すっきりした」と笑っている。ATM扱いは分かっていたが、ショックだった。そうか。香りもすみれも、私のことをずっと金ずだと思っていたのか。少しも家族として愛していないのか。

「もちろん初めからね」

私が聞くと、妻はあっさりと答え、離婚届を突きつけてきた。娘は「ほら、荷物まとめておいてやったから、中卒の不細工おじさんは出ていけ」と、私の使い古したバッグを投げつけてくる。私はさすがに頭に来たが、

「お前たちの本性は分かった。離婚してやる」

と冷静に答えた。これで義理の親子と縁が切れるのだ。良かったじゃないかと自分に言い聞かせる。

「ああ、これまであんたを支えてきたんだから、退職金は全部私たちがもらうわね」

妻が図々しく言ってきたが、

「いいだろう。弁護士を入れて、しっかり書面に残そう」

私は落ち着いて返事をする。娘は「もう二度と私たちの前に現れないでね。これからは赤の他人だから」と言い、妻も「本当、本当。これからセレブになるのに、あんたみたいな底辺とは関係を絶たなきゃ」と同調する。

「じゃあ、あとは弁護士に任せるからな」

こうして私と妻は離婚。退職金を全額渡す代わりに、財産分与はなしという条件にした。離婚した以上、すみれとも養子縁組を解消。一緒に長年暮らして、小さい頃から我が子のように育ててきた。多少の情はあったが、本人から「赤の他人」だと言われれば、もう無理だ。きっぱりと縁を切ろうと決めた。

それから数ヶ月後のことだ。香りから何件も電話がかかってきていた。嫌な予感がするが、折り返し電話をすると、

「あなた、私が悪かったわ。やり直しましょう」

と香りが叫んでいた。聞いたこともない猫撫で声にびっくりだ。

「あなたも本当に水臭いんだから。会社を起業したの、なんで教えてくれなかったのよ」

香りは偶然町で兄嫁にあったらしい。私は定年後のある計画のためしばらく忙しく、兄のところへ手伝いに行けなかった。電話でわざわざ報告するのも嫌で、今度行った時にでも話をしようと、兄夫婦にはまだ離婚したことを伝えていなかった。町で兄嫁から声をかけられた香りは、私と離婚したと話したらしい。すると兄嫁が慌てて、「あ、あなた知らないの」と、私の近況を香りにばらしてしまったというわけだ。

「ねえ、なんで教えてくれなかったのよ。雑誌で取材されるくらい順調なんて。会社の宣伝には綺麗な社長夫人が必要でしょ」

実は退職後に、部下たちと会社を立ち上げたのだ。今、建設業界では農業参入に乗り出している。長引く不況と人口の減少で大規模な公共事業もなく、建設業界は急激に規模を縮小中。そんな中、後継者不足に苦しむ農林水産業へ活路を見い出す業者が増えた。2009年に農地法が改正され、農地を所有できる法人の要件が大幅に緩和されたこともある。私の務める建設会社もその一つだった。兄が専業農家なこともあって、私は会社の農業参入の手助けをしていた。会社の税理士や社長と相談して、定年後に少し休みをもらってリフレッシュしたら、農業法人として別会社を立ち上げ、その代表取締役として就任することが決まっていたのだ。

「すみれの婚約者はどうしたんだ? 新しいATMが見つかったから離婚したはずだと思って」

それとなく聞いてみると、妻は怒りながら言った。

「あの男は飛んだ詐欺師よ。結婚詐欺だったのよ」

と詳細を教えてくれた。なんと一流大学卒業という経歴は全くの嘘。急遽事業資金が必要だとか、絶対に儲かる話があるんだと色々言われて、結局私の退職金を全て騙し取られたそうだ。そして、すでに連絡がつかないらしい。自業自得すぎて、私は笑ってしまいそうだ。

「悪いが、再婚する気はない」

私が宣言すると、香りは「じゃあ、追加でお金をちょうだいよ。生活費が必要なのよ」と、図々しいにもほどがある。私は呆れながらも、

「ちゃんと書面を交わしたじゃないか。もう私たちは他人なんだ。なんで赤の他人にお金を恵まなきゃならない」

と穏やかに言うと、香りは黙り込んだ。私は続けて言った。

「香り、お前もすみれも健康で十分働けるじゃないか。自分の人生、しっかり稼いで責任を取りなさい」

すると香りは逆切れ。

「ふざけんな。定年まで一緒にいてあげたんだから、もっとお金をよこしなさいよ。この中卒男」

そうか。その中卒男に今まで養ってもらったのにな。感謝の心すらないんだな。

「じゃあ、私の家から出て行ってもらおう。それから慰謝料請求するからな」

「はあ? 家って私がもらったわよね。慰謝料って何よ」

妻が動揺して叫ぶが、実は弁護士さんから言われていたのだ。妻と娘の長年の言動は、間違いなくモラハラ。あの時はまだ三年目で初めて言われたから難しかったが、今ならもう立派な離婚の理由になるし、慰謝料も請求できると。だから私は、もしまた妻が何か言ってきたら、今度こそ完全に妻に復讐してやろうと考えていたのだ。

「いいや。財産分与には入っていないし、私の名義だ。住む場所がないと困ると思っていたが、余計なお世話だったな」

「え、ちょっと待ってよ。こ、困るわ」

妻は急に弱気になったが、結局一言も謝罪の言葉がない。香りはその程度の人間なのだ。もう遅い。

「元々ボロかったし、どうせいらない家なんだ。私は別のアパートで暮らしているからな。売りに出すから、近日中に出て行ってくれ」

私は電話を切った。その後、離婚の時に依頼した弁護士に頼んで、香りには慰謝料も請求。弁護士さんが熱心な人で、「慰謝料の逃げ得は許しませんから」と受け負ってくれたので安心している。家も無事に売れた。二人はしぶしぶ出ていき、ペットの犬は「いらない」と私に押し付けてきた。私がいないため長い間散歩も行っていなかったようで、私を見ると大喜びですり寄ってくる。

「お前だけだよ。これからは私が一生ちゃんと世話をしてやるからな」

この犬のように、普通に家族として楽しく暮らせたら良かったのにと思うと少し残念だが、二人の自業自得だ。香りはずっと専業主婦で働いた経験もほぼない。すみれも高校卒業後は「家事手伝い」という名前のニートだ。これからの生活は大変だろうが、もう他人だし、私の知ったことではない。

今は社長として責任のある身だ。私を慕ってついてきてくれた若い部下には、妻や子がいる者も多い。部下たちのためにも、第二の人生、頑張っていこう。

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