「母さん、もうお役御免だから。」
電話越しに聞こえてきた嫁の言葉に、私は一瞬自分の耳を疑いました。ほんの3時間前、息子の強しから感謝の電話があったばかりだったのです。
「母さん、300万円の振り込み確認できたよ。本当にありがとう。助かった。」
珍しく優しい声でそう言われて、私たち夫婦が爪に火を灯すようにして貯めてきた老後資金から、泣く泣く300万円を振り込んだ直後のことでした。
40年近く、看護師として夜勤も休日出勤も厭わず働いて、ようやく貯めたお金。それでも息子が困っているならと、夫と相談して援助を決めたのです。
「え、今何て言ったの?」
震える声でそう聞き返す私の耳に、今度は強しの声が聞こえてきました。
「エミの言う通りだよ。もう僕たちは夫婦水入らずで生きていくから。今までありがとう。」
その瞬間、私の心に湧き上がったのは怒りでも悲しみでもなく、ある種の確信でした。ああ、とうとうこの時が来たのだと。
受話器を置いた私の顔を、隣で一部始終を聞いていた夫がじっと見つめていました。そして私は夫に向かって静かに微笑んだのです。
「よし子、あの子たちは本当にそう言ったのか?」
夫の正尾が信じられないという表情で私を見つめていました。私は静かに頷きながら、リビングの壁に飾られた家族写真を見上げました。強しが大学に合格した時の笑顔が、今となっては眩しくしか見えません。
思い返せば、この40年間、私たち夫婦は息子のためだけに生きてきたようなものでした。看護師として夜勤も休日出勤も厭わず働き、強しの教育費だけで1200万円。私立大学の学費も一人暮らしの仕送りも、全て私たちが負担しました。
「結婚資金の500万円も、新居の頭金800万円も、全部私たちが出したわよね。」
正尾が帳簿を開きながらつぶやきます。孫が生まれてからは、その教育費まで援助してきました。
「お母さんたちに任せれば安心」と言われ、喜んでいた自分が愚かに思えます。
「今回の300万円を合わせると、総額2800万円か。」
正尾の言葉に私は苦笑いを浮かべました。私たちの老後資金の大半を、息子夫婦に注ぎ込んでいたのです。それも毎回「これが最後」と言いながら、結局は息子の頼みを断れずに。でも不思議と後悔はありませんでした。むしろ、これで心置きなく次の行動に移れるという、妙な解放感すら覚えていたのです。
その夜、私は眠れずにいました。隣で正尾の鼾が聞こえる中、私はそっとベッドを抜け出し、書斎へと向かいました。
私には息子夫婦に言っていないことがありました。3ヶ月前からある違和感を覚えて、密かに調べていたことが。
書斎の引き出しから、1冊のファイルを取り出します。そこには私が独自に集めた証拠の数々が綴じられていました。
最初のページは、強しの会社の同僚から偶然聞いた話のメモでした。
「佐々木さん、最近パチンコにはまってるらしくて、昼休みも抜け出してるんですよ」
という何気ない一言。でも息子は私たちに「残業で忙しい」と言って、援助を求めてきていたのです。
次のページをめくると、そこにはエミのSNSの画面をプリントアウトしたものが。「今日も高級エステでリフレッシュ」「新作のブランドバッグゲット」といった投稿の数々。援助した直後ばかりでした。
さらに衝撃的だったのは、次のページに貼られた写真でした。これは先月、偶然通りかかった街外れで見かけた強しの姿を撮影したもの。高級クラブから、明らかに酔った様子で出てくる息子。その腕には、エミではない若い女性が寄り添っていました。
まさか、借金の本当の理由は。震える手で次の証拠を確認します。それは強しの会社の後輩から内緒で教えてもらった情報でした。
「佐々木さん、給料日になると消費者金融のATMに直行してるんです。多分借金がかなりあるんじゃないかと。」
私はため息をつきながら、最後のページを開きました。そこにはエミの実家について調べた資料が。
父親は地元でも有名な会社経営者で、資産は数億はあるはずでした。どうしてエミの実家には頼らないの?以前そう聞いた時のエミの答えを思い出します。
「お母さん、うちの親は厳しくて、お金のことは一切援助しないって決めてるんです。」
でもエミのSNSには、実家の豪邸で撮った写真が頻繁にアップされていました。両親との仲も良好そのもの。
その時、ファイルに挟んでいた小さな紙切れが落ちました。それは2週間前に偶然見つけたエミのメモでした。掃除をしている時にゴミ箱から拾い上げたもの。
「義母からの搾取計画」というタイトルの下に、恐ろしい内容が綴られていました。
「今月、子供の塾代で30万。来月、車の修理で50万。再来月、強しの研修費用で40万。」
そして最後にこう書かれていました。
「年内目標500万円。どうせあと数年の命だし、今のうちに絞り取る。」
私の手が震えました。怒りで、悔しさで、そして何より息子夫婦の人間性への失望で。
「よし子、こんな時間にどうした?」
振り返ると、正尾が心配そうな顔で立っていました。
「正尾、見て。これを。」
私は震える手で集めた証拠を夫に見せました。一つ一つ確認していく正尾の顔が、みるみる青ざめていきます。
「これは、ひどすぎるだろう。」
「でも、まだ続きがあるの。」
私はパソコンを開き、ある音声ファイルを再生しました。それは1週間前に息子夫婦が我が家に来た時、こっそり録音していた会話でした。
「あの老夫婦、本当にちょろいよな。」
強しの声。
「そうよね。泣き落としすればすぐお金出すもの。」
エミの笑い声。
「来月も緊急の出費を作って、最低でも30万は引き出そう。」
「賛成。どうせ俺たちが相続するんだから。今もらっても同じだろ。」
正尾の顔が怒りで真っ赤になりました。
「よし子、もう十分だ。あいつらの本性はよくわかった。」
「でも正尾、これだけじゃないの。過去3年間の通帳を調べたら。」
私は別のファイルを開きました。そこには過去3年間で息子夫婦に渡したお金の詳細なリストが。
「3年間で1500万円。」
正尾が絶句しました。援助の名目は様々でした。孫の入学金、車の購入、家のリフォーム、強しの資格取得。でも今思えば、全て嘘だったのかもしれません。
「よし子、君はいつからこれを?」
「3ヶ月前からよ。でもまさか息子があそこまで落ちているとは思わなくて。」
私は涙をこらえながらファイルを閉じました。40年間愛情を注いで育てた息子。その結果がこれなのかと思うと、胸が張り裂けそうでした。
翌日の午後、私と正尾は息子夫婦の家を訪ねました。「お役御免」と言われた直後に訪問するのは不自然かもしれませんが、私たちには確認したいことがありました。本当に息子たちは私たちを切り捨てるつもりなのか?最後の希望を持って、玄関のチャイムを鳴らしました。
「あら、何の用?」
ドアを開けたエミの表情は、明らかに迷惑そうでした。後ろから強しも顔を出しましたが、その目は冷たく、まるで招かれざる客を見るようでした。
「あの、昨日の電話のことでもう一度話し合いたくて。」
私が言いかけると、エミが大きなため息をつきました。
「お母さん、昨日はっきり言ったでしょう。もう親御免だって。日本語わかります?」
その言い方に、正尾が一歩前に出ました。
「エミさん、その言い方はないんじゃないか。よし子は君たちのことを心配して。」
「心配?」
エミが鼻で笑いました。
「心配なんていりません。私たちはもう大人なんですから。」
強しも腕を組みながら言いました。
「父さん、母さん、僕たちももう40過ぎなんだ。いつまでも親に頼ってられないし、親に頼られても困る。」
私は息を飲みました。
「私たちがいつ、あなたたちに頼ったの?」
「将来の話ですよ。」
エミが遮って入りました。
「もう70近いでしょう。これから病気になったり、介護が必要になったり。正直、私たちにそんな余裕はないんです。」
正尾の顔が怒りで紅潮しました。
「君たちは300万円を受け取った直後に、そんなことを言うのか。」
「は、そのお金のことですが。」
強しが急に真顔になりました。
「あれは借りたんじゃなくてもらったものと認識してます。今までの養育費のお釣りみたいなものでしょう。」
私はあまりの言葉に立ちくらみがしました。正尾が私を支えてくれなければ、その場に崩れ落ちていたかもしれません。
「お釣り?」
「そうですよ。」
エミが当然のように言いました。
「子供を育てるのは親の義務でしょう。大学まで出してもらったとしても、それは当たり前のこと。むしろもっと良い大学に行かせてくれなかったことを恨んでるくらいです。」
強しも同調するように頷きました。
「正直、母さんたちの教育方針のせいで僕の人生は思い通りに行かなかった。もっとお金をかけて良い塾に通わせてくれていたら、今頃もっと良い会社で働けていたはずだ。」
私は信じられない思いで息子を見つめました。この子は本当に私が育てた強しなのか。
「でも、私たちは夜勤も休日出勤もして、あなたのために。」
「はいはい。その苦労話は聞き飽きました。」
エミが手をヒラヒラと振りました。
「お母さんたちの時代と今は違うんです。苦労自慢されても困ります。」
正尾が一歩前に出ました。
「じゃあ、今まで援助してきた2800万円はどう説明するんだ?」
「2800万円?」
強しが驚いたように言いました。
「そんなにもらった覚えはないけど。」
「とぼけるな。結婚資金、家の頭金、孫の教育費。」
「は、それ。」
エミが涼しい顔で言いました。
「それって贈与でしょう。贈与に見返りを求めるなんて、セコいですね。」
私は込み上げる怒りを必死に抑えました。セコい?私たちが老後資金を削って援助したお金を。
「老後資金?」
強しが鼻で笑いました。
「母さんたちの遺産なんて、どうせ大した額じゃないでしょう。田舎の小さな家とわずかな貯金。正直、期待なんてしてません。」
その瞬間、エミが思い出したように言いました。
「そういえばお母さん、最近物忘れがひどくないですか?さっきから同じ話ばかり繰り返してますし。認知症の検査でも受けたらどうです?」
「認知症?」
私は耳を疑いました。
「そうですよ。お金を渡したとか渡してないとか、わけの分からないこと言ってますし。正常な判断力があるとは思いません。」
強しも追い打ちをかけるように言いました。
「確かに母さんは最近おかしい。被害妄想もひどいし。父さん、ちゃんと病院に連れて行った方がいいよ。」
正尾が怒りで震えながら言いました。
「よし子は正常だ。お前たちこそ、人の心を失っているんじゃないか。」
「人の心?」
エミがバカにしたように笑いました。
「綺麗事を言っても仕方ないでしょう。これが現実です。私たちには私たちの生活があるんです。」
「じゃあ、なぜエミさんの実家には頼らないんだ?」
正尾が鋭く聞きました。エミの顔が一瞬こわばりました。
「それは、うちの親は。」
「嘘をつくな。」
私は静かに言いました。
「あなたのお父様は、あなたを可愛がっているはずよ。」
エミの目が険しくなりました。
「だから何?うちの親の金は私たちのもの。あなたたちの金もいずれは強しのもの。当たり前でしょう。」
その言葉を聞いて、私の中で最後の何かが切れました。もう、この子たちに期待することは何もない。
「わかりました。」
私は静かに言いました。
「もうお邪魔しません。」
「やっと分かってくれましたか?」
エミが満足そうに言いました。
「これでお互いスッキリしますね。」
強しも冷たく言い放ちました。
「母さん、父さん、もう来ないでください。孫にも合わせません。お役御免の意味、分かってもらえましたよね。」
正尾が私の肩を抱いて、玄関を出ました。背後から声が聞こえました。
「あ、そうそう。もし認知が進んで施設に入ることになっても、私たちは一切面倒見ませんから。そのつもりでいてくださいね。」
私たちは無言で歩き続けました。でも不思議なことに、私の心は妙に落ち着いていました。むしろ、全てがはっきりしたことで、次にやるべきことが明確になったのです。
車に乗り込むと、正尾が私の手を握りました。
「よし子、もう決心はついたな。」
私は夫を見つめて静かに微笑みました。
「ええ、これで心置きなくあの計画を実行できるわ。」
家に戻った私たちは、リビングのソファに並んで座りました。正尾が静かにお茶を入れてくれる間、私は窓の外を眺めながらこれまでの人生を振り返っていました。
「よし子、お茶。」
正尾が差し出したカップを受け取りながら、私は夫に向かって言いました。
「正尾、いよいよね。」
「ああ、もう迷うことはない。」
正尾は力強く頷きました。
「あの子たちは完全に一線を超えた。」
私たちは立ち上がり、寝室の奥にある金庫へと向かいました。ダイヤルを回す手は、不思議なほど落ち着いていました。扉が開くと、中には数冊の書類ファイルと封筒が整然と並んでいました。
正尾が一番手前のファイルを取り出し、中身を確認します。
「これだな。よし子の父さんの遺産相続の書類。」
私は静かに頷きました。実は息子夫婦には一切話していませんでしたが、3年前に亡くなった私の父は、地元でも有名な地主でした。山林と農地を合わせて、東京ドーム10個分。当時は2~3億の評価でしたが、ある重大な変化が起きていたのです。
「再開発計画の正式決定通知。先月届いたものだ。」
正尾が書類を広げました。そこには計画課からの通知が。私の相続した土地の大部分が、新幹線の新駅建設予定地と大型商業施設の開発エリアに含まれることになったのです。
「土地の評価額、15億円。」
正尾が改めて数字を確認しました。
「これが来月には正式に確定する。」
私は別の封筒を取り出しました。中には弁護士事務所からの書類が入っています。
「こっちは贈与契約の取り消し準備書類ね。実は私たち、1ヶ月前からある老練な弁護士に相談していたの。息子夫婦の態度があまりにもおかしかったため、万が一の時のために法的な準備を進めていたのよ。」
「民法上、害意行為による贈与の取り消し。」
正尾が書類を読み上げました。
「贈与を受けた者が贈与者に対して著しい背信行為があった場合、贈与を取り消すことができる。」
私は苦笑しました。
「お役御免、認知症、暴言。十分すぎる背信行為よね。」
「ああ。しかも今日の会話は全部録音してある。」
正尾がポケットから小さなICレコーダーを取り出しました。
「まさか本当に使うことになるとはな。」
私たちはさらに奥から別のファイルを取り出しました。そこには過去3年間の贈与の詳細な記録が。銀行の振り込み明細、息子からのメールやLINEの画面コピー、全てが時系列で整理されていました。
「4300万円か。」
正尾がため息をつきました。
「300万円を受け取った今を含めてな。」
「全額返還請求するわよ。」
私は静かに、しかし断固として言いました。
「1円も負けるつもりはないわ。」
正尾が電話を取り出し、番号を押し始めました。
「山田弁護士ですか?佐々木です。例の件、着手の手続き、予定通りお願いします。」
電話の向こうで弁護士の声が聞こえました。
「承知しました。内容証明郵便は明朝一番に発送します。銀行への口座凍結申請も同時に行います。」
「それと。」
正尾が続けました。
「息子の勤務先への通知の件もお願いします。」
「はい。借金の連帯保証人解除の件と合わせて、会社のほうに連絡を入れます。」
私は驚いて正尾を見ました。
「連帯保証人?」
電話を切った正尾が説明しました。
「実は強しが会社の同僚から借金をしている際、俺が保証人になっていた。本人は忘れているようだが、その解除通知も同時に送る。まあ、そんなことまで。総額500万円だ。明日保証人を解除すれば、強しは自分で何とかしなければならなくなる。」
私たちは金庫を閉め、リビングに戻りました。テーブルの上には、もう一つの重要な書類が置かれていました。
養子縁組の申請書。
私が手に取りました。
「みさちゃん夫婦、喜んでくれるかしら。」
みさは私の妹の娘。看護師の私を慕い、自らも看護師になった優しい子です。夫婦で私たちを本当の両親のように慕っています。「いつもそう言ってくれる」心優しい二人でした。
「あの子たちなら、きっと喜んでくれる。」
正尾が微笑みました。
「財産のためじゃなく、心から俺たちを大切にしてくれている。」
私は立ち上がり、仏壇に手を合わせました。
「お父さん、あなたの残してくれた土地、大切に使わせていただきます。でも、親不孝な孫には1円も渡しません。」
振り返ると、正尾が優しく微笑んでいました。
「よし子、明日からが本番だ。覚悟はいいか?」
「ええ。」
私も微笑み返しました。
「40年間の思いに、きっちりけじめをつけるわ。」
その夜、私たちは久しぶりに乾杯しました。明日、息子夫婦の元に届く内容証明郵便がどんな波紋を呼ぶのか。でも、もう迷いはありませんでした。
「お役御免なら、こちらも遠慮はいらないわね。」
私がそうつぶやくと、正尾が声をあげて笑いました。こんなに晴れやかな気持ちになったのは、何年ぶりでしょうか。
翌朝8時、息子夫婦の家のインターホンが鳴りました。
「はい。どちら様?」
エミの眠そうな声が聞こえ、郵便局員が事務的に告げました。
「内容証明郵便です。佐々木強様とエミ様。受け取りのサインをお願いします。」
その30分後、私の携帯電話が激しく鳴り始めました。画面には強しの名前。私は正尾と目を合わせてから、ゆっくりと電話に出ました。
「母さん、これは一体どういうことだ?」
強しの怒鳴り声が響きました。私は冷静に答えました。
「そういうことって、何のことかしら?」
「とぼけるな。贈与契約の取り消しだと?4300万円を返還しろだと?」
「ああ、それね。」
私は淡々と言いました。
「昨日はっきり言われたでしょう。私たちはもうお役御免だって。だったら、他人にお金を贈与する理由もないわよね。」
「他人って、親子だろうが。」
「あら、昨日は違うこと言ってたけど。」
正尾が横から口を挟みました。
「お役御免、認知症、暴言。全部録音してあるぞ。」
電話の向こうで、強しが息を飲む音が聞こえました。
「それに。」
私は続けました。
「民法には、害意行為による贈与の取り消しという条文があるのよ。贈与を受けた人が贈与した人に対して著しく背信な行為をした場合、贈与を取り消せるの。」
「そんな法律、知らなかった。」
私は静かに笑いました。
「まあ、普通の親子なら使うことはない条文だものね。」
その時、背後でエミの叫び声が聞こえました。
「ちょっと、私の口座が凍結されてる。お金が引き出せない!」
「あ、それもね。」
正尾が説明しました。
「返還請求と同時に仮差し押さえの手続きをしたんだ。君たちが財産を隠したり使い込んだりしないようにな。」
「父さん、まさか。」
「強し、お前の会社にも連絡が行っているはずだ。」
正尾が淡々と告げました。
「連帯保証人解除の件でな。」
「連帯保証人?」
強しの声が震えました。
「まさか、山田さんからの借金の。」
「そう、500万円の保証人解除だ。今すぐに全額返済しないと、お前の会社での立場はどうなるかな。」
電話の向こうで、強しが何かを説明する声が聞こえました。そしてエミの悲鳴のような声。
「お母さん!」
エミが電話を奪い取ったようでした。
「これはやりすぎです。私たちの生活はどうなるんですか?」
「あら、エミさん。」
私は優しい声で言いました。
「あなたのお父様は会社経営者でしょう。このくらい、何とかなるんじゃない?」
「それは。」
「できないの?」
私は続けました。
「まあ、お父様に今までの嘘がばれたら、エミさんも困るものね。義両親には一切頼っていないって言ってたんでしょう。」
エミが絶句しました。私は淡々と続けました。
「それから、もう一つお知らせがあるの。」
「まだ何か?」
「私の父の遺産のことよ。」
私は深呼吸をしてから言いました。
「実は父はかなりの土地を所有していてね。それを私が相続していたの。」
「土地?」
強しの声が割って入りました。
「まさか、田舎の山林とかじゃ。」
「ええ、山林よ。でもね、先月その土地が新幹線の新駅建設予定地と大型商業施設の開発エリアに指定されたの。」
電話の向こうが静まり返りました。
「評価額、15億円。」
エミの悲鳴が聞こえました。強しは言葉を失っているようでした。
「15億?」
やっと強しが小声で言いました。
「母さん、それじゃあ、それは僕が相続するんだよね?」
「あら、どうして?」
私は鼻で笑いました。
「大したことないって、昨日言ってたじゃない。」
「それは、それは知らなかったから。」
「知らなかった?」
正尾が怒りを込めて言いました。
「お前たちは俺たちの財産を調べもせずに、お役御免と切り捨てたのか。」
「違う。誤解だ。」
強しが必死に言いました。
「母さん、父さん。昨日のはエミが勝手に。」
「何言ってるの?」
エミの怒った声が聞こえました。
「あなたも同意したでしょう?」
二人が言い争いを始めました。私はため息をついて言いました。
「それからね、もう一つ大事なお知らせがあるの。」
言い争いが止まりました。
「私たち、養子縁組をすることにしたの。」
「養子?」
強しの声が裏返りました。
「誰と?」
「みさちゃん夫婦よ。私の妹の娘の、あなたも知ってるでしょう?みさ。あの、そう、いつも私たちを大切にしてくれる心優しい子たち。昨日の夜、正式に話をしたら、涙を流して喜んでくれたわ。」
「待てよ。」
強しが叫びました。
「それじゃあ、相続は。」
「養子にも実子と同じ相続権があるのよ。」
私は静かに言いました。
「でもね、遺言も作成済み。全財産をみさちゃん夫婦に相続させる内容でね。」
「そんなのおかしい!」
エミが泣き叫びました。
「強しさんは実の息子なのよ!」
「実の息子?」
私は冷たく言いました。
「昨日、もう家族じゃないって言ったのは誰?お役御免って言ったのは誰?」
正尾が続けました。
「お前たちは親子の縁を自分たちから切ったんだ。だったら相続の権利を主張する資格もない。」
「母さん。」
強しが泣きそうな声で言いました。
「お願いだ。考え直してくれ。」
「考え直す?」
私は静かに笑いました。
「じゃあ、まず4300万円を返してちょうだい。話はそれからよ。」
「4300万円なんて、そんな金ない!」
「あら、私は意地悪く言いました。パチンコとキャバクラで使い果たしたの?それともエミさんのブランド品に消えたのかしら。」
強しが息を飲みました。
「母さん、なんで知ってる?」
「全部調べたわよ。あなたたちの嘘も、搾取計画も、全部ね。」
私は最後に止めの一言を放ちました。
「ああ、それから強し。あなたの会社の人事部にも、あなたの借金癖と横領疑惑について情報提供しておいたから。まあ、これは親心よ。会社に迷惑をかける前に、きちんと調査してもらった方がいいでしょう。」
「横領?」
強しの声が震えました。
「営業の交際費、本当に全部仕事で使ったの?領収書、全部揃ってるかしら?」
電話の向こうで、強しが崩れ落ちる音が聞こえました。
「お母さん。」
エミが泣きながら言いました。
「そこまでしなくても。」
「あら、これくらい普通でしょう。」
私は微笑みました。
「だって、私たちはもう他人なんだから。他人が詐欺師を見つけたら、通報するのは市民の義務よ。」
「詐欺師?」
「4300万円も騙し取ったら、立派な詐欺だよ。」
正尾が断言しました。
「刑事告訴も検討している。覚悟しておけ。」
私は最後に言いました。
「さあ、これでお役御免の意味、よくわかったかしら。私たちを捨てるということは、私たちからの恩恵も全て失うということよ。」
そして私は静かに電話を切りました。正尾と顔を見合わせ、二人で深く息をつきました。40年間の重荷が、やっと肩から降りたような気がしました。
あれから3ヶ月が経ちました。私と正尾は今、豪華客船のデッキで朝日を眺めています。地中海クルーズ。これは正尾と約束していた、夢の旅行でした。
「よし子。綺麗な朝焼けだな。」
正尾が優しく私の肩を抱きました。隣のテーブルでは、みさちゃん夫婦が幸せそうに朝食を取っています。
「おばさん、本当にいいんですか?こんな豪華な旅行まで。」
みさが申し訳なさそうに言いました。私は微笑みを浮かべました。
「いいのよ。家族で過ごす時間が一番の幸せだもの。」
みさの夫も深々と頭を下げました。
「本当に親御同然に扱っていただいて、僕たちは幸せものです。」
養子縁組は正式に成立しました。みさ夫婦は心から私たちを慕い、週に3回は顔を見せに来てくれます。金銭目的ではない、純粋な愛情。これこそが私たちが求めていた家族の形でした。
「そういえば。」
正尾がスマートフォンを取り出しました。
「強しから、また謝罪のメールが来てる。」
私は首を横に振りました。
「もう見なくていいわ。返事もしない。」
強し夫婦のその後は、予想通りの結末でした。会社の調査で横領が発覚し、強しは懲戒解雇。4300万円の返済ができず、自己破産を申請。エミは全てが明るみに出たことで実家から縁を切られ、離婚調停中だと風の噂で聞きました。
「因果応報という言葉がぴったりね。」
私がつぶやくと、正尾も頷きました。
「親の恩を仇で返した罰だ。」
でも不思議と、恨みや悔しさは感じませんでした。むしろ、あの出来事があったからこそ、本当の幸せに気づけたのです。
みさが優しく言いました。
「おばさん、私たちがいます。これからは私たちが恩返しをする番です。」
その言葉に、私は涙が込み上げてきました。40年間注いできた愛情は報われませんでしたが、こうして新しい家族ができた。これも運命なのでしょう。
船内放送で、本日の寄港地の案内が流れました。
「さあ、今日はもうすぐ出発よ。」
私は立ち上がりました。
「カジノには行かないけど、美術館を回りましょう。強しと違って、私たちはギャンブルには興味ありませんから。」
みさの夫が笑いました。その一言で、みんなが笑い出しました。そう、もう過去を振り返る必要はないのです。
実は、15億円の土地の売却も正式に決まりました。税金を払っても10億以上が手元に残ります。でも私たちは贅沢をするつもりはありません。
「みさちゃんたちの将来のために信託財産に。残りの半分は、恵まれない子供たちのための基金を作るの。」
私の言葉に、みさが目を輝かせました。
「素晴らしいです。おばさんらしい選択です。」
正尾も満足そうに頷きました。
「金は正しく使ってこそ価値がある。」
船がゆっくりと港に近づいていきます。白い建物、そして温かい太陽。全てが輝いて見えました。
ふと、スマートフォンに通知が来ました。強しからではなく、強しの元同僚からでした。
「佐々木さんのお母様、強しさんが今、キャバクラで暴れているそうです。お母様を恨んでいると。」
私はそのメッセージを読んですぐに削除しました。
「どうした?」
「なんでもないわ。」
私は正尾に微笑みかけました。
「過去からの亡霊よ。でも、もう関係ない。」
「そうだな。」
私たちには輝かしい未来があります。みさちゃん家族との温かい時間、そして残された人生を有意義に使う計画。
「おばさん。」
みさが真剣な顔で言いました。
「私、看護師として恵まれない高齢者のための施設を作りたいんです。」
「素晴らしいわ。」
私は彼女の手を握りました。
「全面的に支援するわ。」
「本当ですか?」
「もちろん。お金は人の幸せのために使ってこそ意味がある。」
みさの目に涙が浮かびました。
「強しさんは、本当に愚かでしたね。こんな素晴らしいご両親を失うなんて。」
私は静かに言いました。
「あの子はお金しか見ていなかった。でも、本当に大切なのは心のつながり。それに気づけなかったのが、あの子の不幸。」
正尾が哲学的にうなずきました。
「人生で最も価値があるのは、金でも地位でもない。それは、心から信頼できる家族との絆だ。」
私たちはモナコの港に降り立ちました。新しい一日の始まりです。振り返ると、みさちゃん夫婦が手をつないで歩いてきます。その姿を見て、私は心から思いました。
これこそが、本当の家族の姿だと。
「お役御免」あの言葉を言われた日、私は静かに微笑みました。その微笑みの意味は、諦めではなく新しい人生への期待だったのです。そして今、私たちは完全な勝利者として、第二の人生を謳歌しています。
親を顧みないものは必ず報いを受ける。感謝の心を失った時、全てを失う。でも、真心で接してくれる人との出会いが、新しい幸せを運んでくれる。これが私たち夫婦が学んだ、人生の真実でした。



