お正月、義母は実の娘にだけ20万円のお年玉を渡し、私にはゴミの詰まった古い紙袋を投げつけた。「何よ、その妬みの目は。本当に育ちが悪いわね」って。7年間、仕事を辞めて、ゴミ屋敷を掃除し、介護も全部押し付けられてきたのに。でも、その紙袋の中に、ある書類が挟まれていた。それを見た瞬間、全身の血が凍りついた。私はずっと従順なロボットのふりをしてきたけど、その瞬間、壊れた。この家の真実を知った私は、静…

お正月、義母は実の娘にだけ20万円のお年玉を渡し、私にはゴミの詰まった古い紙袋を投げつけた。「何よ、その妬みの目は。本当に育ちが悪いわね」って。7年間、仕事を辞めて、ゴミ屋敷を掃除し、介護も全部押し付けられてきたのに。でも、その紙袋の中に、ある書類が挟まれていた。それを見た瞬間、全身の血が凍りついた。私はずっと従順なロボットのふりをしてきたけど、その瞬間、壊れた。この家の真実を知った私は、静...

何よ、その妬みの目は本当に育ちが悪いわね。

義母は娘の玲奈にだけ20万円ものお年玉を渡した。私は何も言わなかったが、ぼんやり見ていたら不快だったらしい。義母はお年玉の代わりのように、有名デパートの紙袋を私に投げつけた。

でもその袋は全体的にしわしわで、かなりの年季が入っていた。

「お正月だからって、のんびり座っている暇はないわよね。何年もこの家にいるくせに、片付けもろくにしないで」

いくらデパートの紙袋でも、それはプレゼントなどではない。不潔な廃棄物が適当に詰め込まれていた。あのゴミの墓場から、嫌がらせのために拾い集めてきたのだろう。

だが、そのゴミの隙間に挟まれていたあるものが目に飛び込んできた瞬間、全身の血が凍りついた。

私の心臓が、今までにないほど激しく熱く脈打ち始める。従順なだけのロボットは、たった今壊れた。自分の意思で、最後の大掃除を始める。

私の名前は坂野千尋。28歳の時、職場の同僚だった修吾と結婚した。修吾は穏やかな性格だ。私の言葉にちゃんと耳を傾け、些細な変化にも気づいて慰めてくれる。

新婚生活はまさに思い描いた通り。仕事帰りには2人でスーパーへ行く。割引シールが貼られたお弁当を見つけると、顔を見合わせてにやりとした。食後はインスタントコーヒーを飲みながら、次の休みはどこに行こうかと話し合う。そんな何気ない時間がずっと続くのだと、疑いもしなかった。

運命が音を立てて変わったのは、結婚から1年が経った頃だ。義母が脳梗塞で倒れた。一命は取り止めたものの、右半身に麻痺が残るらしい。1人暮らしをしていた義母を案じ、修吾はある晩、申し訳なさそうに私に手を合わせた。

「千尋、お願い。お母さんを1人にはしておけないんだ。一緒に暮らせないかな?」

病院へお見舞いに行くと、義母は私の手を弱々しく握る。

「千尋ちゃん、忙しいのに来てくれてありがとう。あなたのような優しいお嫁さんがいてくれて、私は本当に幸せ者ね。リハビリ頑張らなくちゃ」

病気をする前と変わらない、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。正直不安はある。義理の親との同居は楽ではないとよく聞くからだ。でも私の場合はきっと大丈夫。修吾も義母も私を大切にしてくれるから、同居しても変わらず穏やかに暮らせるはずだ。

「別にお母さんの介護をしてってわけじゃないよ。ただ1人じゃ心配だから、そばにいてあげたいだけで」

私は迷うことなく首を縦に振った。「分かったよ。お母さんと一緒に暮らそう」

そこから、長く暗い7年間が始まる。

同居が決まり、私は初めて修吾の実家の奥へと足を踏み入れた。修吾の実家は、この辺りでは有名なお屋敷だ。これまで何度か訪問した際は、八畳が三間も続く立派な客間に通されている。間には掛け軸がかけられ、重厚そうな品が並ぶ。

「どうぞ。遠慮せず召し上がってね」

そう言いながら義母はいつも有名百貨店のクッキーやゼリーを出してくれた。ブランドに疎い私でも、義母が手に持つバッグやハンカチに刻まれたロゴを見れば、どれほど高価なものかは察しがつく。お財布にも心にも余裕のある上品な義母。だけれど、それは全て他人に見せるための表向きの姿に過ぎなかった。

義母の退院に合わせて、私たちも修吾の実家へ引っ越す。その当日、荷物を抱えて廊下の奥へ進んだ私は、あまりの光景に絶句した。

「何これ?」

輝いていたのは客間まで。奥まった廊下には新聞紙や雑誌が膝の高さまで重ねられ、誇りが綿雪のように積もっている。何より衝撃的だったのは義母の部屋だ。八畳の広さがあるはずの部屋は、天井近くまで積み上がったダンボールと、中身の溢れ出したゴミ袋で埋め尽くされている。足の踏み場などどこにもない。

「あのお母さん、このお部屋汚すぎる」と失礼なことを言いかけて、口をつぐんだ。

「ああ、そこはもういいの。私、隣の部屋を使うから」

義母はそっけなく言った。驚くべきことに、彼女は部屋がゴミで埋まるたび、片付けるのではなく他の部屋へと移り住んできたらしい。屋敷にある8つの部屋のうち、すでに3つが閉ざされた部屋と化していた。

初めて入った台所はさらに凄まじい。シンクにはいつのものかわからない食器が山をなし、換気扇からは黒い油が垂れ下がっている。床は歩くたびにベタベタと靴下が張り付き、異臭が鼻をついた。食器洗い用と思われるスポンジは、元の色形が分からず乾燥昆布と見違えたほどだ。私が口をつけてきたお客様用の素敵なティーカップも、黒くて薄っぺらいスポンジで洗われていたのかと思うと寒気がする。

「ここも好きに使っていいから。もうお客さんでもないんだしね」

背後から聞こえた義母の声に、これまでの優しさは微塵も感じられない。振り返れば、車椅子に深く腰かけ、冷たい目で私を見上げる義母。台所仕事の手伝いを一切頼まれず、「客間に座っていてね」という対応をされていたのは、この惨状を隠すためだったのか。私を大切なお嫁さんとして扱ってくれていたのではないと、気がついてしまった。

1週間後、「お母さんのお部屋、ゴミがすごいことになってるんだけど」と、たまらず修吾に相談したが、彼は手を止めることすらなく、他人事のように答えた。

「お母さんが片付け苦手なのは昔からなんだよ。もう年だし仕方ないよね。千尋が気になるなら片付けてもいいから、好きにして大丈夫だよ」

私の中で何かが冷たくなっていく。彼は家の惨状を分かっていながら同居を切り出した。いわゆるゴミ屋敷状態であることをずっと隠していたのに、いざ同居となればどうでも良さそうに振る舞う。普通ではない。恥ずかしいと思っていたから黙っていたのではないか。明らかに戸惑っている私に背を向けた修吾は、とても無責任だ。

私と修吾に当てられた部屋は、ゴミに埋もれてこそいないけれど、棚の上は埃が積もっている。元は白かったと思われるレースのカーテンはほんのりグレーに染まり、触れると妙なべたつきがあった。ここは修吾が使っていた子供部屋だ。シングルのベッドに学習机がそのまま残っている。

「うわ、まだ捨ててなかったんだ。昔好きだった漫画あるじゃん」

思い出もある贅沢な子供部屋には宝物が詰まっているらしい。本来なら私も「それ知ってる」と懐かしさを共有できただろうけれど、どれも薄汚れた無価値なものにしか見えない。足裏から得体の知れない嫌悪感が這い上がってきた。

引っ越しから1週間、私の生活は家事を超えた特殊清掃に支配された。まずは台所をどうにかしなければ、食事すら作れない。こびりついた油汚れは、洗剤を吹きかけた程度ではビクともしなかった。金属タワシで何度も力を込めて擦り、ようやくステンレスの銀色が見えてくる。仕事から帰った後、深夜まで続く孤独な作業。だけど掃除に専念することすら許されない。

「ちょっと、ねえ、ちょっと」

義母の部屋から鋭い呼び声が響く。慌てて駆けつけると、ソファーにふんぞり返った義母が顎でテレビを示した。

「リモコン取って」

すぐ目の前のテーブルに置かれているリモコンを義母に手渡す。体は不自由だが、動けないわけではない。手すりや壁があれば歩ける程度だ。テーブルにだって手は届くだろう。しかも要求はそれだけで終わらない。

「あとね、ついでにお茶。あんまり暑すぎないやつね」

この「ついで」が地味に面倒だ。お茶を用意したら、次は「あとね、ついでに新聞持ってきて」と次の「ついで」が来る。1度に用事を済ませられれば楽なのに、あえて小分けにして要求しているのかと疑ってしまう。ようやく台所に戻り、また油に手を突っ込んだ。数十分後には「ちょっと」と義母の声が飛んでくる。この調子では、いつまで経っても家の中が片付くわけがない。新居となったはずの夫婦の寝室は依然として、誇りをかぶった思い出の品とダンボールの山に囲まれていた。

修吾は引っ越し当日に「懐かしいなあ」と卒業アルバムや古い漫画を広げたきり、1度もゴミ袋を手に取っていない。仕事から帰ったら、足の踏み場のない寝室を見て露骨に眉を潜める。

「まだ片付かないの?埃っぽくて鼻がむずむずする。さすがにそろそろ綺麗にして欲しいんだけど」

冷たい言葉が胸の奥に突き刺さった。引っ越し当初は「家が散らかっていても気にしない」と言っていたくせに。2人暮らしをしていた頃、掃除は私が一手に引き受けていた。修吾は片付けが苦手だと言ったし、何より私自身、大好きな人のために素敵な奥さんでいたいという理想を抱いていたからだ。だが2人暮らしの頃の日常的な掃除と、このお屋敷の特殊清掃では次元が違う。会社までの通勤時間は以前の倍もかかっている。3回の乗り換えを経て1時間半かけて通勤し、フルタイムで働いた後に待っているのは、終わりの見えない重労働だ。私の目は常に充血し、喉にも違和感が突きまとう。大量の埃とカビをたっぷり含んだ空気が、確実にこの体を蝕んでいた。

それなのに義母はますますわがままになり、私が少しでも顔をしかめれば泣きまねをする。

「うちが汚いっていうの。私だって恥を忍んで千尋ちゃんに来てもらったのに、ひどい」

100%被害者のように泣いて見せた。そんな義母の姿に、修吾はよくため息をつく。

「お母さんも悪気があるわけじゃないんだから、うまくやってよ。体が不自由なんだし、散らかるのも世話してあげなきゃいけないのも仕方ないでしょ」

彼は諭すように苦言を呈すると、耳にイヤホンを差し込み知らん顔をする。義母が誰の親なのか、修吾は分かっていないようだ。

なんとなく体の表面がヒリヒリして、体温を測れば微熱がある。それでも私は休まない。1度立ち止まったら、もう動き出せない気がしていた。とにかく早く住まいの環境を整えたい。雑巾で床を拭いては洗い、拭いては洗いを繰り返す。いつまで経っても雑巾が黒く染まるのはなぜなのか。ミステリーだが、答えを知ったところで気分が悪くなりそうなので、謎解きはしたくない。無駄なことは考えず、思考を停止させてとにかく手を動かした。私がやらなければ、この家は完全にゴミに飲み込まれ、義母も修吾も、そして私自身まで腐ってしまう。責任感と危機感が私の体を突き動かしていた。咳込むたびに肺がひりつくけれど、立ち止まって泣く時間すら惜しかった。

引っ越しからもうすぐ1ヶ月が経つ。まだまともな調理ができていない。まずは腐った卵や黒ずんだ油汚れ、得体の知れない腐敗臭を放つ冷蔵庫を洗浄しなければ、食材を置くことすらままならなかったからだ。私は毎日仕事帰りにスーパーで惣菜や弁当を買い込み、それを皿に移し替えて食卓に出し続けていた。義母は台所に顔を出さない。実質、客間でテレビを見て過ごすので、私が台所で何をしているかは知らないようだ。

「なんかご飯作るの早いね。手際だけはいいんだ」

思いがけず褒められて、「出来合いの惣菜をお皿に移しているだけです」とは言えなかった。同居してすぐの頃、半額で買ってきた弁当をそのまま出したら、「こんな添加物だらけのものを食べさせて、私なんか早くあの世へ行けってこと?」と義母に泣かれたことがある。出来合いの惣菜は控えたいらしい。そのため、形の整いすぎているコロッケなどは避けて、手作りと見分けのつきにくい素材を選んでいる。だが、裏工作はそう長く通用しない。

「ちょっと、これどういうこと?」

夕食の準備中、車椅子に乗った義母が珍しく台所に姿を表した。買い物袋から出したばかりの、値引きシールが貼られた惣菜のパックを目撃されたのだ。ふとゴミ箱の蓋が開いていることに気がついた。どうやら私が仕事で留守にしている間に台所に入って、惣菜のゴミを見つけたらしい。普段は昼食から飲み物、おやつまで全て私が用意して出かけているため、台所に立ち入らないだろうと油断した。

「私を騙していたのね。いつも手の込んだものを作ってくれていると思っていたのに。料理上手な自慢のお嫁さんだと信じていた私がバカだったわ」

義母の涙で濡れた瞳に、浅ましい軽蔑の色が混じる。騒ぎを聞きつけた修吾が廊下からこっそりとこちらを見ていた。助けを求めて修吾に視線を送ったけれど、彼は苦々しいため息をつく。

「引っ越してすぐは仕方ないかなって、俺も黙ってたけどさ。いつまで出来合いの惣菜に頼るつもり?こういうの買ってばっかでもったいないとか思わない?俺だって家でくらい手作りのご飯が食べたいよ」

心臓が早鐘を打った。頬がカッと熱くなる。

「違うの。まだ台所が料理できる感じじゃなくて、今だって頑張って掃除してるんだよ」

私が訴えると、義母は目を見開いた。

「汚いって言いたいの?失礼ね。私はここでずっと子供たちを育てるために料理をしてきたのよ。それを汚いだなんて、私の生き方を否定するつもり?ひどい」

子育てをしていた頃は知らないが、今はまともな神経なら料理をできるはずがない。油と誇りが幾重にも重なって黒ずんでいるけれど、記憶をたどれば、修吾の実家へお邪魔した際、何度か義母の手料理を出されたことがあった。当時は「美味しい、上品な味付けですね」と微笑んで口にしていた。歩くたびにべたつく床、カビの生えた換気扇、ヘドロが詰まっていた排水溝。義母の手料理がこの不潔な場所で作られていたのだと気づいた瞬間、胃の底から猛烈な吐き気が競り上がってきた。自分が今まで口にしてきたものが、どれほど汚ましい環境で生み出されていたのか、想像したくない。

「千尋さ、主婦なんだから掃除と料理は最低限頼むよ。お母さんだって病気して、変なものばっかり食べさせるわけにはいかないんだから」

修吾は出来合いの惣菜を一蹴した。義母の傲慢な生活の積み重ねはなかったことにして、私がいつまでも片付けられないから悪いのだと、問題がすり替えられていく。ついこの間まで、半額シールの貼られた弁当をゲットできたら喜んで、修吾と2人で「ラッキー」と笑い合っていたはずなのに。はるか昔のことのようだ。

それに義母も健康的な食生活をしていたとは思えない。私が修吾の実家へ来た時、弁当や惣菜の容器が台所のそこら中に転がっていた。病気をしたから健康的な家庭料理を食べたいという気持ちは分からなくもないけれど、ずっと適当に食べていたくせに、私にだけ手作りを強要されては困る。義母の「病人」という盾と、修吾の無関心という刃。2つの凶器に囲まれて、私は自分の感情を表に出せなくなっていた。

ある日のこと、修吾が何気なく放った一言が私の首をさらに締める。

「仕事と家事の両立ができてないんじゃないの?無理しないで、家事に専念したら」

連日の微熱、寝不足で、仕事中も意識がもうろうとすることが増えていたのは事実だ。だが私を追い詰めたのは、他ならぬこの人ではないか。叫びたかったけれど、言葉は喉に引っかかる。

「千尋ちゃんまで倒れたら、私はどうなるの?」

涙の嘆きに押し流されて、結局私は泣く泣く会社をやめた。通勤の往復3時間は確かに大変だったけれど、今思えば満員電車での通勤は唯一の休息の場だったかもしれない。会社は私を1人の人間として認めてくれる、外の世界との大切な接点だった。

退職後は1日中、重苦しい空気が淀むお屋敷に閉じこもり、掃除と義母の雑用をこなす。たまに気分転換にと車を出して義母を散歩に連れ出せば、さらなる地獄が待っていた。

「あら、坂野さん、今日もお散歩?本当にお嫁さんと仲がいいわね」

道ゆく近所の人が声をかけてくる。すると義母はたちまち上品なおばあ様の顔になる。

「ええ、うちの千尋ちゃんは本当に可愛くて、私のためにわざわざ仕事を辞めて帰ってきてくれたの。毎日手の込んだお料理を作ってくれる、自慢のお嫁さんなのよ」

義母が私を持ち上げれば持ち上げるほど、近所の人たちの目には羨望と賞賛が浮かぶ。それが私にはたまらなく負担だった。「坂野さんちのよくできたお嫁さん」という看板を背負わされて、近所のスーパーで惣菜を手に取ることすらできない。カゴの中に冷凍の枝豆を一袋入れるだけで手に汗を握る。注意を確認し、肉のパックの下に忍ばせた。万引きでもしているような緊張感だ。常に人の目が気になる。誰かに「坂野さんのお嫁さん、手抜きをしている」とささやかれていそうで、異様なプレッシャーが突きまとった。こっそり入手するにしても、冷凍の枝豆が精々だ。仕方なく私は新鮮な生肉や旬の野菜を買い込み、あの忌々しい台所に立つ。どれだけ磨き上げても、排水溝の奥にまだ潜んでいるだろうヘドロや、壁に染みついた数十年分の油の痕跡が綺麗に消えることはない。台所で包丁を握るだけで鳥肌が立ち、吐き気が込み上げた。ようやく作った料理をテーブルに並べても、義母の評価は辛辣だ。

「少し味が薄くないかしら。やっぱりあなた、あまりお料理上手じゃないのね。だから出来合い物ばかり買ってごまかしていたんでしょう」

食卓に着いた修吾まで、同調するように鼻を鳴らした。

「確かにお母さんのご飯とか買ってきたのに比べたら、パンチがないな。そういえば千尋って前からお弁当とかよく買ってたね。料理苦手だったんだ」

思い出し笑いをする修吾の横顔が、ひどく遠くに見える。新婚の頃、私がカレーを煮込んでいれば「美味しそう」と修吾はわざわざ鍋を覗きに来た。2人でキッチンに立っていた幸せな記憶は、もう完全に書き換えられてしまったのだ。

私は自分の作った料理をまともに咀嚼することができない。ある程度片付いたとはいえ、あんなに汚かった場所で作ったものに、強い拒絶反応があった。それでも義母や修吾の手前、普通を装って食べているふりをする。何を口に運んでも砂を噛んでいるようで味がしない。噛むことさえ億劫で、私は料理を水で流し込むようにして丸のみにする癖がついた。ただ生きるために、食べ物の形をした異物を胃に放り込んでいるだけだ。一応栄養は取れているはずだが、いつからか私の頬はこけ、鏡を見ると生気がない。お屋敷のゴミを片付けても、私の心の中にどす黒い澱が溜まっていく。いつかその澱に私自身が沈んでしまうのではないか。そんな恐怖すら空腹と一緒に丸のみして、家中にこびりついた汚れを落とすために立ち上がるのだった。

時折、義母はご近所の夫人たちをお屋敷に招き、お茶会を開く。お客様を迎え入れるために、客間だけは今だけ清潔に保たれていたのだろう。義母は元々この辺りの地主の家系に生まれたお嬢様だ。体に麻痺が残ったとはいえ、その血筋と上品な未亡人という肩書きは、近隣の奥様たちから一目置かれるに十分な効力を持っていた。

「病気と聞いた時は驚いたけれど、本当にお元気そうで良かったわ。おほほ」

「本当に可愛いお嫁さんが手を貸してくれるから、なんとかやっていけてるのよ。千尋ちゃんには感謝してもしきれないわ」

華やかな笑い声が廊下を伝って私の耳に届く。彼女たちが口にしている有名店のケーキも、芳醇な香りを漂わせている紅茶も、全て私が用意したものだ。来客用のティーカップは新品のスポンジを下ろし、洗剤をつけて3度も洗い直した。地獄のような台所に置かれていたティーカップは、いくら磨き上げても汚らしく感じる。キラリと輝き曇り1つないのに、どうしても背中がゾワリとするのだ。いつの間にか私はひどい潔癖症になってしまったらしい。洗剤を使いすぎたせいか、指先はひび割れ、手の甲は常に赤く晴れている。優雅なお茶会の邪魔をしないよう、紅茶を出した後、私はそそくさと自室へ引っ込んだ。夫婦の寝室は依然としてダンボールと修吾の思い出の品が積み上がったまま。空気は重く、埃の匂いにはいつまで経っても慣れない。今から聞こえてくる「おほほ」という高笑いが、私の惨めさを増幅させた。

現実から逃げるように、目の前のゴミの仕分けを始めた。同居してから早3ヶ月が経とうとしている。必死に働いているつもりなのに、台所はまだ完全に清潔とは言えず、寝室もベッド以外に足の踏み場がない。さらに義母が何十年もかけて作り上げたゴミの墓場が、あと3部屋も控えている。気が遠くなるような絶望感に襲われた。

私が悪いのだ。もっと効率よく動ければ、もっと笑顔で義母に接することができれば。会社をやめてまで家に入ったのに、私は家事の1つも満足にこなせない。自分を責めると頭の奥がガンガンと痛んだ。今の笑い声が一段と大きくなる。大きな窓から入る明るい光に照らされて、お茶会を楽しんでいる義母たち。一方、暗い部屋の隅で膝を抱える自分が、ひどく見苦しく汚れたものに感じて仕方がなかった。私までこの巨大なゴミ屋敷という怪物の一部になっていくようで、恐ろしい。

「千尋ちゃん。千尋ちゃん」

埃の舞う寝室で古いビデオテープを仕分けていた私の耳に、義母の声が小さく聞こえた。連日の疲労と微熱のせいで意識がぼんやりとしている。その声が自分を呼ぶものだと認識するまでに、数秒の空白があった。はっと我に帰り、私は客間へと駆けつける。客間の豪華な間ではお茶会が続いていた。だがそこに笑顔はなく、空気が重苦しい。ソファーに腰かけた義母は、今にも泣き出しそうな顔で、震える手をご近所さんたちに握られていた。

「どうしましたか?お母さん」

「千尋ちゃん。お手洗いよ。ずっと呼んでいたのだけれど。手を貸していただける?」

彼女は頬を赤らめ、体をもじもじとよじる。

「あ、すみません。すぐに」

慌てて義母の脇を抱え、トイレへと急ぐ。背中に鋭い視線がいくつも突き刺さり、私は心臓が止まりそうだった。無事に用を済ませ、義母をソファーに戻す。ケーキを食べて茶菓子を囲んでいたご近所の夫人たちが、一斉に私を睨みつけた。

「ちょっと、千尋さん、あまりにもひどいんじゃない?」

責任感の強そうな1人がピシャリと言った。

「お母様があんなに切実にお呼び立てになったのに、無視するなんて、一体どんな神経をしているの?お手洗いを我慢させるのはやってはいけない意地悪よ。人としての尊厳を踏みにじって、最低ね」

「すみません。掃除をしていて、気づくのが遅れて」

「掃除なんて後でもいいじゃない。あなたは自分のことばかりね」

厳しい非難の言葉が矢のように降り注ぐ。私が唇を噛みしめて俯いていると、義母が震える声で割って入ってきた。

「いいのよ。千尋ちゃんは毎日一生懸命やってくれているわ。私の方が少し我慢すれば済む話ですもの。感謝こそすれ、文句なんて言えないわ」

義母はハンカチで目元を拭う。その健気な姿に、周囲の夫人たちは一斉に同情の声を漏らした。

「坂野さん、なんて心が清いの?お嫁さんにそんな風に気を使って、本当に優しいわ」

「こんな菩薩のようなお母様、どこを探したっていないよ」

義母は聖女のごとく称えられ、私は不出来な嫁という構図で固まった。足元にとろりとした何かを感じる。底の見えない沼の中に、ズブズブと沈んでいくようだ。

「すみません。本当にすみません」

何に謝っているのかも分からないまま、私はただ頭を下げ続ける。義母の口元がハンカチの影で満足げに歪んで見えたのは、きっと私の被害妄想だと自分に言い聞かせるしかなかった。

あっという間に同居から7年が経つ。誇りと紙屑が蔓延したお屋敷の中に閉じ込められたまま、私の人生はゆっくりと腐敗していった。義母は病気の後からまともにリハビリをしていない。最初こそ壁を伝って歩けていたはずなのに、「ちょっと肩を貸して」「ちょっと車椅子」と私を杖代わりにする生活を続け、急速に足腰が弱った。1日中座ったまま、私が運ぶお菓子や食事を口にするだけの生活。動かない体は年を追うごとに肥大し、体重は30キロほど増えた。その巨体を支える私の膝は悲鳴をあげている。

「あ、よいしょ。ねえ、よいしょ。よいしょ」

「うるさいわよ。重そうにしないでちょうだい。私は病人なんだからね」

私の方に全体重を預けながら、義母は耳元で毒を吐く。物理的な重さ以上の何かに、私の精神は押し潰された。ようやく片付けを得たはずの台所や寝室も、決して安らげる場所にはならない。汚ましいほどの汚れの記憶だけは残り続け、7年も経った現在ですら、台所に長居すると寒気がしてくる。

どうせ私が片付けると思っているからか、綺麗に保っていた客間まで、義母はゴミを床に捨てるようになった。

「ねえ、あなたが来てからうちが汚くなったよね。前は私が綺麗にしていたのに。玄関は家の品格に関わるんだから、ちゃんとして。あ、明日またご近所の皆さんがいらっしゃるよ。私に恥をかかせないでね」

捨てても片付けてもどこからか溢れ出てくるゴミと、義母が撒き散らす不平不満が家中に降り積もる。この閉塞感から救って欲しくて、私は何度も修吾に助けを求めた。だが彼は私の顔を見るなり眉を潜める。

「また親の悪口。疲れて帰ってきているのに、悪口なんて聞きたくない。千尋、お前最近顔が怖いよ」

彼はそう言って、逃げるように家を開けることが増えた。帰宅は深夜、あるいは一言の連絡もなく外泊する。「仕事が忙しいんだ。俺の飯を作らなくていいんだから、その分家事が楽になるでしょ」と、悪びれる様子もなく吐き捨てられる言葉に、反論する気力さえ失せていく。私1人がこのお屋敷の重圧を背負っている。

もちろん逃げ出したくなる時もあった。スーパーへ出かけた際、ふとこのままどこか知らないところへ消えてしまおうかと、線路を走る電車を眺める。でも私が手を貸さなければ、巨体の老人は一歩も動けず、衰弱し最後は腐るだろう。無責任に投げ出すという選択はできなかった。気真面目すぎる自分の性格が嫌になる。呪いのような責任感は鎖となり、私の首を締め続けた。

いつからか私は鏡を見ていない。30代半ばを過ぎた自分の肌がどれほど衰えたかを確認するのが怖かったからだ。外の世界では季節が巡り、人々が楽しい生活を謳歌している。私は春の温かさも夏の潮風も感じる余裕はなく、ただただ義母に人生を捧げてきた。このお屋敷の中だけは、淀んだ7年前の空気がそのまま残っている。

腰が痛い。疲れた。でもマッサージに行きたいななんて、夢のようなことは考えない。頭の中は無駄。義母の生活は全て把握している。彼女が何を求め、何に不機嫌になるか、先回りして動く。「ねえ、ちょっと」かつては恐怖でしかなかった呼び声も、今では声のトーンや間合いを聞くだけで、トイレに行きたいのか、テレビのリモコンが欲しいのか、あるいは喉が乾いているのかが分かった。

私の完璧な奴隷ぶりに、義母が声を荒げることも減っていく。自分の感情を消し、ただ求められる役割をこなすだけのロボットとなって平穏を手に入れた。けれど、その平穏を土足で踏みにじるものが現れる。修吾の姉、玲奈だ。存在すら忘れていた人。私たちの結婚式の時に1度会ったきりで、男性と都会で同棲していると聞いていた。7年前、義母が脳梗塞で倒れた際、修吾が慌てて電話をかけても、玲奈は「マジ行けたら行くわ」と他人事のように返した。その後、一命を取り止めたと伝えると「へえ、よかったね」といったきり、お見舞いすらない。私たちと義母の同居が決まっても「うん。そうなんだ」で終わり。ああ、かと。よく言えば自由人、悪く言えば極度の自己中。それが私の持つ玲奈の印象だ。

その玲奈が予告もなくお屋敷に現れた。相変わらず派手な格好をして、香水の匂いをぷんぷんと漂わせている。何のために今更この実家へ足を踏み入れたのだろう。

「お母さん、私、結婚することになったの」

昔同棲していた男性とはとっくに別れ、最近知り合った新しい恋人と結婚するという。今回の相手はいわゆるちゃんとした家柄の常識人らしく、同棲ではなく所帯を持って結婚したいと言っているらしい。結婚するなら、まずは親に挨拶をしなければならない。そういうわけで、玲奈は義母に「今度彼氏を連れてくるから」という報告をしに、わざわざやってきたのだ。

義母の顔が、見たこともないほどの歓喜に染まった。

「まあ、結婚。玲奈。本当なの?」

40歳を超えた奔放な娘がようやく身を固める。それも、お嬢様育ちの義母が喜びそうなまともな男と。義母は狂喜乱舞した。普段ご近所さんには「千尋ちゃんは本当の娘みたいに可愛い」などと言いふらしていたが、所詮は他人。本物の娘の婚約となれば、私の存在など一瞬で底辺へと落ちるのだ。

「千尋ちゃん、何ぼーっとしてるの?早速お祝いよ。屋上のお寿司をさっさと注文してちょうだい。あとお茶もね」

まだ彼氏が来たわけでもないのに、お屋敷の中はお祝いムードとなる。

「あ、私お茶やだ。オレンジジュースにして。果汁100%のやつしか飲めないから」

義母は私を顎で使い、玲奈はソファーにふんぞり返って、ネイルの塗られた指先を撫でながら私を見下している。

「あれ?ていうか、この人、もしかして修吾の嫁?」

悪意はなさそうに玲奈は純粋に尋ねた。私は曖昧に微笑み返した。玲奈はよほど実家の居心地が良かったのか、「今日泊まっていっちゃおうかな」と言い出す。当然、お屋敷に客用の布団など用意されていない。玄関から客間、トイレまでの一直線しかお客様を入れられない、秘密の多い家だったからだ。

「あら、そう。じゃあ早く布団一式買ってきて」

空気扱いだった私に、いきなり命令が飛んでくる。すぐさまエプロンを外し、車の鍵を握った。

「待って。私、低反発のマットレスじゃないと腰が痛くて寝られないから、よろしくね」

ソファーで寝転びながらスマホをいじる玲奈に、義母は目を細める。客間のテレビ台の引き出し奥から、自身のへそくりである札束を引っ張り出した。

「これで足りるかしら?1番いいのを買ってきなさい」

「あ、はい」

2万円を受け取り、私は夕方の渋滞する道路を車で走った。思い布団一式と低反発マットレスを車に乗せ、1人で車に積み込む。遅くなったら叱られるという圧迫感が私を駆り立てていた。息を切らせてお屋敷に戻ると、客間からは楽しげな2人の笑い声が聞こえてくる。荷物を抱えて入ってみれば、玲奈が嬉しそうに1万円の現金を財布にしまい込んでいた。

「嬉しい。今度、彼氏とフレンチに行ってくるね」

「彼氏さんも逆の家の人間になるのだから、それなりの食生活をしてもらわないとね」

義母は満足げに頷いている。大きな荷物を抱えて立ち尽くす私に気がついた義母は、礼の言葉1つもなく、ただ右手を差し出した。

「お釣りは?」

「あ、はい」

慌ててポケットから釣り銭とレシートを取り出す。

「まさか自分の懐に入れるつもりだったんじゃないでしょうね。やだ、やだ。妬み根性した人は」

パチンと私の胸の中で何かが弾ける音がした。少しだけ嫌な気持ちになったが、それを表に出すことはしない。微塵で買ってきた布団一式を差し出した。

その夜、私は修吾に「お姉さんが泊まっていきます」とメッセージを送った。数時間後に帰ってきたのは「仕事忙しいから、帰れたら帰る」という紋切り型の文だ。結局修吾は外泊。帰宅することはなかった。自分の姉が来て、自分の母親が狂喜乱舞しているというのに、彼は無関心だ。

暗い寝室で1人横になる。今では玲奈が「低反発最高」とはしゃぎ、2人の嬉しそうな笑い声が夜遅くまで響いていた。私の7年間は何だったのだろう?必死にお屋敷を片付け、味覚を失い、感情を押し殺して尽くしてきた日々の結末がこれか。結局、実の娘には叶わない。冷え切った布団の中で、私はただ暗闇をじっと見つめ続けた。

玲奈の結婚が決まってからというもの、義母は普段に増して散歩に出たがるようになった。目的は1つ。ご近所さんに娘の婚約を言いふらすためだ。

「娘の玲奈がね、都会でのお仕事を一区切りつけて、ようやく素晴らしいお方と巡り合ったの」

車椅子を押す私を空気のように無視して、彼女は出会う人全てに、はんなり声で同じ話を繰り返す。かつては「よくできたお嫁さん」と私を持ち上げる言葉に嫌悪感と居心地の悪さを抱いていた。だが完全に娘の話題に塗りつぶされている。私の存在など、今やその辺の石ころと同じだ。

1年間1度も母親の顔を見に来ず、倒れた時に心配するそぶりすらなかった傲慢な娘。それなのに、まるで最初から仲睦まじい親子だったかのように手放しで喜ぶ義母の姿に、私の心は凍りつくように冷めていった。玲奈もまた、これまでの不義理など気にせず、頻繁にお屋敷へ顔を出す。

「キッチンが使えるじゃん。すごい」

ある程度片付いたお屋敷を気に入った玲奈は、居座ってくつろぎ始めた。客間の隅には低反発マットレスがほぼいつも敷いてある。

「千尋ちゃん、コーヒー入れて。あ、私は豆乳でソイラテにする派だから」

玲奈が来るたび、寿司やとんかつの出前が取られ、キャンキャンという笑い声がお屋敷を満たす。私は息が詰まりそうだった。元々自分の居場所がない家に、玲奈という異物が入り込んできたことで、今度こそ本当に崖っぷちまで押し出されている。しかも玲奈は母の介護には絶対に手を貸さなかった。義母がトイレに行きたがっても、体を支えるのは必ず私の役目だ。車椅子さえ押さない。

「お母さん、この間彼氏といったフレンチ、すっごく美味しかった。今度は和食の名店に行きたいな」

「彼氏も逆の家の人間になるんだから、和食の食事作法くらい完璧にしておかないとね。しょうがないね、玲奈は。ほら、これで足りるかしら。2万円」

「わあ、お母さんありがとう」

嫌でも聞こえてくる2人の会話。実の娘には湯水のようにお金が流れていく。一方で、私への締め付けは異常なほどになった。

「ちょっと、お風呂が長すぎるんじゃない?水道代とガス代がもったいないでしょ」

トイレに行く回数まで、チラシの裏にメモを取られている。

「またお手洗い?トイレットペーパーを使いすぎよ。もっと節約しなさい」

以前は言われなかった細かな文句が、毎日私に浴びせられる。水道代や光熱費の引き落とし口座は義母名義とはいえ、なぜ嫁の使う数十円の水道代を惜しむのか。義母は社会に出て働いたことはないが、莫大な不労所得があるという。この屋敷の敷地だけでも300坪。近隣のドーナツショップやコインランドリーの土地も義母のものである。築10年にも満たない新しい家が立ち並ぶ美しい住宅街の全てが、古くから逆の土地で、貸し出してあげているのだそう。会社員経験しかない私には、それが毎月どれほどの巨万の富を生み出しているのか、想像すらつかなかった。

義母の要求で、以前に増して彼女を銀行へ連れていく回数が増えた。だが、義母が窓口やATMを利用する際、必ず私に鋭い視線を向けて言い放つ。

「ちょっと離れていて。近くに立たれると落ち着かないわ」

暗証番号や資産の額を覗き見されるとでも思っているのだろうか。7年間義母を支え、時には失敗した下の世話もした。心身を尽くしてきた私を、まるで泥棒のように疑っている。そんな義母の手から、遊びに来た玲奈へと数万円の札束が渡された。

「逆の家の娘として恥ずかしくないお洋服を買いなさいね」

「はーい」

ロゴマークが入ったブランド好きの義母。あれもこれも身の回りのものはブランド物だ。玲奈の持ち物にもブランドのロゴマークが目立つようになる。やるせなさと虚しさが込み上げてきた。私は義母から小遣いどころか、ブランド物のタオル1枚すらもらったことはない。物が欲しいわけではなく、実の娘と他人の嫁とのあまりにも露骨な待遇の差に、私の心は悲鳴を上げていた。思考が完全に停止していたけれど、まだ痛む心があったらしい。底に似た黒い感情が、わずかに湧いてきた。

12月の末。私は文字通り血を吐くような思いで大掃除に没頭した。しめ縄や門松を飾り、お屋敷の隅々まで磨き残しがないか目を光らせる。かつて真っ黒だった台所の床は、私の青白い顔が映るほどピカピカに輝いていた。換気扇に触れてもベタつきなど一切ない。廊下の隅に誇りさえ残らないように気をつけた。それでも私はまだ磨き足りないような脅迫観念に駆られている。いくら綺麗にしても、時折廊下で虫の姿を見ることがあった。寒くなってからは見かけなくなったが、発生源は分かっている。あのゴミの墓場と化している3つの部屋だ。義母が使い古して放置した。数年前、そこも片付けようとしたけれど、義母から拒絶されている。

「別に使わない部屋なんだから、私の荷物に勝手に触らないでちょうだい。大事なものもあるの。勝手に持っていかないでよ」

掃除に一応の区切りをつけ、私はおせち料理の仕込みに入った。台所の戸棚の奥に眠っていた漆塗りの立派な重箱。それを何度も何度も念入りに洗い、美しく仕上がった料理を詰めていく。けれど私はやはり口にする気にはなれない。今年は玲奈も来るかもしれないという義母の命令で、例年より何倍も豪華な食材を用意した。

そして、予告通り玲奈がやってきた。修吾も正月休みに入り、家族4人が客間に揃って新年を迎える。

「さあどうぞ。好きなだけ召し上がれ」

まるで全て自分が用意したかのように、義母は玲奈と修吾におせちを振る舞った。

「おいしい。幸せ。私の彼氏も連れてくればよかったな」

はしゃぐ玲奈を、義母は菩薩を思わせる笑みを浮かべて見つめている。ふと義母が思い立った様子で、車椅子を自ら動かし始めた。室内であっても、いつもは私に「押しなさい」と強要する。しかし手を貸そうとした私を「触らないでよ」と珍しく拒絶した。

自室から戻った義母は、縦長のポチ袋を手に持っている。

「はい。玲奈、お年玉よ」

玲奈はその場ですぐにポチ袋を開け、中身を確認した。

「え、いっぱい入ってる。こんなにいいの?」

「いいのよ。20万ぽっちだけどね。結婚前は何かと物入りでしょう」

私はその光景をただぼんやりと見つめていた。すると、私の視線に気づいた義母が、きっと私を睨みつける。

「何よ、その妬みの目は。本当に育ちが悪いわね」

義母は吐き捨てるように言うと、再び車椅子を転がして客間を出ていった。次に持って戻ってきたのは、有名デパートの紙袋だ。でもその袋は全体にシワが入り、いつの時代のものか分からないほど古びて年季が入っている。玲奈への別のプレゼントだろうか。それにしても汚すぎる。不思議に思っていると、義母はその紙袋を私に向かって思いきり投げつけたのだ。ばさりと鈍い音がして、紙袋は畳に座っていた私の太ももに直撃した。衝撃で袋の口からわずかに中身が滑り落ちる。

「あなたにはこれをあげるわ」

義母は意地の悪い歪んだ笑みを浮かべて、私を見下ろした。散らばった中身を見た玲奈が、のけぞるようにして声をあげて笑う。修吾はちらりと横目で確認しただけで、テレビに目を戻した。

「ねえ、あなた、お正月だからってのんびり座っている暇はないわよね。何年もこの家にいるくせに、片付けもろくにしないで。玲奈をいつも客間で寝泊まりさせて、かわいそうだと思わないの?」

いくらデパートの紙袋でも、それがプレゼントなどではないと一目で分かった。

「あなたがサボっているせいで潰れているあの3部屋。さっさと片付けなさいよね」

悔しさと惨めさで視界が滲むのをこらえながら、私は投げつけられた紙袋の中を覗き込む。やはりただのゴミだった。足元に転がり出たのは、茶色く変色した古い紙屑や、カビたおにぎりの残骸。袋の中にもそんな不潔な廃棄物が適当に詰め込まれていた。あのゴミの墓場から、義母が嫌がらせのためにわざわざ拾い集めてきたのだろう。

だが、そのゴミの隙間に挟まれていたあるものが目に飛び込んできた瞬間、全身の血が凍りついた。7年間私が沈んでいた透明な沼が、一瞬にして消えていく。いくら私がこのお屋敷を磨き上げても、決して綺麗になることはなかった。当然だ。この家に住む人間そのものが、他人の心を持て遊び、踏みにじる腐り切った腐敗そのものだったからだ。

凍りついていた私の心臓が、今までにないほど激しく熱く脈打ち始める。ボロボロの紙袋をしっかりと強く握りしめた。従順なだけのロボットは、たった今壊れた。自分の意思で、最後の大掃除を始める。

燃え盛る怒りの炎を、私は完璧に押し隠した。顔にはいつもの従順で、少し疲れた、波風を立てない笑みを貼り付ける。洗脳された介護ロボットのままでいる方が都合がいいからだ。

お正月の3が日、義母と玲奈はのんびりと過ごしている。一方、修吾は1月の2日から仕事が忙しいと言い残し、逃げるように家を出て行った。3日の昼前、新春初売りで賑わうデパートへと義母は玲奈を誘う。私はいつものように、義母の荷物持ちやお抱え運転手として付き添わされる。

「玲奈。これなんかあなたに似合うんじゃない?」

「わあ、いいじゃん。これも買っていい?」

上目遣いでお伺いを立てる玲奈。義母は顎をあげて頷いた。

「いいに決まってるでしょ?」

「やった。イエーイ」

玲奈が少しでも目を止めたブランド服や品を、義母は次から次へと買い込んでいく。その太っ腹な買いっぷりに、玲奈は完全に有頂天になっていた。

「こんなにたくさん買ってくれるのなんて、子供の時以来じゃん。どうしたの?もうお母さん大好き」

昼食に入ったレストランでも、2人は迷わずコース料理を注文する。私に当てられたのはメニューの中で1番安い小皿料理だったが、義母は気前よく言った。

「千尋ちゃんにもご馳走してあげるわ。お正月だものね。一応逆の家の嫁なんだし、まともな味を覚えておきなさい」

「はい、ありがとうございます」

久しぶりの外食。お屋敷よりもはるかに清潔で管理されたキッチンで作られただろう料理。口に含むと、わっと旨みが広がった。

さて、驚いたのは会計の時だ。札束の現金派で、いつも銀行でお金を下ろしていた義母。そんな義母が財布から1枚のクレジットカードを得意げに取り出した。慣れない様子で店員にカードを提示し、何万円もの決済を済ませていく。さすがに不審に思い、私はそっと義母に尋ねた。

「お母さん、そんなにたくさん使って大丈夫ですか?」

義母は玲奈と顔を見合わせ、鼻で笑った。

「平気よ。ま、あなたは庶民の出だから分からないかもしれないけど、デパートって値段を考えずに楽しくショッピングする場なの。これくらいは金だわ」

「そう。うち昔は外車がついてたもんね」

「ああ、外車、懐かしいわね」

だがその余裕は、夕方に帰宅した瞬間に文字通り吹き飛ぶこととなる。お屋敷の客間に入ると、すでに修吾が帰宅していた。仕事があると言っていたのに、こんなに早い時間に客間に座り込んでいるなんて、この7年間で初めてのことだ。

「どうしたの?お仕事は?」

私が声をかけると、修吾はひどく虫の居所が悪そうな顔で、低く呟いた。

「財布を忘れたんだ。会社で気づいて、取りに戻ってきた」

困っている彼のために、私も探すのを手伝う。すぐに客間の棚と棚の隙間に財布を見つけた。手渡すと、修吾はそれを開き、何度も中身を確認しながら首をかしげた。

「うん。札は減ってない。よかった。でもおかしいな。クレジットカードがない。いつもここに入れてるはずなのに」

その言葉を聞いた瞬間、私の後ろにいた義母の体がびくりと震えた。私は何食わぬ顔で記憶の引き出しを開けた。

「修吾の使ってたクレジットカードって、確かピンク色のカード?」

修吾がはっとして私を見た。

「そう、それ。てか千尋、俺がカードを使うところ、じろじろ見てたの?」

疑惑の目を向けられる。私が盗んだと疑われているのですぐに事情を説明した。

「うん。今日お母さんがデパートで同じようなピンク色のカードを使っていたから、似てるなって」

客間の空気は一瞬で凍りつく。修吾の視線が、車椅子に座る義母へと突き刺さった。義母の顔からはみるみる血の気が引き、変わっていく。

「お母さん、俺のカード、勝手に持ち出したの?」

「ち、違うわ。客間のテーブルの上にポンと落ちていたのよ。だから使っていいものだと思ったの」

裏返った声で叫び、必死に言い訳をまくし立てる。

「それにピンク色のカードだから、てっきり千尋ちゃんのものだと思って。カードに名前も書いていなかったし、私に使っていいと置いておいてくれたんだとばっかり」

あまりにも苦しい言い訳だ。今時のクレジットカードはナンバーレスで、表面に氏名も番号もないものが主流となっている。誰のものかも確かめず、ただ嫁のカードならいくら使っても文句は言われないと高をくくって、義母はポケットに入れたのだ。

「いくら使ったの?」

「えっと、23万」

義母の目が泳いでいる。すかさず私は口を挟んだ。

「え、230万の間違いでは?」

空気の読めない嫁の発言に、義母は眉間にシワを寄せて睨みつける。その様子から、修吾はどちらが事実を口にしているのかを察したらしい。

「俺のカードだと思ったからって、何十万も使っていいわけないだろう」

修吾が、今まで聞いたこともないような怒声を上げた。

「俺のカードだぞ。俺の金なんだ。なんでお母さんの贅沢や姉ちゃんの服のために、俺の金を使われなくちゃいけないんだよ」

玲奈が手にしていた紙袋を、気まずそうに背後に隠す。穏やかで争いを嫌う優しい修吾。そんなイメージを、私はもちろん義母や玲奈も抱いていただろう。私から義母について相談した時は、誰も悪者にせず「うまくやってよ」と諭すような性格だ。声を荒げることはなく、落ち着いている。ただし、落ち着いていられたのは彼自身に実害がなかったからだ。

「修吾、落ち着いて。お母さんは悪気があったわけじゃないと思うの」

慌てて取りなそうとするが、修吾の怒りは収まらない。

「黙れ。大体、お前がもっと部屋を綺麗にしていれば、財布を置き忘れなかった。なんか最近、客間が雑然としてんじゃないの?」

見渡してみれば、客間の一角はほぼ玲奈の寝床となっている。低反発のマットレスは敷きっぱなし。枕元には充電器が転がっている。食べかけのポテトチップス、飲みかけのペットボトル。来たのか来ていないのか分からない服。扉を閉めてしまえば問題ないかと言えば、そうでもない。客間の全てに満遍なくペットボトルや服を点在させている。彼女が修吾の実家に帰ってきたのは簡単。たったの3日間で、よくもまあこんなにも生活感溢れる部屋にしてくれたものだ。

「ペットボトルの中身とかまだ残ってるし、勝手に捨てたら玲奈さんに悪いと思って。どうせ片付けてもすぐに汚される。さすがはゴミ屋敷を作り上げた義母の娘だ。ゴミ屋敷作りの素質がある。私は下手に玲奈の私物に触って叱られるよりも、数日の滞在期間くらい放っておこうと決めていたのだ」

「姉ちゃんにいいところ見せたくて、俺のクレジットカードを使ったの。2人して俺の金をむさぼり食うつもり?」

いつもなら私の訴えを「親の悪口を言うな」と一蹴し、我関せずを貫いていた修吾。けれど今、自分の懐を痛めつけられたことで、実の母親に向かって激昂している。客間は完全な修羅場と化していた。車椅子の上で小さくなり、プライドをズタズタにされて顔を真っ赤にしている義母。自分への飛び火を恐れて、ソファーの端で露骨にオロオロしている玲奈。私はその様子をしばらく穏やかに眺めた後、ゆっくりとこれ以上ないほど穏やかな笑みを浮かべて、2人の間に割って入った。

「修吾、お願いだから大きな声を出さないで。正月早々、そんなに怒るなんて、縁起が悪いよ」

険悪な雰囲気の中、こんな時こそ家族の絆を守るために、どこまでも優しくて健気ないいお嫁さんでいなければならない。

「お母さんも、絶対に盗むつもりなんてなかったのよねえ。お母さん、本当に私のカードだと勘違いして、うっかり使ってしまっただけですよね。いつもは現金派だから、カードを使ってみたかったのでは?」

私が助け舟を差し伸べると、義母はまるで地獄で蜘蛛の糸を見つけた罪人のように、必死の形相で飛びついてきた。何度も何度も激しく頭を縦に振る。

「そ、その通りよ。修吾のカードだって分かっていたら、私絶対に使わなかった。本当に千尋ちゃんのカードだとばかり思い込んでいたの。悪かったわ。ごめんなさいね。修吾」

実の息子に頭を下げる義母の姿は、哀れそのものだった。私はすかさず修吾の肩にそっと手を置き、声をさらに1段優しくして彼をなだめる。

「ねえ、お母さんもこうおっしゃっているんだし、大丈夫だよ。も、修吾のお金がまるまる全部消えてなくなったわけじゃないでしょう。お母さんが使った分を、そのまま現金で返してもらえば、何の問題もないよ」

その言葉を聞いた瞬間、修吾ははっとしたように目を見開いた。険しい表情を劇的に柔らげる。

「あ、そっか。お母さんが全額現金で補填してくれれば、俺は別に損はしないんだ」

玲奈もまた、自分が買い物してきた玲奈を守れると確信したのか、緊張感のない声を上げてソファーに深く座り直した。

「そうだよ。お母さんがお金を返せば解決じゃん」

一瞬にして客間の空気は柔らぎ、バラバラになりかけた家族の絆をつなぎ止めた。誰もが胸を撫で下ろしたように見える。しかし、ただ1人。義母だけが、血の気の失せた顔でガタガタと唇を震わせ続けていた。

「だって、あのカードは千尋ちゃんのだと思ったから。私はそんなつもりじゃ」

上滑りな言い訳を繰り返す義母の前に、私はそっと膝をつく。慈愛に満ちた目で彼女を見つめた。

「お母さん、勘違いだったことはもう十分に分かっていますから、あまり自分を責めないでくださいね。ただ、使ってしまったのは修吾のお金なのですから、きっちりとお返ししないと示しがつきませんよ」

幼い子供を諭すように優しく続ける。

「でも大丈夫ですよね。お母さんはお金にかなりの余裕があるんですもの。ねえ、修吾。お母さんはきっと少し色をつけて返してくださるよ。この辺りで1番の地主のお嬢様なんだから」

私のその言葉に、修吾は完全に調子に乗った。元々守銭奴で、金のこととなればすぐに目がくらむ男だ。

「は、そりゃそうだよね。俺の大事な新春の休みを台無しにされたんだ。お母さん、今回は利子10%上乗せでよろしく」

おふざけムードに持ち込む修吾に合わせて、私もくすくすと上品に笑ってみせる。

「もう修吾ったら、10%だなんてお母さんに失礼よ。お母さんほどの資産家なら、10%どころか、もっとたくさん修吾へのお年玉として包んでくださるわよね。うん」

義母の喉の奥から、ヒュッと空気を吸い込むような音がした。どうやら限界のようだ。これまで地主の娘、上品な資産家として、何不自由なく周囲を見下して生きてきた老人が、ついにその虚勢の限界を迎えて崩壊する。

「そんなに払えるわけがないでしょう」

客間に響き渡ったのは、優雅なお嬢様のものではない。血を吐くような見苦しい叫び声だった。修吾も玲奈も、あまりの剣幕に言葉を失って固まる。だが私は、決して待っていましたとばかりに、これ以上ないほど哀れみの色を載せた表情で、義母の言葉をフォローして差し上げた。

「お母さん、もしかして、今まとまったお金がお手元にないんですか?」

修吾が「あ、そういうことか」と合点が行ったように頷いた。

「なんだよ。びっくりさせないでよ。銀行も正月休みだし、家にはそんな大金置いてないってことか。確かに今時、貯金とかしてたら危ないしね。危機管理できてるじゃん。いいね」

「お母さんはきちんとした人だもの。資産は全て銀行の口座で厳重に管理されているんですよね」

私はにっこりと、屈託のない眩しい笑顔を義母に向ける。

「じゃあお母さん、お正月休みが開けたら、またいつものように私が銀行へお連れしますね。修吾さんに返す分を下ろしましょう。それで解決です」

義母の顔が、どういうわけか歪んでいく。車椅子の肘掛けを握りしめる彼女の指先が、目に見えてカタカタと小刻みに震え始めていた。私は彼女の震える手を握りしめながら、心の底で愉悦の笑みを浮かべる。

新年早々投げ付けられた、あのボロボロの紙袋の中に隠されていた、このお屋敷の真実。逆の家が完全に崩壊するカウントダウンが始まった。

1月3日の夜が更けていく。テレビ番組はまだお正月らしい賑やかさだが、我が家の客間には何とも言えない空気が充満していた。

「お母さん、明日は1月4日ですね」

温かいお茶を入れながら、私は軽い口調で言った。

「銀行の年末年始の休みも、明日でようやく開けます。お母さんが修吾さんにきちんとお金を返せるよう、明日の朝1番で銀行へ行きましょうね」

私の何気ない一言は、義母の背中に冷水を浴びせる。マットレスの上でカチコチに固まっていた義母は、血走った目をソファーに座る実の娘へと向けた。その形相は、上品なお嬢様の面影など微塵もなく、飢えた獣のようだ。

「玲奈、簡単にあんたにあげたお年玉の20万円。今すぐ私に返しなさい」

「は?何言ってるのよ」

当然、玲奈は即座に不快感を露わにして跳ねた。

「1度上げたお年玉を返せなんて、恥ずかしくないの?私、これで彼氏と結婚前の旅行に行くんだもん。絶対に嫌だからね」

「いいから返しなさい。元はと言えば私のお金だよ」

「はあ?嫌だってば。私のお金だもん」

義母と娘による、目を覆いたくなるような金の奪い合い。義母も玲奈も一歩も譲らない。修吾はといえば、スマホの画面を見たまま他人事のように呟いた。

「うるさいなあ。みんな金金金って」

私は困り果てつつも、どこか楽しげなため息を1つつく。再び優しいお嫁さんの仮面をかぶって、争う義母と玲奈の間に入った。

「玲奈さん、そんなに怒らないであげてください。お母さんはきっと、修吾さんに対して本当に悪いことをしてしまったと、心を痛めているんですよ」

今日の私はやたらと調子が良い。普段は存在感を消しているけれど、この家族のために橋渡しをする。

「少しでも早く修吾さんにお金を返して、安心したいんですよね。20万円じゃ修吾さんのカードで使った分に全然足りないかもしれないけれど、それでもって、お母さんの精一杯の誠意なんですよ」

私は玲奈の隣に腰かけ、彼女の手を優しく包み込むようにして握った。

「大丈夫ですよ、玲奈さん。お母さんは私たちが想像もできないほどの莫大な資産をお持ちなんですから、ここで玲奈さんから20万円を取り上げて終わりなわけがありませんよ」

頭に血が上った彼女に届くよう、丁寧に伝える。

「明日、銀行からお金を引き出せば、玲奈さんには『助かったよ』って、たっぷりと色をつけて返してくださるに決まっていますねえ。お母さん」

義母は返事をしない。

「え?ああ、そっか」

単純で欲深い玲奈は、私の甘い言葉にころりと流された。明日になれば自分の懐がさらに潤うのだと勘違いし、現金な笑顔を浮かべてバッグからポチ袋を取り出した。

「じゃあはい。お母さん、とりあえず20万円貸してあげるね。明日倍にして返してよ」

差し出されたポチ袋を、義母は奥歯をギリギリと鳴らしながら見つめている。その顔は恐怖で引き攣り、差し出されたそれにどうしても手が伸びない。

義母が躊躇しているその隙を、修吾は見逃さなかった。

「はい。じゃあとりあえず、これをもらっておくよ。あと10万くらい足りないってこと。それは明日もらうね。俺も倍にして欲しいな」

修吾が横からひょいっと玲奈の手からポチ袋をかっさらった。その瞬間、口をつんでいた義母が発狂する。

「泥棒!返しなさい!」

義母は車椅子から身を乗り出すほどの猛烈な勢いで、修吾の手にあるポチ袋をひったくった。誰よりも強欲さを剥き出しにして、20万円入りのポチ袋を自身の胸元にギュッと抱きしめる。荒い息遣いを繰り返しながら、実の息子と娘を激しい憎悪の目で睨みつけた。

「これは私のお金よ。誰にも渡さない。修吾にも玲奈にも、1円だってあげるもんか」

あまりの豹変ぶりに、客間の空気は完全に凍りついた。今の今まで「明日になれば倍にして返してくれる」と信じていた母親が、たったの20万円を狂ったように抱え込んで威嚇している。修吾も玲奈も、眉を潜めて首をかしげた。

「なんだよ。明日返すなら、今20万くれたって同じでしょ。なんでそんなに怒るんだよ」

「そうだよ。お母さん、変じゃない?」

2人の不審感が最高潮に達したその時、私はゆっくりとお茶の湯のみをテーブルに置く。義母に向かって、これ以上ないほど不思議そうに、そして悪気のない顔で首をかしげて見せた。

「あら、お母さん。失礼ですけど、もしかして本当はお金にものすごく困っていらっしゃるんですか?」

私の確信をついた一言が、静まり返った客間に冷たく響き渡った。

「ま、何をバカなことを言っているの?」

義母の声は明らかに震えていた。胸元に20万円を必死に抱きしめたまま、引き攣った笑みを浮かべようとしているが、その顔は完全に強張っている。

「この私がお金に困っているわけがないでしょう。冗談はやめてちょうだい。逆の家はこの辺一体の地主よ」

しかし修吾と玲奈の目は、すでに猜疑心で濁り始めていた。

「まあ、そうだけど。でもさ、じゃあお母さん、どうしたの?なんかおかしいよ」

修吾が困惑気味に眉を潜め、玲奈も不審感を隠そうともせずに身を乗り出す。

「そう。明日銀行に行けばいくらでもお金があるじゃん。なんでそんな20万くらいで必死になるわけ?」

2人は顔を見合わせて、1つの答えにたどり着く。

「まさか、ボケ」

「違う。私はボケてない」

すぐ義母が手を振って否定した。このままでは義母が認知症として扱われかねない。私はかわいそうになり、小さく頭を下げて客間を出た。

「ちょっと席を外しますね」

向かったのは、ゴミの墓場となっている部屋だ。簡単に投げつけられたボロボロの紙袋もそこにある。紙袋の底から、私は1枚の紙を指先でつまみ上げた。それは鮮やかな赤い文字が踊る、銀行からの督促状。カードローンの返済遅延を告げる通知書だ。それを手にして、私は再びどこまでも悪気のない平然とした顔で客間へと戻る。

「あれ?お母さんが長年使われていなかった奥のお部屋を片付けていたら、偶然出てきたの。私にはよくわからないけど、お金にまつわる大事なことみたいだから、お2人の目にも入れておいた方がいいかと思って」

督促状をテーブルの上へそっと差し出した。

「玲奈」

義母が、まるで引きつけを起こしたかのような凄まじい悲鳴をあげた。身を乗り出し、私の手からその紙をひったくろうと腕を伸ばす。だが、7年間もリハビリを拒み、生活の全てを私に押し付けていた。ひたすらふんぞり返って座り続けたその体は、思うようには動かない。

「あっ」

バランスを崩した義母は、車椅子の座面から床の上へと鈍い音を立てて無様に転げ落ちた。頭部が床に激突し、客間の調度品がガタガタと大きく揺れる。20万円が入ったポチ袋が手から離れ、畳の上を虚しく転がった。床に這いつくばり、自力で立ち上がることすらできない義母。その巨体を、修吾も玲奈も助け起こそうとはせず、ただ凍り付いたような冷たい目で見下ろしていた。

「何これ?」

テーブルの上の督促状を指先でつまみ上げた玲奈が、修吾と顔を見合わせる。

「ねえ、修吾。何?カードローン?督促って書いてあるよ」

「玲奈。見るんじゃないよ」

床に頭を擦りつけたまま、義母は狂ったように叫び、血走った目で私を睨みつけた。

「あんた、なんでこんなものを出してきたのよ。嫁の分際で余計なことをするな。私の逆の名誉を傷つける気?」

完全に逆恨みだ。責任を転嫁し、狂ったように床を叩く。

「そんな、ごめんなさい。悪気はなかったんです。だって、お正月にあのお母さんの思い出のお部屋を早く片付けなさいって、私におっしゃったのはお母さんですよ」

私は怯えて身を縮めながら弁明した。

「お母さんに言われた通り、寝る間を惜しんで一生懸命お部屋をお掃除しただけです。そうしたら、ゴミ、いえ、お荷物の隙間からこれが偶然出てきてしまったんです」

話の途中で、修吾がテーブルを叩いて立ち上がる。

「カードローンって、つまり借金ってことだよな」

その顔は怒りで引き攣っていた。

「どういうことだよ。うちはとんでもない資産家じゃなかったの。不労所得が毎月入ってくるんだよね。なんでカードローンなんか使って、しかも督促が来るまで放置してるんだ。ふざけるな」

「そうだよ。うちが借金するなんておかしいじゃん。お母さん、本気でボケてるわけ?」

玲奈もまた、床の義母に向かって容赦なく言葉を浴びせる。

「まさか私にくれたお小遣いって、全部借金だったりして。そんな汚いお金だったの?」

這いつくばったまま、2人の実の子から罵倒のように攻め立てられる義母。

「あ、違うの。これは」

言い訳の言葉すら紡げず、ただ口をパクパクと動かして震えている。怒り狂う玲奈の背後で、私は床に転がった20万円入りのポチ袋をそっと拾い上げた。認知症の疑いを解いてあげようとしただけなのに、どういうわけか事態は悪化してしまった。近所の人々に「菩薩のよう」と称えられ、地主のお嬢様として優雅に微笑んでいた仮面は、今の義母にはもうない。特に、自分が目をかけてお小遣いを貢いできた玲奈から「汚いお金」とまで知られたことで、彼女に残されたちっぽけなプライドを決定的に打ち砕かれたようだ。

「違うのよ、玲奈。私は、私はね、全てよかれと思って、あなたのためにやったのよ」

義母はなんとか床を這い、玲奈の座るソファーの足元へとしがみついた。

「嬉しかったのよ。ずっと家に寄りつきもしなかったあなたが、結婚を機にこうして何度も帰ってきてくれるようになって」

肥えた体を揺らしながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして弁明を始める。

「いくら嫁に献身的に世話をされたってね、所詮は他人よ。一緒にいたって窮屈なだけ。やっぱり私には実の娘の玲奈が1番可愛いの」

冷然な言葉が私の耳を素通りしていく。7年間、仕事も辞めさせられ、友人との付き合いも断ち、指先を洗剤でボロボロにしながら、この巨体を支え、下の世話までしてきた。その歳月の全てが、義母の口から出た「所詮は他人」「窮屈なだけ」という言葉で、完全に無価値へと変えられた。あまりの自己中さに、むしろ呆れすら覚える。私は表情を一切変えず、ただ静かに立ち尽くしていた。

「お母さんは玲奈に何かしてあげたくて仕方がなかったの。だからお洋服もお小遣いも、全部あなたのために用意したのよ。借金してでも、あなたに逆の品格をさせてあげたかったの」

義母の息遣いが荒くなる。彼女の歪んだ母親面はそれだけにとまらない。

「家のことだってそうよ。私1人なら、部屋がいくら散らかっていようが、ゴミで埋まっていようが、どうでも良かった。でもね、玲奈が結婚して、お相手の方をご挨拶に迎えるとなったら、そうもいかないでしょ。だから私は、使えなくなっていたあの奥の3部屋も片付けようとしていたじゃない」

私は危うくその場で吹き出しそうになるのを、必死でこらえた。義母がやったことといえば、お正月に私に向かって「片付けもしないで」と怒鳴り、何年も前の不潔なゴミが詰まったボロボロの紙袋を投げつけただけだ。自分は車椅子にふんぞり返ったまま、全ての重労働を私に丸投げ。そのくせ脳内では、自分が玲奈のために部屋を片付けようとしていたことにすり替わっている。脅威的なほど自己中な思考に、呆れを越えて関心すら覚えた。

「ほら、奥の3部屋が片付けば、玲奈と彼氏の部屋にできるでしょ。1番広い12畳の部屋を使っていいよ。なんなら1人1部屋でもいいんじゃない?うちは広いからね。ね、快適な新婚生活になるでしょ」

床にしがみつき、必死に実の娘への愛を語る。だが、その哀れなセリフを聞いていた修吾の顔は、完全に冷然なものへと変わっていた。

「へえ、お母さん、随分な言い草だね」

涙で濡れていた義母の瞳に、修吾が映り込む。

「千尋に介護も家のことも全部押し付けておいて。所詮は他人で窮屈か。自分の財布に火の粉が飛んだ途端に、その言い草か」

自分の財布に火の粉が降りかかった修吾にとって、義母の娘への愛などただの身勝手な言い訳にしか聞こえなかったらしい。

「俺と姉ちゃんと同居するつもり?」

彼の顔には、義母に対する強烈な不信感と剥き出しの嫉妬が浮かんでいた。

「俺たちがここに引っ越してきた時、この家がどんな状態だったか忘れたの?どこもかしこも埃と誇りまみれで、とても人が住める状態じゃなかった。それを千尋が何ヶ月も血道白く思いで片付けたんだぞ」

全くの無関心に見えていたが、私の苦労に気がついていたようだ。修吾の不満が堰を切って溢れ出す。

「姉ちゃんが結婚するとなったら、千尋に部屋を片付けさせて、1番広い12畳の部屋を開け渡すっていうの?冗談じゃない。いくらなんでもエゴが過ぎるだろう」

だが、当の玲奈はと言えば、哀れみの混じった穏やかな目で床の義母を見下ろした。

「ちょっとお母さん、勝手に話を進めないでよ。誰がこんなゴミ屋敷で同居したいなんて言った?私、そんなこと1回も言ってないけど」

玲奈は髪をいじりながら鼻で笑う。

「大体さ、お父さんが亡くなった辺りからお母さんすごくケチになったじゃん。この実家に戻ってきたって、一円の得にもならないから距離取ってたんだよ」

義母の心を粉々に打ち砕くような本音を、玲奈は明け透けにぶちまけた。

「結婚の報告にしぶしぶ来てみたら、意外とお小遣いくれたり、お寿司を取ってくれたりして居心地が良かったから、顔を出してただけ。いくら片付いたって、こんな古い家でわざわざ同居するわけないじゃん」

「玲奈。あなた、そんな風に思っていたの?」

贅肉に埋もれた義母の顔から、さらにスーッと血の気が引いていく。借金してまで貢いだ実の娘にとって、自分はただの都合のいい金づるに過ぎなかったという現実。しかし、兄弟の見苦しい本音の暴露はまだ止まらない。

「そっか。姉ちゃんに同居する気がなくてよかった」

修吾が腕を組み、床の義母を威圧するように言い放つ。

「この家は将来的に俺のものになるんだ。俺がこうして同居して、お母さんの面倒を見てやってるんだから、この屋敷を譲り受ける権利は俺にある」

「はいはい、分かったよ」

玲奈は鬱陶しそうに手を振った。

「同居する気なんてさらさらないし。家、あんたにあげる。私、こんな古臭くて不気味な家いらないし。その代わり、きちんとお金はちょうだいよね。お母さんの遺産、きっちり半分だよ」

目の前で床に這いつくばって息をしている実の母親を完全に置き去りにして、2人は勝手に逆の遺産の分配話を繰り広げている。その様子を義母は、ただ呆然と口を小さく開けたまま見上げることしかできなかった。すでに幽霊にでもなって、自分の葬式を眺めているかのような絶望的な表情だ。やがて修吾と玲奈は、これ以上の言い争いは無駄だと判断したのか、勝手に都合のいい結論を導き出した。

「まあ、お母さんはお嬢様育ちで世間知らずだからな」

修吾がため息をつきながら、テーブルの上の督促状を指先で弾いた。

「どうせ銀行の窓口かどこかで、進められるがまま、よく考えもせずにカードローンなんて契約したんでしょ。自分の預金を下ろすような感覚で、適当に使ってたんじゃない?もうしょうがないなあ」

話が丸く収まっていく。

「ていうかさあ、千尋。お前が普段からお母さんのお金の管理をきちんとしていなかったのが悪いんじゃない?」

突然の飛び火に驚きつつ、私は心の中で「何もかも嫁のせいにするところは、お母さんと一緒」と妙に納得した。どこまでも身勝手で、他人に責任を転嫁することしか頭にない家族だ。私は「ごめんなさい」と力なく俯き、かわいそうな嫁を完璧に演じ切って見せる。

「ま、早いうちに分かってよかったよね」

玲奈が呆れたように言った。

「お母さん、もうローンなんて絶対にしないでね。借金なんだよ。お金ならたくさんあるのに、借りるなんてもったいない。明日、銀行が開いたら、借りたお金全額一括で返しちゃおう。それでこの話は終わり」

玲奈の身勝手な命令に対し、いつもなら「失礼ね」と激昂しそうな義母が、なぜか素直に頷こうとはしない。まだ何かを隠しているような、何とも言えない歪んだ表情で浅い呼吸を繰り返している。そんな義母の様子に誰も気がつかず、それぞれ普段の生活に戻っていった。義母だけが、ベッドの上で一晩中、どういうわけか小さく震えていた。

翌朝、1月4日は特に冷え込みが厳しい。仕事始めで世間が動き出すこの日、我が家の空気は張り詰めていた。

「おい、お母さん、早く支度してよね。朝1番で銀行に殴り込みだ」

修吾がリビングで上着を羽織りながら、鼻息荒く言い放った。横では玲奈が高級ブランドのバッグを肩にかけ、戦闘準備万端だ。

「本当、むかつく。よく分かってないお年寄りを騙して、勝手にカードローンなんて組ませてさ。信じられない。私たちが一言文句を言ってやらなきゃ、気が済まないよ」

彼らは義母が銀行に騙された哀れな被害者だと信じ込んでいる。世間知らずの地主のお嬢様を、悪徳な銀行員が言いくるめたに違いないと。だからこそ修吾はわざわざ仕事を休み、玲奈は予定を調整し、2人揃って銀行に怒鳴り込んでやると息巻いているのだ。身内の不祥事を正義の怒りにすり替え、自分たちのプライドを守る。だが、車椅子に座る義母からは昨日までの傲慢さが消え、今にも消え入りそうなほど小さくなっていた。

「わざわざ行かなくてもいいじゃない。そんな大事にする必要なんて」

「何言ってるんだよ。お母さんが騙されてるからこそ、俺たちがついて行ってやるんだろう。ほら千尋。お母さんの靴を履かせて」

修吾がせかす。私はいつものように義母の足元へしゃがみ込んだ。

「いや、やだ。行きたくない。行かないで」

突然、義母が子供のように手足をバタつかせ、激しく抵抗を始めた。車椅子の肘掛けにしがみつき、屋敷の奥へ奥へと戻ろうとする。必死に涙を流し、駄々をこねる姿には、威厳など微塵もない。全身で登園拒否をする幼稚園児のようだ。その異様な怯え方に、さすがの修吾と玲奈も足を止め、不審に顔を見合わせる。

「なあ、千尋」

修吾がゆっくりと私を振り返った。その瞳には隠しきれない猜疑心が宿っている。

「お前、あのゴミだらけの部屋を片付けた時、見つけたんだよね。督促状って、本当に昨日の1枚だけだったのか?」

私は困ったように眉を潜め、これ以上ないほど曖昧に答えた。

「どうかな?私にはよくわからなくて、あんまりじろじろ見たら失礼だと思ったから。ただ、お母さんのお部屋には、古いお手紙や書類のようなものが本当にたくさん、山のように積み上がっていたよ」

修吾と玲奈の目の色が変わった。彼らは普段、あの誇りっぽくて不潔なゴミの墓場に一歩たりとも近づきたがらない。「汚い」「気持ち悪い」と、ドアを見るだけで顔をしかめていた。だが、自分たちの金に関わる重大な秘密がそこに眠っているかもしれないと察した瞬間、その躊躇は吹き飛んだのだ。

「部屋、見に行こうか、兄ちゃん」

「うん」

2人は弾かれたように廊下を走り、玲奈の使えなくなった3部屋のドアを、おずおずと開け放った。カーテンが締め切られ、朝だというのに薄暗い。埃が舞い上がり、ゴミの山からは異臭が漂う。修吾と玲奈は「汚い」という感情すら忘れたかのように、両手を突っ込んでゴミをかき分け始めた。服が汚れようが、紙に埃がつこうが関係ない。まるで一攫千金を狙う宝探しそのものだった。

「あった。また督促状だ。これ、別の銀行」

「消費者金融、キャッシングって書いてあるよ」

「なんだよこれ」

「ここにも、そこにも」

「え、どんだけ借金してるんだよ」

様々な金融機関からの赤い封筒や最終通告の書類が、ゴミの隙間から面白いほど溢れ出してくる。2人は大騒ぎしながら、それを次々と客間のテーブルへと放り投げた。

「お母さん、これは何なんだよ」

修吾が義母の前に、それらの書類を叩きつけた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

義母は頭を抱え、ただ壊れた人形のように謝罪を繰り返す。

「これだけ借金をするなんて、バカじゃないの?頭おかしいよ」

非難する修吾が、今度はその矛先を私に向けてきた。

「おい、千尋。お前、毎日お母さんと一緒にいたのになんでこんなになるまで気づかなかったんだ。お母さんの面倒を見てたお前の責任だろう」

「待ってました」と私は心の中で叫び、困惑した顔で言葉を返した。

「そんなこと言われても、お母さん、ポストを開けるのは私の役目。『私のプライベートを覗き見しないで』って、いつも言われてたから。今思えば、こういう督促状を私に見られたくなかったのかな」

義母が息を飲む。修吾は完全に納得したようで、「なるほどな」と吐き捨てた。

「お金はあるはずなのになんでこんなに借金まみれなんだ。情けない」

「ていうか、修吾」

今度は玲奈が修吾に冷たい声を浴びせる。

「あんた、同居して生活費も浮かせていたくせに、なんでお母さんの変化に気づいてあげなかったわけ?あんたが冷たいから、お母さんは寂しくてお金を使い込んじゃったんじゃないの?」

「はあ?姉ちゃんが昔から実家を無視して男と遊んでばかりいたから、お母さんは寂しかったんだろ。俺のせいにするな」

破滅の縁に立たされてなお、互いのせいにして見苦しい口論を始める兄弟。私はその姿を、「お正月にちょうどいいエンターテイメントだ」と穏やかに眺めていた。

「まあ、落ち着こう」

玲奈が髪をかき乱しながら、無理に自分を納得させるように言う。

「とにかく、一度この借金を全部整理しなきゃ。大丈夫。うちには膨大な土地収入があるんだから。周辺の土地の借地料を考えれば、これくらいの借金、すぐに返済できるよ」

「確かに。えっと、収入はそういう銀行の通帳とかある?」

修吾も最後の希望にしがみつくように頷いた。そこで私は、分厚い書類の束を取り出し、テーブルの上へそっと滑らせた。

「あのね、お掃除をしていたら、こういうのもたくさん出てきたの。大事そうかなと思って、ゴミにはしないでおいたけど、私、会社員経験しかないから、土地の書類のことはよくわからなくて」

小爆発を繰り返していたお屋敷に、今度こそ大きな爆弾を落とす。私はひっそりとその導火線に火をつけた。乱雑にゴミと混ざっていたため、書類は角が折れ曲がっている。修吾はなんとなく躊躇しながら、それを開いた。

「土地売買契約書、抵当権設定及び抹消」という小難しい文字が並んでいる。

「え、これ、どういうこと?」

修吾の顔から色が消えた。

「近くのあのドーナツ屋の土地、売却されてるってこと?コインランドリーの土地も、数年前に別の不動産会社に売られてる」

「え、あの新しい住宅街の土地も、借地じゃなくて全部売り払われてるじゃん」

「はあ?嘘でしょ?見せて」

表情を変えた玲奈が書類を奪い取った。ぎょろぎょろと目を左右に動かし、文字を追う。

「嘘。全部売ってる。お母さん、うちの土地を片っ端から売却して現金化してたの?そしたら借地の収入なんて、とっくの昔にゼロじゃん」

玲奈の手が震え、書類がパラパラと床に落ちた。

「え、そんな。じゃあ、残っているのはこのゴミだらけのお屋敷の土地だけですか?」

聞きたくないであろう事実を、いかにも驚いた風に聞かせてやる。客間は完全に絶望に支配されていた。とんかつを食らい、特上のお寿司をむさぼっていた地主の逆。そして手に入れたブランド物で飾り付けられていた巨躯のお屋敷が、粉々に砕け散った瞬間だった。修吾と玲奈は、力なく地べたに座り込んでいる。いくら肩を小さく丸めても、存在感たっぷりの巨体をしている義母の頭越しに、私は誰にも気づかれないように、今日1番の最高の笑みを浮かべていた。

義母に投げつけられたボロボロの紙袋。そこから督促状を見つけた時、運命は変わった。あまりにも現実的な文字に驚いて、私は沼からスポンと抜けたのだ。呪いがなくなると、こんなにも身軽に動けるのか。体が軽くて、今なら何でもできそうな気がする。

「残っているのは、このゴミだらけのお屋敷の土地だけ」

玲奈が私の言葉を繰り返した。破綻した逆。

インターホンが鳴り響く。俯いたまま動かない義母も、絶望に顔を歪める修吾と玲奈も、誰1人として応答する気力が残っていない。重苦しい沈黙の中、私はすっと立ち上がり、「坂野さんちのよくできたお嫁さん」らしい従順な笑みを浮かべて、玄関へと向かった。

玄関に立っていたのは、誠実そうな男性だ。約束をしていたとのことなので、客間へとお通しする。

「玲奈さんの婚約者さんなんですね」

「はい。高橋純介と申します。よろしくお願いいたします」

客間の入り口付近にいた玲奈が、弾かれたように飛び跳ねた。

「嘘。なんで純介がここにいるのよ」

玲奈は表情を変え、テーブルの上に散らばっていた大量の督促状や土地の売買契約書、そして服や飲みかけのペットボトルを両手で一気に掻き集めた。そして隣の部屋へとそれらを乱暴にぶち込み、勢いよく扉を閉めた。八畳が三間続く、義母自慢の広々とした客間をお見せできなくて残念だが、一応片付いた部屋に純介を案内した。さらに今朝は銀行へ殴り込みに行くという名目があったため、修吾も玲奈も、皮肉なことに全員がちゃんとしたよそ行きの服を着ている。玲奈は乱れた髪を整え、なんとか体裁が整ったことに、大きく安堵の息をもらした。

玄関から客間へと入ってきた純介は、仕立てのいいスーツをスマートに着こなし、有名店の立派な手土産の紙袋を手にしている。まさにお嬢様育ちの義母が合格の判を押すような見た目の人だ。

「純介、なんで急に来たの?約束してないよね」

玲奈が鋭く問い詰めた。純介は困惑して眉を下げる。

「え、でも玲奈から昨日メッセージをもらったよ。『明日の朝来て欲しい』って。だから俺、慌てて仕事を調整してきたんだけど」

「はあ?私、そんなの送ってないよ」

ソファーにあった自分のスマホを玲奈が確認すると、確かに純介の言う通りのメッセージが送信履歴に残っていたらしい。

「嘘。あ、誤送信したのかも。やっちゃった」

彼女はスマホをその辺に置きっぱなしにしている。しかも足やお尻でいつも踏みつけているから、たまに間違えて電話をかけてしまう。玲奈は自分のズボラさを呪うように頭を抱えた。

本当のところ、メッセージを送ったのは玲奈ではない。私だ。昨日、玲奈が低反発マットレスの上にスマホを放置して風呂に入っている隙に、ロックのかかっていない画面を操作するのは容易なことだった。「急だけど明日が親の都合がいい。お願い」といったメッセージを純介に送り、送信後に玲奈の端末からその通知を消去しておく。普段から通知の管理もまともにしない玲奈のズボラな性格がこれを助け、この計画は完璧に遂行された。

逆の家が1番見苦しく、1番逃げ場のない客間で、全てを壊してしまう作戦だ。

「あ、お母さん。こちらが婚約者の純介さんだよ」

無理やり気持ちを切り替えた玲奈は、「気持ち悪い」「汚い」「金」と罵倒していたはずの義母の車椅子へとぴたりと寄り添う。親密な親子を演出して見せた。だが、実の子供たちに財産を貪られ、借金をなじられた義母は、完全に心が折れて抜け殻のようになっていた。車椅子に乗っているものの、視線は虚空を彷徨い、挨拶の言葉1つ返さない。

「お母さん、挨拶くらいしてよ」

「ごめんね、純介。お母さん、ちょっと病気してから元気がなくて」

玲奈が陰で義母の肩を小突くが、彼女はぼんやりとしたままだ。

「でもね、純介がすっごく頭が良くて、若くして会社を立ち上げたすごい人だってこと、お母さんも本当に喜んでるよ。じゃあ、私たち結婚するからね。お母さん。そういうことで」

義母の介護などを一切無視し、ただ自分の結婚の形を整えるためだけに、適当に話を切り上げようとする玲奈。義母は相変わらず生ける屍のようにぼんやりとしている。私はその様子をしばらく眺めた後、隣に立つ修吾の袖をそっと引いた。彼の耳元で囁く。

「玲奈さん、本当に素敵な人と巡り合えてよかったね。逆もダメかもしれないけど、これで玲奈さんは安泰だよ。安心したね」

私の健気な一言が、修吾の胸の奥でくすぶっていた劣等感と見苦しい嫉妬の導火線に、完全に火をつけた。我慢してゴミ屋敷で暮らしてきたのに、将来の遺産は見込めない。それどころか、クレジットカードを盗まれて金をむしり取られた。修吾の脳内で何かがプチンと弾けたようだ。1年間何もしてこなかった姉が、金持ちの男を捕まえて1人だけこの泥沼から抜け出し、幸せになるなど絶対に許せない。修吾の醜悪な思考がだだ漏れだ。

「へえ、いい男を捕まえられてよかったね。姉ちゃん」

皮肉に満ちた歪んだ笑顔で、修吾は純介の前に一歩踏み出した。

「結婚おめでとう。ところでさ、さっきお母さんの遺産はきっちり半分こにするって話をしてたよね。じゃあ、お母さんの莫大な借金も、当然きっちり半分だよね」

「え?」

純介が目を見開いて絶句する。

「あんた、何言ってるのよ」

顔を真っ赤にした玲奈が修吾に掴みかかろうとするも、彼は止まらない。

「なんだったらさ、姉ちゃんの彼氏、社長なんでしょ。すごくお金持ちじゃん。母さんの借金、2人で全部肩代わりして払ってくれてもいいくらいじゃない?」

「ふざけないでよ。誰がそんなバカなことするわけ?」

純介の手前、玲奈は必死に取り繕おうとしていたが、挑発に乗ってあっさり本性を見せた。

「あんたが頼りないから、お母さんがこんなに借金まみれになったんでしょうが。私は関係ない」

客間は一瞬にして罵詈雑言が飛び交う地獄へとずぶずぶ沈んでいく。

「大体ね、私は結婚してこの家を出ていくの。逆の籍を抜けるんだから、その汚い借金も、ボケた親の面倒も、全部あんたたちが引き受けるのが当然でしょうが。残念でした」

「なんだと、この泥棒が。お前に小遣いやるためにお母さんは借金したようなものじゃん。羽だけ抜いて、それはないだろう」

「だから、このボロ屋敷あげるって。はい。これで平等でしょ。むしろ修吾が得してるよ。お母さんがこれ以上借金しないように、今度はちゃんと見ておきなよ」

玲奈は目の前にいる婚約者の存在すら忘れているらしい。一円でも多くの金をむしり取り、借金を押し付け合おうと、実の兄弟が互いを大声でののしる。車椅子の義母は、ただその喧騒の中でカタカタと震えているだけだ。どこまでも見苦しく、浅ましく、腐り切った逆。彼らこそ、この屋敷1番のゴミだ。

純介は手土産の紙袋を握りしめたまま、狂気じみたリビングで怯えていた。

「私は悪くない。全部修吾のせい。お母さんのことなんかどうでもいいし。私、ずっと関わってなかったし」

必死に自分の正当性を訴え、義母を罵倒のように見下す玲奈の姿。純介が愛した女性の面影など、微塵も残っていないはずだ。100年の恋も冷める。

「玲奈」

純介の低く冷え切った声が響いた。激しい口論が一瞬で止まり、玲奈がはっとして彼を振り返る。

「あ、純介、違うの。これは修吾が勝手なことを言い出して、私たちは関係ないから大丈夫だよ。借金とか巻き込まないからね」

「もういい。よく分かったよ」

軽蔑と失望が入り混じった目で、純介は玲奈を、そして逆の家の全員を見据えた。

「お金の問題に巻き込まれたくないんじゃない。あなたたちのその人間性がダメだ。信じられない」

純介は持っていた高級な手土産の紙袋をテーブルの上に置き、逃げるように客間を出ていった。バタンと玄関のドアが無慈悲に閉まる音が、屋敷中に重く響き渡る。

「純介、どうしよう」

「ああ、もう、修吾のせいだから」

玲奈は悲鳴をあげて、修吾の胸を殴りつけた。痛いはずなのに、修吾はニタニタと笑っている。自分の未来の破滅を一時的に忘れさせるほど、姉の極上の不幸が快楽となり、彼の心を満たしているのだろう。どこまでも見苦しく、救いのない男だ。

希望が作り上げていた嘘のお屋敷が崩れ、修吾の浅ましさが露呈し、玲奈の幸せが粉々に砕け散った。置き物のようだった義母の目から、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちる。普通なら同情を誘ったであろうその涙も、ただのお水にしか見えない。義母は震える右手の人差し指を私に突きつけた。

「お前のせいで、逆の家が、玲奈の幸せが」

かすれた声で義母は私を呪う。

「お前がこの家を壊した。この疫病神が」

この後に及んでも、まだ自分たちの強欲さや愚かさから目をそらし、誰かのせいにしなければ気が済まないらしい。全ての責任を、介護ロボットだった私に押し付けようとする浅ましさに、私はつくづく呆れ果てていた。感情を隠して、これ以上ないほど穏やかな声で告げる。

「そうですか。では、私はこの家を出ていきますね」

私の唐突な決意に、客間の空気が一瞬だけ止まった。だが修吾はすぐ、小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、ソファーに深く背をもたれかけさせた。

「は?出ていく?何言ってんだよ。お前、何年も無職のくせに。この家を出て、どこでどうやって生きていくんだよ。家賃だって払えないだろう」

確かに私には7年間のブランクがある。修吾は私が彼に経済的に依存し、怯え、一生この家から逃げられないと高をくくっているのだ。けれど、あのお正月に私の目が覚めてからの行動は、彼らが想像しえないほど早かった。お屋敷の掃除をし、玲奈のスマホから純介へ罠のメッセージを送り、義母の書類を整理する。その裏で、私はすでに自分の未来まで考えていたのだ。

「昔の上司に相談してみたの」

私は淡々と事実を口にした。

「もう一度そちらで働かせて欲しいって。上司が私の事情を汲んで、すぐに上に掛け合ってくれたよ。そしたらね、二つ返事で仕事復帰のオッケーが出たんだ」

「え?」

修吾の顔から、余裕の笑みがすっと消える。

「ふざけるなよ。お前、仕事なんか復帰したって、邪魔なだけじゃん。前に働いていた時だって、満足に働けなかったくせに」

「満足に働けなかったのは、同居してからだよ。私は家事とゴミ屋敷の掃除と、お母さんの介護の全てを押し付けられたからね。体がクタクタで、頭が働かなかっただけ」

私は修吾を冷たく見据えたまま続ける。

「ブランクがあるから、最初は元と同じお給料はもらえないかもしれない。でもね、自分1人でアパートを借りて生活するだけなら、多少収入が少なくたって、何の問題もないよ」

「は、1人。お前、本当に1人で出ていくつもりなの?」

修吾がはっとソファーから立ち上がった。その瞳には、初めて明らかな焦りの色が混じり始めている。

「お前が出ていったら、お母さんの面倒は誰が見るんだよ。トイレだって1人じゃ行けないんだぞ」

「さあ、修吾が面倒見ればいいじゃない」

私の平然とした返答に、修吾は顔を真っ赤にしてまくし立てた。

「俺には仕事があるんだよ。毎日遅くまで残業して、会社のために働いてるんだ。お母さんの世話なんかできるわけないだろ」

「じゃあ、お仕事をやめればいいんじゃない?」

「は?お前、狂ったのか?」

「狂ってなんかないよ。だって、あなたがその会社でこれから針のむしろになることは、もう決まっているんだし。ちょっとかわいそうだなと思って」

ポケットから自分のスマホを取り出し、画面を修吾の目の前に突きつけた。そこには、かつての同僚から届いた大量のメッセージと写真の数々が並んでいる。

「千尋さん、今まで黙っていて本当にごめんね。修吾さん、同じ会社の後輩と浮気してるよ」

車内にも関わらず、修吾が若い女の子とべったり寄り添う写真。そして、社内の内線チャットで交わされていた、生々しい浮気のやり取りのスクリーンショット。これでもかと浮気の証拠が並んでいた。修吾は脳天を打ち抜かれたように後ろへ倒れ、ソファーに沈み込む。

実は、私はずっと前から浮気には気づいていたのだ。元は同じ職場。深夜までの残業や、ましてや泊まりがけの出張なんて、今の彼の役職ではありえないことくらい、少し考えれば分かる。けれどこれまでの私は、脳が麻痺し、ロボットのように洗脳されていたから、おかしいと訴える気力すら奪われていた。

修吾は会社で私のことを徹底的に悪者にしていたそうだ。「嫁との仲がひどく悪い」「親の世話もろくにしない」「家もゴミだらけで汚くて、帰りたくても帰れない」。彼は同僚たちの同情を引きながら、裏でこそこそと女遊びを楽しんでいた。だが、私が職場に復帰すれば、全ての嘘がひっくり返る。私が7年間、どんな思いでこの元ゴミ屋敷をピカピカに磨き上げ、義母の介護を一心に背負ってきたか。正月休みが開けた今、その事実が1人の同僚から全ての社員へと知れ渡っているだろう。

「不貞行為の立派な証拠があって、本当に助かった。同僚たちが、あなたがあまりにも不誠実だからって、全部集めて送ってくれたの」

私はスマホの画面を指先でトントンと叩きながら、凍りつくような笑顔を修吾に向けた。

「私が会社に復帰したら、あなたとその浮気相手の女の子、どうなるのかな。親の介護を嫁に丸投げして、自分は会社で被害者ヅラして不倫。そんな人間が、会社で今まで通りまともに働けると思う?」

修吾の膝が、ガタガタと目に見えて震え始めた。金を失い、今度は唯一の寄り所であった仕事と社会的信用までが、私の手によって完全に握り潰される。従順な介護ロボットは感情を持たない。そう思っていたのなら、大きな間違いだ。

押入れの奥に隠しておいた、必要最低限の荷物が入ったボストンバッグを肩にかける。このお屋敷に未練なんてない。背筋を伸ばして玄関へ向かう私の後ろ姿を、修吾はおろおろと追いかけてきた。

「ち、千尋、本気なのか?冗談だよね。おい、ちょっと待ってよ」

その無様な姿を見て、ソファーで泣き濡れていた玲奈が、嘲笑うように吐き捨てる。

「ちょっと修吾、みっともない。そんなにしがみついて、恥ずかしくないの?」

兄弟がまた不毛な言い争いを始めそうだ。車椅子の上で固まっていた義母が、急に顔を真っ赤にして呻いた。

「ち、ちょっと、ねえ。トイレ」

切迫した声に、修吾がはっとして義母を振り返る。それから、すがるような目を私に向けた。

「お母さん、トイレだって。男の俺が下の世話をするなんて。お母さん、絶対に嫌だよね。千尋、お願いだから機嫌を直して。お母さんが本当に困ってるんだよ」

自分の手を汚したくないがために、都合よく母親の気持ちを盾にする修吾。あまりにも身勝手だ。

「介護に男も女もないでしょ。修吾がどうしても嫌なら、実の娘の玲奈さんがやればいいじゃない」

私の提案に、玲奈は露骨に顔をしかめ、自分の綺麗なネイルを見つめながら言い放った。

「はあ。冗談じゃない。嫌だよ。汚い。なんで私がそんなことしなきゃいけないの?」

「俺だって嫌だよ。汚い」

押し付け合いを始める実の子供たち。他人の私がずっとやってきたことが、できないそうだ。

「じゃあ、修吾が浮気してる若い女の子に、私の代わりをしてもらえば?同居して、家事も、トイレも、お母さんの介護も、全部笑顔で引き受けてくれるといいね」

私の言葉に、修吾の顔から血の気が完全に引き、今度こそ絶望の表情が浮かんだ。確かに修吾は日頃から身だしなみに気を使っているし、それなりに仕事ができる部類かもしれない。浮気相手の若い女の子にとっても、スリル満点な大人の刺激的な遊びだったのだろう。だが、その実態はどうだ?蓋を開けてみれば、中途半端に借金まみれの元地主。すっかり肥大化したわがまま姑の世話が待っている。そんな現実を突きつけられて、結婚だと迫られたら、その若い女の子がさっと逃げ出すことくらい、小学生でも分かる。

「あ、本当に待って。違うんだ。彼女とはただの遊びで、本気じゃなかったんだよ。だから、何でもいいから、早くトイレ」

必死に私にすがりつこうとする修吾の弁明を、義母の絶叫がかき消す。2人の地獄のようなあり様を、玲奈は「あはは」と嘲笑っていた。金への執着、身勝手な愛欲、決定的な縁の薄さ。人間の悪い部分だけを煮詰めたような家族だ。

「私はこの7年間、十分すぎるほど尽くしました。家の中も、見違えるほどすっかり綺麗になったでしょう」

私はボストンバッグを肩にかけ直し、背筋をピンと伸ばして、最低な家族へ向かって上品に完璧な一礼をした。

「お正月から片付け始めたあの奥の3部屋だけは、さすがに時間が足りなくて片付けませんでしたけど、ある程度ゴミはまとめておきましたから。では、さようなら」

踵を返し、玄関のドアを開け放つ。

「トイレ、早くしてよ。修吾」

私はお屋敷から一歩外へ踏み出した。7年間閉じ込められていた檻から、完全に抜け出した。

「早くして」「やだ、汚い」「姉ちゃん、なんとかしてよ。女でしょ」

ドアを閉めてもなお、義母の金切り声と兄弟の罵り合いが響く。新春の高く澄み切った青空を、私は見上げた。

1月4日、新しい1年が本格的に動き出す仕事始めの朝。そして、それは町に待ったゴミ収集が再開される日でもあった。冷たい空気を吸い込みながら、私は軽やかになった足取りで駅へと向かって歩く。その途中、住宅街の一角にあるゴミ収集場に差しかかった。まだ収集車は到着していない時間帯だが、近所の主婦たちが身を寄せ合うようにして群がっている。彼女たちは、背後を通り過ぎる私に全く気づかないほど、目の前のあるものに夢中だ。

「ねえ、これ見てよ。全部督促状の束になって捨てられてるなんて、一体どうなってるのよ」

「逆さん、やっぱりね。前からちょっとおかしいと思ってた」

「逆さんって、やたらお金持ち自慢してきて、嫌な感じだったでしょ」

「それにさ、逆さんが周辺の土地を次々と手放してるって噂、知ってる?」

「嘘、そうなの?実は旦那さんが亡くなって、全部パーになったんだ。もったいない」

修吾と玲奈が宝探しのように大量の督促状を引っ張り出したゴミの墓場。あれでもかなり片付けた方だ。1日の昼頃からコツコツと分別してきた。そして、私は今朝早く、まとめたゴミをきちんとゴミ収集場へ出しておいた。ただゴミを捨てただけなのに、逆を潰してしまったらしい。楽しそうなはんなり声で井戸端会議を繰り広げるご近所さんたち。邪魔をしないように足音を消して、すれ違い様に心の中で「さようなら」と別れを告げた。

いつもお屋敷に集まり、上品に微笑み合ってお茶会を楽しんでいた奥様方。義母とは仲が良さそうに見えていたけれど、そうでもなかったらしい。他人の不幸に吸いつく彼女たちの姿に、胸の奥が少しだけ冷えた。きっと数日すれば、逆の嫁がいなくなったことに周囲も気がつく。「あの嫁さん、ひどい嫁いりに遭っていたらしいわよ」と、私を悲劇のヒロインに仕立てて盛り上がるのだろう。そこにあるのは同情ではなく、ただの好奇心だ。

ゴミ収集車が目の前から走ってきた。大量の督促状は潰されて、跡形もなく消えるけれど、残念ながら借金そのものはなくならないのだ。

私が前の職場へ無事に復帰を果たした頃、社内にはすでに修吾の姿はなかった。あっけなく退職届を出したらしい。社内では「浮気がバレて逃げた」「嫁に捨てられて恥ずかしくなったに違いない」と噂されている。それもおそらく本当だが、他にも理由はあった。彼は本当に会社をやめざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。全ては、実の母親の介護のため。

ある日、私のスマホに修吾から着信があった。画面に表示された名前に嫌悪感を覚えながらも、通話ボタンを押す。受話器の向こうから、今にも泣き出しそうな情けない声が聞こえてきた。

「千尋、お願いだから、戻ってきてくれないかな」

私を無職だと見下していたくせに、無様な懇願だ。修吾の話によれば、私が去った日から逆の生活は一瞬で地獄と化したらしい。わがままで傲慢な義母の世話は、想像を絶するほど過酷だった。車椅子の上から動けないくせに、義母の口だけは人一倍動く。「お茶の温度が違う」「タオルの畳み方がなっていない」と、1から10まで細かい注文をつけ、気に入らなければ金切り声を上げる。ご飯なんか作れないからと、修吾が惣菜のパックを出すと、義母は激怒する。「こんな添加物だらけの貧乏臭いもの、私に食べさせる気?」と。掃除にまで手が回らないため、お屋敷はすでに手遅れなほど汚れたそうだ。

「母さんは動けないはずなのに、なんであんなにゴミが散乱するの?」

修吾は頭を抱えてこぼしていたが、私にはその理由がよく分かっていた。義母はゆで卵が大好物だ。手が不自由なのに、ゆで卵を前にすると片手で器用に殻を剥く。そして、その剥いた殻を、なぜか当たり前のようにぽいぽいと床へと捨てるのだ。何度「やめてください」と頼んでも知らん顔。「どうせ掃除するんだから、テーブルの上でも下でも同じでしょ」と。長年私を顎で使ううちに染みついた、その傲慢な癖が今もそのまま出ているだけのこと。以前は私が床に膝をつき、無言で拾い集めていた。その殻が、今は誰も片付けない床で静かに腐り、臭いを放っているのだろう。

さらに、あの実家を嫌っていたはずの玲奈も、今や定住も同然にお屋敷に住みついているという。結婚が決まったと思い込んで早々に仕事をやめてしまった彼女には、もう行く当てがなかった。傲慢な性格ゆえに友達もいない。40歳を過ぎてたまたま巡り合えた純介という彼氏。あれは彼女の人生における、最初で最後の奇跡だったのだ。奇跡を掴み損なった彼女は、実家に引きこもるしかない。お屋敷の中では、義母と玲奈による見苦しいマウンティングのバトルが毎日繰り広げられているそうだ。

「あんたが結婚さえしていれば、今頃楽になってたのに」

「お母さんが借金なんかしてるから、振られたんじゃん」

ヒステリックな言葉が飛び交う中、修吾は完全に塞ぎ込んでいる。義母におむつを履かせたものの、交換するのすら一苦労。車椅子とベッドの往復で腰を激しく痛め、心身共に限界を迎えているようだ。

それだけではない。彼らにとって最も屈辱的だったのは、外に出た時の世間の視線だ。義母は散歩が大好きだった。私もよく彼女を車椅子に乗せて近所を回ったものだ。けれど、彼女が本当に好きだったのは散歩そのものではない。ご近所さんに自慢話をすることだった。「うちのお嫁さんがね、本当に献身的に私のお世話をしてくれて、毎日お家をピカピカにしてくれるのよ」と。わざわざ手元にブランドものの高級ハンカチを握りしめ、さりげなくそれを見せつける。「今度、娘の玲奈が素晴らしいお家柄の方と結婚するの」と。そう言って周囲の羨望のまなざしを浴びることが、彼女の生きがいだったのだ。しかし今は、もう誰も彼女の自慢話など聞いてくれない。一歩外へ出れば、冷たい視線が突き刺さる。「あの借金まみれの娘さんも、破談になったらしいよ」と、ひそひそ話される。

「みんなが私の悪口を言ってる」

すっかり衰弱した義母は、恐怖のあまり家に閉じこもっている。外へ出られない鬱憤を、修吾と玲奈にぶつけているそうだ。2人は今すぐにでも、その地獄のようなお屋敷から出ていきたいはずだが、仕事もなければお金もない。結局、身動きが取れない状態で、あのゴミ屋敷に一生縛りつけられる。

修吾がこの泣き言の連絡をしてきたのは、私が家を出てからたった7日目のこと。私は7年間、あの暗いお屋敷で、誰にも感謝されず、ただ1人で耐え続けてきたのだ。それを、血を分けた実の子供たちが、1週間すら耐えられないという。受話器の向こうで「頼むから手伝いに来て」とすすり泣く、夫だった男。私はふっと冷たい笑みをもらした。

「介護はね、実子の務めだよ。頑張ってね」

それだけ告げると、電話を切った。2度と泣き言を聞かなくて済むよう、番号を着信拒否に設定する。

その後、修吾や玲奈、そして義母が具体的にどんな悲鳴を上げて崩壊していったのか、私は詳しく知らない。ただ、春が近づく頃、風の噂で逆の家のお屋敷が差し押さえられていると耳にした。とうとう、あの広大で、見栄えだけは一兆前だったお屋敷までもが、容赦なく国に差し押さえられたらしい。そりゃそうだと、私は心の中で冷たく笑った。悪臭漂うゴミの墓場に眠っていたのは、消費者金融やカードローンの督促状だけではない。その山のさらに奥深くには、固定資産税や住民税の滞納による、国や自治体からの通告書も埋もれていたのだ。税金の回収は容赦がない。再三の通告を無視し続ければ、ある日突然執行官がやってくる。そして、家財の全てが差し押さえられ、家から叩き出されるのだ。

想像するだけで恐ろしい強制執行。けれど、もし修吾や玲奈があのゴミの墓場をほんの少しでも片付けていれば、こんな最悪な結末を迎える前に気づけたはずだ。「汚い」「気持ち悪い」と放置したのは、他ならぬ彼ら自身。

いきなりお屋敷を奪われることになったその日、凄まじく見苦しい光景を近所の人たちは目撃したという。

「ここは俺の家だぞ。同居してやった俺に権利があるんだ」

「ふざけないでよ。1人占めする気?お母さんの家じゃん。私だって半分もらう権利があるし。てか、私の方がお母さんと仲がいいんだから、私の家だよ」

執行官たちの前で、修吾と玲奈は屋敷の所有権を巡って喧嘩をしていたそうだ。互いの胸ぐらを掴み、罵り合う。彼らがあのゴミ屋敷に住みついていたのは、親への情などではなかった。このままいっていれば、義母が亡くなった後にこの広大なお屋敷が手に入る。そんな浅ましい打算と強欲さで、彼らはあの不潔な家に留まっていたのだ。だが現実は残酷だった。土地はとっくに切り売りされ、家財も税金の方に没収。結局、お嬢様育ちを自負していた義母の手にも、嫁に全てを押し付けて外で遊んでいた修吾の手にも、奇跡の縁談を自らぶち壊した玲奈の手にも、最後には何ひとつ残らなかった。残されたものがあるとすれば、膨大な借金だけ。

ある日、仕事を終えると、閉店間際のスーパーへ足早に向かった。お惣菜コーナーには、半額シールが貼られたお弁当がいくつか残っている。唐揚げ弁当を手に取ろうとした瞬間、たまたま隣にいた男性も同時に手を伸ばしかけた。お互いに「あ、どうぞ」と笑って手を引く。

「半額だとありがたいですよね。特に唐揚げがあるのは珍しいかも」

「そうですよね。仕事帰りに見つけると、すごくハッピーになれて」

男性がうんうんと頷いている。ささやかで純度の高い価値観を持つ人に出会えたことが、少しだけ嬉しい。彼は「ハンバーグも好きなので」と、私に唐揚げ弁当を譲ってくれた。

家に帰り、よく温めた唐揚げを一口頬張る。

「うん。美味しい」

パリっとした衣の食感と、ジューシーな旨味が口いっぱいに広がった。昨日作っておいた茄子の煮浸しも、味がよく染みていて最高だ。自分のためだけに用意したご飯を、美味しいと心から楽しめる。これ以上の幸せが、他にあるだろうか。食後、お気に入りの音楽を流しながら、フローリングに軽くワイパーをかける。箸とコップを丁寧に洗い、水切りかごに伏せた。散らかす人も、理不尽に怒鳴る人も、ここにはいない。私は今、自分のために生きている。

窓の外に広がる静かな夜空を見上げながら、愛しい自由を噛みしめた。

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