同窓会のざわめきの中、笑い混じりの声が俺を刺した。「ねえ、じ、まだそんな服着てるの?まさか学生の頃のまま。」振り返ると、そこには朝桐レナがいた。テレビで見慣れた華やかなドレス姿の彼女は、当時のままの美しさに加えて、今や超売れっ子の女優になっていた。
「いや、びっくりしちゃって。本当変わらないんだね。」
「いや、変われなかったのか。」
笑い声が広がる。誰かが飲みかけのシャンパンを手に、面白がるように言った。「ていうかレナが付き合ってたのがあの人ってマジ?いや、無理でしょ。」
俺の陰口を「黒歴史」と笑う声。俺は黙ってグラスを口元に運んだ。炭酸が喉を通る感覚だけが、夜けに鮮明だった。
同窓会の会場を抜け出し、夜の街を歩いた。その翌日、契約は拍死にさせていただきます。そう告げたのは秘書だった。マネージャーと並んで来ていたレナが目を見開く。「はあ?ちょっとどういうこと?」
「文字通りの意味です。」
レナがゆっくりと俺の方を向いた。昨日とは違う目をしていた。困惑、恐れ、そしてどこか懐かしい色が混ざっていた。「あなた、一体何者なの?」
俺は答えなかった。俺の正体を暴露した瞬間、彼女は自分のしたことの大きさを実感し、激しく後悔することになる。
俺の名前は夏目。未AIノスタルジアの開発者で、スタートアップ桜食堂の社長をしている。具体的には、食事中の脳波や心拍、表情の変化をリアルタイムで解析し、食べた瞬間に起こる感情の動きを「喜び」「懐かしさ」「安心感」などの指標に分解して記録する。さらに嗅覚や温度、音の環境データも合わせて記憶のフレーバーを再現し、その人にとって特別な味をAIが学習・再構成してくれる。
面白いのは、例えば昔のアルバムに貼ってあるあの日の夕飯の写真。誰かが作ってくれた料理の一皿をAIが画像から素材や盛り付け、食器の質感、周囲の光や空気の情報を読み取り、過去に近い条件であの時の味を予測する。記憶が曖昧でも、表情や体の反応データをもとに、心が動いた瞬間をヒントに味のプロファイルを組み立てていく。つまりノスタルジアはただ味を再現するだけじゃない。写真1枚からでも、人の心に残った思い出の味を掘り起こし、もう一度今の食卓に蘇らせることができる。
俺たちはその技術を使って、ただ美味しいだけじゃない、心に残る味を届ける商品を作ってる。年商は500億円を超えたが、それを誇る気にはなれない。なぜなら、俺はいわゆる成り上がりだ。両親は地方の町場で働いていたが、父が倒れた時、生活は一気に傾いた。高校の頃からバイト漬けで、進学は奨学金と独学だけが頼りだった。
学生時代はとにかく金がなかった。下宿先の風呂ボイラーが壊れてて、冬は水シャワー。食費を削っては実験機材に突っ込んでた。毎日がギリギリだったが、それでも研究だけはやめたくなかった。味覚ってのは人それぞれで曖昧で、でも確かに心を動かす何かがある。俺はそれを数値化したかった。貧しかったからこそ、人の本質を見抜こうとする癖がついたのかもしれない。ブランドにも肩書きにも興味がない。だから今でも白Tにジーンズ、安いスニーカーで通している。見栄で生きていない証として、というより、俺の中じゃ今でもあの下宿の空気が色濃く残っているんだ。
そんな俺の元に、ある日大学の同窓会の招待状が届いた。封筒の差出人に見覚えがあり、少しだけ胸がざわついた。もう10年以上前、あの研究室で出会った1人の特別な存在。朝桐レナ。今やテレビで見ない日はない女優。彼女は大学時代から誰もが振り返るほどの美貌を持つ特別な存在だった。卒業と同時に別れ、あれから10年以上、一度も顔を合わせていない元彼女。もし同窓会で彼女と再会できるなら、そう考えただけで胸の奥がざわつき、呼吸が少し早くなる。普段は無関心を装っているくせに、こういう時だけ感傷に傾くのは昔から変わらない癖だ。
俺はいつもの白Tにアイロンをかけ、ほんの少しだけきちんとした服装で会場へ向かうことにした。
ホテルの宴会場に一歩足を踏み入れると、懐かしい顔と変わらない空気が迎えてくれた。誰かの笑い声、誰かの視線。そのどれもが、俺が大学時代に感じていた「所属できなさ」を思い出させた。あの頃、俺はただの地味な研究バカ。みんなが恋やサークルや旅行に浮かれる中、白衣と実験器具とだけ向き合っていた。それでも顔ぶれの中には懐かしい名前もあった。奥義のノートを貸してくれた奴。昼休みに一緒に学食へ行ったことがある女子。そして彼女の姿はまだ見えない。
会場の一角に立ち、あまり目立たぬようにグラスを手に取った。スーツは最低限のビジネス用だが、周囲の男たちはやたらとブランドに身を包み、時計や靴を自慢し合っていた。「昔の格好は大人になっても変わらないなあ。」「あれ誰?」そんな声が聞こえた。どうやら俺のことを思い出せないらしい。確かに当時から目立つタイプじゃなかったし、今も会社名や肩書きを出していない。いいんだ。それで。今の俺にとって必要なのは尊敬じゃない。理解だ。俺を形づくってきた努力や苦悩を、飾らないままに受け止めてくれる人がいればそれでいい。
会場の空気が急に変わったのは、それから数分後だった。「誰かが来たぞ」と言った。視線の先を追うと、まぶしいライトのような存在感が入り口に現れた。レナだった。スレンダーな黒のドレスに落ち着いたハイヒール。派手すぎないのに、誰よりも目を引く。それが彼女の本物の華なのだと思った。俺はグラスの縁を指でなぞり、意識して視線を外へ流した。だがその華やぎは視界の端でなおも強く波打ち、結局俺は氷の溶ける音ばかりを聞いていた。
ヒールがタイルを叩く乾いた足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。「じ?」顔を上げると、レナが至近距離に立っていた。周囲の話し声がふっと遠のき、俺の胸だけで鼓動が響く。
あの日、研究発表会の終盤のことを俺は思い出した。季節外れの温かい風がガラス窓に薄い曇りを残していた。最前列から見る舞台で、レナはレーザーポインターを握り、落ち着いた声でスライドをめくっていた。映し出されたのは、彼女が一から組み上げた映像合成アルゴリズムのデモ映像。発表が終わると、教室は「さすが天才」といった小さな声で満ちた。だが俺には、拍手の波の中で彼女の肩がわずかに震えるのが見えた。あの震えは、期待に答えるための笑顔の裏で、誰にも見せられない不安をこらえている証拠だ。
片付けが済むと、廊下は雲の子を散らした。スクリーンの余熱がまだ残る講義室で、俺が資料の箱を抱えて廊下へ出ようとした瞬間、背中に小さな声が落ちた。「じ、今少し話せる?」振り返ると、レナが窓際のベンチに腰かけ、名札の角を指先でいじっている。気の抜けた廊下は人影もなく、蛍光灯だけが白い光を投げていた。
「発表、お疲れ」と声をかけると、彼女は苦笑してすぐに視線を落とした。「みんな『さすが天才』『天は二物を与えるね』とか『その美貌にその頭脳は反則だよ』とか、そんなことばっかり言うの。」レナは乾いた笑で自分を飾り、名札の角を指で折り曲げた。「褒められているはずなのに、まるで飾り物みたいで落ち着かないんだ。」
「飾り物?」俺は眉を上げた。「コードを最後まで読んでくれた人なんて、きっといない。みんな色合いとかスライドの構成とか、外から見えることだけ感想をくれるんだよ。」
廊下の静けさに空調の音が混じる。俺は彼女と同じ高さに腰を下ろし、言った。「レナが本当にすごいのは、誰かが困っている時、さりげなく手を伸ばせるところだと思うけどな。」
レナが目を丸くする。「例えば、昨日の深夜、後輩のUSBが読めなくなって泣きそうだったろ。君、黙ってデータ救出して返してたじゃないか。」
彼女の方が驚いた。「見てたんだ、あの子。卒論のファイルが全部入ってるって言うから。」
「俺には絶対に真似できない。あの時の君は、自分の発表準備で疲れきってたはずなのに。」
レナは苦笑し、肩をすくめた。「気にかけただけだよ。」
「そこが大事なんだ。結果より先に人を気遣える優しさ。それが君の一番の才能だと思う。」
レナは目を細め、少しだけ視線を逸らしてから俺を見た。「そんな風に言ってくれるの、あなただけだよ。」ふっとレナの肩が緩み、夕日を受けた瞳に柔らかな光が宿る。「ねえ、もう少し話してもいい?こんなにほっとしたの、久しぶりだから。」
「もちろん。」俺は隣で膝を組み直し、スライド資料の束を膝に置いた。「次の課題、何か手伝えることある?」
「うん。まずはさっきの発表のフィードバックをまとめなきゃ。でも、人にコーヒーご馳走するくらいの余裕は残ってると思う。」
「じゃあ、俺の奢りにさせてくれ。発表の成功祝いだ。」
「成功ね。」レナは少し首をかしげたが、その頬には確かな安堵が差していた。
講堂へ続く廊下を歩きながら、俺たちは映像合成の未来やゼミ旅行の行き先について取り留めなく語り合った。やがて窓の外が群青に染まる頃、始発前の冷たい風が研究棟の自動ドアを押し上げた。しばらく沈黙が流れた。窓の外で傾きかけた日がガラスを透かし、彼女の横顔に柔らかいオレンジを落とす。やがてレナの肩から目に見えない重荷がふっと消えるのを感じた。「ありがとう。」その一言は、白衣に染みついた薬品の匂いさえ柔らかく変えて、胸の奥まで染み込んだ。
ほどなくして俺たちは付き合い始めたが、卒業を前に別々の道を選んだ。そして今、同窓会の会場で一際美しくなった彼女と再び向き合っている。
「久しぶり。」レナは穏やかに微笑んだが、瞳の奥に浮かぶ色は読み取りづらく、思わず背筋が伸びる。声の温度も距離の詰め方も、あの頃と同じだ。ほんのわずかに胸が高鳴り、過去が色づいて戻ってくる。だが次の瞬間、そのときめきは容赦なく踏み消された。「ねえ、せめて同窓会くらい人に見せられる格好で来ればよかったのに。相変わらず貧乏臭いわね。」
胸の奥に冷たいものが落ちる。「え?」俺が小さく聞き返すと、そこへ数人の同級生がわっと寄ってきた。ブランド時計を見せびらかす男が声を張り上げる。「うわ、懐かしい。夏目じゃん。そいや、お前レナと付き合ってたよな。」別の女が手を叩いて笑う。「本当?レナが研究と?今考えると超ミスマッチじゃん。黒歴史決定だわ。」
軽口が飛び交い、輪の中に笑いが渦を巻く。頬が燃えるように熱く、グラスを握る指先まで汗ばんだ。レナが小さく手を振り、人差し指を唇に当てて場をなだめる仕草を見せたものの、すぐに肩をすくめて小さく笑った。「ま、当時は私も物珍しかったのよね。白衣に薬品の匂いをつけたままデートなんて、今思えば笑えるでしょ。」
その言葉に、俺はわが耳を疑った。誰かが鼻で笑い、別の男が俺のスニーカーを指差す。「てか、その靴まだ学生の頃の?節約にも程があるだろう。」女の一人がシャンパングラスを揺らしながら覗き込む。「ブランド一つ持ってないとか、逆にレアキャラよね。レナがどうして付き合ったのか謎だわ。」
レナは「ちょっと、言いすぎよ」と口では窘めつつも、唇を噛んで笑いをこらえるように肩を震わせていた。その揺れが胸に鈍く響く。かつてのぬくもりはどこにもない。楽しみにしていた再会は、白線の上を歩くような期待だったのかもしれない。ひび割れは一気に広がり、足元から冷たい水が染み込んでいく。
「悪い、少し外の空気を吸ってくる。」俺はなんとか笑みを貼り付け、グラスをテーブルに戻したが、輪の中心はすでにレナへと収束し、俺が身を引いても誰一人視線を寄越さなかった。「レナ、映画の現場ってやっぱ豪華なの?」「次のドラマの共演者って誰?」「写真いいねえ。もう一枚。」フラッシュの白い光が何度も弾け、シャンパングラスの中で泡が弾ける音にかき消されながら、俺の足音だけが遠ざかる。
羽を失った鳥のような心地で扉を押し、ホテルのロビーへ出る。温かなシャンデリアの光が届かない、ファーキの影に腰を落ち着けた。ガラス越しの夜景は宝石のように輝いているのに、目に映るのは自分のうつろな影だけだった。スマホの画面をつけても、通知は一つも光らない。再会を少しは楽しみにしていたのにな。誰も気づくことなく俺がこの場から消えても、何も変わらないのか。胸の中で溶けた氷が、しずくになって落ちていった。溶けた氷と一緒に、その思いも床へと落ちていくようだった。
同窓会の会場を出た俺は、そのままタクシーで会社へ戻った。時計の針はすでに23時を回っていたが、ビルの最上階のオフィスだけが静かに灯っていた。カードキーをかざして扉を開けると、誰もいないはずの空間に人影が一つ。秘書の白川蒼井だった。「お帰りなさい、社長。やっぱりここに来ると思ってました。」彼女は窓際のカウンターで温かいミントティを入れていた。俺は驚くでもなく、ただジャケットを脱ぎ、無言でソファに腰を下ろした。
「どうでしたか、同窓会?」その問いに、俺は少しだけ笑って「まあ、予想通りってところだな」とだけ答えた。
「蒼井、オフショアグループとの広告契約、拍紙に戻せるか。」そう切り出した俺に、彼女は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頷いた。「理由は聞きません。でも、確実にやります。」
窓の外に広がる東京の夜景は、どこか冷たく、どこか遠かった。
翌朝、「社長、大変です。朝桐静香さんとレナさんがロビーに」インカム越しに受付スタッフの声が響いたのは、朝10時を少し過ぎた頃だった。俺が「通して」という間もなく、自動ドアの音と共にハイヒールの鋭い足音がフロアに響き渡る。振り返ると、スーツ姿の朝桐静香が戦闘態勢で歩いてきた。静香はレナの母親でマネージャーだ。その視線はまっすぐに俺を射抜いていた。その後ろに、レナが無言でついてきていた。
「ちょっと、どういうことなの?」会議室に入るなり、静香が怒りをぶつけてきた。「突然スポンサーを降りる?聞いてないわよ。うちの事務所も映画制作サイドも広告スケジュールだって全部組んであるのよ。勝手にそんなことをされて、納得できると思ってるの。」静香の怒気を孕んだ声が会議室に響き渡った。
俺は黙ってそれを聞いていた。この広告案件は、映画と商品のイメージを並走させる形で設計されていた。いわゆるタイアップってやつだ。映画のストーリーが健康や味覚に関わる内容だったこともあり、うちのノスタルジアを時代の象徴的に見せるための仕掛けだった。「テレビでCM流して、街の看板にも出して、ネットの特集記事でも組まれて、全部朝桐レナの名前で展開される予定だったのよ。それがうちのレナのイメージにもなるし、会社のイメージアップにもなるって、そう聞いてた。」静香はヒートアップしていた。確かに宣伝効果としては十分すぎるほどの仕組みだった。だが、それはある一点を除けばの話だ。俺にとっては、表に出す顔よりもその裏にある中身こそが全てだった。そこが崩れるなら、いくら派手な広告を打とうと意味はなかった。
「おっしゃる通りです。」蒼井が俺の代わりに静かに口を開いた。「今回の広告は、映画と合わせて一つのセットとして考えられていました。レナさんが演じる役と私たちの商品が『未来の食』というテーマで重なることで、お互いにメリットが生まれるように構成されていたんです。そして、その仕組みがあったからこそ、映画には約30億円という大きな出資がついた。それが現実です。」蒼井は一度だけ視線を伏せ、呼吸を整えると言葉をついだ。「ですが、より重要なのは『未来の食は人の内面を尊重する』という私たちの理念です。ノスタルジアが数値化するのは味覚そのものではなく、心が動く瞬間であり、そこに外見や肩書きは関係ありません。昨夜の同窓会で、レナさんが外見やブランドで他者を図るような発言をされたと伺いました。あの場で社長が感じ取ったのは、イメージキャラクターとしての価値観の不一致です。もし広告を続行すれば、桜食堂が掲げる『本質を見抜き、本質に寄り添う』というメッセージそのものが揺らぎかねません。」蒼井は静香をまっすぐ見据え、落ち着いた声で言い切った。背筋を伸ばしたまま指先でタブレットを閉じ、薄い笑みを浮かべているが、その言葉には一切の妥協がなかった。
「え、ちょっと待って。」レナの声が震えた。会議室に響いた蒼井の言葉の直後、彼女の顔から血の気が引いていくのがはっきりわかった。「彼が、ここの会社の社長?」その目は大きく見開かれ、まるで目の前に全く知らない人間が現れたかのようだった。
「ええ、ご存知なかったんですね。」蒼井は淡々と、しかしどこか誇らしげに言葉を重ねた。「桜食堂を一人で立ち上げて、ノスタルジアを完成させ、ここまで成長させたのは、この人、夏目さんです。技術もビジョンも全て彼のもので、この会社の全ては彼の努力そのものです。」
「嘘。」レナは椅子の背もたれに深くもたれ、唇を震わせながら俺を見上げた。「どうして教えてくれなかったの?」
言葉が喉で絡まりかけた。言おうとした。何度も機会はあった。だが、あの同窓会のざわめきの中で、昔の俺として扱われ続ける雰囲気に水を差すような真似はできなかった。「言おうとは思ってたんだけど、タイミングがなくて。それが精一杯だった。」
レナが肩を揺らす。「あなたって、昔から自分のことを全然話さない。何を考えてるのか、全然分からないのよ。」
静香がすかさず被せる。「夏目さん、あなたが社長だと知った時、嫌な予感がしたのよ。学生時代、レナと付き合っていた頃だって、この子は決して幸せそうじゃなかったわ。こんな形で裏切るなんて、思いもしなかった。」
俺は目を伏せたままだった。言い返す言葉よりも、呆れる気持ちの方が先に立った。
その時、蒼井が静かに前へ出た。「誤解があります。」タブレットを抱えたまま、凛とした声で会議室の空気を切り替える。「今回、朝桐レナさんをイメージキャラクターに推薦したのは、社長です。取締役会では、業界での評判が芳しくないという理由で反対が出ましたけれど、社長は昔のご縁を理由に最後まで押し切った。ただの実ではなく、レナさんなら桜食堂の理念を、演技でなく本心で伝えてくれるはずだと。」
レナが目を見開く。「え、反対されてたの?」
蒼井はタブレットを閉じ、静香を正面から見据えた。落ち着いた声だが、言葉は鋭い。「ご存知ないのですか?レナさんの日頃の振る舞いは、業界中で噂になっています。遅刻の常習、スタッフへの当たりの強さ、ブランド以外の衣装は拒否。今は飛ぶ鳥を落とす勢いの売れっ子女優かもしれませんが、裏側の評判は決して芳しくありません。投資家が懸念したのは、そうした態度の連鎖です。」
レナが唇を噛み、静香が眉を吊り上げた。「うちの娘を悪く言わないでくれる?」
蒼井は引かない。「事実です。私たちのブランドは、心を動かす本質を大切にします。外側の華やかさだけで作ろうとする態度は、青い。」
「俺が低く静止した。」蒼井は小さく肩を落として一歩下がる。「失礼しました、社長。」
「けれど、だからこそ同窓会がチャンスだったんです。」蒼井はレナに向き直り、トーンを柔らげた。「あなたが過去の友人の前でどんな内面を見せるか。それを私たちは見届けたかった。社長は彼女の内面を信じたいと、取締役会を押し切りました。けれど、昨夜の振る舞いは、残念ながら」
レナの肩が震えた。
俺は静かに息を吐いた。「俺は試したつもりはない。ただ、君が昔のままかどうか確かめたかっただけだ。」
沈黙。時計の秒針が夜けに大きく響いた。
契約破棄から4日後、午前10時。車内スタジオでは、次期イメージキャラクターの最終オーディションが行われていた。ライトに照らされた候補者たちの横顔をガラス越しに眺めながらも、俺の意識は上の空だった。「社長」隣に立つ蒼井が小声で呼びかける。「え、さっきから一言もコメントされていません。浮かない顔ですね。」モニターに映る笑顔の女優を差し示しても、視線がどうしても絡まないのを悟られてしまった。蒼井がクリップボードを抱え直し、横目でこちらを伺う。「気になるんですか?朝桐さんのこと。」声は控えめなのに、胸のうちを正確に指してくる。俺は咳払いでごまかした。「いや、演技プランはスタッフに任せてある。最終チェックは後で。」
その時、蒼井のスマホが震え、ディスプレイに「制作委員会」の文字が浮かぶ。「失礼します。」蒼井は数歩離れて通話ボタンを押したが、すぐに眉間を寄せてこちらを振り返る。「嘘ですよね。」低く漏れた蒼井の声が、空調の吹き出し音にかき消されそうになる。俺はモニタールームを出て廊下に誘い、耳を済ました。蒼井はうなずきも首振りもせず、ただ「承知しました。子細確認いたします」を繰り返し、通話を終えると息を吐いた。
「どうした?」
「スポンサーの地グループが、映画の制作中止を示唆してきました。朝桐さんを起用しない限り、全面的に手を引くと言うんです。」
言葉が凍りついた。「待て。制作費の半分は大光地の投資部門が入れている。もし引くと言われれば、制作費の約35億円が一気に宙に浮きます。ロケ地のキャンセル料、セカンドユニットのスケジュール調整、タイアップ広告の再手配。最悪、損害は50億規模です。」蒼井は数字を淡々と並べつつも、指先は小刻みに震えている。
今回のタイアップは、ざっくり言えば映画と桜食堂が腕を組み、大光地グループが財布を握る3者同盟だ。映画に70億円集めたが、鍵を握るのは大光地の30億円だ。彼が金を引き上げると、ノスタルジアが写っているシーンを全部取り直し、宣伝も作り直しになり、違約金まで含めて50億円が一気に吹き飛ぶ。つまり、レナを外したまま進めるなら、映画も桜食堂も同時に沈む。
俺は廊下の手すりに手をかけ、無言で天井のLED照明を見つめた。「なぜ今になって、そんな強硬策を?」
「社長、実は噂が」蒼井は唇を噛み、視線を揺らした。
「噂?」
「朝桐さんが、大光地会長の御曹司、啓介さんと婚約するかもしれないと。週刊誌はまだ抑えられていますが、水面下では動いているようで。」
血が耳の奥で脈打つ。「なんで黙ってた?」少しだけ声が荒くなった気がして、すぐに言葉を飲み込んだ。蒼井は小さく息を吸い、目を伏せたまま言った。「社長がまだ朝桐さんに気持ちが残ってるって、分かってたからです。だから、私からあえて言うのも余計だと思って。」
その一言に、胸の奥がふっと沈んだ。気づいていなかったわけじゃない。ただ、認めたくなかっただけだ。ずっとレナに囚われている自分を、俺自身が受け止めきれていなかった。そして、それを蒼井はずっと見ていた。何も言わずに。
「逆だな。」俺は手すりから手を離し、少しだけ蒼井の方を向いた。「気を使わせてたのは、俺の方だった。全部自分だけで背負ってるつもりで、見えてなかった。ごめん。」
蒼井は驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく微笑んだ。「いいえ、私が勝手に気を回してただけですから。」その微笑みはどこか寂しげで、けれど確かに俺の胸に染みた。
高層ビルの重たいガラス扉を抜けると、冷たい人工空気が肌にまとわりつく。受付で会社名と名前を伝えると、案内もなく無言でセキュリティゲートが開いた。エレベーターが最上階に向かって静かに上昇していく間、俺の心臓だけがやけに騒がしかった。
案内された会議室は、まるで美術館のような静けさに包まれていた。深いグレーの絨毯、研ぎ澄まされた家具、窓の外には東京の街並みが音もなく広がっている。その中心に、背筋を伸ばしてソファに腰掛けていた男。大光地ホールディングス会長、大光地周一。60代半ばだろうか。白髪を整えた頭に、深い皺の刻まれた目元。穏やかに見えるその眼差しは、しかし静かな威圧を孕んでいた。
秘書と思われる男が一礼して部屋を出ていくと、会長は俺に一瞥をくれただけで口を開いた。「随分熱心だね、夏目君。どうしても話があると聞いてる。」
「はい。突然の訪問、申し訳ありません。ですが、確認したいことがありまして。」
「確認?」
「映画の制作についてです。朝桐レナさんをキャスティングしない場合、御社が出資を撤回するという話を伺いました。事実ですか?」
会長はグラスに手を伸ばし、赤ワインを一口含んで笑った。「事実だよ。」その一言に、背中を冷たいものが走る感覚がした。
「どういうことですか?彼女が出演しなければ、映画を止めるなんて。そんな話は一度も」
「当たり前だろう。」会長はワイングラスを置き、俺の方にゆっくりと身を乗り出した。「初めからそういう計画だったんだ。この映画は、うちの息子が彼女をもっと売り出したいと言い出したことがきっかけで始まった。息子はレナさんの大ファンでね。」
「ファン?」
「そう。芸能界じゃ、ああいうのはもう一花咲かせたいって位置づけだろ。だから映画を一発当てさせて、女優として一段上に押し上げたかった。それがうちにとっても得になる。そういうことだよ。」
俺は言葉を失った。この映画は、てっきりノスタルジアと理念を重ねることで社会に新しい価値を示すための企画だと、そう信じていた。「じゃあ、うちの商品が選ばれたのも」
「彼女ありきで当たり前じゃないか。」会長の声は笑いすら含んでいた。「君のところのノスタルジア。正直、似たような話は他にもいくらでもあるんだよ。味覚をどうとか、心がどうとか、AIがどうとか。うちの事業に使えるのは、見た目の面白さだけだ。だから映画に組み込んだ。それだけの話だよ。そんな思い上がりも、滑稽だな、君は。」
会長の口元が冷たく歪んだ。「勘違いしないで欲しい。我々が目をつけたのは、君じゃない。ノスタルジアでもない。あの子だ。レナという商品を輝かせるための舞台装置として、君の会社がたまたま適していただけに過ぎない。」
ああ、その一言が胸の奥に突き刺さる。俺の10年かけて積み上げてきたもの。下宿のキッチンで試行錯誤を重ね、誰にも理解されなくても信じ続けてきたノスタルジア。「心が動く瞬間を数値化するなんて」と馬鹿にされた日々を経て、それでもようやく手にした社会との接点。それすらも、ただの舞台装置だと。
「じゃあ、もしレナさんを下ろしたら」
「下ろすなら、それで話は終わりだ。」会長はあっさりと言い切った。「彼女が出ないなら、我々が関与する理由はない。映画の資金も回収するし、キャンセル料の請求もさせてもらう。息子と結婚して、うちの看板を背負ってもらう予定の子だ。彼女が世間に見える場所にいなければ、意味がない。」
「そんなことのために、俺たちは商品を磨いてきたわけじゃない。」
「そうか。でも、それが現実ってもんだよ。」会長はもうこちらに興味を失ったように、窓の外へと目を向けた。「心配性で腹は膨れないし、理念で市場は動かない。君もそのくらい分かる年頃だろう。」
返す言葉がなかった。会議室の空気が嫌に薄く感じた。革張りのソファが妙に固く、座っている感触すら遠いていく。俺は深く息を吸い、立ち上がった。足元が少しぐらついた。「失礼します。」会長は返事をしなかった。
重い扉が閉まった瞬間、音のない絶望が肺の奥まで沈んできた。天井の蛍光灯が滲んで見えたのは、外の光のせいではない。目の奥に溜まったものが滲み出そうとしていた。こんなにも努力してきたはずなのに、こんなにも誰かの心に届く商品を作りたかったはずなのに。それがただの彼女を売り出すための飾りだったなんて。俺の足取りは重く、まるで床の一歩一歩に、これまで積み上げてきた時間が引きずられているかのようだった。
大光地ホールディングスからの帰り道。車の窓越しに見える東京の空は、どこまでも青かった。眩しいくらいに。だけどその光は、不思議と胸に差し込んでこなかった。思考は鈍く、呼吸は浅い。体は動くのに、心がどこかに置き去りになっているような感覚。もう選択肢は一つしかない。
俺はその足で、朝桐レナの個人事務所へ向かった。芸能プロダクション「アリア」。かつて大手事務所にいた彼女が、母の静香と共に独立して立ち上げた個人事務所だ。そのビルの最上階、ガラス張りのエントランスから見える受付には、高級感と緊張感が漂っていた。
「失礼します。桜食堂の夏目です。少しお時間をいただけませんか?」受付にそう伝えると、対応に出てきたのは静香本人だった。その目には明らかな警戒が浮かんでいた。「何の用?まさか契約を戻して欲しいなんて言わないでしょうね。」
「話だけでも、聞いていただけませんか?」俺がそう頭を下げると、静香はくすっと鼻で笑った。「本当に見てられないわね。頭を下げたって、うちには何のメリットもないのよ。レナの価値を下げたのは、そっちでしょう。」
すると背後から、レナが姿を表した。相変わらず完璧な姿勢、完璧なメイク。まるで少し前の同窓会の延長のように、日やかな視線が俺を射た。「社長さん、やっぱり格ってものは変わらないのね。こんな時だけ来て、上に訴えようなんて。そういうの、見苦しいって思わない?」
俺は歯を食い縛ったが、言い返す言葉は浮かばなかった。確かにその通りだ。こじれる前に伝えるべきだった。彼女が変わったことを受け入れられなかったのも、俺の方だったかもしれない。
静香がなおも吐き捨てるような言葉を重ねようとした、その時。レナがふっと笑みを作った。「もういいよ、母さん。ここまで言えば十分でしょう。」静香が少し驚いたように娘を振り返る。レナはゆっくりと俺の方に目を向けた。その瞳の奥に、何か含みを持たせた光がちらついていた。「私が追い出すわ。こんな人、母さんが怒るまでもないよね。すぐ済ませるから、ちょっと待ってて。」
静香は眉を潜めながらも「あんたがそう言うなら」とだけ呟いて、しぶしぶ引き下がった。
事務所のロビーを抜け、エレベーターで1階に降りる間、レナはずっと無言だったが、その横顔はさっきの挑発的な女優のそれではなかった。扉が開くと、彼女は俺を振り返り、小さく息をついた。「ちょっと、少し歩かない?」彼女の声は、ようやく「レナ」に戻っていた。
ビルの裏手の、人気のない並木道を並んで歩きながら、レナは口を開いた。「ごめんね。さっきのあれ、演技だった。母さんがああなると、もう止まらないから。ああやって言えば、私に任せるしかなくなるって思って。」ゆっくりとした歩調で、彼女は続けた。「本当はずっと話したかった。ちゃんとあなたと向き合って。」その声には、張り詰めたものが解けていく気配があった。母の前では見せられないけれど、誰かに分かって欲しかった。本当の顔が、少しずつ覗いていた。
通りの向こう、並木の影に隠れたベンチに腰を下ろすと、レナがぽつりと口を開いた。「ごめんなさい。」その声は、今までのどれとも違っていた。凛とした女優の仮面が剥がれ、ただのレナに戻ったような、そんな声だった。「今までひどい態度を取って、本当にごめんなさい。同窓会の時も、スポンサーの件でも。あなたの会社に契約を破棄されて、ようやく目が覚めたの。」
俺は返事をせず、ただ彼女の言葉を待った。「私、自分の振る舞いが周りにどう見えてるかなんて、考えたことなかった。でも、蒼井さんの話を聞いて、あなたが黙って引いた理由を知って、ようやく気づいたの。自分がどれだけ周りを傷つけてきたのか。」彼女は俯き、細い指でスカートの裾を握った。「母は私を売り出すために、ずっとたくさんのものを背負ってきたの。芸能界って甘くないから、周りはみんな敵。ライバルに隙を見せたら終わり。誰とも慣れ合うなって、小さい頃からずっとそう言われて育った。」レナはゆっくりと歩を止め、街路樹の影に視線を落とす。「そうやって気を張ってるうちに、人とちゃんと向き合うこと、怖がるようになってたのかもしれない。あの日の同窓会も、懐かしい人たちに会えるのは嬉しかったけど、正直怖かった。昔の素直だった自分に戻ったら、今の私が崩れちゃう気がして。」
少し間を置き、彼女は俺の方を見た。「でも、あなたの姿を見て、胸がぎゅってなったの。ちゃんと中身で勝負してる。あの頃のままのあなたを見て。」レナは立ち止まり、小さく息を吐いた。「芸能界に入ってから、ずっと外見だけを見られてきた。最初はね、それが嫌だった。中身を見て欲しいって、何度も思ってた。だけど、みんなが外見だけでちやほやしてくれるうちに、それを便利な武器みたいに感じるようになってて。気づいたら、私自身も誰かの中身なんて見なくなってた。」
風が吹き抜け、髪が揺れる。「あなたを見て思ったの。あの頃、私が守りたかった自分らしさとか、信じたものとか、全部どこかで置いてきちゃってたんだなって。それに気づいた瞬間、本当に自分が情けなかった。」レナの目が潤んでこちらを見る。「だから悔しかったの。自分のことが、すごく悔しかった。」そう言って彼女は少しだけ唇を噛み、震える声で続けた。「ごめんなさい。あなたにひどいこといっぱい言って、あんな風に振る舞ったのも、見られたくなかったの。あの頃のちゃんとした自分を知ってるあなたに、今の私なんて見せたくなかった。」
俺は静かに言った。「大丈夫だよ、レナ。君が戻ってきたなら、それで十分だ。」
レナの目が大きく見開かれる。「今回の契約、また受けてくれる?」俺の声は震えていたが、そこに迷いはなかった。
レナは目を伏せ、唇を噛んで小さく震えながら呟いた。「私に、その資格あるかな?」
俺は小さく頷いた。その瞬間、レナの目に涙が浮かんだ。「本当に、作り上げたんだね。ノスタルジアも、会社も。社長になってるなんて、全然知らなかった。あの頃、白衣を着て黙々と研究してたあなたを思い出したよ。」
俺は照れ隠しのように鼻をかいた。「まあ、なんとかな。」
レナはほんの少しだけ視線を落として、ぽつりと続けた。「私もね、本当は研究続けたかったの。自分の手で何かを作り出すって、すごく楽しかった。でも、母がどうしても芸能の道へって。『あんたは顔が武器なんだから、活かさなきゃ』って。あれは多分、母自身が果たせなかった夢だったんだと思う。」彼女の声が風にさらわれるように、静かに揺れる。「気づけば、大学までが私の自由に学べた最後で。それ以降はずっと忙しさに追われて、自分が何をしたかったのかすら分からなくなってた。勉強も研究も、あえて見ないようにしてたんだと思う。怖くて、羨ましくて。だから、あなたが今でも信じた道をまっすぐ歩いてるのを見て、本当にすごいって思った。」
俺はレナの顔を見つめながら、言葉を紡いだ。「今の君なら、ノスタルジアの本当の良さを伝えてくれる。見た目じゃない。中身に届く何かを、君ならもう一度伝えてくれる気がする。」
レナは驚いたように目を見開き、それからそっと目尻を拭った。「ありがとう。本当にありがとう。」彼女の声が、春の風に乗って柔らかく揺れた。ベンチに差し込む木漏れ日が、ようやく少しだけ温かく感じられた。
ずっとこのままでいられたらいいのに。そんな風に思ってしまった。空気も時間も穏やかで、何よりレナの声が昔と同じ柔らかさを取り戻していて。
レナがふと苦笑した。「母の言いなりになる日々って、結構大変なんだよ。もちろん、今の私があるのは母のおかげだって分かってる。でも、全部決められるのって、正直生き苦しい時もある。」
その言葉に、俺は小さく頷いた。「そういえば、大光地の御曹司と結婚するって話。あれは本当なのか?」
レナは一瞬固まって、それから目を伏せた。「あれも、母が勝手に進めてるの。私は嫌だって言った。だって、会ったこともないのに、そんな人と結婚しろなんて、おかしいよね。」
その問いに、俺はまっすぐ答えた。「おかしいさ。結婚は自分の人生だ。好きな人と結ばれるのが一番だと思う。」
レナは何か考えるように視線を落とし、そしてそっと俺の左手に目をやった。薬指には何もはまっていない。「あなたには、恋人はいるの?」声はほんの少しだけ、探るような色を含んでいた。
「いないよ。」
レナの瞳がゆっくりとこちらに戻る。「じゃあ、蒼井さんは?」
俺は苦笑して首を軽く振った。「蒼井は秘書だよ。よくできた秘書。俺にはもったいないくらいの。でも、それ以上でも、それ以下でもない。」
レナは小さく「そっか」と呟いた。それだけだったが、その声の奥に、なぜか少しだけ安堵が滲んでいるように聞こえた。
そして翌日、俺は再び大光地ホールディングス本社を訪れていた。ガラス張りの会議室。前回と同じ席に、大光地周一が座っていた。
「ご多忙のところ、再度お時間いただき、ありがとうございます。」俺は深く頭を下げる。会長はゆったりと椅子にもたれ、手元の書類に目を通しながら言った。「それで、今日はどういうご要件かな?」
俺は真正面から視線を合わせて言った。「御社には一度、ノスタルジアとの広告契約について破棄のご連絡をさせていただきましたが、再検討の上、予定通り朝桐レナさんを起用させていただきたく思っております。」
会長の目がゆっくりと持ち上がる。しばしの沈黙の後、口元が緩んだ。「そうか、そうか。それは良かった。正直ね、少しだけヒヤヒヤしてたよ。うちの息子が彼女にご執心でね。よろしく頼むよ。」
「承知しました。」その言葉が胸の中に引っかかるのを、ぐっと飲み込む。レナは演技だけで商品を伝える人間じゃない。彼女を信じての決断だった。会長がどう思っていようと、それが変わることはない。
会社に戻ったのは、昼も過ぎた頃だった。エントランスを抜けて事務室のドアを開けると、いつも通りに蒼井がタブレットを手に立っていた。変わらぬ整った身なり、変わらぬ落ち着いた表情。けれど、どこか少し外側から見ているような雰囲気を感じた。「お帰りなさい、社長。うまくまとまりましたか?」
「ああ、予定通り。レナを起用するってことで、会長も了承してくれた。」そう答えると、蒼井はふっと笑った。柔らかく。そして、どこかもう一歩引いた位置からの笑顔だった。「嬉しそうですね。」
「そう見える?」
「ええ。でも、それでいいと思います。社長が幸せそうなら。」蒼井は優しく笑ったまま、深く頭を下げると、静かにその場を離れていった。その背中にかける言葉は浮かばず、ただ小さな足音だけがフロアに優しく響いていた。
映画の制作は、一度は破棄になりかけたが、再び前向きに検討され始めていた。レナの姿勢が変わったことで、プロジェクト自体の価値が見直されたのだ。桜食堂とのタイアップも、改めて意味のあるものとして見直されている。
その日、俺はレナにノスタルジアを活用した新商品の試作品を説明していた。ちょうど彼女が主演する映画の中で使われる予定のシーンで、製品をどう自然に登場させるか。その背景や設定を一緒に練っているところだった。「つまり、このフレーバーコードが懐かしさを誘発する設計なんだ。ユーザーによって数値は微調整されるけど、根底にあるのは記憶の味だ。」
「へえ、すごい。なんか、ちょっと切ないけど、あったかいね。」レナはそう言って小さく微笑んだ。その笑顔に見とれそうになった、その時。ビルの前に一台の高級車が止まった。車体がキラリと光ったと思ったら、助手席から勢いよく降りてきたのは、黒縁メガネに少し太めのスーツ姿の青年、大光地啓介だった。「はあ、はあ。ここにいらっしゃったんですね。」眼鏡を押さえながら駆け寄ってくるその姿は、どこか小動物のように無防備で、俺もレナも一瞬言葉を失った。「初めまして、啓介と申します。」深々と頭を下げるその様子は妙に礼儀正しく、でも頬を真っ赤にしながらレナを見ている。
「あの、待ちきれなくて」レナが目をまたかせた。「え、啓介さん、約束の時間はもう少し後じゃ」
「はい。でも、父も後で両親に来るって言ってますし、できれば父が来るまでの間、僕と二人で少しお話できたらなって。」
レナが少し困ったように俺を見る。俺は苦笑して、少し肩をすくめた。「行ってきなよ。約束なんだろ。こっちは大丈夫だから。続きはまた今度やろう。」
レナは少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。「ごめん。」
「気にすんなって。マジで。」そう言って笑って見せたが、腹の奥がほんの少し冷たくなるのを感じた。
啓介がパッと顔を明るくして、レナのバッグを持とうとして、不器用に手間取っている。その姿に、俺は妙に感情の置き場を失ってしまい、無理に視線をそらした。二人が並んでビルを出ていく背中を見送った後、俺はエントランスのソファにどさりと腰を下ろした。
その時、蒼井がどこからともなく現れた。タブレットを抱えたまま、俺の前に立つ。「いいんですか?」その声は静かだけど、どこかくすぐるような響きを含んでいた。
「何が?」俺が視線を外したまま答えると、蒼井はくすっと笑った。「社長。研究はものすごく熱心なのに、肝心なところ抜けてますよね。」
「何の話だよ。」
「押しが足りないんですよ。そんなんじゃ、女心は一生わかりません。」
「いやいや、俺、別にそう言うんじゃ」
「はいはい。そういうことにしておきます。」そう言って、蒼井はニコニコしながら隣のソファに腰かけた。「じゃあ、聞きますけど、さっきのレナさんの『ごめん』って、どういう意味だと思いました?」
「いや、普通に予定があるのに、説明引き止めちゃったから悪いって」
「はあ、ダメですね。社長、味覚AIのくせに、人の気持ちにはまるで鈍感です。」
俺は思わず天を仰いだ。「俺にどうしろって言うんだよ。」蒼井は隣でくすくすと笑っていた。その横顔がなんだか楽しそうで、ちょっとだけ悔しい。
翌日、契約締結を迎える夜が、静かに更けていった。オフィスの明かりはいつもより少なく、どこか嵐の前のような落ち着きがあった。仕事は一段落ついていたが、心は落ち着かなかった。いや、むしろそわそわしていた。レナとは、あの啓介が現れてから、まともに言葉を交わせていない。彼はいいやつだ。素直で優しくて、レナのことを本当に大切に思っているのがわかる。でも、彼女くらいになると、好きな人と結ばれることすら自分で選べないのか。そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。もし俺が名乗りをあげたら、何かが変わるんだろうか。でも、そんなことしていい立場か。そんな自問を繰り返していた時だった。
オフィスの自動ドアが、不意に音を立てた。振り返ると、レナがそこに立っていた。柔らかなトーンのワンピースに、緩くまとめた髪。ドラマ撮影の時の彼女とは違う、落ち着いた大人の顔だった。「ごめんね、こんな時間に。」
「いや、いいよ。ちょうど色々考えてたところだった。」俺は立ち上がってソファの前まで出ると、彼女も自然にそこへ歩み寄った。互いに何かを口にする前に、少しの間沈黙が流れた。
「明日、正式に締結だね。」
「そうだな。」俺は少しだけ言葉を選びながら、彼女を見た。「ノスタルジアの魅力を一番伝えられるのは、君だよ。よろしく頼む。」
レナは恥ずかしそうに微笑む。「あなたがそう言ってくれたから、頑張ろうって思えた。」
「俺は本気でそう思ってる。うちの商品は、見栄えじゃなく心の反応を図る。君がそれを体現できる人間だから、俺は任せたいと思った。」
レナは小さく頷いた後、少し視線をそらして言った。「私は有名になれた。でも、どんどん新しい子たちが出てきてる。すごく華やかで、努力もしてて、しかも若くて。本当に競争が厳しいの。」その声には飾りがなかった。誰にも言えなかった不安を、ぽつりと打ち明けるような口調だった。「だから、この仕事、次のステージに行けるきっかけになるって、本気で思ってる。絶対に成功させたい。」
でも、言い終えた後、彼女は俺の目を見つめ直した。「あなたの夢も、応援したいって思ってる。」
「何言ってるんだ、急に。」返された言葉に、俺はそっけなく言いながらも、内心ぐらりと揺れていた。
レナは俺の隣に一歩だけ近づくと、声のトーンを落とし、耳元へとそっと口を寄せた。その一言は音にはならなかったが、確かに俺の耳の奥に届いた。脳が追いつくより早く、体が硬直する。思わず顔を上げると、レナは少しだけ目を伏せ、いたずらっぽく微笑んでいた。「おやすみ、じ。明日、よろしくね。」そう言って彼女は踵を返し、ドアの向こうへと消えていった。ただ、その背中の輪郭が、夜けに鮮やかに焼きついて離れなかった。
そして次の日、朝から落ち着かない。シャツの袖口を止める手がほんの少し震えていたが、胸の奥には確かに感じていた。今日は、何かが変わる日だ。
大光地ホールディングスの重厚なガラス扉をくぐると、冷たい空気が肺の奥を刺した。隣には蒼井。いつもと変わらない表情だが、手にしたタブレットを持つ指に力がこもっているのが分かった。通された会議室には、すでに全員が揃っていた。大光地会長。その横に、いつになく緊張した面持ちの啓介。そしてレナと、彼女の母、静香。
「よろしくお願いします。」形式的な挨拶を交わし、契約書が一枚ずつ配られ、手元に置かれる。会長がサインを手に取った瞬間、「一ついいですか?」俺の声が静かに響いた。会長が眉を潜め、手を止める。「ん?何だ、今更?」
「この条文について、一つ確認させていただきたいんです。ここです。第26条、付随技術に関する特例。」俺は印をつけた箇所を指で押さえ、読み上げる。「『ノスタルジアを含む関連技術は、当社に対し優先的譲渡の対象とする』。これはつまり、弊社の中核技術が貴社に自動的に渡る可能性を含んでいるという理解で、間違いないでしょうか?」
会長が一瞬だけ目を泳がせる。「いやいや、それは万一の場合の話でね。通常の運用では影響はない。形式的な保険だよ。」
「ですが、これが発動すれば、ノスタルジアの全特許が移ることになります。そんな保険で済ませられる話ではありません。」蒼井が冷静に口を挟む。「弊社にとっては大問題です。あまりに一方的な条項だと判断します。」
空気が一瞬にして変わった。会長は苛立ちを隠そうともせず、声を荒げた。「別にいいんだぞ。やめても。こっちも忙しいんでね。けど、困るのはそっちじゃないのか?」
「ええ、困ります。」俺ははっきりと言った。「この映画に、桜食堂も社運をかけています。だからこそ、信頼できるかどうかを最後まで見極める必要があるんです。」
「そうだろ。だから言ってる。うちが技術を管理してやる。悪いようにはしない。使用料の何%かはそっちに回してやるから。」
「いりません。」俺はきっぱりと言った。「これはうちの商品です。他者に譲るつもりも、売るつもりもありません。」
その瞬間、会長の顔がみるみる赤くなった。手にしていた契約書を机に叩きつけ、立ち上がる。「ふざけるなよ。こっちは誠意で提案してやってるんだ。何様のつもりだ。高がベンチャー企業が。」机の端がぐらりと揺れ、会議室の空気が一瞬凍りついた。「バカにしやがって。そっちがそこまで言うなら、こっちから願い下げだ。こんな映画、破棄にしてやる。全部なしだ。なし。こっちは一銭も出さん。」その勢いのまま、椅子を蹴るようにして叫ぶ。その背後で、事務所関係者たちが青ざめた表情を浮かべ、誰も止められずにいた。
その時だった。「父さん、もうやめて。」静かだった声が、会長の怒声を断ち切った。啓介だった。立ち上がり、まっすぐに父の方を見つめていた。「見苦しいよ、今の父さんは。ただ駄々をこねてる子供みたいだ。」
「啓介、お前、俺の顔に泥を塗ってるんだよ。」
啓介はしっかりと父の目を見た。「レナさんのことも、じさんの技術のことも、利用しようとしたのは父さんだ。それは間違ってる。僕は、そんなやり方には賛成できない。」
その瞬間、会長の眉が跳ね上がった。「お前に何がわかる?」雷のような怒声が会議室を揺らす。「ここまで会社を大きくしたのは誰だと思ってる?取引先に頭を下げ、決算資料を作って、食う暇も寝る暇も削って、築き上げてきたのは俺だ。そのやり方が気に食わない。ふざけるな。だったら、お前はこの椅子に座るほどの責任を負ったことがあるのか?」怒りは、まるで今まで押し込めていた何かが吹き出すようだった。
だが、啓介は引かなかった。静かに。しかし、はっきりと答えた。「尊敬してるよ、父さんのことは。ここまで会社を守ってきたこと、本当にすごいと思ってる。感謝もしてる。でも」啓介の声が少しだけ揺れた。「でも、その裏で切り捨てられてきた人たちを、僕は何人も見てきた。父さんの判断が正しいとされるたびに、声を上げられずに去っていった社員たち、業者たち。その人たちにも、守るべきものがあったはずなんだ。」
沈黙。啓介はまっすぐに父を見つめた。「僕は、もうそういう経営はしたくない。父さんのやり方に従うなら、僕は会社にいられない。聞き入れてもらえないなら、これまでの取引の実態や不当な契約の記録を、マスコミに流すことだって考えてる。」
会長の顔から、さっと血の気が引いた。「啓介、お前、本気で?」
「本気だよ。」啓介の瞳には、強い決意が宿っていた。
会長はその場に立ち尽くし、しばらく口を閉ざした。怒りの色はやがて揺らぎ、代わりに深い影が浮かぶ。「そうするしかなかったんだ。」その声は、これまでのどの言葉よりも弱々しかった。「お前が子供だった頃、うちは潰れかけてた。資金繰りも人材も、何もかもが崩れていった。家を守るために、あらゆる手を使った。信頼より利益を選んだ。そうしなければ、生き残れなかったんだ。」会長の拳が震えていた。「あの頃、誰も助けてくれなかった。味方なんて、いなかったんだよ。」その声には、怒りでも強がりでもない、ただの疲れが滲んでいた。それは自らの過ちを正当化する言葉じゃなかった。そうするしかなかった。そう思い詰めて走り続けた男の、正直な叫びだった。
会議室の空気が、ふっと沈黙に包まれる。その時、啓介が小さくぽつりと口を開いた。「母さんが亡くなったあの時、父さん、泣かなかったよね。ずっと仕事に戻ってた。家に帰って来なくなって。僕、子供だったけど、あれが大人になるってことなんだって思ってた。」
会長の目が、ゆっくりと動く。何かが、一瞬だけ揺れた。「泣いてたら、崩れそうだったんだよ。」その一言が、しがれた声で落ちた。「家を守るのは、俺しかいなかった。だから、強くならなきゃって。母さんのこと思い出す暇も、作らなかった。」
啓介は、そっと一枚の写真を取り出すようにして言った。「この前、ノスタルジアで、母さんがよく作ってくれたミネストローネを再現してもらったんだ。」
「え?」
「味も香りも色も、全部あの時のまま。スプーンを口に運んだ瞬間、なんていうか、全部蘇ってきた。家の匂いも、母さんの声も、父さんが笑ってた日の記憶も。」静かに語る啓介の声は、どこか震えていた。「あの時の父さんは、ちゃんと笑ってたよ。母さんと並んで。僕、覚えてる。あれが、本当の父さんだったって。」
会長の瞳が、わずかに濡れて光った。「そんなものが、そんなものが今更戻るわけが」
「戻らないよ。でも、思い出せる。心がまだ繋がってるって思える。それが、この技術なんだ。じさんが作ったノスタルジアは、ただのAIなんかじゃない。人の心を、未来につなぐ力があるんだよ。」
会長は何かを言いかけ、言葉を探すように空を仰いだ。そして、とうとう涙が刻まれた頬を伝って落ちた。しばらくの沈黙の後、会長はスーツの袖でそっと目元を拭い、深く息をついた。「悪かった。俺は、守ることばかりに一生懸命になって、大事なもん、置き去りにしてたな。」
その言葉に、誰も声を出さなかった。ただ、その場の空気が確かに柔らかく変わった。きっと、あの人なりに守りたかったんだ。家庭も、会社も。自分の中でぐちゃぐちゃになりながら。だけど、今初めてそれを言葉にした。誰かに届いて欲しいと、そう思えたのかもしれない。
契約は見直され、俺たちはノスタルジアの特許を守ったまま、新しい契約案を交わすことになった。中心となって動いてくれたのは、啓介だった。あの夜とは打って変わって、彼は堂々としていた。自分の足で立ち、自分の意思で決断を下す。その顔つきは、もう父の影に怯える御曹司じゃなかった。
サインを交わした後、静香が軽く手を打ち、場の空気を柔らかくした。「これで一件落着ね。あとは、あなたたちの結婚式ね。」そう言って、静香はレナと啓介を見た。
俺はその言葉に固まり、視線だけでレナを見た。レナも一瞬だけ動きを止めた後、静かに口を開いた。「お母さん。」静香が振り返る。「私はもう、一人の女として生きてる。もう成人した大人の女性だから、自分のことは自分で決めるよ。」
母親の表情が、わずかに変わった。言葉を飲み込むようにして、「それって、どういう意味?」と問う。
レナははっきりと答えた。「私は、じさんが好き。」
心臓が跳ねた。でも、静香は呆れたように声をあげる。「も、啓介さんがどれだけ誠実で素敵か、あなた分かってるでしょう。なかなかいないのよ、こんな大グループの御曹司なんて。よく考えなさい。」
その瞬間、啓介が前に出た。「僕からも、言わせてください。」彼の声は落ち着いていて、強かった。「僕はレナさんのことを、ずっと見てきました。彼女の努力も、迷いも、真の強さも。だから、分かるんです。彼女の心の中には、僕はいない。」
啓介の言葉に、静香が息を呑む。けれど、彼はまっすぐに言葉を続ける。「そこには、ずっとじさんがいる。それが、現実なんです。」
重たい沈黙が流れた。俺は、もう逃げちゃいけないと思った。あの、みんなの視線が俺に向いた。「学生の頃、レナと別れたのは、ただの進路の違いじゃなかった。静香さんが『この子の未来のために別れてくれ』って言ったから、俺はそれを飲んだ。」
レナの目が、大きく見開かれた。「正しいと思った。彼女のためだって。でも、ずっと後悔してた。言わなかったことも、気持ちをごまかしたことも、全部。」俺はレナを見た。彼女もまた、俺を見ていた。「だから、今度はもう後悔しない。レナと、結婚を前提にもう一度向き合いたい。ちゃんと交際を申し込みます。どうか、認めてください。」
静香は口元に手を当て、しばらく声が出なかった。そして、ぽつりと呟いた。「あなたのためを思ってやってきたこと、全部、私の自己満足だったのかもしれないわね。」それは、母親としての立場から一歩引いた、正直な気持ちだったのだろう。
レナがそっと母の前に歩み出た。「ありがとう、お母さん。でも、これからは私が私の人生を歩いていく。自分の選んだ道を、自分の足で。」
静香は目を閉じて、ゆっくりと頷いた。「そうね。そうしなさい。」その声は少し寂しげで、でもどこか、やっと肩の荷が降りたようにも聞こえた。
あれから、季節が一つ巡った。桜食堂と大光地ホールディングスの契約は、公平で健全な形に書き換えられ、ノスタルジアの全ての権利は、今も俺たちの元にある。啓介の手腕は、俺の想像以上だった。企業体質を見直し、古い価値観を一つずつ手放していく姿勢は、むしろ新鮮で、社内外の信頼を一気に集めた。映画も大成功だった。レナの演技は「役を生きていた」と称され、AIとのコラボという話題性もあって、全国各地でロングラン上映が続いている。
そして、大光地会長。かつてのあの人は、今、自らを相談役と称して一線を退いていた。メディアに出ることはもうないが、業界の若手経営者たちの勉強会を自腹で支援していたり、ひっそりと亡き妻が関わっていた児童福祉団体に寄付を続けているらしい。俺は直接聞いたわけじゃないが、蒼井がこっそり教えてくれた。「社長、あの人、自分なりの償い方を見つけたんですね。」啓介も、時折その話を嬉しそうにしている。きっと、父親を少し誇らしく思い直せているのかもしれない。
そして、俺とレナは。週末の午後、彼女と並んで歩くことが、もう特別なことじゃなくなってきている。風に揺れる彼女の髪を横目に見ながら、ふと「こういう時間が一番大事なんだろうな」と思えるようになった。
俺は、啓介に礼を言いたくて、久しぶりに彼をランチに誘った。レナも一緒に行くと言ってくれて、三人でちょっと洒落たカフェに入った。「今日はありがとうな、啓介。」俺がそう言うと、彼は少し照れくさそうに笑って、目線を伏せた。「いえ、僕の方こそ、色々学ばせてもらいました。でも」啓介はコーヒーカップをそっと置いた。「気づいたんです。憧れって、憧れのままがいい時もあるんだって。レナさんはずっと僕の遠くの光だったから。それが、僕の背中を押してくれてたんです。」
レナは目を丸くし、それから静かに微笑んだ。「ありがとう。啓介さんの真っすぐさに、私も助けられてたよ。」
啓介は少しだけ目を潤ませながら、笑っていった。「お二人とも、お幸せに。」その言葉に、俺はレナの手をそっと握った。彼女は恥ずかしそうに微笑みながらも、しっかり握り返してくれた。
ふと、啓介が視線を横に向けた。「蒼井さんって」
「ん?」俺が聞き返すと、啓介はいたずらっぽく笑った。「最近、うちのチームで一緒に企画やってるんですけど、ものすごく優秀で、すごく話しやすい人で」
「ほう。」レナがすかさず乗っかってくる。「それってつまり、気になってるってこと?」
「え?いえ、そんなつもりじゃっていうか。あ、まあ、ちょっとだけ。」
その反応に、俺もつい吹き出してしまった。「頑張れよ、啓介。」
「は、はい。」
気づけば、カフェのテーブルには温かい空気が流れていた。ノスタルジアが数値化するのは、味覚という曖昧なものだ。だけど、そこにあるのは、過去と未来をつなぐ感情だと、俺は思う。忘れたくない記憶。伝えたい思い。守りたかった人のぬくもり。それを、どこかで「味」という形にして残していけるのなら、このAIを作った意味はあった。誰かの涙を、少しだけ優しくできるような仕事を。俺たちは、これからも続けていく。一つ一つの味が心に届くように。そして、誰かの未来を変える一歩になるように。これが、俺たちの物語の始まりだ。



