橋の中央に差し掛かった瞬間、馬車の一頭が踏んだ石版が大きく割れ落ちた。馬が驚いて前足を上げ、体をよじらせた。荷が崩れ、御者の一人が膝から倒れた。悲鳴が上がり、後ろの者たちが我先にと後ずさった。石の破片が川面に落ち、大きな音を立てた。誰もが頑丈だと信じていた新しい石橋が、あと数十秒遅ければ二頭の馬もろとも川に落ちていたかもしれない。その時、橋の下で若い石工が命をかけて叫び続けていたことを、誰も知らなかった。
始まりは、この橋が架かるずっと前のこと。誰からも取るに足らぬ者として見過ごされていた一人の若い石工の物語である。
ある藩の城下に、年老いた石工の五兵衛と、その弟子である岩吉が暮らしていた。五兵衛はこの地で石工を営んで三十年を超える男であり、岩吉は幼い頃からその下で石ばかりを見て育った。親を早くに亡くした岩吉を、五兵衛は実の子のように育て上げていた。石の目を読む感覚は、教えたわけでもないのに岩吉の方が鋭いことがしばしばあり、五兵衛はそれを誇らしく、そしてどこか不安に思いながら見てきた。
その日は、城下でも指折りの豪商である佐野長兵衛の屋敷の庭を新しく造り直す日だった。夜明け前から庭に石と土がぶつかる音が絶えなかった。白い石粉が朝日の中を舞い、石の匂いが庭中に漂っていた。長く削り出した一枚板を両側の石に渡し、客人がそこに腰かけて池を眺められるようにする仕事だった。五兵衛と岩吉もその仕事に呼ばれていた。
庭の片隅には、候補として運び込まれた石材がいくつも並べて置かれていた。まだ朝の冷気が残り、石の表面はしっとりと冷たかった。鳥の声が庭の外から時折聞こえてくるだけで、庭は静かだった。
主の佐野が自ら庭に出て、石材を一枚一枚見て回った。これは厚みが足りぬと首を振り、あれは色が気に入らぬと通り過ぎた。そうして選び続けた目が、ある一枚の石材の前で止まった。一尺は広く、真っ直ぐな一枚だった。
「これだ。これほどの石は他にあるまい」
佐野は満足げな顔で手をこすり合わせた。
ところが岩吉がそっと近づき、その石材を覗き込んだ。指先で表面を撫でてみると、首をかしげた。
「旦那様、この石は行けません」
佐野が眉を吊り上げた。
「何を言う?」
「石目が片側に寄っております。荷を支えて真ん中に重さがかかれば、割れるでしょう」
岩吉は控えめに、しかしはっきりと言った。
佐野は鼻で笑った。
「若造が何を知っておる。石材を扱って三十年になるわしの目が、石一つ見誤るとでも思うか」
周りの職人たちも笑いをこらえる様子だった。五兵衛が口を差し挟もうとしたが、佐野は手を振ってその言葉を遮った。
「よい。お前たちはただ言われた通りにすれば良いのだ。石を見る目はわしにもある」
周りの者たちは互いに顔を見合わせるばかりで、止めたい気持ちはあってもその豪商に逆らえる者はいなかった。佐野はつかつかと歩み寄り、石材の真ん中、まさに岩吉が差し示した場所にどっかと腰を下ろした。腕組みまでして、一つ咳払いをした。
「見よ。これほど頑丈なもの」
その言葉が終わらぬうちに、石材の真ん中から「バキッ」と嫌な音がした。佐野の顔から笑みがすっと消えた。次の瞬間、石材は二つに割れ、佐野の体はそのまま下に落ちた。尻を地面に強く打ち付けられ、両足は宙に浮いてもがいた。
庭が一瞬静まり返った。職人たちは笑いをこらえて顔を赤くした。誰も声を上げようとはしなかったが、その静けさの中に隠しきれない笑いの気配が漂っていた。
岩吉が真っ先に駆け寄り、佐野を支えた。慌てる様子は少しもなかった。佐野はその手を借りてどうにか体を起こしたが、面目は丸つぶれだった。髪が半ば緩んで、斜めに乱れていた。佐野はどうにか着物を整えると、急に顔つきを変えた。
「己れ、さっきから怪しいと思っていたが、お前があらかじめこの石に傷をつけておいて、知ったふりをしたのではないか」
岩吉の顔が強張った。
「そんなはずがございません。私はただ石目を見て、危ないと思っただけです」
「最初からこの石を使えぬようにしておいて、わしより先に見抜いたふりをして、得意げにしただけであろう」
佐野の声が荒くなった。身分の低い岩吉には、その前で正面から言い返す術がなかった。悔しさをこらえて口を噤むしかなかった。周りの職人たちも互いに目配せをするばかりで、誰も助け舟を出そうとしなかった。この屋敷で佐野に逆らって得をした者は、これまで一人もいなかったからである。
その時、五兵衛がそっと前に進み出た。
「もしそのお言葉が真であるならば、今日の手間賃はいただきません」
庭が静まった。
「もし岩吉が本当に石に傷をつけて偽りを申したのであれば、その罰は私が代わりに受けましょう。しかし、もしあの石が元より疵のあった石であったならば、旦那様もあれが確かな石であることだけはお認めいただかねばなりません」
声に揺らぎはなかった。佐野は沈黙したが、やがて頷いた。
「ならば確かめてみるが良い。ただし、間違っていればお前も今日の手間賃はないものと思え」
人々が割れた石材の断面に集まった。よく見ると、石がずっと以前から片側に寄っていた跡が歴然としていた。最近誰かが手を加えた形跡はどこにもなかった。石の奥深くまで続く、長い年月が作った疵だった。
「ほう。これは元々欠けておった石ではないか」
周りの職人が呟いた。
「新しくつけた傷であれば、色が違うはずだ」
別の職人も相槌を打った。誰も岩吉に傷をつける暇などなかったことは、その場にいた者なら皆分かっていたはずだった。佐野はますます言葉を失い、咳払いを二度三度繰り返すばかりだった。
五兵衛がその隙を逃さず、しれっと一言添えた。
「この石が、旦那様の座る場所を見抜いて、あらかじめご挨拶も申し上げたのでございましょう」
堪えていた人々の笑いが、あちこちで弾けた。佐野は怒りをこらえきれず、咳払いでごまかすしかなかった。
仕事を終えて帰る道すがら、五兵衛は岩吉の肩を軽く叩いた。
「手間賃を取り上げられんでよかったな」
「本当に上げられたら、どうするもりでしたか?」
「岩吉が間違えるはずがないと、勝っておったからよ」
二人は顔を見合わせ、長年を共に過ごした者同士でなければ出てこない、穏やかな笑いを交わした。
城下の辻に差しかかった頃、人々の騒めきが聞こえてきた。
「今度新しく架かった石橋、出来上がったそうだ」
「城下でこれほどの橋は初めてだとか」
「石の一つ一つを丁寧に仕上げたそうだ」
「明日が渡り初めだと言うぞ」
「見物に行ってみようか」
五兵衛がその話に耳を傾けた。
「今日は久しぶりに聞く話だな」
岩吉も足を緩め、思わずそちらに目を向けた。橋という言葉に目を輝かせる様子は、紛れもなく石工のそれだった。平屋を積む日々ではなかなか出会えぬ大きな仕事だった。石工というなりをしている者なら、誰しもあれほどの規模の普請にいつか自分の手も添えたいという思いを胸の奥に抱いているものである。岩吉もその一人だった。
翌日、岩吉は朝から落ち着かなかった。昨日市場で聞いたあの橋の話が頭から離れなかった。とうとう五兵衛の元へ行き、そっと切り出した。
「師匠、あの新しい橋のことですが」
「またその話か」
五兵衛は道具を整えながら苦笑した。
「昨日一日中石を見て回ったというのに、今日もまた石を見に行くつもりか」
「橋は少し違いましょう」
「何が違う? 石は皆同じ石だ」
そう言いながらも、五兵衛はすでに道具を下ろしていた。表向きは渋るそぶりを見せながらも、内心では師匠自身も気になって仕方なかったのだ。
二人は城下の人々に混じって橋へと向かった。噂を聞きつけた者は少なくないようで、道にはすでに見物人が列をなしていた。子を背負った女房もいれば、杖をついた老人もいた。
「あの橋がそれほど立派だと言うなら、自分の目で見なければ分かるまい」
「聞くところによれば、城下の橋よりも立派だそうだ」
皆それぞれに言葉を交わしながら歩く足取りは軽かった。五兵衛もその中で、うんうんと頷きながら人々の話に耳を傾けていた。
遠目にも橋は一目で分かった。真っ直ぐに削られた石が幾重にも積まれ、川の両岸を結んでいる。評判通り見事なものだった。川に映る影まで真っ直ぐに見えるほどであった。
「ほう。これはなかなか見事だ」
五兵衛も感嘆を隠せなかった。三十年の腕を握ってきた身でも、これほどの規模の橋は早々目にするものではなかった。
岩吉もまた、初めのうちは他の見物人と変わらぬ様子だった。目を大きく見開き、橋の作りをあちこち眺め回した。真っ直ぐに揃えられた滑らかな仕上げに、思わず感嘆が漏れた。
ところが、その人混みの中に、異質な雰囲気の一団があった。ただの旅の者たちのように見えたが、その眼差しだけは尋常でなかった。橋を見る目つきが見物人たちとはまるで違っていた。歩き方も周りを見回す様子も、どこか慎重だった。中でも一人は、取り分け橋のあちこちを注意深く見て回っている様子だった。石の一つ一つを目で確かめていく様が、他の見物人とは明らかに違っていた。景色を眺める者らしく振る舞いながら、その視線は決して橋から外れなかった。周りに従う若い侍たちが、袖のうちでそっと何かを書き留めている様子も見えた。
橋の袂に詰めていた地元の役人の一人が、その一団の前を通りかかるなり、なぜか自然と背を丸め、頭を低くしては消えた。ほんの一瞬のことで、誰も気に留めなかったが、五兵衛の目には留まった。しかし、誰もそれがこの藩を納める殿の一行であるとは思いもしなかった。皆、橋に夢中であったからだ。
五兵衛はその一団をちらりと横目に見て、岩吉に囁いた。
「あの方々、身なりは質素だが、足の運びが尋常ではないな」
「そうですね」
岩吉も何気なく頷いた。しかし、その時はまだ二人とも、この縁が後にどれほど自分たちの人生を大きく揺さぶることになるか、まるで見当もつかなかった。
橋の手前にはすでに太い注連縄が渡されていた。まだ正式な渡り初め前のため、誰も勝手に渡れぬよう封じてあったのだ。橋のこちら側には見物人がすでに幾重にも並び、その最前列には偶然にもあの武家風の一団が人だかりしていた。川向こうにも人が集まっていた。そちらの最前列には、荷を山と積んだ馬車の馬が数頭連なって止まっていた。橋が開くのを待ちながら、馬をなだめる馬方の姿が遠目にも見えた。
役人の一人が橋の真ん中に出て、声を張った。
「間もなく渡り初めを告げる。皆、順序を守って渡られよう」
その言葉に、両岸の人々が一斉に騒めいた。誰もが前に出ようと我先に立った。
渡り初めを待ちながら人々の中に立っていた岩吉の目に、妙なものが映った。橋の袂の石畳に、白い石粉がうっすらと積もっていたのだ。新しく架けた橋にしては珍しい跡だった。岩吉は注連縄の前に車寄せ、その場所を確かめた。指先で粉をこすってみた。粒が細かいところを見ると、石が擦れて落ちた粉だった。
ところが、今度は目の前に見える橋脚の石目に目が留まった。よく見ると、石と石が合わさる部分がどこか微妙にずれていた。目の利かぬ者なら見過ごすほどの、わずかな違いだった。
「師匠、少し下を見てまいります」
五兵衛が止める間もなく、岩吉はすでに橋の袂を伝って下へ降りていた。まだ渡り初め前のため、橋の下はまだ人気がなかった。役人の一人がその様子を見て眉を潜めた。
「渡り初めもしておらぬのに、なぜ下へ降りる」
岩吉はその視線には構わず、川岸へと降り立った。水に濡れた石を踏みながら、橋脚に近づいた。最初の橋脚を拳でコツンと叩いてみた。澄んだ硬い音が響いた。安心できる音だった。
ところが、すぐ隣の橋脚を叩くと、音がまるで違った。コツコツという音が、どこかに籠もっていた。まるで中が空の甕を叩いているような音だった。岩吉は目を見開いた。念のためもう一度叩いてみたが、やはり同じ音だった。続けて三箇所ほど場所を移して確かめると、二箇所は同じように籠もった音を返し、一箇所だけが澄んで固く響いた。見た目は他の場所と少しも変わらぬ石なのに、こちらの中身はまともな石ではないとしか思えなかった。
額に冷や汗が滲み始めた。もしや自分の聞き違いかと思い、手のひらで押してみたり、鑿の柄で叩いてみたりもしたが、どちら側から確かめても結果は変わらなかった。
岩吉は急いで坂道を駆け上がった。顔つきがすっかり変わっていた。
役人が橋の真ん中で手を高々と上げた。
「さあ、これより新しい石橋の渡り初めを告げる」
その言葉と共に、注連縄が両側で同時に外された。橋のこちら側では、侍が馬を駆って足を踏み出そうとしており、向こう側では馬方が馬を促して、二頭の馬の一団を前に進めていた。両岸の人々が一斉にどよめきながら、橋へと押し寄せ始めた。
岩吉は身を投げるように橋の最前列に立った。
「この橋を渡ってはなりません」
岩吉が両腕を広げてその前を遮った。低いが揺るぎない声だった。
周りの役人の一人が眉を潜めて詰め寄った。
「何を言うか。今は渡り初めを告げたばかりであるぞ」
「橋脚の継ぎ目が損なわれております。叩いてみれば、音が違います。今、人が上がれば危のうございます」
岩吉は重ねて言った。役人は目でざっと見ただけで、手を振った。
「それは新しい石が落ち着く音であろう。おい、あの者を引き立てよう」
後ろに控えていた小役人が近づき、岩吉の肩を掴もうと手を伸ばした。しかし岩吉は身をかわしてその手を避け、後には引かなかった。
「信じられぬのなら、直接今の下へ降りて叩いてみてください」
五兵衛がその間に岩吉の腕を掴んだ。
「揉めるな」
声が低かった。
「我らは人様の家の石を積むものだ。下手にでしゃばれば、我らが痛い目を見るぞ」
その手には心配と恐れが共に込められていた。指先がかすかに震えていた。岩吉はしばしその手を見下ろした。いつも自分を守ってきてくれたその手だった。しかし、今この瞬間だけは、そういうわけにはいかなかった。すぐ後ろで何十人もが橋に上がろうと我先に立っていた。
岩吉は初めてその手をそっと解いた。
「師匠、あの橋に人が上がります」
声は震えていたが、目は揺るがなかった。そして体を回し、後ろに詰めかけた見物人たちに向かって両腕を広げた。
「しばらく、しばらくお待ちください。橋が危のうございます」
こちら側の人は岩吉の叫びに驚いて足を止めた。しかし、川向こうの様子は違っていた。距離が遠く、人々の声にかき消され、岩吉の声はそこまで届かなかった。馬方は何も聞こえぬまま、すでに馬を促して橋の上へ足を踏み入れていた。荷を山と積んだ馬の一団が、橋のこちらへ向かって近づいてきた。
岩吉の心臓が縮み上がった。こちらはどうにか止められたが、向こうはもう遅かった。
馬の一団が橋の中ほどに差しかかった時であった。
「ギシリ」と重く嫌な音が、橋全体を伝って響いた。その音はまるで地の底から登ってくる呻き声のようだった。橋脚の一本がわずかに沈み、その上の石版が大きく割れ落ちた。馬が驚いて前足を高く上げ、横に大きく体をよじらせた。荷が崩れて散らばり、御者の一人が体勢を崩して膝から倒れ込んだ。
「橋が沈む!」
誰かの悲鳴のような叫びが上がった。後に続いていた人々がその声に足を止め、前を見た。目の前で石版が割れ、馬が乱れる光景を目撃した人々は、それ以上考える間もなく体を返し、元いた方へと一斉に走り戻り始めた。子を抱いていた女房はその手をより固く握りしめ、年寄りは若い者に支えられながら夢中で足を運んだ。
幸い、大きな怪我をした者はいなかった。倒れた馬方もすぐに周りの者に助けられ、擦り傷程度で済んだ。橋全体が崩れたわけではなかったが、馬が通っていた辺りの石版と橋脚の一部が深く沈み込み、もはや人が渡れる状態ではなくなっていた。
騒ぎが収まると、割れた石版の断面から中身が露わになった。設計では、上等な切り石を中心に据え、その奥に大石を組み合わせて荷重を分散させ、隙間には細かな砂利を丁寧に詰めて固めるはずだった。ところが、実際にそこにあったのは、表に薄く切り石を張っただけの姿であり、内側の大半には荷を支える力のない小さな石と土くれの塊が、ただ詰め込まれているだけであった。切り石であれば、荷の重みを全体へ分散させ長く持つはずのものが、この作りではわずかな重みが一点にかかるだけで、容易に崩れてしまう。
人々がその様子を見て、言葉を失っていた。
「あれは一体何だ?」
「中にあんなものが詰まっていたのか?」
武家風の男がその崩れた場所をじっと見つめた。膝を折って、石の一つを指先でつまみ上げ、しばし眺めた。指でこすってみると、石はもろく崩れた。
「これが単なる事故であるはずがない」
低く呟く声に、周りの者たちが控えめに頷いた。男が崩れた橋脚を手で示しながら、言葉を継いだ。
五兵衛もまた、その崩れ方をじっと見ていたが、顔が真っ白に強張った。表だけを整えて中は砂利に詰める手口。かつて見たことのある手口だった。しかし、五兵衛はその場で何も言わなかった。岩吉はそんな師匠の顔をそっと見上げた。何か訳があるのかと、岩吉の心の片隅に小さな疑問が根を下ろした。
崩れた橋を後にして、武家風の一団が近づいてきた。
「そなたら、しばし案内に来られるか」
威厳のある、重みのこもった声だった。
一団は近隣の他の普請場をいくつか回った。その中の小さな橋一つと、蔵の一部からも、岩吉は先ほどと同じ跡を見つけ出した。表は丁寧な切り石で仕上げてありながら、内側は同じように砂利で埋められていた。
「ここも同じでございます」
岩吉が低く言うと、役人の顔色が土色に変わった。時も場所も違うのに、中身の詰め方だけが不思議なほど同じだった。
武家風の男がその前に立ち、しばらく無言で見つめた。
「同じ石屋か。同じ普請役か。同じ勘定方か」
そう低く問うと、今日の者たちが慌てて帳面を確かめ始めた。
「偶然というには出来すぎておる。一つの繋がった手があるということだ」
男が顔を向け、五兵衛を見た。五兵衛の顔色は依然として優れなかった。何かを知っている様子のその顔を、男は見逃さなかった。
一団はそのまま大監所へと向かった。日はすっかり暮れていたが、誰も切り上げようとは言い出さなかった。大監所では、事情を知る役人ただ一人だけが一団へと案内した。他の役人には、国元からの内偵であるとだけ告げ、殿の身分は伏せられたままであった。
役人が灯りを灯し、帳面の束を持ってきた。普請の帳簿を確かめると、記録にはどれも最上級の石材を十分に買い入れたと記されていた。代金を払った後も、数量も全て整っていた。
「帳面だけ見れば、何の問題もないように見えます」
小役人が目を細めながら言った。
武家風の男が帳面を一枚一枚めくり、目を細めた。
「上等石と記された石が、実物では半分にも満たぬではないか。これほどの数の違いが見分の目を逃れるはずはない」
周りの役人の一人が別の書類を手に慌てて駆け寄った。
「石を運んだという納品の書き付けを見ますと、いずれも同じ商人の手を通っております。その商人は、佐野長兵衛と深く付き合いのある者にございます」
「運んだ数量と受け取った代金の差を照らし合わせますと、差額はおよそ半分。この差額がそのまま誰かの懐に流れ込んだと見て間違いございません」
男はしばし目を閉じ、やがて低く言った。
「まだ名を出すな。もう少し泳がせる。証を固めるにはまだ足りぬ。この男一人で動かせる金の額ではあるまい。誰と誰が絵を描いたのか、そこまで見極めねば、根を断つことにはならぬ。納品に関わった証人だけは、人目につかぬよう別々に呼び、話を聞いておけ」
いくつもの普請の責任者や、資材を納めていた証人たちを一人ずつ辿っていくと、結局のところ一つの名に行き着いた。この藩内では腕の良さで知られる豪商、佐野長兵衛だった。良い石を買う代金は確かに支払われていたのに、肝心の良い石はどこにも見当たらなかった。
岩吉はその名を聞いた瞬間、初めてこれが単なる事故ではないことを全身で悟った。五兵衛もまた、その名を聞いてようやく、先ほど橋の前でなぜあれほど顔を強張らせていたのか、自分自身でも改めて思い知る様子だった。
その夜、佐野の屋敷の奥座敷では、夜更けまで灯りが消えなかった。手代が慌てた様子で駆け込んできた。
「旦那様、帳面を改める者が現れました。石橋の一件から、あちらの筋が動き出したようで、大監所の役人のところにも見知らぬ役人が幾度も出入りしているとの噂にございます」
佐野の顔から血の気が引いた。
「石を一つかついで歩くような小僧のせいで、話がこれほど大きくなろうとはな」
周りの手代が頭を下げながら答えた。
「あの二人が二度と口を開けぬよう、手を打つのがよろしいかと。まだ大きな噂にはなっておりませんが、これ以上長引けば、こちらの帳面にまで手が伸びましょう」
佐野はしばし考え込んだが、やがて手を振った。
「罪を着せてでも黙らせろ。わしの名がかかっておるのだ。あの岩吉とやらも、追い出して口を封じよう。あの老いぼれには昔の一件がある。あれをもう一度持ち出せば、誰も味方せぬだろう」
「承知しました。大監所にも今一度、手を回しておきます」
手代が頭を下げて下がった。佐野は一人残り、酒杯を傾けた。これまでこの地で、彼の意に逆らった者はいなかった。大監所の役人も証人も、皆彼の顔色を伺って生きてきた。それがよりによって、石を運ぶだけの卑しい石工一人に、この晩節が揺らぐとは。考えるほどに腹立たしかった。彼にとって肝心なのは人の安全ではなかった。ただ自分の鉱石と体面、それだけであった。
明りの揺れるその座敷で、佐野の眼差しだけは冷たく沈んでいた。窓の外には闇がこた垂れ込めていた。
普請を後にした夜道であった。五兵衛と岩吉が並んで歩いていた。星明かりもない真っ暗な道だった。しばらく無言で歩いていた五兵衛が、ふと足を止めた。
「岩よ」
低く呼ぶその声には、普段とは違う重みがあった。
「もうここまでにしよう」
岩吉が足を止めて師匠を振り返った。
「師匠、何を仰せですか?」
「もう十分だということだ。我らが出しゃばる場ではない。今日見たもので十分だ」
五兵衛はしばし夜空を見上げた。長らく胸にしまい込んでいた話を切り出そうとする者の顔だった。道端の切り株に腰を下ろすと、彼はゆっくりと口を開いた。
「昔、随分昔のことだ。わしもまだ若かった頃、大きな蔵の普請に呼ばれたことがあった。お前くらいの年だったろうか」
岩吉には初めて聞く話だった。師匠がこのような話を口にしたことは、これまで一度もなかったからだ。岩吉も静かにその隣に腰を下ろした。
「あの時も、今と同じように表と中身の違う石を見た。わしはそれを見過ごせなかった。若かったから、何が恐ろしいかも知らなかった」
五兵衛の声が次第に低くなっていった。
「それで問題を訴えた。大監所に知らせたのだ。初めのうちは、見直しの言葉を聞いてくれるようだった。役人も頷きながら、よく気づいたと言ってくれた。ところが、心がいくばくも経たないうちに、帰ってきたものが何であったか分かるか?」
岩吉は何も言えぬまま、師匠の次の言葉を待った。
「わしが資材を盗み、普請を台無しにした者に仕立て上げられたのだ。一晩のうちに、盗人になっていた。誰がどうやってそれを仕組んだのか、わしには最後まで分からなかった。ただ、ある日突然縄をかけられ、役所の庭に引き出された。役所の庭で膝をつき、鞭の刑を受けながらも、わしは自分がどんな罪を犯したのか、最後まで分からなかった。痛みよりも、なぜという思いの方が強かった」
岩吉の目が見開かれた。
「その後、わしは大きな普請には二度と近づかなかった。こうした小さな石ばかり積んで生きてきたのだ。恐ろしかったからではない。ただ、二度とあのような目に会いたくなかっただけだ」
五兵衛の手がかすかに震えていた。三十年経った今も、その記憶は生々しい傷のままだったのだ。声にはあの日の悔しさが滲んでいた。
「お前までそうなるのが恐ろしくて、こう言うのだ。わしはお前のためを思って言うのだ。お前にはまだ生きる日が長くある」
岩吉はしばらく無言で師匠の顔を見つめていた。そして、ふと昼間の出来事を思い出した。五兵衛が自らの手間賃をかけて自分を信じてくれた、あの瞬間だった。
「師匠」
岩吉が静かに呼びかけた。
「私が見たものは、あの時も今も変わりません。兵の石も、今日の橋も、私の目には同じに見えます」
五兵衛は何も言わずにその言葉を聞いた。
「私も恐ろしいです。ですが、ここで知らん顔すれば、自分が見たものを自分自身すら信じられなくなる気がするのです」
岩吉の声は震えていたが、目は落ち着いていた。
「ですから、どうかもう一度だけ、私の目を信じてください」
五兵衛は何も答えられぬまま、ただ暗い夜空をしばらく見上げていた。風が二人の間を通り過ぎていった。しばらくして、五兵衛が静かにため息をついた。
「お前はいつの間に、これほど言葉が達者になったのか」
「師匠から学んだのです」
岩吉がかすかに笑って答えた。五兵衛もその言葉に苦笑をもらした。しかし、その笑いの奥には、なお重い影が残っていた。五兵衛は立ち上がりながら、着物の裾を払った。
「行こう。今夜はひとまず家に帰って、考えよう」
二人はまた闇の中を歩き始めた。しかし、五兵衛の足取りは先ほどよりはかに重く見えた。
ところが翌日、城下には奇妙な噂が広まり始めた。
「あの橋、元々丈夫だったそうではないか」
「橋の下に何者かが潜り込んで、何かをいじったそうだ。それで橋が沈んだのだと」
噂は昼を過ぎる頃には、ただの囁きから確信めいた話へと姿を変えていた。岩吉はわけもわからぬまま、その噂の渦中に立たされていた。いつも挨拶を交わしていた顔馴染みの物売りは、岩吉が近づくとそっと店先の品を家の中へ引き入れた。荷を抱える手がかすかに震えていたが、目を合わせようとはしなかった。幼い頃から顔を合わせていた隣の老人は、道であってもすっと顔を背け、そのまま足を早めて通り過ぎた。子供の頃から幾度も声をかけてくれた人だった。近くで遊んでいた子供たちが、大人の言葉をそのまま真似て「橋を壊した男」と指差しながら囃した。あの声には悪意というより、大人たちの言葉をそのまま繰り返しているだけの無邪気さがあり、それがなおのこと岩吉の胸を締めつけた。
岩吉が悔しさを訴えようとしても、誰もその言葉に耳を貸そうとはしなかった。卑しい身分の言葉と、大監所の言葉。そのどちらを人々が信じやすいかは、あえて問うまでもなかった。佐野が密かに流した偽の証言と噂は、またたく間に城下全体へ広まっていった。人を救おうと橋を止めた岩吉が、今や公けの普請を壊したとして非難を浴びせられていた。家へ帰る道すら、岩吉の足取りは鉛の重さだった。
その日の夕方であった。慌ただしい足音と共に、役人たちが押しかけてきた。
「岩吉とやらはここにおるか」
侍の役人が声を張った。帳面を持った小役人たちも幾人か家に上がり込み、その物音に路地の犬までも吠え立てた。
岩吉が答える間もなく、五兵衛が先に体を起こしてその前に立ち塞がった。
「わしがあの者の師匠だ。あれはわしの弟子だ。橋の下を確かめさせたのも、わしだ」
役人たちが互いに目配せをした。
「橋を壊したのはあの者ではない。そもそも、きちんと作らなかった者たちだ」
五兵衛の声には揺らぎがなかった。
「黙れ。老いぼれめ。お前まで一味であったか」
役人が目を吊り上げて怒鳴った。そして、昔の五兵衛の一件まで蒸し返した。
「聞けば、お前も昔、資材を盗んで捕らえられた前歴があるそうではないか。あの時も今回も、お前ら師弟揃って、大きな普請を台無しにしておるのだな」
昔の濡れ衣がこうして再び持ち出されると、五兵衛も予想していなかった。その顔が一瞬揺れたが、すぐに再び引き締まった。
岩吉がその言葉に前に出ようとした。
「それは事実ではありません」
しかし、五兵衛が腕を伸ばしてそれを制した。
「ならぬ。お前は黙っておれ」
低いが揺るぎない声だった。役人たちが縄を持って五兵衛に近づいた。岩吉がその前を塞ごうとしたが、五兵衛が素早くその手を振り払った。
「こんなことはなりません。師匠!」
岩吉が叫んだ。声が裏返った。五兵衛は振り返りもせず、素直に縄を受けた。両手が縛られる瞬間にも、その顔には恐れよりむしろ静かな落ち着きが漂っていた。
連れ去られる直前、五兵衛がふと足を止めて振り返った。そして、遠く川沿いに新しく築かれた大きな蔵を指さした。
「わしについてくるな。それより先に、あれをもう一度見て参れ。あの蔵、どうも様子がおかしかった。もうすぐ大雨が来るぞ」
岩吉が喉を詰まらせて何も答えられずにいると、五兵衛が最後にもう一度力を込めて言った。
「聞いておるか? 人の命がかかっておることだ。わし一人を案じておる時ではない」
その言葉を最後に、五兵衛は役人たちの間へと連れられていった。闇の中へ遠ざかる師匠の後ろ姿を、岩吉はその場から一歩も動けぬまま見つめていた。足音が路地の向こうへ完全に消えてからも、岩吉は長い間動けなかった。後に残された静けさの中で、師匠が初めて自分の代わりに世間の前を投げ出した瞬間の重みが、岩吉の胸を押しつぶした。しかし、その重みの真ん中でも、師匠の最後の言葉だけは鮮やかに残っていた。
「それより先に、あれをもう一度見て参れ」
岩吉は拳を握りしめた。悲しんでいる暇は贅沢に思えた。今すぐしなければならぬことがあった。
岩吉は一晩中、一睡もできなかった。師匠を助けに大監所へ駆けつけたい気持ちが何度も込み上げてきた。布団を跳ね除けて飛び出そうとするたびに、その度に五兵衛の最後の言葉が耳元に蘇った。
「それより先に、あれをもう一度見て参れ。人の命がかかっておることだ」
師匠一人を助けに行くことと、村中の人々を助けに行くこと。その間で岩吉の心は何度も揺れた。しかし、結局あの蔵を確かめるまでは、自分の代わりに師匠を救うてだてすら何も見えてこないのだと思い直した。ついに歯を食い縛り、足を蔵の方へと向けた。これが師匠が本当に望んでいることだと、信じていたからだった。
蔵の下には、いくつもの村が寄り添うように並んでいた。旗の間に低い屋根が連なるその眺めは、普段であれば申し分なく穏やかだっただろう。ところが、空は数日前から尋常でなかった。黒雲が低く垂れ込め、湿った風が川沿いを吹き抜けていった。村の年寄りたちが空を見上げては、ひそひそと囁き合っていた。
「この時期にあのような雲が出れば、時期に大雨が来るという」
「昨年もあのような雲の後に、水難があったな」
岩吉の心がさらに急いた。
見た目には申し分のない新しい蔵だった。岩吉は初め、何の異常も見つけられなかった。ところが、下の方に降りて詳しく調べていると、石の隙間からかすかに滲み出る水の筋が目に入った。澄んだ水ではなく、濁った水だった。指先で石目を撫でてみると、どこか妙にずれていた。橋で見たあの跡と、全く同じだった。
岩吉はそのまま大監所へ駆け込んだ。ちょうど役人と佐野が、新しい蔵を見て回りに来ていたところだった。息を切らせて駆けつけた岩吉を見て、役人たちの顔が一斉に強張った。
「この蔵は危のうございます。大雨が来れば、持ちこたえられません」
岩吉が急いで言った。役人が冷たい顔で振り向いた。
「若造がまだ懲りぬのか。一つ壊しただけでは飽きたらず、今度は蔵にまで難癖をつけるつもりか」
佐野も鼻で笑った。
「すでに見分を終えた蔵である。何の問題もないと、大監所でも幾度も確かめたことを、お前ごときが何を知って出しゃばるか」
岩吉は引き下がらなかった。
「ならば、石を一つだけ開けてみてください。それだけで十分です」
声に力がこもっていた。役人と佐野が互いに目配せをした。そのような求めに応じる筋はないという表情だった。
周りに集まってきた人々が、一人また一人と囁き始めた。噂を聞きつけて集まった者が、いつの間にかかなりの数になっていた。
「それなら確かめてみれば良いではないか。本当に何の問題もないなら、できぬはずもあるまい」
「あの若者が橋を見抜いたものだそうではないか」
あの一件があってから、皆の者の言葉を軽々に聞き流せなくなっていた。人々の視線が集まると、佐野も断りきれなくなった。額に冷や汗が浮かぶのが、傍目にも見えるほどだった。
ついに仕方なく、役人の一人が表の石を一枚剥がした。鑿で何度か叩くと、石が力なく外れた。その瞬間、中から小さな石と土がどっと崩れ出た。人々が一斉に息を飲んだ。
岩吉はその山を指しながら、はっきりと言った。
「表だけが石でございます。中身は石の体をなしておりません」
佐野の顔が青ざめた。それでも、彼は居直った。
「それはあの者が細工した、自分で動かした後であろう。人を落とし入れるために、自ら手を加えたに違いない」
岩吉は静かに石の底を指した。
「ご覧ください。石の裏には、ずっと以前からの水滲みの跡がございます。苔の色も、長い年月を経た者にしか出せておりません。新しくつけた傷であれば、こうはなりますまい」
周りに集まっていた石工の一人も進み出て、その後を確かめ、深く頷いた。
「確かに、これは古いものです」
佐野の顔がさらに強張った。
「もう良い。あの者を捕らえよう。怪しげな手口で人々を惑わしておる」
彼は自ら役人の腕を引っ張って、急かした。
その時であった。
「もうそれまでにしておけ」
低いが、その場全体を貫くような声だった。橋の上から一団を共にしていた武家風の男が、静かに前へ進み出た。その目には、これまでとは異なる重みが宿っていた。
佐野が目を吊り上げて振り返った。
「お前は何者だ? この一件に関わりのないものは、口を挟むな」
言い終わらぬうちであった。男の後に従っていた侍の一人が膝をつき、声を上げた。
「松田出雲の神様の御前でございます」
その一言に、その場全体が凍りついた。時が止まったかのようだった。役人たちの顔から血の気が引き、一人また一人とその場に膝をつき始めた。佐野の体がそのまま凍りついた。
橋を見て回ったあの瞬間から、石が崩れ出たあの瞬間まで、殿は初めから終わりまで身分を隠したまま、全てをその目で見届けていたのであった。
殿が周りの者に命じると、役人の一人が帳簿の束を取り出した。
「石橋と蔵、両方の納品の書き付けに同じ判が押されており、これに応じた商人はいずれも佐野との深い付き合いのある者であるとは分かっております。それが誰の差し図であったか、この場でお答えいただこう」
佐野が慌てて言い返した。
「それは手代が勝手にやったこと。私は知らぬ。何も存じません」
その言葉に、殿は静かに帳面のある一枚を示した。
「ここに書かれた石代の受け取り、そなたの手で書かれた判ではないか」
呼ばれた商人の一人が、震えながら前へ進み出た。すでに内に取り調べを受けていた者だった。
「旦那様に言われた通り、石は半分だけ納め、残りの代金は別に納めておりました。証を残すのは恐ろしゅうございましたが、旦那様に逆らうこともできず、言われた通りに帳面を書き分けておりました」
それを聞いた佐野の顔から、ついに言葉が失われた。何か言おうと口を開いたが、もう出てくるものは何もなかった。集まっていた村人たちの間からも、深いため息のような囁きが広がっていった。
「大監所の帳面と、この場で明らかになった証が一つに重なる。この者が公けの普請に手抜きをして民の財を横領し、それを隠すため、罪なき者たちに罪を着せたことは明白である」
殿の声が場に低く響いた。集まっていた村人たちの間から、押し殺していた怒号が一気に吹き出した。
「この者を直ちに縛り上げ、大監所に留めおけ」
そして、少し言葉を止め、また続けた。
「あの老石工、五兵衛と申したか。あの者の罪も、この場で改めて調べ直す。すでに牢に繋がれておるはずだ。この場に連れて参れ」
命が下ると、役人が縄を解き、五兵衛がこちらへ連れてこられた。一晩のうちに随分やつれた顔であったが、目だけは生きていた。岩吉がその姿を見て、その場を蹴って駆け出した。
「師匠!」
五兵衛は岩吉と向き合って足を止めた。二人の間に、しばし言葉がなかった。ただ互いの顔を確かめるように、見つめ合うばかりだった。
「ご無事でしたか?」
岩吉の声が震えた。
「わしが無事なのを見て、わしも今ようやく生き返る心地がするわ」
五兵衛がそう答えながら、岩吉の肩をしっかりと掴んだ。三十年の悔しさが、その短い一言でついに洗い流されていく瞬間だった。
周りに集まっていた人々の間にも、低い騒めきが起こった。
「あの老石工、昔盗人の濡れ衣を着せられたあの者ではないか」
「それが全て偽りであったというわけか」
人々の眼差しが、少しずつ変わっていった。
しかし、空はその感激さえ長くは待ってくれなかった。黒雲がさらに濃くなり、大粒の雨が一つ二つと落ち始めた。遠くで低い雷鳴が鳴った。このままでは今夜を越せぬのは明らかだった。
岩吉が空を見上げ、はっきりと言った。
「今は罪人を裁くより先に、蔵でございます」
殿がその言葉に短く頷いた。数日前まで、あの若造が石工とは言われながら石を運ぶ身であった。兵の前では誰もその言葉に耳を貸さず、橋の上でも役人はあの者を引き立てようとしていた。それが今、この瞬間、藩を納める殿が、他の誰でもないこの者に、今何をすべきかと問うていたのであった。
岩吉はしばし息を整えた。そして、泥だらけの手を丁寧に揃え、腰を折った。
「人と石を急ぎ集めてください。大雨の来る前に、あそこを塞がねばなりません」
声には、もはや震えはなかった。
殿はその答えを聞いて、短く頷いた。
「そのようにせよ」
そして、周りの者たちに向かって、すぐに下知を下した。
「近隣の村へ急ぎ知らせ、若い衆を集めよう。石工という石工は皆、呼び集めよう。猶予はない」
命が下ると、庭は立ちまち動き始めた。先ほどまで戸人のように控えていた小役人たちも、一斉に立ち上がり、地方へ駆け出していった。岩吉はその光景をしばし眺めてから、五兵衛に向き直った。
「師匠、行けますか?」
五兵衛がにやりと笑った。一晩でやつれた顔であったが、その笑みだけは以前のままだった。
「この体で行けぬ場所などあるものか。先に立て」
二人は連れ立って、雨の中へと足を踏み入れた。
雨足が強まる中、岩吉と五兵衛に集まった近隣の村の石工たちは、蔵へと詰めかけた。松明が雨の中で揺れ動いていた。誰かが叫んだ。
「ここから石を詰めろ」
また別の声が続いた。
「土をもっと持ってこい。ここが一番弱い」
見知らぬ者同士でも、その時ばかりは息がぴたりと合った。岩吉が先に立って崩れそうな場所を一つ一つ差し示せば、人々がそこに石と土を積み上げていった。五兵衛も手にした鑿を握り、岩吉のそばを離れなかった。
「こちらだ。ここから塞げ」
その声が突き抜けて響き渡った。牢で疲れきった体でありながら、鑿を握る手だけは相変わらず確かだった。師と弟子が並んで、泥の中で手を取り合い動いた。雨に濡れそぼりながら、幾度も石を運び、土を固めた。
川の水はすでに蔵の縁近くまで迫っていた。一度積み上げた土の一角が水の勢いに押されて崩れかけたが、岩吉がすぐに気づき、若い衆に指示を飛ばして石を追加で押し込ませた。
「危なかった」
と誰かが息を吐いた。別の場所でも同じように水が染み出し始めたが、その度に岩吉が真っ先に駆けつけ、崩れる前に石と土を重ねさせた。集まった村の石工たちも、いつしか岩吉の指示を疑うことなく従うようになっていた。
ある時、五兵衛がふと手を止めて岩吉を振り返った。
「お前のおかげで、わしが助かった」
雨音に消されそうな低い声だった。岩吉は答える代わりに、ただ笑って見せた。また石を運んだ。その笑みに込めた言葉は、あえて口にせずとも互いに分かっていた。
夜が開けて、蔵を守り抜いた者たちは、ようやくその場にどっと座り込んだ。全身が泥と濁り水にまみれていた。誰かが笑い出した。
「これは蔵を守ったのか、泥まみれで相撲を取ったのか、分からぬな」
疲れた顔の中から、一人また一人と笑いが広がっていった。岩吉もその笑いの中で、初めて肩の力を抜いた。五兵衛がその傍らにどっと座り込みながら、空を見上げた。雲が晴れ、赤い朝日がゆっくりと登り始めていた。
その日を境に、城下は大いに揺れた。佐野の悪事が余すところなく明らかになり、これまで彼が横領してきた罪が民に返された。取り上げられた金は、まず崩れた橋と痛んだ蔵の修復に当てられ、その後は普請にかかった村への助成に回された。橋と蔵に関わっていた役人のうち、賄賂を受け取っていた者は処罰され、大監所の新しい記録には、五兵衛の長年の濡れ衣が正式に晴らされた一件として刻まれた。
城下の人々は、もはや昔の噂で彼を指差すことはなかった。むしろ、道ですれ違うと先に頭を下げる者すら現れた。五兵衛はその度に、照れくさそうに笑い、手を振った。
「挨拶などいらぬ。そのまま通り過ぎてくだされ」
そう言いながらも、その顔には長らく押し殺してきた何かが、少しずつ溶けていく気配が見えた。
数日後、大監所から人が来て、岩吉の家を尋ねた。相当な羽織りを身にまとった役人が、庭に入りながら咳払いをした。
「岩吉はおるか?」
岩吉が手についた泥を払いながら出てきた。
「はい。何用でございましょう?」
役人が懐から一通の書状を取り出した。
「この度の一件で、殿がそなたの働きを大いに評価なされた。それで、というのだが」
役人は喉を整え、より重みを込めて言った。
「苗字帯刀を許し、藩の御用石工の座を与えるとのお言葉である」
石工の身分で、これほどの誉れは滅多にあるものではない。庭にいた近隣の者たちが、その言葉にどよめいた。
「苗字帯刀とは!」
「それも御用石工とは。岩吉の旦那、これで身の上が変わるな」
あちこちから羨む眼差しが注がれた。役人が満足げな顔で書状を広げようとしたが、岩吉は静かに首を振った。
「恐れながら、そのお誉れは長大に過ぎます」
役人の手が止まった。
「何だと。このような誉れを断る者は、初めて見るぞ。どうしてか」
岩吉はしばし言葉を選んでから、口を開いた。
「私はただ石を見る者でございます。石目を読み、音を聞き、その石がどこに使われるべきかを見極める。それが一番に合っております。御用石工の座につけば、石を振るうより人を束ねる仕事が増えましょう」
「ただ、一つ」
と岩吉は言葉を継いだ。
「これからも普請の石を見た時、危ないと思うことがあれば、申し上げる情をお許しいただけますでしょうか? それだけで十分にございます」
役人はしばし言葉を失ったが、やがて頷いた。
「それくらいのことなら、殿もお許しになろう。むしろ、そのために働いてくれる者がいるなら、ありがたいことだとおっしゃるであろうな」
役人が去った後、庭に残った近隣の者たちが、それぞれ一言ずつ口にした。
「あの誉れを断る者が、どこにいようか」
「あの男は、本当に分からぬな」
岩吉はただ笑って聞き流すばかりだった。五兵衛が近づいてきて、岩吉の肩を軽く叩いた。
「すっきりしたか?」
「はい。実にすっきりいたしました」
岩吉がにっと笑って答えた。五兵衛も釣られて笑いながら頷いた。弟子にとって本当に大切なものが何であるか、師匠はすでにずっと以前から知っていたのだった。
時は過ぎ、ある春の日であった。城下に新しく大監所の蔵を立てる普請が盛んに行われていた。岩吉と五兵衛もその仕事に呼ばれていた。五兵衛は鑿の代わりに杖をつく日が多くなっていたが、普請には相変わらず欠かさず顔を出していた。
「良い場所に座って口出しをするのが、近頃の楽しみだ」
と軽口を叩きながら、石を運ぶ人々の様子を眺めていた。
そこへ、若い石工が大きな石を一つ、えっちらおっちらと抱えてやってきた。顔が真っ赤に蒸気していた。その若者は真っ直ぐ岩吉の前に近づき、石をそっと下ろした。声がわずかに震えていた。
「この石でよろしいでしょうか?」
岩吉は手を止めて、石を確かめた。指先で石目をたどり、側面を目で見て回った。
「うむ。ここのところが少し荒いな。この面を土台の方へ向ければよかろう」
「はい、承知いたしました」
若い石工が嬉しそうに頭を下げ、石を抱え直して足早に去っていった。その様子を離れたところで見ていた五兵衛が、杖をつきながらゆっくり近づいてきた。口元に笑みが浮かんでいた。
「石を運んでいた小僧も、随分偉そうになったものだな」
からかい混じりの一言だった。岩吉が額の汗を拭いながら苦笑した。
「師匠ほどではございません」
「ほう。その口ぶりも、相変わらずだな」
五兵衛が杖の先で土をトントンと突きながら笑った。ちょうど通りかかった別の石工も、その様子を見て一言添えた。
「この普請場で、岩吉さんに聞かずに石を据える者はおりませんよ」
「年寄り扱いはよせ。まだまだ現役だ」
岩吉が手を振ったが、その口ぶりに昔のような鋭さは残っていなかった。二人の笑い声が普請場に響き渡った。若い石工たちの間でも、いつしか岩吉に石を確かめてもらうのが当たり前の習わしになっていた。
岩吉はふと、若い石工が置いていった石をもう一度眺めた。表からは何の変わりもないように見える石だった。しかし、指先で辿れば、その奥にある疵が確かに読めた。石目というものは、見ようとしなければ見えぬ。人の真心も、世の歪みも、案外それと同じなのかもしれない。
岩吉は静かに鑿を握り直し、また仕事へ戻っていった。傍らで五兵衛が、そんな弟子の背をいつまでも眺めていた。



