クリスマスの夜、義母の家を訪ねると、家は真っ暗で、インターホンを押しても反応がなかった。隣人の話では、ここ数日ずっと暗いままだという。心配になった私は、預かっていた鍵を使って家の中に入った。
「お母さん、大丈夫ですか?」
寝室で毛布に包まり、寒さに震える義母を見つけた。話を聞くと、数日前に電気を止められたという。ガスも水道も止められていた。ここ数ヶ月、義母への仕送りはおろか、年金さえも入金されていなかったのだ。収入を失った義母は、光熱費を支払えず、滞納で止められてしまっていた。
「どうして……とにかく、うちに行きましょう」
道中、義母は数日前から何も食べていないと言った。自宅に着き、義母を風呂に入れ、食事を用意すると、ようやく安心した表情を見せてくれた。
「あなたが生活費のためスマホを解約したって聞いて、連絡できなかったの」
「え? 私はスマホを解約なんてしていません。誰がそんなことを言ったんですか?」
私はある人物が頭に浮かんだ。
「お母さん、もしかしたら、あの人に騙されていたのかもしれません」
私は天、38歳。2つ年上の夫・翔太と結婚してから専業主婦をしている。翔太と出会ったのは3年前、生命保険会社の営業員として働いていた時のことだ。訪問先の会社で翔太と出会い、台風の日に社員食堂で声をかけたのがきっかけだった。その後、保険の契約には至らなかったが、個人的な付き合いが始まり、交際に発展。1年前にプロポーズされ、結婚した。
結婚後、翔太の強い希望で専業主婦になった。営業の仕事柄、異性と会う機会が多いのをよく思っていなかったのだ。将来を共に過ごすと誓った相手だからこそ、彼の気持ちを尊重した。
翔太の両親は彼が大学を卒業した頃に離婚しており、義実家には義母が一人で住んでいた。結婚の挨拶に行くと、義母は私を心よく受け入れてくれた。結婚後も本当の娘のように可愛がってくれ、翔太の小さい頃の話もよく聞かせてくれた。
しかし、結婚して3ヶ月が経った頃、義母が自宅の階段から転落し、病院に運ばれたと連絡を受けた。腰を強く打ち、腰椎に損傷が見られ、当分の間リハビリが必要だと言われた。義母はパート先で長時間の立ち仕事をしており、続けられる状況ではなかった。
「お母さん、今は安静にして治療に専念してください。生活なら私たちがなんとかしますから」
「そんなの悪いわ。それに翔太が反対するわ」
「大丈夫です。私が説得しますから」
その日、家に帰って翔太に義母への仕送りを提案した。しかし、義母の予想通り、翔太は「無理だ」と言い放った。
「どうして無理なの? 私たちには子供もいないし、少しくらい仕送りしても問題ないわ」
「少しって、毎月15万もどうして親に出さなきゃいけないんだ?」
「お母さんが大変な時なんだから、助けてあげるべきでしょ。無視して放置するなんて信じられないわ」
翔太は首を縦に振らなかった。
「無理なものは無理だ。親なら自分の生活くらい自分でなんとかするべきだろう。ちいち息子に助けを求めてくるなんておかしいんだ」
実の母親が困っているのに、自分のことばかり主張する翔太に腹が立った。それでもなんとか説得し、翔太はしぶしぶながら義母へ毎月15万円の仕送りを始めた。
しかし、3ヶ月後、翔太の給料日に家計費を下ろそうと銀行へ行くと、夫婦の共同口座に入金がなかった。翔太に確認すると、彼は言いにくそうに言った。
「実は、ここのところ会社の業績が悪くて、給料が減らされたんだ」
翔太の会社は中小企業とはいえ、世界規模の感染症の中でも業績を伸ばしてきた会社だ。上場も噂される会社が急激に業績を落とすとは信じがたい。
「どのくらい減らされたの?」
「これまでの半分だ。だから、お袋に仕送りをしながら生活費を負担するのが難しいんだよ」
翔太は自分たちの家計よりも義母への仕送りを優先したという。
「そうだったのね。ちゃんと話してくれたら良かったのに」
「すまない。専業主婦でいてほしいって言った手前、言い出しにくかったんだ」
あれほど仕送りを嫌がっていた翔太が、義母の生活を優先させたいと言っている。私はそのことが嬉しかった。翔太がようやく義母を気遣うようになったのだ。
翌日から、私は家計を支えるためパートに出ることにした。同時に、保険会社時代に取得したFPの資格を生かし、在宅ワークも始めた。翔太は「助かる」と私の仕事復帰を応援してくれた。
しかし、数日後、翔太の部屋を掃除していると、見覚えのない書類を発見した。それは賃貸契約書だった。自宅とも義母の住むマンションとも違う小さなアパートで、契約者欄には翔太の名前が書かれている。契約日は数日前。給料が減らされ、生活費も入れられないと言っていた翔太が、なぜ新しいアパートを契約したのか。
翔太を問い詰めると、「残業や休日出勤が増えたため、私に気を使わせないように別に部屋を借りた」と言う。しかし、そもそも夫婦それぞれの部屋を持っており、寝る部屋も別にしている。それに、そのアパートは翔太の会社とは逆の方向にあり、通勤には不便な場所だった。
考えてみれば、翔太は残業だと言い出した頃から、身だしなみに気を使うようになった。それまでは無頓着で、シワの入ったシャツで会社に行くこともあったのに。休日出勤ともなれば、入念に服装を整えていた。
まさか、翔太は浮気しているのではないか。疑念が湧いたが、本当に仕事を頑張っているのであれば、余計な詮索をして彼のやる気を削ぐわけにはいかない。私はあえて何も言わず、様子を見ることにした。
数週間後、義母から電話がかかってきた。
「言いにくいんだけど、今月の仕送りはどうなっているのかしら」
「え? 翔太が振り込んでいるはずですけど」
「それが、いつもならもう振り込まれているんだけど、今月はいくら待っても振り込まれていないのよ」
翔太は義母への仕送りもせず、一体何にお金を使っているのか。私の中の疑惑が再燃した。翔太は浮気相手に貢いでいるのではないか。そう思うと無性に腹立たしくなり、その日夜遅くに帰ってきた翔太を問い詰めた。
「お母さんへの仕送りもせずに、どういうつもり?」
「違うんだよ。これには訳があって」
翔太は焦っているようだった。
「実は会社が本当にやばくて、仕送りもできないくらい給与が減らされてるんだ。もしかしたら倒産するかもしれない」
「それが本当なら、転職した方がいいんじゃない? いくら業績が悪いからって、決められた給料を勝手に下げるなんてありえないわ」
「大学を卒業してからずっと世話になってる会社なんだ。そんな薄情なことできないよ」
翔太は会社のせいにすれば私が納得するとでも思っているのだろうか。
「残業も休日出勤も増えているっていうのに、どうして給料が下がっているの?」
「倒産の危機を回避しようと、社員一丸となって頑張っているんだよ。パートしかしていないお前には分からないだろう」
まともな給与ももらえないのに、会社にしがみつく理由がどこにあるのだろう。仮に翔太の話が本当だとしても、家族がありながら生活が維持できない会社に勤める人などいるはずがない。
「とにかく、そういうことだから、これ以上俺の仕事に口を出すな」
「仕事に口を出すつもりはないわ。だけど、お母さんの生活はどうするのよ?」
「それはお前がなんとかしてやってくれ」
翔太は私に義母への仕送りをしろと言うが、パートの収入は毎月の生活費で消えてしまう。在宅ワークも始めたばかりで収入には繋がっていない。それでも義母の生活を支えていかなければならない。私は一晩寝ずに考え、パートを掛け持ちし、翔太に代わって義母への仕送りをすることにした。
それからというもの、私の日常は目まぐるしいものとなった。朝早くから仕事に出かけ、夕方はまた別の仕事に行く。家に帰るのはいつも20時頃で、家事を済ませて在宅ワークに向かう。正直、パートの収入で家計と義母への仕送りの両方を賄うのはきつかった。それでも、義母の体調が良くなるまではと必死に頑張った。
1ヶ月後、義母からの連絡はなかった。何も困ったことが起きていないのだろう。時間に余裕がなくなった私は義実家に様子を見に行くこともできなかったが、何かあれば連絡があるだろうと、この時は特に深く考えずに安心していた。
それから2ヶ月後のクリスマスの夜。普段はあまり顔を合わせなくなった翔太とゆっくり食事でもしようと、私は仕事の休みを入れ、手料理を作って待っていた。しかし、夕方になって翔太から「残業で帰れない」と連絡が来た。
またか。翔太が残業を理由に家に帰ってこない日が増えていた。アパートに泊まると言って、身の回りのものも持ち出している。夫婦でありながら、まるで別居しているかのような生活が続いていた。もしかしたら、クリスマスは愛人と過ごすのかもしれない。そう思いながら、せっかく作った料理を無駄にしたくなく、義母と一緒に食べようと久しぶりに義実家を訪ねることにした。
しかし、義実家は完全な暗闇で、インターホンを押しても反応がない。義母はどこかに出かけているのだろうか。そう思い、スマホを取り出して義母に電話をかけようとした直後、隣人の男性が顔を覗かせた。聞けば、ここ数日義実家はずっと暗いままだという。まだ体が本調子でなく長時間の外出が難しい義母が、連日家を開けていることなど考えにくい。仮に長期間の外出をするのであれば、防犯の意味でも私に連絡をしてくるはずだ。
よく見ると、電気のメーターは1ミリも動いておらず、雪が舞う寒空だというのに、暖房はおろか冷蔵庫も稼働していないと思われた。まさか義母の身に何かあったのだろうか。大きな不安に襲われた私は、義母から預かっていた鍵を使って家の中に入った。
「お母さん、大丈夫ですか?」
返事は帰ってこない。しかし、寝室の方からかすかに物音が聞こえてきた。慌てて寝室に向かうと、そこには毛布に包まり、寒さに震えている義母がいた。
「一体どうしたんですか?」
義母に駆け寄り、部屋の照明をつけようとリモコンのスイッチを押しても反応がない。電池切れかと思い、部屋のスイッチを押しても明かりはつかなかった。
「お母さん、一体何が?」
「それが、引き落としができてないからって、数日前に電気を止められちゃったのよ。ガスも水道も」
「え? どうして?」
聞けば、ここ数ヶ月、義母への仕送りはおろか、2ヶ月に1度振り込まれる年金さえも入金されていないという。収入を失った義母は、光熱費を支払うこともできず、滞納で止められてしまっていたのだ。スマホで辺りを照らすと、部屋には複数のバケツが置かれていた。
「とにかく、うちに行きましょう」
私は義母を自宅で保護することにした。道中、義母は数日前から何も食べていないと言う。
「手持ちのお金も尽きてしまって、もうどうにもできなかったのよ」
「連絡してくれたら良かったのに」
「迷惑かけたくなかったのよ」
タクシーに乗り込み、冷え切った義母の体をさすりながら、私は忙しさにかまけていた自分を責めた。
自宅に到着し、義母を風呂に入れ、食事を並べると、義母はようやく安心した表情を見せてくれた。
「何にも迷惑なんかじゃないから、これからはちゃんと連絡してくださいね」
「ありがとう。だけど、連絡のしようがないわ。私の足じゃここまで歩いてくるのも難しいし、電話がなきゃどうやって連絡したらいいのか」
義母の話に私は首をかしげた。
「電話がないって、どういうことですか?」
「ふみさんが生活のためスマホを解約したって。私に仕送りをしているばかりにふみさんが苦労しているって思ったら、心が苦しかったわ」
「それは誰から聞いたんですか? 私はスマホを解約したりしていませんよ」
義母は、私がスマホを解約したと聞かされ、電話ができなかったという。
「だけど、翔太がね、ふみさんとは連絡取れないからって。だけど、あの子にかけても全然出てくれなくて。それに、いつの間にかふみさんの番号も私のスマホから消えていたのよ」
義母が差し出したスマホには、確かに私の番号が消されていた。家の固定電話は数ヶ月前に翔太が解約していて、スマホ以外には連絡の取りようがない。それなのに、翔太はなぜ義母に嘘を吹き込んだのだろうか。
「もしかしたら、翔太に騙されていたのかもしれませんね」
「騙されてた?」
「ええ。私は毎月お母さんの口座にお金を入金しています。それが消えている上に、私と連絡を取らないように仕向けた。翔太が何か隠していることは間違いなさそうです」
翔太が何らかの理由で意図的に私と義母の連絡を遮断したことは明白だった。それに、義母への仕送りや年金を引き出せるとしたら、義母の家に保管されている通帳やカードのありかを知っている人しかありえない。近頃流行っている詐欺の可能性も考えられるが、義母に確認しても第三者に通帳やカードを渡した覚えはないという。それであれば、ほぼ100%に近い確率で、身近な人間が勝手に引き出しているとしか思えなかった。
翌日、私は義母を連れて、義母名義の口座がある銀行へ向かった。窓口で事情を話し、取引明細を出してもらうと、毎月私が15万円を入金したその日のうちに、何者かによって出金されていた。そればかりか、義母の年金までもが一緒に引き出され、口座はほぼ残高がない状態になっていた。出金は常にキャッシュカードで行われており、誰かが勝手に義母のカードを持ち出していることは明らかだった。
「だけど、家には誰も入っていないわ」
「最近、翔太は行きましたか?」
「2週間くらい前だったかしら。私の様子を見に来てくれたわ」
義母の口座のお金を引き出しているのは、やはり翔太で間違いない。私の中で確信が湧いた。その後、義実家を調べてみると、義母の通帳と一緒に保管していたはずのキャッシュカードが見当たらなかった。
その日の夜、私は義母と共に翔太を問い詰めた。
「お母さんへの仕送り、あなたが引き出したんでしょう」
「何を根拠に俺を疑うんだ?」
「キャッシュカードが使われているのよ。あなたが持ち出さなければ、他に誰がいるって言うの?」
翔太は何食わぬ顔で白を切る。
「俺が知るか。勝手な妄想で人を悪者にするな」
「家にはお母さん以外にあなたしか入ってないのよ」
「どうせおふくろの認知症が進んで、自分で勝手に散財したんじゃねえの」
翔太は義母を認知症だと決めつけ、笑っている。
「お母さんは認知症じゃないし、散財しないわ」
「どうだかな。年には勝てないって言うだろう」
義母を前にして堂々と嘘をつく翔太の姿に、私は怒りを通り越して呆れてしまった。
「分かったわ。じゃあ、もしあなたが犯人だったら、離婚してもらいますから」
「ああ、いいだろう。その代わり、俺が犯人じゃなかったら、お前は一生俺の奴隷だ」
翔太は絶対にバレないと高をくっているのだろう。しかし、その様子から見ても、翔太が犯人であることに間違いなさそうだ。
数日後、私は改めて義実家のタンスを開けてみた。すると、引き出しの奥から、紛失していたはずのキャッシュカードが出てきたのだ。
「ほら見ろ。お袋が自分でしまった場所を忘れていただけだったんだ」
翔太は勝ち誇ったように大声で笑っている。
「いえ、お母さんの勘違いじゃないわ」
私は1枚の紙を翔太に突きつけた。
「実は、ネットで購入した簡易の指紋検査キットを使って、タンスの引き出しに残されていた指紋を調べてみたの。すると、引き出しから採取した指紋と翔太の指紋を重ね合わせると、見事に一致したのよ」
「俺の実家なんだ。指紋が出て当然じゃないか」
証拠を突きつけてもなお、翔太は白を切り通している。
「それがありえないのよ。実は、義実家のタンスは、義母が結婚した当初から使っていた古いものだったため、損傷も激しく、義母に不便な思いをさせたお詫びにと、前日に私が買い換えたものなの」
新しいタンスの引き出しに翔太の指紋が残っているはずもなく、翔太が嘘をついていることは明白だった。それでも、この時はわざと納得したふりをした。確固たる証拠がない以上、翔太を追い詰めるわけにはいかない。
数日後、私は探偵事務所に依頼し、翔太のことを調べてもらった。身だしなみに気を使い、生活費を入れなくなった理由はただ1つ。愛人がいるからだ。それを証明するため、翔太の勤務先と逆方向にあるアパートを借りた理由を探ろうとした。
その結果、翔太は地下アイドルの白雪姫野と不倫関係にあることがわかった。翔太は彼女を応援したい一心で、多額の資金援助をしていたのだ。姫野のグループが出すアルバムを何十枚も購入し、姫野のブロマイドやポスターも不必要に購入していた。そして、新しく借りたアパートで姫野と定期的に密会し、関係を重ねていたのである。
その事実を知った瞬間、私は翔太に対する全ての情が消え去った。心のどこかでまだ翔太のことを信じていたのかもしれない。それでも、真実は重く私にのしかかった。
数日後、私は姫野のライブ配信に一般視聴者として参加した。翔太は熱心に投げ銭をし、気持ち悪いほどの愛のメッセージを姫野に送っている。その大半を「ありがとう」の一言でかわされているにも関わらず、翔太は課金しまくっているのだ。生活費を入れなくなった理由はこれに間違いない。義母への仕送りさえもやめて、翔太は全財産を姫野に貢いでいたのである。
翌日、私は翔太と姫野の不倫の動画や証拠写真を、ハッシュタグ「白雪姫野」をつけてSNSで投稿した。すると、それを見たであろうファンを中心に、瞬く間に拡散された。その日の姫野のライブ配信は荒れに荒れていた。清楚系で売っていた姫野が、まさか既婚者の男性と不倫関係にあるなど、誰も想像していなかったのだろう。配信のコメント欄には「裏切り者」「嘘つき」と罵倒の言葉が並んだ。
その後、ネット上では翔太の素性がさらされ、顔写真付きで身元が特定された。自宅前には連日スマホのカメラを掲げた野次馬たちが集まり、翔太は家を出ることもままならなくなった。
それから数日後、翔太は勤めていた会社のコンプライアンスに違反したとして、懲戒解雇の処分が言い渡された。翔太は姫野との関係はあくまで「推し活」だと主張したようだが、すでに私から送っていた証拠の数々がそれを否定していたのである。
社会的地位も信用も失った翔太に、私は離婚届を突きつけた。
「なんだよ、これ」
「見ての通り、離婚届よ。散々裏切ったんだもの。当然でしょ」
「まあいい。いずれお前とは離婚するつもりだったんだ」
翔太は開き直ったように離婚を受け入れた。
「俺は姫野と一緒になりたいんだ。お前から離婚を言い出してくれて、手間が省けた」
「そうだったら、早く署名して。それから、あなたと姫野さんには慰謝料をきっちり支払ってもらえますから」
「好きにしろ。姫野は地下アイドルとはいえトップアイドルなんだ。慰謝料くらいどうってことない」
翔太はどこまでも強気で、何の躊躇もなく離婚届にサインし、そのまま姫野の元へ向かった。しかし、1時間も経たないうちに自宅へ戻ってきたのだ。
「やっぱりお前が1番だ。離婚はやめよう。この通りだ」
翔太は土下座をしながら私に復縁を迫ってきた。
「お断りよ。どうせ姫野さんに振られたんでしょ。ていうか、最初から翔太と付き合うつもりも、まして一緒になるつもりもなかったんじゃない?」
「実は、そうだったんだ」
翔太は姫野と結婚するつもりでアパートに向かったらしい。しかし、姫野から「おじさんは疫病神」と追い返されたのだとか。結局のところ、姫野にとって翔太はただのATMにしか過ぎなかったようだ。
「俺、目が覚めたんだ。だから、もう一度やり直してくれ」
「いや、離婚届はもう提出したし、私とあなたはすでに他人よ」
私はすでにまとめてあった荷物を持って、家を出ようと玄関に向かった。
「すまなかった。この通りだ」
翔太は私の足にすがりつき、泣きながら必死に謝ってきた。
「自業自得でしょ」
私はすがる翔太を振りほどき、後ろも振り返らずに家を後にした。
その後、翔太の家には姫野の熱心なファンが押し寄せ、嫌がらせを繰り返したのだとか。連日のように「姫野をたぶらかした」と罵詈雑言を浴びせ、翔太は家に引きこもるようになった。近隣住民からは騒音で苦情が殺到し、すでにSNSで顔がさらされていた翔太は、どこに行っても白い目で見られるようになった。耐えられなくなった翔太は、その後人知れず町を出ていったようだ。
私はと言うと、翔太と姫野に慰謝料請求を行い、振り込まれたお金をもとに、義母に新しいマンションを用意した。義母は生活保護を受けることになり、年金の振り込み先も変更して、今は快適な暮らしを送っている。あれから翔太が泣きついてきたようだが、義母はそれを追い返し、親子の縁を切ったそうだ。実の親子とはいえ、身勝手な欲のために親である義母の命を脅かしたのだから、無理もない。使い込んだお金の返還を求めなかっただけ、ありがたいと思ってほしい。義母は今でも翔太のことが許せないようだ。
私は在宅ワークが軌道に乗り始め、パートの収入と合わせて、経済的にも精神的にも安定した日々を送っている。1人になって寂しくなるかと思っていたが、軽くなった背中はこれまで以上に世界を明るく映し出してくれ、快適な日常への喜びの方が大きかった。私にとって翔太の存在がどれほど重たいものだったのかを思い知らされる。
義母とは今でも本当の親子のような関係が続いていて、時々旅行にも行きながら、女2人の人生を謳歌している。最近、パート先で知り合った実業家の男性と仲良くなり、交際することになった。今後どうなるかはまだ分からないが、翔太の時と同じ過ちを犯さないよう、言いたいことはちゃんと伝えるようにして、お互いに隠し事や嘘のない関係を築いていけたらと思っている。私の第2の人生が明るいものであるように、私らしく生きていくつもりだ。



