午後2時、気温は36度を超えていた。東京の下町にある銀生銀行上等支店に、一人の少女が入ってきた。彼女の名前は岩瀬サナ。17歳。背中には汗が乾いた跡が広がり、袖口には機械油のシミがついた作業着を着ていた。左胸には白い刺繍で「岩瀬産業」と縫い込まれていた。
右手には古びた通帳と印鑑。左手には病院から届いたばかりの入院費の請求書があった。入院中の祖父のために、少しでも安くなればと願いながら、彼女はここまで来ていた。
「祖父の口座から引き出しをお願いします。」
声は静かだった。疲れが滲んでいたが、揺らぎはなかった。しかし、窓口の担当者である春川巧は、通帳の残高だけを見て全てを判断した。
「このボロ通帳で全額引き出し?残高15万で全額ですか?」
彼の口から放たれた言葉は、刃のようにサナに突き刺さった。
「親なしのガキが、よく一人で銀行に来られましたね。好きにすれば?」
サナは逃げなかった。声を荒げず、涙もこらえ、まっすぐ前を向いた。
「全額、お願いします。」
その声は震えていなかった。
この日、軽々しく放たれたその言葉が、翌朝この支店の全てを根底から変えることになるとは、その時ロビーにいた誰一人として知らなかった。
夏休みに入って4週間が経っていた。サナは毎朝6時半に起き、地元の部品工場へと向かっていた。アルバイトの日当は6500円。土日も休まなかった。工場の仕事は精密部品の検品と梱包。細かい作業が続いたが、サナは一度も手を抜かなかった。
工場長の老人は「あの子は丁寧で助かる」と同僚に話していた。ある日、作業を終えたサナに工場長が声をかけた。
「無理するなよ。17だろ?」
「大丈夫です。全然きつくないです。」
工場長は小さく「そうか」と言った。嘘だとは分かっていたが、それ以上は聞かなかった。
バイトを始めてから3週間、サナが稼いだお金は一つの封筒に入れてあった。封筒には「じいじの病院」と書かれていた。サナは封筒をしまう時、いつも同じことを口の中で言った。
「絶対足りるようにする。」
声に出すと本当になる気がした。
祖父の吉典は72歳。サナの唯一の家族だった。吉典がサナを引き取ったのは、サナがまだ5歳の頃だった。サナの父・春彦と母は、サナが5歳の夏に亡くなった。大雨の夜の交通事故だった。当時のサナには父と母の記憶がほとんど残っていない。覚えているのは、翌朝迎えに来た吉典の大きな手のひらだけだった。
「サナ、おじいちゃんのうちに来なさい。」
その一言だけで、吉典はサナの世界の全てになった。
吉典は東京の下町で工場を経営していた男だった。派手な生活とは無縁で、毎日早起きして近所に声をかけながら生きていた。サナが泣けば一緒に泣き、笑えば心から笑った。難しい言葉を使わず、いつも同じことを言い続けた。
「お金より大事なものがある。自分の力で生きることだ。」
それが吉典の口癖だった。サナはその言葉を胸に刻んで育った。
小学6年で高校に通い、夏休みには工場でバイトする。誰かに頼らなくていい。自分の手で稼いだお金でじいじを支える。サナがそう決めたのは中学に上がった頃だった。
友人に「こじき」と呼ばれたことがあった。傷ついた。しかし吉典に話すと、老人はゆっくりと首を横に振った。
「お前は一人じゃない。ここにいる限り、ずっとそうだ。」
サナはその言葉を聞くたびに泣きそうになった。しかし吉典の前では泣かなかった。心配させたくなかった。代わりに学校のテストで満点を取り、家の掃除を完璧にやり、毎朝「おはよう」と大きな声で言った。そうすることで「大丈夫」を証明し続けた。
しかし今年の春、吉典が倒れた。心臓の持病が悪化し、緊急搬送された。手術は成功したが、回復には時間がかかると医師は言った。
搬送から2日後、初めて病室に入った時、サナは吉典の顔を見て息を飲んだ。あんなに大きかった手が、こんなに細くなっていた。点滴の管が刺さった腕が信じられないくらい細かった。
「心配かけて悪かったな。」
「いいよ。じいじが元気になればそれでいい。」
「大丈夫だ。心配するな。」
「うん。」
サナはそう答えた。でも廊下に出た瞬間、壁に背を預けてうずくまった。ナースステーションの方から足音がした。サナはすぐに立ち上がった。泣かなかった。泣いたら止まれなくなる気がしたから。
じいじに泣き顔だけは見せたくなかった。それだけだった。
しかし一人廊下で請求書の金額を見て、静かに息を飲んだ。月に30万円以上。高額療養費制度を使っても自己負担は重かった。
サナは翌日からアルバイトを探した。すぐに見つかったのが、上東区の小さな部品工場だった。
「体力がいる仕事だぞ。高校生か?」
「17歳です。でもできます。土日も毎日来ます。」
工場長は少し迷ってから「来週から来い」と言った。サナは深く頭を下げた。
支給された作業着の左胸には「岩瀬産業」という刺繍があった。サナはその名前の意味を知らなかった。ただの取引先の名前だと思っていた。
工場の同僚たちはサナより10歳以上年上の人ばかりだった。みんなサナに親切に声をかけてくれた。
「姉ちゃん、3時間ぶっ続けだぞ。少し休めよ。」
「あ、大丈夫です。まだ行けます。」
「無理すんな。熱中症になったら元も子もないぞ。」
サナはその言葉に不意に目が熱くなった。じいじも同じような声のかけ方をする。「偉いな」「頑張れよ」という言葉が吉典の声に似ていると思った。
作業着を着て機械の前に立つと、なぜか落ち着いた。理由は分からなかった。ただ、ここが自分の場所だと感じた。夏の工場は暑かった。汗が作業着を通り越して滴り落ちた。それでもサナは手を止めなかった。手を止めると考えてしまうから。じいじのこと、入院費のこと、一人で帰るアパートのこと。手を動かしている間だけ、全部が前に進む気がした。
そんな夏の4週目の午後、サナは工場から銀行へと向かった。祖父名義の口座から15万円を引き出すために。
窓口の担当者は5名。正しい対応で地域の信頼を積み重ねてきた支店だった。少なくとも、春が来るまでは。
春川巧、24歳。市立T大学経済学部を主席で卒業した新人行員だった。採用倍率は80倍。彼はそのことを誇りにしていた。「ここは優秀な人間のいる場所だ」という意識が、常にその目に滲んでいた。
窓口での応対を、春川は密かに「選別」と呼んでいた。見るからに裕福な客には丁寧に、そうでない客には最低限だけ対応する。先輩行員の明里奈が何度かそれを注意した。しかし春川は笑って聞き流した。
「効率の問題ですよ。」
春川は入行して2年目。研修の成績は常にトップだった。しかしその優秀さは、人を下に見ることで成り立っていた。「出来の悪い人間に時間を使うのは損だ」という考えが根にあった。銀行の窓口は、春川にとって選別場だった。
サナが窓口の番号を呼ばれたのは午後2時14分だった。担当として出てきたのが春川だった。
サナは印鑑と祖父の保険証を丁寧にテーブルへ並べた。
「祖父名義の口座から15万円を引き出したいんですが。」
春川は通帳を手に取り、パラパラとページをめくった。残高15万円のページで指が止まった。春川の口元がわずかに歪んだ。
「15万円の全額引き出しですか?」
声に笑いをこらえるような湿り気があった。
「おじい様の口座とのことですが、印鑑はお持ちですか?」
「はい、これです。」
サナは印鑑と保険証を差し出した。春川は書類を一瞥してから、また通帳に目を落とした。
「作業着でいらしたんですね。どちらでお働きですか?」
質問ではなく、品定めだった。
「バイトの途中に寄りました。」
「バイトですか?高校生ですか?」
笑いが声に完全に乗っていた。明里奈は隣の席でその声を聞いて眉をひそめた。
「このボロ通帳の中身を全額引き出し?残高15万で全額ですか?信じられないんですけど。」
明里奈は書類から手を止め、係長を呼ぼうとした。声が出なかった。
「親なしのガキが、好きにすれば?」
サナの目がわずかに細くなった。「親なし」という言葉は、どこで言われても同じように刺さる。5歳から何度も言われてきた言葉。傷の場所は変わらない。ただ、年を重ねるごとに傷が深くなっていく気がした。
しかしサナは声を荒げなかった。怒りを飲み込んで、静かに前を向いた。言い返すことで何かが変わるなら言い返した。でも変わらないと分かっていたから言わなかった。
「作業着って、間違いじゃないですか?」
春川が立ち上がり、後輩行員の席へ歩いていった。
「ああいう底辺の客には、最低限の対応だけしとけばいい。」
後輩が苦笑いしながら小さく頷いた。明里奈は下を向いたままキーボードを打ち続けた。言いたいことがあると彼女は思った。しかし声が出なかった。それが後になって重くのしかかることになる。
サナは何も言わなかった。春川が差し出した伝票に、震えない手でサインをした。15万円を受け取り、丁寧に財布にしまった。
「ありがとうございました。」
春川は聞いていなかった。すでに後輩と話し始めていた。サナが出口に向かう時、誰も見送らなかった。
外に出ると、36度の夏の日差しが容赦なく照りつけた。自動扉が閉まる音がした。サナは少しだけ目を伏せてから、また歩き始めた。
「大丈夫。」
誰に言い聞かせたのか、自分でも分からなかった。でも声に出すと、足が少しだけ前に進んだ。
病院はここから徒歩15分だった。歩きながらサナは右手を強く握った。手のひらに爪が食い込んだ。それでも緩めなかった。怒りを外に出せなかった分、手のひらに押し込んだ。「親なしのガキ」という声が頭の中でリプレイされていた。慣れてはいる。でも慣れることと平気であることは違う。サナはそれをずっと知っていた。
途中、コンビニの前で立ち止まった。吉典の好きな缶コーヒーを買おうとして棚に手を伸ばした。でも今は病院食の間だと思い出し、そっと棚に戻した。
「退院したら一緒に飲もうね、じいじ。」
誰にも聞こえない声でそう言った。
病院の廊下はいつも消毒液の匂いがした。サナはその匂いに慣れてしまった自分に、少し驚くことがあった。吉典の病室は412号室。角部屋で、小さな窓から外が見えた。
そっと扉を開けると、吉典は目を閉じていた。ベッドの上で、点滴の管が細い腕から伸びていた。顔色が悪い。サナはそれを見るたびに胸がきつくなった。
「じいじ、起きてる?」
吉典がゆっくりと目を開けた。
「サナ、来てくれたのか?」
「下ろしてきたよ。病院の窓口に持っていくね。」
「ありがとう。ちゃんと眠れてるか?」
「うん、全然大丈夫。バイトも楽しいよ。」
嘘だった。バイトは体がきつかった。一人の夜は静かすぎた。夜中に吉典が倒れた時のことを思い出して、眠れない夜があった。冷蔵庫を開ける時、吉典がいつもつけていた梅干しのことを思い出した。それが一番辛かった。でも吉典の顔を見ると、「大丈夫」以外の言葉が出てこなかった。
吉典は少しの間サナの顔を見ていた。そして何かを考えるように、目をゆっくりと細めた。
「サナ、今日何かあったか?」
サナの目が一瞬揺れた。
「なんでもないよ。」
吉典は何も言わなかった。ただサナの手をそっと握った。その温かさで、サナは声が詰まりそうになった。いつも通りだった。この手がいつもサナを引き止めた。言いたいことが胸に溢れた。でもどうしても言えなかった。じいじに心配させたくない。それだけだった。
吉典は目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。サナも何も言わなかった。点滴の落ちる音だけが静かに続いていた。
しばらくして、吉典がぽつりと言った。
「お前は強いなあ。」
「そんなことない。」
「ある。昔からそうだった。」
サナは答えなかった。強いんじゃない。逃げる場所がないだけだと思っていた。でも吉典の口からそう言われると、本当にそうなのかもしれないと感じた。それだけで、その夜は眠れた。
翌日の午後、サナが病院に来ると、病室の椅子に見知らぬ男が座っていた。年齢は55歳前後。黒いスーツにきちんと結んだネクタイ。品のいい男だった。
吉典がサナに視線を向けて静かに言った。
「こちらは霧島茂さんだ。」
男は深く頭を下げた。
「岩瀬産業副社長の霧島です。初めてお目にかかります。」
サナは「岩瀬産業」という名前を聞いて首をかしげた。
「岩瀬産業って、あの作業着に書いてあった名前ですか?」
霧島が静かに頷いた。
「はい。あなたが務めている工場は、弊社の関連工場です。」
サナは黙って吉典を見た。吉典は静かに目を伏せた。
「霧島さん、頼んだよ。」
霧島がかばんから書類ファイルを取り出した。そこには一つの企業の概要が記されていた。
岩瀬産業株式会社。創業者、岩瀬春彦。設立20年。売上高1兆2000億円。従業員数約1万4000人。精密部品メーカーとして国内最大手。
サナの知らなかった父の顔がそこにあった。
「これがお父さんの会社?」
「はい。春彦様が一から創業し、育て上げた会社です。」
サナはゆっくりと書類を見つめた。父を知らないまま生きてきた17年間。じいじが質素に暮らしていたのは、お金がなかったからではなかった。お金に頼らない生き方をサナに身につけさせたかっただけだった。サナが工場でバイトしていた理由も、吉典がサナに話さなかった理由も、全部がここに繋がっていた気がした。
サナは一度だけ深く息を吸って、吉典を見た。
「じいじ、なんで教えてくれなかったの?」
「お前がちゃんと自分の力で立てるようになるまで、それでいいと思っていた。」
吉典の声はいつもより少しだけ低かった。諦めのような、それでいて揺るぎない確信のある声だった。
サナは何も言えなかった。ただじいじの手のひらを思い出した。5歳のあの朝に差し伸べてくれた、大きくてゴツゴツした手を。じいじはずっとサナを守ろうとしていたんじゃない。サナが自分で立てるようになるのを待っていたんだ。
「サナさん、実はもう一つご報告があります。」
霧島がもう一枚の書類を取り出した。「銀生銀行 法人定期預金口座残高証明書」と書かれていた。その数字を見た瞬間、サナの呼吸が止まった。
9000億円。
亡き父・春彦が預けた、岩瀬産業のメインバンク定期預金だった。
「春彦様が生前、会社の将来のためにと預けた資産です。口座の管理は私が代行しておりましたが、解約移行の判断はサナさんに委ねるとの吉典様のご意向でした。」
サナは書類を見つめたまま、長い間動かなかった。9000億円という数字が現実のものとして感じられなかった。昨日15万円を引き出すために頭を下げた銀行に、この金額が眠っていた。そしてゆっくりと顔を上げた。
「昨日、その銀行の窓口で私、言われたんですよ。」
霧島の目が静かに細くなった。
「『親なしのガキ』って。」
王座室のような静寂が病室に落ちた。吉典の手が静かにベッドのシーツを握りしめた。サナは吉典の顔を見た。吉典は静かに、しかし確かに目を細めていた。怒っている。サナはそれを初めて見た気がした。吉典が誰かに怒る顔を、サナは一度も見たことがなかった。
「全額解約します。」
吉典は何も言わなかった。点滴の管が揺れるのも構わず、サナの手をそっと握り返した。
「承知いたしました。明朝8時に手続きに参ります。」
サナは吉典の手の温かさを感じながら、静かに頷いた。吉典の目がうっすらと赤くなっていた。泣いているのかどうか、サナには分からなかった。ただ「ありがとう」と言われた気がした。
窓の外に夕日が沈んでいた。病室に橙色の光が差し込み、三人の影が伸びていた。亡き父が残した財産の意味が、この瞬間に動き始めた。
その夜、サナは病室で吉典に古いジャケットを見せてもらった。
「春彦のものだ。ここに持ってきていたのは、いつか渡そうと思っていたから。」
吉典がそう言った。サナはゆっくり袖に腕を通した。肩が落ちた。袖が余った。
「お父さん、じいじより大きかったんだね。」
「おお。大きくて、無骨で、よく笑う男だった。」
サナは少しの間袖口を見つめていた。
「明日、着ていく。」
「おお、行ってこい。」
翌朝8時、銀生銀行上等支店の前に黒い高級セダンが静かに停車した。後部座席から降りてきたのは霧島茂と岩瀬サナだった。サナは古いジャケットを着ていた。
銀生銀行上等支店の支店長・仙田肇は、回転前の朝礼を終えたばかりだった。その時、受付担当の行員から内線が入った。
「支店長、岩瀬産業のご担当者様がいらっしゃっています。全座の解約の申し出があるとのことです。」
仙田は一瞬意味が理解できなかった。岩瀬産業。その名前は仙田も知っていた。年間売上高1兆円超の業界最大手。法人定期預金9000億円を含む、支店最大の取引先だった。仙田が慌てて応接室に向かうと、霧島が書類を置いていた。
「岩瀬産業副社長の霧島です。本日は弊社の全取引解消のお申し出に参りました。」
「全取引解消?それはどういうことですか?」
「法人定期預金9000億円の解約、全座の閉鎖、及び融資契約の弁済の申し出です。」
仙田の顔から見る見る血の気が引いた。支店の年間目標の数十倍に相当する金額だった。これが消えたら、支店の業績は壊滅する。
「少しお待ちください。理由を教えてください。」
「昨日、御行の窓口担当者が弊社関係者に対して、著しく不適切な発言を行いました。」
仙田は言葉を失った。
「『親なしのガキ』。これが御行の言葉です。」
応接室に重い沈黙が落ちた。サナはその場に同席し、一言も口を開かなかった。ただ静かに前を向いていた。
仙田は青い顔で本部に緊急連絡を入れた。岩瀬産業から全座解約の申し出が来ていると告げた。電話口の向こうが一瞬凍りついた。
「今すぐ向かいます。」
という声が帰ってきた。
30分後、銀生銀行本部の副頭取が車で到着した。
「霧島様、誠に申し訳ございません。担当者を呼んで直接ご説明させていただきます。」
「結構です。弁明を聞く必要はありません。」
「しかし、9000億円は御行にとっても大変な損失が…」
「弊社はすでに移行先を決定しております。手続きは滞りなく進めさせていただきます。」
サナがゆっくりと立ち上がった。副頭取の目を静かに見た。
「昨日、この方に言われました。『親なしのガキ』って。」
副頭取は黙った。
「その言葉は私だけじゃなく、亡くなった私の父親にも向けられた言葉だと思います。」
副頭取が目を伏せた。何も言えなかった。
サナは副頭取の目を最後にもう一度だけ見た。謝れと言いたいわけではなかった。ただ知っていて欲しかった。
「私の父は私が5歳の時に亡くなりました。一緒に働く人を馬鹿にするような人じゃなかったと思います。」
副頭取は目を閉じた。言えるはずがなかった。サナはもう何も言わなかった。言いたいことは全部霧島がやってくれる。病院に吉典がいてくれる。それで十分だった。
春川はその日の朝10時に支店長室に呼び出された。回転から1時間も経っていない時間だった。意味が分からないまま扉を開けると、支店長と本部の役員が並んで座っていた。
「春川君、君の窓口での応対について報告してほしい。」
春川の顔がわずかに強張った。
「昨日ですか。普通の対応をしただけです。」
「窓口の音声記録がある。聞くかね?」
春川の顔が青ざめた。仙田が書類を取り出した。
「本日、岩瀬産業から全座解約の申し出があった。理由は昨日の君の言動だ。」
「岩瀬産業?」
「定期預金9000億円、融資残高含む全取引解消だ。」
春川の口がパクパクと動いた。何も言葉が出てこなかった。9000億円。その数字は春川の頭の中で意味をなさなかった。あの作業着の少女と、その金額が結びつかなかった。
「君には本日より自宅待機を命じる。懲戒委員会が招集される。」
春川は立っていられなくなった。椅子に崩れ落ちながら、昨日の自分の言葉が頭でリプレイされた。「親なしのガキ」。誰に向けて言ったのか分かっていなかった。分かろうともしていなかった。
「なんで…なんで俺が…」
でも答えは自分の中にあった。自分が口にした言葉だから。それだけだった。それが全ての始まりだった。
同じ時刻、窓口では明里奈が業務についていた。彼女は昨日から何かが胸に引っかかっていた。あの時何も言わなかった自分が、ずっと引っかかっていた。支店長室から出てきた春川の青ざめた顔を見て、明里奈は気づいた。自分が何も言わなかったことが、今日の結果とつながっていると。
「昨日の窓口応対の件で、一部始終を証言させてください。」
係長は明里奈の顔を見て無言で頷いた。明里奈の証言には、春川だけでなく後輩の同調も含まれていた。「底辺って自分で分からないんですか」という言葉も記録された。
翌日、後輩は別室に呼び出された。春川とは別に、懲戒処分と顧客対応研修の受講が言い渡された。
「俺はただ先輩に合わせただけで…」
しかし係長は静かに言った。
「その言葉を口にしたのは君自身だ。」
後輩は下を向いたまま何も言えなかった。「合わせた」という理由は、どこにも逃げ場がなかった。
銀生銀行上等支店の業績は、その日から壊滅的な打撃を受けた。9000億円の定期預金が消えた。支店の行内業績ランキングは、翌月末に最下位に転落した。本部から業務改善命令が下り、全員への顧客対応再教育が通達された。支店長・仙田は本部付きに降格となった。懲戒委員会の結果、春川は降格、及び6ヶ月の業務停止処分となった。翌朝には、業界紙に「窓口応対問題で大口定期解約」と匿名報道された。
春川はそれを自宅で読んだ。記事の中の「不適切発言をした新人行員」が自分だとすぐに分かった。スマートフォンを置いて天井を見上げた。
「俺は何をやっていたんだ?」
エリートのはずだった。しかしそのプライドは、一人の少女の静かな声の前に、跡形もなく崩れていた。「優秀な人間のいる場所」という言葉は、もうどこにも残っていなかった。
6ヶ月の業務停止が始まった。最初の1ヶ月、春川はアパートから出ることができなかった。スーツを着る理由がない毎日が、こんなにも空虚だとは知らなかった。ある日の夕方、食料を買いに出た帰り道、春川は作業着姿の若者とすれ違った。汗が乾いた跡が背中についていた。袖口に機械油のシミがあった。どこかで見たその格好。若者は立ち止まり、隣の老人に「先に渡ってください」と声をかけた。老人が「ありがとう」と言うと、若者は照れ臭そうに歩いていった。
春川はその場から動けなかった。自分はあの時、何を見ていたのか。通帳の残高だけ見て、それ以外は何一つ見ていなかった。
「俺には人を見る目がなかった。」
その言葉が春川の中で何かを動かした。
2ヶ月目から、春川は地域の高齢者支援ボランティアに参加した。最初は上司に勧められたからだった。しかし初日に分かった。ここには通帳の残高も学歴も肩書きもなかった。「ありがとう」という言葉だけがあった。春川はその時初めて、銀行員である自分以外の自分を感じた。
一方、霧島は岩瀬産業の移行先として、複数の大手銀行と新たな契約を結んだ。手続きの最後に、霧島は岩瀬産業としての声明文を提出した。声明にはこう書かれていた。「弊社は、全ての人間に等しい敬意を払う組織とのみ取引を行う方針です。」それは亡き春彦が残した言葉だったと、霧島は後に語った。岩瀬産業の社員たちはその声明を読んで、誰も驚かなかった。春彦ならそう言うはずだと、みんなが知っていたからだ。工場の作業着を着てバイトしていたサナも、同じことを言うはずだと。
9月の末、吉典が退院した。病院の玄関前でサナが待っていた。また作業着を着ていた。
「まだ来てるのか?」
「それを、工場の人たちと一緒に働けるのが好きなんだよね。もう少しだけ。」
吉典は少しだけ笑って「そうか」と言った。その目にうっすらと光るものがあった。サナはそれを見て、先に顔を背けた。泣きそうになっていた。じいじの前では泣かないと決めていたのに。
「先に歩いてていいよ。」
吉典は「なんでだ」と言いながら、ゆっくり隣を歩いた。帰り道、二人は並んで歩いた。商店街に秋の風が吹いていた。下町の路地を歩きながら、吉典がぽつりと言った。
「春彦も同じことを言っていたよ。お金より、一緒に働く人間が大事だって。」
サナは立ち止まった。父を知らないまま生きてきた17年間。でもじいじと歩いたこの道が、父の道と繋がっていた。
「じいじが教えてくれたこと、全部お父さんから来てたんだね。」
吉典は何も言わなかった。ただサナの頭にそっと手を置いた。亡き父が残した財産は、9000億円の預金だけではなかった。それよりずっと大切な「自分の力で生きる」という言葉だった。サナは今日初めて、本当に理解した気がした。
じいじがくれた言葉は、じいじの言葉じゃなかった。お父さんの言葉を、じいじが17年間届け続けてくれていたのだ。商店街に夕日が差し込み、二人の影が長く伸びた。
翌年の春、6ヶ月の業務停止を終えた春川は職場に戻った。元の上等支店ではなく、郊外の小さな支店への移動だった。初日の窓口、最初の客は作業着姿の中年男性だった。かつての春川なら、見た瞬間に「最低限でいい」と判断していた。
春川は深く頭を下げた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
その声に見下しはなかった。男性は少し驚いた顔をして、「定期の解約をしたいんだが」と言った。
「急に入院することになってなあ。手続きが分からなくて。」
と続けた。春川は丁寧に最後まで話を聞いた。書類の記入を手伝いながら、初めてお客の事情を考えていた。窓口を離れる時、男性が「ありがとうなあ。丁寧にしてもらって助かったよ」と言った。その言葉が春川の胸にまっすぐ届いた。以前の自分なら気にも止めなかった言葉だった。
人の価値は外見でも財産でも肩書きでもない。見えないものを見ようとしない者に未来はない。その静かな真実を、一人の少女が証明した夏の話は、ここで終わる。



