70歳を過ぎたある日、40年連れ添った夫が突然「早急に新居を探して家を出ていけ」と告げた。理由も告げず、私の意見も聞かず、一方的に別居を決めた夫。長年、私と娘に冷たく当たり続けた彼に、私はもう何も言えなかった。でも、彼が倒れて入院し、荷物を取りに戻った家で、私は彼の机に置かれた古い手帳を見つけた。開いた瞬間、息を呑んだ。そこには、私が知らない真実が綴られていた。彼がなぜ私を遠ざけたのか、なぜ…

70歳を過ぎたある日、40年連れ添った夫が突然「早急に新居を探して家を出ていけ」と告げた。理由も告げず、私の意見も聞かず、一方的に別居を決めた夫。長年、私と娘に冷たく当たり続けた彼に、私はもう何も言えなかった。でも、彼が倒れて入院し、荷物を取りに戻った家で、私は彼の机に置かれた古い手帳を見つけた。開いた瞬間、息を呑んだ。そこには、私が知らない真実が綴られていた。彼がなぜ私を遠ざけたのか、なぜ...

「早急に新居を探して家を出ていけ。この家には俺が住み続ける」

70歳を過ぎたある日、夫の正吉から突然、別居を告げられた。彼は一方的に話を進め、私の意見には耳を貸さなかった。結局、私はしぶしぶながら別居を受け入れた。

今思い返してみても、40年もの間、正吉は冷たかった。私や娘の香りに無関心で、些細なことでも目を釣り上げて怒った。口数も少なく、夫婦らしい生活を送った記憶はほとんどない。彼との生活を振り返るたび、私は胸が締めつけられた。

そんなある日、突然病院から電話がかかってきた。正吉が街中で倒れ、救急搬送されたのだという。彼は入院することとなり、私は荷物を取りに行くため、久しぶりに自宅へと戻った。すると、正吉の書斎の机に1冊の手帳が置かれていた。

「それ、お父さんがずっと使ってたものよ」

ふと手帳を開いた瞬間、私は思わず息を飲んだ。読むうちに全てを理解し、自然と涙が溢れた。

「正吉、ごめんなさい。あなたはずっと苦しんでいたのね」

私は長野、71歳。今はとある事情で1人暮らしをしているが、先月まで2歳年上の夫・正吉と暮らしていた。

彼と出会ったのは今から40年以上も前のこと。当時26歳だった私は銀行に勤務していた。周囲の友人はみんな結婚し、独身なのは私だけ。そんな娘を見かねてか、父がある日、見合い話を持ちかけてきた。

「お父さん、この方は?」

とある男性の写真を見せられて、呆然としている私に、彼は淡々と告げた。

「うちの社員の正吉君だ。彼も1人でな。じこ、一度会ってみなさい」

父は食品会社を経営しており、正吉は社員の1人だった。彼は優秀ではあるものの、無口で人付き合いが苦手なのだそう。

いきなりのことで驚くが、父の提案を断るわけにはいかない。私は後日、正吉と会うこととなった。

「初めまして。川島順と申します。長野正義さんですよね。社長からお話は伺っております」

彼は私を見るなり小さくお辞儀をした。確かに父から聞いていた通り、口数が少ない人だった。話を広げようと質問しても、帰ってくるのは一言二言だけ。

「困ってますよね。俺みたいな男性を紹介されて」

2人きりになった時、正吉は申し訳なさそうな顔をした。彼は社長の娘を紹介されていたらしい。

「なぜ俺がじこさんの見合い相手なのか分からなくて。気を使わせてしまってますよね」

「ええ、そんなことはありません。むしろ私は正さんが見合い相手で良かったと思ってますから」

正直に言えば、最初は見合いなんて適当な理由をつけて断ろうと考えていた。結婚願望はあるものの、今回の相手は父の会社の社員。向こうは私が社長令嬢だから結婚したがっている可能性がある。そう思い、あまり乗り気ではなかったのだ。

だが、正吉と話して、私は気づけば彼の人柄に引かれていた。無口ではあるけれど、一緒にいると不思議と落ち着く。正吉は話すのが苦手なのではなく、慎重に言葉を選んでいるようだった。そんな誠実な彼となら結婚してもいいかもしれないと思えた。

「正さんの気持ちもありますし、無理はしませんが、またお会いできたら嬉しいです」

「俺もじこさんと仲良くなりたい」

私たちはその後交際を始め、出会いから1年後に結婚。正吉を支えるため、私は銀行員を辞めて専業主婦となった。彼と一緒にいる時間は穏やかで、毎日が幸せだった。

しかし、正吉と実家に行く度、私は心をかき乱される。

「正さんってば、物好きなんだな。こんな地味な顔の兄貴と結婚するなんて。兄貴って昔からどん臭いし、苛立つことも多いんじゃない?」

私たちを見て嘲笑うのは弟の弘雪。彼は実家で暮らしており、父の会社で働いていた。当然、私のこともお見合い前から知っている。ただ、結婚を報告した際、弘雪は祝福するどころか鼻で笑った。彼は昔から私を見下しているのだ。自分の方が優秀だと思い込んでいる。

入籍後も、弘雪は会うたびに私を馬鹿にした。ある日、久々に実家に顔を出した私を見て、彼は悪い笑みを浮かべる。

「俺なら姉貴みたいな奥さん、絶対に嫌だな。正さんってもしかして社長の座を狙うために姉貴と結婚したの?言っておくけど無理だよ。俺がいるんだから」

「正吉君は真面目だ。そんな理由で結婚したわけではないだろう」

「じこの方はどんな考えで彼を選んだかわからないがな。こんなチャンスは2度とないと思って飛びついたのかもしれない」

「お父さんが見合い話を持ってこなかったら結婚できなかったでしょうね。じこ、あの人に捨てられないよう人一倍頑張りなさいよ。あなたは要領が悪いんだから。もし正吉君に捨てられても、もううちには戻ってくるなよ」

両親は弘雪と一緒になって私を貶める。2人は子供の頃から会社の後継である長男の弘雪ばかり可愛がり、娘の私には冷たかった。成績が良くても、家事の手伝いを頑張っても、褒められたことはない。物心ついた時にはもうこの扱いだったので、私は慣れている。とはいえ、夫の前で馬鹿にされるのは恥ずかしかった。

両親や弘雪に感化されて、彼までも同じような扱いをしてくるのではないか。そんな不安もあり、家族に合わせることに恐怖を感じていた。

けれど、私の心配は杞憂だったらしい。正吉は家族から何を言われようが、私の味方をしてくれたのだ。

「ご家族が謙遜する気持ちも分かりますが、じこさんはとても素晴らしい女性です」

先ほどまで黙って家族の話を聞いていた彼が、不意に声をあげた。

「は?謙遜じゃないって。俺はただ事実を」

「じこさんは立派な妻ですよ。毎日美味しい料理を作り、俺の帰りを待っていてくれます。いつだって笑顔を絶やさない。彼女のおかげで俺は仕事を頑張れます」

正吉はふっと笑み、こちらに視線を送る。彼が変わってくれたことが心から嬉しかった。両親と弘雪は笑い合う私たちを見て不満げな顔をしていたが、もう気にならない。正吉がそばにいれば大丈夫だと思えた。

それから1年後、私は娘の香りを出産する。正吉は育児に追われる私を支え、家事を積極的に手伝ってくれた。

「じこは1人で頑張りすぎだ。俺はお前の夫なんだから、もっと頼ってほしい」

「だけど、正吉は働いてるでしょ。私は専業主婦だから、家のことは全部私がやるわ」

「俺も手伝う」

優しい口調で皿を洗い、香りの面倒も見てくれる彼。私は正吉の優しさに何度も救われた。

そして、香りはすくすくと育ち、3歳になる。私は娘の成長を喜んでいたが、その頃から徐々に正吉の態度が変わっていった。

「正吉、お帰りなさい。今日は一段と遅かったわね。夕食、温め直すわ」

「いや、いらない。食べてきた」

彼は仕事が忙しいのだろう。帰宅が遅くなり、夕食に手をつけないことが増えた。以前のように家事を手伝うことも減り、休日はしょっちゅう家を開ける。

「あら、今日もどこか行くの?」

「帰りは遅くなる。夕食はいらない」

「そう。いつもどこに行ってるの?」

「何をしてようが関係ない」

目的地を尋ねても、彼は教えてくれなかった。怪しいと思うものの、正吉にも事情があるのだろう。仕方ないので、休日はいつも香りと2人で過ごしていた。ただ、たくさん遊んでくれていた正吉がいなくて寂しいのか、彼女は時折ぐずる。

「ごめんね。香りだってお父さんと一緒にいたいよね」

私は一度、正吉に香りの気持ちを伝えることにした。ある休日、いつも通り外出しようとする彼を引き止める。

「正吉にも予定があることは理解してる。だけど、香りはあなたと遊びたいの。今日は難しくても、これからはもっとこの子の時間を作れないかしら」

「悪いが、それは無理だ。仕事もあるし」

「休日は私たちを家において、正吉は一体どこに行ってるの?教えられない理由があるなら、それを説明して」

普段は問い詰めたりしないが、この際はっきりさせたい。正吉は私たちに何を隠しているのか。きっと彼なら話してくれると信じていた。だが、正吉は顔をしかめる。

「じこには関係ないと前にも言っただろう。詮索するような真似はやめてくれ」

「正吉、どうしたの?何よ、そんなに大きな声を出して」

無口な彼が声を張り上げるなんて珍しい。びっくりしたのか、香りが顔を歪めて泣き出した。

「香り、大丈夫よ。お母さんたち、喧嘩してたわけじゃないの。ごめんね。怖かったよね」

すると、彼女をなだめている間に、正吉は家を出てしまった。その日夜遅く帰宅した彼に再度問いかけても、事情を話すことはなかった。

「じこに話す理由がない。休日、俺がどこに行こうが勝手だろ」

「それはそうだけど、最近の正吉は何かおかしいわよ。あんなに香りのことを可愛がってたのに、全然遊んであげないじゃない」

「香りはもう3歳だ。じこ1人で面倒見れるだろう。俺がわざわざ娘のために時間を割く必要はない」

今まで見たことがない彼の冷たい目に、思わず口を継ぐむ。あんなに優しかった正吉はどこに行ってしまったのか。

彼はその後も休日は頻繁に外出し、涙する香りを放置するようになった。正吉はきっと仕事が忙しくて余裕がないだけ。休日はただ気分転換に出かけているのだろう。そう考え、私は育児と家事に専念していた。昔のように穏やかな正吉に戻る日が来ると信じていたのだ。

その頃からだろうか。私たちの自宅に度々、弘雪がやってくるようになる。

「姉貴、いる?」

「弘雪、また来たの?最近多いわね」

「姉貴の結婚をきっかけに正さんと仲良くなったんだよ。今日は2人で遊びに行こうと思ってさ」

確かに彼らは同じ職場で働く同僚だ。現在は義兄弟ということもあり、以前より距離が縮まってもおかしくないだろう。しかし、正吉は弘雪が私を馬鹿にしていることを知っている。正直なところ、2人が仲良くなることにあまりいい気はしなかった。だが、彼らの関係に私が口を出すのも違う。

「正吉、弘雪が来てるわ。今日一緒に出かける予定があったのね」

私は朝食を食べている正吉に声をかけた。彼は一瞬目を見開いたが、その後静かに支度を始める。

「今日も遅くなる」

「わかった」

私たちはいつしか会話も減り、内容も事務的なものになった。正吉が口を開くのは、夕食が必要かどうか答える時だけ。当然、香りにも声をかけはしない。

「じゃあ、お姉さんを借りていくから」

明るい表情で正吉と共に去っていった弘雪。正吉の顔が強張っているように見えたが、おそらく気のせいだろう。私は深く考えず、香りと2人で出かけることにした。

そんな日が続いて1年ほど経った頃、私はふと弘雪に2人でどこに出かけているのか尋ねた。彼らはいつも目的地を教えてくれないのだ。正吉に聞いたところではぐらかされるのが目に見えているけれど、弘雪なら教えてくれるのではないかと考えた。

「2人は本当に仲がいいのね。毎回どこに行ってるの?」

途端に彼は面倒そうな顔をする。

「なんでそんなことが気になるの?もしかして俺たちのこと探ってるとか?」

「いや、そうではないけど。正吉も教えてくれないから、妙に気になっちゃって」

「へえ。正さん、まだ黙ってるんだ」

弘雪はにやりと口元を歪め、悪い笑みを浮かべた。その顔にぞっとする。昔から私を侮辱する時に見せる表情だった。

「正さんももう姉貴に飽きてるのかもね」

「いや、ねえ。急にどうしたの?」

「だって、正さん、姉貴の質問に答えてくれないんでしょ。しかも休日は俺とばかり遊んでて、娘にも構わない。夫が今でも自分を愛してくれてると思う?」

内心不安に思っていたことを言い当てられ、返答ができない。そんな私を見て、弘雪が得意げに語る。

「俺はあくまでもカモフラージュとして利用されてて、実は正さん、女性と会ってるかもしれないよ。本当に俺たち2人が遊んでるかなんて、姉貴には確かめようもないしね」

「やめてよ、そんな冗談。正吉が不倫してるとでも言いたいの?弘雪が一緒にいるんだから、そんなことしないでしょ」

「いやいや、正さんは…」

彼は何かを言いかけたが、その時突然背後から物音がする。

「おい、何を話してる?」

驚いて振り返ると、そこには支度を終えた正吉が立っていた。鬼気迫る顔で私たち2人を睨みつける。

「じこ、余計なことは聞くな。弘雪も、べらべらと喋るなよ」

「悪かったって。兄貴が怖くてさ」

「行ってくる。夕食はいらない」

「ちょっと待って」

私に見向きもせず家を出ようとした正吉を、すかさず引き止めた。弘雪の言葉が引っかかり、どうしても目的地が気になったのだ。

「正吉、せめて2人でどこに行くかだけでも教えてくれない?私だって気になるのよ」

「だから…」

しかし、正吉はふっと顔を背ける。

「関係ないと前にも言っただろ。しょうもないことを気にするより、香りの面倒でも見たらどうだ」

彼はそれだけ言い、弘雪と2人で出かけてしまった。家に残されたのは私と、寂しげな顔で玄関を見つめる香り。彼女はもう正吉と遊びたがらなくなった。一緒にいる時間が大幅に減り、以前のように彼に声をかけることすらなくなったのだ。それでも、正吉が家にいる時は遠くから静かに眺めている。香りも本当は彼と一緒にいたいのだろう。

家族をないがしろにする正吉を見て、私は離婚を考えるようになった。家にいてもまともな会話はなく、そっけない態度を取られるだけ。香りも正吉に怯えている。そんな彼と共に暮らしていても幸せになれないと思ったのだ。1人で育てていった方が、香りだってのびのび暮らせるのではないか。

そんなことを思っていたある日、年末年始に家族3人で実家に帰省した際、両親から止められる。

「じこ、まさか正さんとの離婚を考えてるんじゃないでしょうね」

「どうしたの?急に」

「さっきから見てたが、やけに君によそよそしいじゃないか。香りだって彼になついてない。どうせじこが香りに君の悪口でも吹き込んでるんだろう」

2人は私たちの様子を見て、離婚を考えていると見抜いたようだ。だが、香りに悪口を言ったことなどない。彼女が懐いていないのは、正吉の態度が原因だ。

近くに彼がいないことを確認して、ふと悩みを吐き出す。

「正吉がここ数年、私たち家族に冷たくて。香りも彼に怯えて話しかけなくなったの。だから、この子のためにも離婚するべきなのかなって」

そう呟いた途端、両親は目を吊り上げた。

「家族に冷たい?君は一生懸命、家族のために働いてるんだぞ。そんな彼を見捨てるというのか?」

「見捨てるわけじゃない。もちろん離婚については正吉と話し合って決めるつもりで」

「じこは専業主婦なのよ。離婚してどうやって香りを育てていくの?無職のあなたが1人で面倒を見れるわけないじゃない」

それは正吉が一家の大黒柱であることは事実だ。彼の稼ぎがあるからこそ、私は専業主婦として家事と育児に専念できている。それについては感謝しているつもりだ。実際、離婚するとなれば、私は仕事を探すことになるだろう。

「私なりに仕事を見つけて頑張ろうと思ってる。当然、簡単なことではないけど」

「じこは甘い。この数年、お前は家のことしかやってなかったんだぞ。しかも子供もいる。そんな女を雇ってくれる会社があるわけないじゃないか。香りを連れてここに帰ってくるのはやめてね。離婚するなら新しい家を探しなさい。将来、弘雪が結婚したら邪魔になるんだし」

結婚時、実家に戻ってくるなと言われていたので、両親に頼る気はなかった。それでも、私ではなく孫の香りのためなら手を差し伸べてくれるのではないかという期待があった。だが、彼らは相変わらず私に冷たいまま。

「香りが男だったならまだしも、女だからな。娘のためを思うなら、正君とは離婚しない方がいい。別れたとしても、俺たちは絶対に力を貸さないからな。離婚するなら、その覚悟でしなさいよ。分かった?」

ここまで言われて、離婚に踏み切る勇気はない。何より、香りに苦労をかけるのは嫌だった。私は内心不満を抱えながらも、正吉との夫婦生活を続けることにした。

そして、香りが小学6年生になった頃、彼女が夏休みに書いたポスターが、とある絵画コンクールで賞を取る。香りは昔からお絵かきが好きで、よく描いていた。だからこそ嬉しかったのか、学校から帰ってくるなり満面の笑みを見せる。

「お母さん、今度私のポスターが飾られるんだって」

受賞した作品は地元の美術館に飾られるらしい。私は家族みんなで見に行こうと考えた。

「あのポスター、頑張って書いてたものね。おめでとう。正吉はまだ見てないでしょ。3人で美術館に行きましょうよ」

早速、正吉にも提案する。だが、彼は香りを祝福することなく、無表情のまま断った。

「俺は仕事だから行けない」

「でも、何も1日だけ飾られるわけじゃないのよ。1週間くらいは美術館にあるみたい。だから、正吉の予定に合わせれば」

「無理だと言ってるだろう。そんなに行きたいなら、2人で行け」

正吉は未だに香りに無関心で、絵も見たくないと告げる。私は呆れ返って言葉が出てこなかった。そんな中、香りは目を潤ませる。

「いいよ。私はお母さんが来てくれたらそれでいい。お父さんには見て欲しくないから」

ちょっと、香り…。彼女は黙り込んで、そのまま自室にこもってしまった。本当は正吉にも見てもらいたかったに違いない。

「正吉、香りがどんな絵を描いたか気にならないの?絵を描くことが好きなことくらい、だって知ってるわよね」

幼い頃からよく紙に絵を描いていた香り。当時はまだ正吉も彼女と遊んでいた。香りは絵がうまいなと褒めていたことを覚えている。今では冷たくなった彼でも、当時のことはさすがに忘れていないと思っていた。

香りは私と正吉2人に絵を見てもらいたいのだから、どうにか予定を開けられない。私は香りのため、必死に頼み込んだ。それでも、正吉は無理だの一点張り。

「絵なんて見に行く暇がない。こっちは忙しいんだ。香りだけでなく、じこまで我が儘を言うのはやめろ」

ぶっきらぼうに答える彼を見て、これ以上頼んでも無駄だと察した。結局、私は香りと2人で美術館を訪ねることとなる。

「とても素敵な絵ね。色遣いも綺麗。これは香りにしか描けないポスターだわ」

並んだポスターの中で、香りの絵はひときわ目立っているように見えた。本当なら正吉にも見て欲しかった。だが、そんなことを口にすれば香りを悲しませてしまう。私はポスターを褒め、正吉の話はしないことにした。

「これからもいっぱい絵を描いてね。お母さん、もっと香りの絵が見たい」

「本当?ありがとう。絵を描いたら、まず1番にお母さんに見せるね」

嬉しそうに笑う香りを見て、つい私まで顔が緩む。1人ではあったが、彼女の絵を見に来てよかった。そんなことを思っていた時、思わず固まる。

「お母さん、どうしたの?」

異変に気づいた香りが首をかしげた。

「ううん、なんでもないわ」

そう呟いても、周囲が気になって仕方がない。実は先ほど、正吉らしき人物が私の視界に飛び込んできたのだ。見覚えのあるスーツ姿で、歩き方が彼に似ていた。しかし、目を凝らして見合わせても、正吉はいない。

「お母さん、何か探してるよね?もしかして知ってる人でもいたの?」

私の挙動がおかしいからか、香りが困惑する。迷ったものの、確信があったため、私は正吉を見たと伝えた。

「え?お父さんが?ありえないよ。あの人は来ないって言ってたじゃん」

「そうだけど、あのスーツはお父さんが長年着てるものなの。スカートもそっくりだったし」

「お母さんの見間違いだったんじゃない?それよりもっと絵を見ようよ」

「そうね」

見間違えるはずがないが見つからないのだから、これ以上探しても無駄だ。私は気持ちを切り替え、香りと一緒に美術館内を巡った。それでも、頭の中では正吉のことばかり考えてしまう。彼はもしかしたら隠れて来ていたのではないか。私たちと一緒に来れない理由があるのかもしれない。ならば、なぜ行けないと嘘をついたのか。正吉の考えていることが分からず、私は悶々としていた。

ただ、それからも彼は事情があって私たちに冷たい態度を取っているのではないかと思うことが多々あったのだ。

ある日、家事を一通り終えた私はリビングで1人読書していた。しかし、気づかぬうちに眠ってしまった。疲れが溜まっていたのかもしれない。そんなことを思いながら目を覚ますと、なぜか私の肩にブランケットがかけられていた。

「あれ?これは誰が?」

周囲には誰もおらず、香りも寝室で眠っている時間帯。私は不思議に思い、翌朝香りに尋ねた。

「昨日の夜、リビングに来た?」

「いや、昨日は起きてないけど」

「そう。私の方にブランケットをかけてくれたのかと」

彼女は昨夜、自室のベッドに入った後、1度も起きていないらしい。そうなると、かけてくれたのは正吉だろうか。

「お父さんが、眠ってる私を見てかけてくれたのかもねえ」

「あの人がそんなことするかな?」

香りが訝しげな顔をした。彼女の気持ちも分かる。普段の正吉を見ていれば、彼が私に優しくするとは思えないのだろう。しかし、香りでないのなら、あとは正吉しかいない。そう思ったものの、彼も自分ではないと答えた。

「俺はリビングに行ってない。どうせ自分でかけたんだろう」

「いや、読書中はブランケットなんて使ってなかったし、てっきり2人のどちらかがかけてくれたのだとばかり」

「勘違いじゃないか。俺はそんなことしてない」

正吉は不愛想に否定する。香りが嘘をつく理由がないため、私は彼がかけてくれたのだと思うことにした。

そんな風に、私は時折正吉の優しさを感じていた。毎日作っている弁当を必ず食べきるところも、彼なりの愛情だろう。感想はないが、綺麗に食べきった弁当箱を見ると心が温かくなった。

そして月日は流れ、香りが高校2年生になったある日。彼女は地元の大学を志望していると打ち明けてくれた。

「就職も考えたけど、やっぱり進学したい。この大学ならきっと私の実力でも受かると思うの。どうかな?」

「香りが決めたのなら反対しないけど、美大はいいの?」

香りは中学・高校共に美術部に入り、毎日絵を描いていた。そのため、私は彼女が美大を目指すと思っていたのだ。

「本当は絵を描きたいんじゃない?いいの。美大に行っても絵が描ける仕事につけるか分からないし。私じゃ美大に入る力はないと思うから」

困ったように言う香り。彼女は美大を諦め、絵を描くのもやめると告げた。勉強に専念するつもりらしい。

だが、正吉は香りの考えに反対する。

「お前は都会で進学しろ。高校卒業後は家を出ていけ。地元の大学なんてだめだ」

彼は地元での進学が気に食わないのだそう。高校卒業したら1人暮らしするよう香りに告げた。

「どうせ家から通えば、家事をやってもらえると思ったんだろ。そんなのは許さないからな」

「違う。私は地元に残りたいだけ。家事は今でも手伝ってるわよ。あんたは家にいないから知らないだけじゃない」

「反論するな。とにかく地元の大学だけはだめだ。絶対にこの町から出ていけ」

2人は一向に譲らず、数日間顔を合わせるたびに口論していた。私は香りの味方をしたかった。しかし、彼女が本心から地元の大学に来たがっているとは思えない。かつて香りの自室の机に美大のパンフレットが広げられているのを見たことがあるのだ。彼女の気持ちが定かでない以上、地元での進学を応援できない自分がいる。

「香り、あなたは本当に美大を諦めるの?都会に出れば、以前志望していた美大に行けるんじゃないかしら」

私の問いかけに、香りは言葉をつまらせた。やはり美大への未練がまだあるのだろう。理由は不明だが、正吉はそんな香りの気持ちに気づいていたのではないか。

すると後日、家に私しかいないタイミングで彼女が話しかけてきた。

「お母さん、私本当は美大に行きたいけど、あんな奴の元にお母さんを1人残すなんて嫌」

あんな奴とは正吉のことだ。香りが家を出たら、私は彼と2人きりになる。彼女は正吉から私を守るために地元に残ると決めたそうだ。

「私がいなくなったら、あいつはお母さんに一層強く当たる可能性がある。そんなの耐えられない。お母さんが苦しむくらいなら、ここにいる」

「香り。そんな風に思ってくれてたのね。ありがとう。でも、私のせいで香りが夢を諦めるなんて嫌。香りには自分のやりたいことをやってほしい。香りの夢を応援したい。私は1人でも平気だ」

そう何度も説得した結果、最終的に香りは都会の美大への進学を決めた。合格発表の日、涙を流して喜んだ彼女。

「お母さん、背中を押してくれてありがとう。これからも実家には顔を出すからね。私が絶対にお母さんを守るから」

「ありがとうね」

香りの優しさは嬉しいものの、彼女がそこまで正吉を敵視していたなんて。誤解を与えたのは彼の行動が原因だが、私が2人の気まずさを解消すべきだったと後悔した。

「私の家族はお母さんだけ。あんたのことは父親だと思ってないから」

「何とでも言え。お前みたいな生意気な娘は、娘でも何でもない」

結局、喧嘩別れのような形で家を出ていった香り。それでも、正吉は彼女の学費を全額支払った。私としては2人の口論を知っているからこそ、愚図愚図こぼすかと思っていた。だが、意外と素直に支払った。

「学費、ちゃんと出してくれるのね」

「あとで学費を出してくれなかったと文句を言って、金を請求されたら面倒だからな」

私と目も合わさず、淡々と告げる。冷たい態度を取られても、離婚しなかったのは彼がどうしても悪い人に思えなかったからだ。だが、内心不安はあった。今、正吉は仕事で日中家にいない。しかし、いつかは彼も退職して常に顔を合わせることとなる。その時になっても正吉は不愛想なままなのだろうか。もしくは、平日も家を開け、私を避けるかもしれない。

香りが成長する中、そして彼女が実家を出ていってからも、定期的に自宅にやってきていた弘雪。当たり前の日常になっていたため、訪ねることもなかったが、2人は未だに行き先を伝えず出かける。弘雪と共に正吉が外出すると、私は1人家に残される。その度に、ふとこのままの生活を続けてもいいのかと心配になった。

正吉との関係に一層悩み始めたのは、私が60歳になった頃。当時、両親が相次いで亡くなったのだが、正吉は葬儀への参列を拒んだ。

「私の夫だし、父は正吉の会社の社長でしょ。どうして葬儀に出ないの?」

「予定があるから無理だ」

「何の予定よ?家族の葬儀より優先することなんてある?お母さんだけでなく、お父さんの葬儀にも出ないとか」

来るよう頼んでも、正吉は考えを変えない。結局、彼は母の葬儀に続いて、父の葬儀も欠席した。

「あれ?正さんはなんでいないの?」

戸惑う弘雪に事情を伝えた途端、彼はため息をつく。

「母さんの葬儀の時も思ったけど、正さんは相当姉貴が嫌いなんだね。娘の夫が欠席なんて、普通ありえないだろ」

「私が嫌いというか、何か事情があって」

「絶対に姉貴のせいだって。父さんもかわいそうだよ。信頼してた社員が葬儀に参列してくれないとか、全く」

散々嫌みを言った後、彼は弔問として挨拶するべく、他の参列客の元へと向かった。

「おじさんもむかつくけど、何より葬儀に来なかったあの人に腹が立つ。お母さんが色々言われるってこと、分かってないのかな?」

香りが私に耳打ちして愚痴をこぼす。葬儀前、彼女も私と一緒になって正吉に参列するよう求めたが、結局彼の考えは変わらなかった。それ故の苛立ちも分かる。

弘雪の言う通り、私は正吉に嫌われているのだろうか。理由があって冷たいふりをしていると思っていたのは、私の勘違いなのかもしれない。正吉を信じたくて一緒にいたが、このままでいいのかと頭を抱えた。

その後、定年を迎えて退職した正吉。彼は仕事をやめても日中は家を開け、今までと変わりない生活をしていた。時折、弘雪と会ってどこかに出かけているらしい。私は関係を修復することを諦め、ただ家事だけをこなす日々を送っていた。

それでも離婚に踏み切れないまま月日は流れ、私が70歳を過ぎたある日、突然彼から別居したいと告げられる。

「早急に新居を探して家を出ていけ。この家には俺が住み続ける」

「本気なの?そんな急に言われても、私だって心の準備が」

「金なら出す。生活費も必要なくなるまで毎月振り込む。家が決まったら、すぐにでも引っ越し手配するから報告してくれ」

「待って。なぜ私の意見を聞いてくれないのよ?」

正吉は一方的に話を進め、こちらの考えには耳を貸さない。私が素直に別居に応じるとでも思っているのだろうか。

「そんな大事な話、勝手に決めないで。せめて2人で話し合って考えたいのだけれど」

「お前がどう思っていようが、俺が別居すると決めた。その考えは変わらない。話し合ったって時間の無駄だ」

そう言って、彼は前を向く。別居するということは、彼は私との離婚を考えているのかもしれない。私に対して何か不満があるなら、言葉にしてほしい。このまま別居なんて嫌よ。

「私は別居するべきだと思うけど」

「香りまで何を言って?」

大事な話があるとのことで、今回正吉は香りを呼んでいた。彼女は別居に賛成して、この家から出るよう私に促す。

「部屋探しなら私も手伝うし、生活費も少しなら援助できる。お母さんはもっと早くこの人から離れるべきだったんだよ」

「香り、ありがとう。その気持ちは嬉しいけど」

「娘が力になると言ってるなら、大丈夫だろう。とにかく早く荷物をまとめて出ていってくれ」

正吉の気持ちが変わることはないらしい。冷ややかな視線を浴びせられ、結局別居を受け入れることにした。納得はいかないが、彼にとって私はもう不要な存在なのだろう。

その後、香りの力を借りて、私はとあるアパートに引っ越した。今は年金と正吉からの送金、そして香りからの仕送りで生活している。久しぶりの1人暮らしで慣れないこともあるが、特段問題はない。

香りは時折、私を心配してか様子を見に来てくれている。

「あの人はお母さんに家事をさせるために離婚しなかったのよ。私のことだって愛してない。むしろ離れられてよかったんじゃない?」

「そうなのかしらね」

「これを機に離婚した方がいいと思う。今、旦那とも話してるけど、最終的にはお母さんと同居しようと考えてるから」

「だめよ。私と同居したら、旦那さんが気を使うわ」

彼女は今43歳。30歳の頃に結婚して、今では小学生の息子が1人いる。香りの気持ちは嬉しいが、子供もいる彼女に頼るわけにはいかない。何より、仕送りをしてもらっていることすら申し訳ない思いがある。

「私なら1人でやっていけるから、気にしないで。香りは私のことよりも、息子や旦那さんを大事にしなさい」

「だけど、私にとってお母さんも大切な家族なの。お母さんは私のことをあの人から守ってくれた。その恩を返したい」

「ありがとう。でも、恩返しなら十分果たしてくれてるわ。私は香りが元気に過ごしてるだけで嬉しいの」

それに…。今思い返してみても、40年もの間、正吉は冷たかった。私は香りに無関心で、些細なことでも目を釣り上げて怒った。口数も少なく、夫婦らしい生活を送った記憶はほとんどない。それでも、彼が本当はいい人なのではないかと思う自分がいる。別居を切り出したのにも何か理由があるのではないか。正吉を信じたい。だけど、その選択すら間違いなのかしら。彼との生活を振り返るたび、私は胸が締めつけられた。

そんなある日、突然病院から電話がかかってくる。

「え?主人が…」

なんと正吉が街中で倒れ、救急搬送されたのだという。私はすぐさま病院へと向かった。念のため、香りにも連絡を入れる。

「お父さんが倒れたらしくて」

「正直、顔も見たくないけど、お母さんが行くなら私も行くよ」

彼女はあくまでも私のことが心配なのだろう。悩みながらも駆けつけてくれた。そして、2人揃ったタイミングで医師から正吉の病状を聞いた。

「脳腫瘍ですか?」

彼は脳に腫瘍があり、それが神経を圧迫しているという。腫瘍を取り除く手術を行うため、正吉は入院することとなった。ひとまず助かると聞いて安堵するが、それでも不安は尽きない。すると、私の表情が暗かったのだろう。

「お母さん、大丈夫?」

香りがそっと私の背中をさすった。

「香りが来てくれてよかったわ。今から入院に必要なもの、取りに行かないと」

正吉の病気にショックを受けたものの、落ち込んでいる暇はない。別居中とはいえ、正吉の家族は私たちだけだ。義両親はすでに亡くなっており、彼には兄弟もいない。私は荷物を取りに、久しぶりに自宅に帰ることにした。

「お母さん、私も一緒に行くよ」

香りは複雑な表情を浮かべながらも同行してくれた。本当は正吉と関わりたくないのだろう。彼女に罪悪感を抱いたが、正直言うと1人だと心細い。だからこそ、香りの存在に救われた。

そして、彼女の車で自宅へと向かった私たち。家の中は別居前とほとんど変わっていなかった。

「意外と綺麗だね。お母さんが出ていって半年くらい経つでしょ。もっと荒れてると思ってた」

香りが驚いて目を丸くする。正吉は昔から几帳面だ。1人になってからも、掃除や洗濯はこまめにやっていたのだろう。幸い、衣類やタオルの置き場所は変わっておらず、すぐに荷物をまとめることができた。

そんな中、急に香りに声をかけられる。

「お母さん、これってあの人の…」

彼女が指を指していたのは、正吉の書斎にある机。その上には古びた手帳が1冊置いてあった。茶色の革表紙に見覚えがある。確か彼が結婚前から愛用していたものだ。中身の手帳はおそらく1年ごとに変えているはず。

「それ、お父さんがずっと使ってたものよ。多分、この棚にあるのが今まで使ってた歴代の手帳かしらね」

机の近くにある本棚の隅に、何十冊もの手帳が並んでいる。正吉は几帳面な人なので、1つ1つに何年か記していた。その1つを手に取ろうとする香り。

「ちょっと、いくらなんでも勝手に見るのはやめましょうよ」

「少しくらいいいでしょ。お母さん、いつも見たことないの?」

「昔、手帳を書いてる時に声をかけたら怒られたことがあって」

かつて正吉から、書斎に入る際は必ずノックをするよう言われていた。私は一度それを忘れて入室してしまったことがあるのだ。

「急に入ってくるな」

ドアが開いた瞬間、振り向いて怒声を上げた正吉。

「ごめんなさい。夕食ができたから呼びに来ただけで」

「ノックしろと言ってるだろう」

その日以来、ノックだけは絶対にするよう気をつけてきた。ただ、私も手帳の中身は正直気になる。彼は共に暮らしている間、一度も中身を見せたがらなかった。この理由が読めば分かるはずだ。

「少しくらい見たってばれないわよ。何より、私たちは今あの人のために荷物を取りに来たんだし。入院中、この手帳が必要かもしれないでしょ」

「それはそうだけど…」

別居以前、正吉は毎日手帳をつけていた。常に鞄に入れていた記憶があるので、病院にも持っていった方がいいかもしれない。私はふと机の上にあった1番最新の手帳を開いた。その瞬間、思わず息を飲む。

「え?どうしたの?手帳に何かおかしなことでも書いてあった?」

香りが不思議そうに首をかしげる。彼女は私が読んでいるページに目をやった。すると、香りまで息を呑む。

「これが別居の理由…」

私はひたすらページをめくり、その後過去の手帳も確認していった。そのどれもが正吉の日記で、彼の当時の気持ちが鮮明に記されている。私は読むうちに全てを理解し、そして涙が溢れた。

「正吉、ごめんなさい。あなたはずっと苦しんでいたのね」

正吉はどんな思いでこの手帳を保管していたのか。いつか私たちに見せられたらと願っていたのかもしれない。香りもただ静かに手帳を読み続ける。

「私がバカだったんだ。お父さんの気持ち、何も分かってなかった」

ぽつりと呟いた瞬間、彼女の目からも涙がこぼれた。遅いことは分かっているけれど、私たちはようやく事実を知ったのだ。

半年前、突然私に別居を提案した正吉。彼は自分が病気だと気づき、離れることを選んでいたようだ。

「最近、物忘れがひどい。記憶力が低下してる。もしかしたら認知症かもしれない。このままだと必ずじこに迷惑をかける」

別居を提案する1週間ほど前、正吉は手帳にそう記していた。確かに当時、彼はよく物を探していた気がする。

「ここに置いてたペン、知らないか?」

些細なことだったので、私は深くは考えなかった。だが、正吉は悩んでいたようだ。彼は迷惑をかけるわけにはいかないと、別居することにしたらしい。

「じこにはいきなりのことで驚かせてしまったと思う。しかし、理由を話せば彼女はこの家に残るはずだ。こんなにも突き放しているのに、なぜ彼女は優しいのか。どうすれば俺を嫌いになるのだろう」

別居を切り出した日、正吉は弱々しい字でそう書いていた。彼はどういうわけか、私に嫌われたがっているようだ。急に冷たくなったのも、私を突き放すためだったのだろう。その理由は最新の手帳をめくっても見当たらなかった。

私は事実を知るべく、2人が出会った頃の手帳から順に読んでいくことにした。

「社長から持ちかけられて断れず、見合いに行ってきた。まさか社長令嬢があんなに綺麗な人だなんて。住む世界が違うかもしれないが、是非仲良くなりたい」

見合いの日、素直な思いを記していた正吉。彼は社長の娘だからではなく、私自身の内面を見てくれていた。

「社長や弘雪のような人間なら、交際は考えられなかったはず。じこさんが優しい人でよかった」

どうも正吉は父や弘雪にあまりいい印象がないらしい。彼は結婚後、初めてうちの実家に挨拶に行った日のことも記していた。

「社長夫妻は弘雪のことばかり可愛がってる。自分の娘を侮辱するなんて最低だ。お見合いも彼女を家から追い出すためだったなんて」

正吉の手帳を見るまで知らなかったが、父は私が邪魔だったから結婚させたかったそうだ。弘雪を可愛がっている両親なら、考えかねないだろう。少しは予想していたため、あまりショックは感じなかった。ただ、父の策略に正吉を巻き込んでしまったことが申し訳ない。

日記を読むに、正吉は同僚からも信頼されている優秀な社員だった。そんな彼が会社を去ることがないよう、父は私を紹介したらしい。正吉が断った場合、きっと別の社員とお見合いさせられていたのだろう。今更責める気はないが、父は私のことなどどうでもよかったようだ。

しかし、この事実がかすむほど衝撃的な内容が手帳には記されていた。それは香りが3歳を迎えた頃、正吉が態度を変えた時期だった。

「弘雪が交通事故を起こした。相手には後遺症が残るらしい。仕事もしばらく休業するそうだ。かなりのお怪我だろう」

そんな事実、私は初めて知った。両親や弘雪からは聞かされていなかったのだ。なぜ正吉は知っていたのか。ページをめくると、彼は事故後、両親に呼び出されていた。

「弘雪の事故を社長らは隠蔽しようとしてる。示談金を多めに支払い、被害者を黙らせたがってる。社長の失態となれば、会社の信用問題に関わるからだろう。だからって、なぜ俺に金を要求するのか?」

なんと両親は示談金を支払うため、正吉に金を出せと迫っていたそうだ。彼を頼ったことも不思議だし、何より父は経営者。一般的なサラリーマンより収入は多いはず。そもそも正吉に頼むのではなく、弘雪に出すべきだ。

私がこの事実を知らなかったのは、正吉の計らいだったらしい。

「俺が先に声をかけておいてよかった。きっと彼らはじこに金を出させようとしたはず。彼女を巻き込みたくない。家族にずっと苦しめられてきたのだから」

彼は両親から私を守ってくれていた。

「会社の経営が悪く、お金に余裕がないのは分かる。だが、じこに頼むのは違うだろう。弘雪はどうして自宅まで来るのか。彼女をもう苦しめないでくれ」

この日の日記は筆圧が強い。正吉の怒りがひしひしと伝わってきた。彼は弘雪が自宅に来た際、私を巻き込むなと直接伝えたようだ。そこまでして守ってくれていたなんて。

そして後日、正吉は1人で私の実家を訪れていた。

「彼らは俺が金を出せば、じこを巻き込まないと約束してくれた。借金と称して金をたかりに押しかけられるのは困る。それなら支払った方がいいだろう。香りの学費にと貯めていたお金なのに」

彼は最終的に示談金を肩代わりしたらしい。けれど、正吉はお金を渡す条件として、弘雪に事故を公表するよう求めていた。

「今回の事故は被害者には何の落ち度もない。弘雪を野放しにすると、彼はまた事故を起こす可能性がある。示談金を支払うとしても、責任は取るべきだ」

正吉なりに信念を持って意見したのだろう。だが、両親はそれを拒んだ。彼らは次期社長である弘雪を守りたかったに違いない。

「お金だけで済ませるなんて誠意がない。なぜそうまでして弘雪を守るのだろう。彼らは本当に会社のことを考えてるのか?」

正吉は激怒し、せめて被害者に心から謝罪するよう求めた。その考えに猛反対した弘雪。彼は示談金を支払えば、事故の責任など取らなくていいと思っていた。両親もそんな弘雪に同意したそうだ。

「俺は会社を潰したいわけじゃない。どちらが間違ったことを言ってるか、少し考えたら分かるはずだ。被害者がどんな思いをしてるか、もっと想像するべきだろう」

正吉は曲がったことが嫌いだからこそ、両親らの考えが理解できなかった。それでも、結果として弘雪に罪を償わせることを諦めた理由は、またもや私だった。

「じこが犯罪者の兄になるのは避けたい。香りだって犯罪者の娘になる。社長らの言う通り、家族を守るなら仕方ないのかもしれない」

両親は弘雪を守るため、私と香りのことを口にしたらしい。正吉はしぶしぶ引き下がったそうだ。正義感の強い彼からすれば、許しがたかっただろう。私のせいで苦しませてしまったことが申し訳なかった。

その後、私たちの名前を出せば正吉が素直に言うことを聞くと考えた弘雪。正吉から金をたかるために、度々うちに来ていたらしい。

「何度も来られて困るが、絶対にじこには知られたくない。彼女は事実を知ったら、きっと自分を責める。でも、じこは何も悪くない。だからこそ、事故のことは隠し通して見せる」

日記には彼の決意が込められていた。

「下手なことをやれば事実がバレる。だから、どうしても冷たい態度を取ってしまう。じこ、ごめんな。俺のことにもう興味を持たないでくれ」

弘雪と2人で何を話してるのかと問われるたび、正吉は悩んでいたようだ。だから、余計な質問を避けるべく、私たちと距離を置いた。事故のことだけは何としてでも言いたくなかったらしい。

正吉が香りに冷たくなったのも、弘雪のせいだった。

「弘雪は最近、俺が金を出しぶるようになったからか、香りに狙いを定めてる。彼女を人質に取れば、俺から金を奪えると思ってるに違いない。香りを可愛がってるそぶりを見せなければ、回避できるだろうか」

香りを守るため、苦肉の策で彼女を遠ざけた正吉。彼は私たちを大切に思っていたからこそ、冷たい態度を取っていた。

「俺がじこを無視すると、弘雪は嬉しそうに笑う。彼は俺たち2人が不幸になれば喜ぶ。これじゃ弘雪の思う壺だ。でも、じこと香りに危害を加えないなら、それでいい」

どうして正吉はここまで苦しみながらも、私たちを守ったのか。彼を解放するために、離婚するべきだった。手帳を読み進めるたび、自分の選択を後悔する。

両親がかつて離婚に反対したことも、正吉を縛りつけるためだった。

「会社の経営がやはりうまくいってないらしい。会社のためにと、社長から金の無心を頼まれた。弘雪は無能だ。あいつを実家から追い出せば、さほど困らないだろうに」

父はどうやら私の知らぬ間に、正吉から金を受け取っていたらしい。母は専業主婦で、弘雪は昔から金遣いが荒い。会社の経営が悪化する中、父の収入だけでは生活が厳しくなっていったのだろう。父は正吉なら金を出してくれると思っていたようだ。どうせ彼も私と香りの名前を口にしたに違いない。

「こんな会社に未来はない。退職も考えてる。だが、会社をやめても状況は変わらないだろう。辞めれば、社長や弘雪がじこに付きまとうかもしれない。それだけはだめだ」

正吉は仕事を続け、私の身代わりとなり、父や弘雪からの金の無心に答えていた。

「俺が夫でい続ければ、彼らはじこに頼らない。彼女が離婚を考えてることは分かってる。俺みたいな夫だよな。でも、ごめん。もう少しだけ一緒にいてくれ」

彼はずっとこんな気持ちで、私と香りと一緒にいたのだろう。本当はもっと家族3人で過ごしたかったはずだ。弘雪の邪魔が入らなければ、正吉が態度を変えなくても済んだのに。何より、正吉の異変に一切気づかなかった自分に腹が立つ。

すると、手帳を読む中でふと香りが声をあげた。

「お母さん、ここ見て」

それは彼女が小学6年生の頃に書かれていた手帳だった。

「やっぱり正吉も来てたのね」

食い入るように日記を読む。なんと正吉はかつて香りが賞を取った絵を見に、美術館に来ていたようだ。

「仕事中抜け出して、香りの絵を見に行った。とても綺麗だったよ。俺の娘にあんな才能があるなんて。じこも香りと来てた。もしかしたらじこには気づかれたかもしれない。彼女はすごいな」

彼女の絵についても長文で感想を綴っていた。それだけ正吉は香りの絵に感動したらしい。

私に以前ブランケットをかけたのも、やはり彼だったようだ。

「じこが本を読みながら居眠りしてた。あれじゃあ風邪を引く。本当は起こして寝室に連れて行きたかった」

文字から正吉の優しさが伝わってくる。彼はいつだって私たち家族をそっと見守っていた。それでも、本当の気持ちをさらけ出すことはなかった。

「変に優しさを見せたら、じこは俺を探るだろう。彼女のことだから、俺に何か事情があると思うはずだ。だから、中途半端な優しさだけは絶対に出さないと決めた」

正吉の意思の硬さに驚かされる。彼はどうしてここまで自分を犠牲にして、家族を大切にするのか。私は香りと顔を見合わせた。

「正吉はずっと自分より私たちを優先してたのね」

「私、お父さんのこと何も分かってなかった。どうしよう。上だけ見て、ひどいこともたくさん言ってしまった」

「私もよ。正吉のためにできることがたくさんあったのに」

すると、香りはとあるページを見て、潤んだ目を細めた。それは彼女が高校3年生の時の手帳だ。

「お父さん、私が美大に行きたいこと、気づいてたんだ」

正吉は香りの夢を密かに応援していたらしい。

「香りが地元の大学に行かなくてよかった。彼女には絵の道に進んでほしい。あんなに楽しそうに絵を描くのだから」

だが、彼が地元の大学への進学に反対したのには、他にも理由があったようだ。

「香りだけでも実家を出て、この町から離れてほしい。都会に出れば、弘雪から嫌がらせを受けずに済む。そのためにお金を貯めてきたんだ。いつかじこも家族から引き離して見せる」

正吉は弘雪や両親から逃すために、香りに都会への進学を促していた。そのため、彼らに嫌がられながらも、必死に貯金していたようだ。

「香りにもじこにも辛い思いをさせて申し訳ない。でも、もう少しだけ辛抱してくれ。いつか俺がお前たちを自由にするから」

これまで何度も弘雪は正吉に会いに来ていた。正吉はきっと会いたくなかったのだろう。遊びに来ていたわけではなく、お金目的だったのだから。手帳の中で何度も謝罪の言葉を綴っていた正吉。辛い思いをしていたのは、むしろ彼だ。

「正吉、私があなたを自由にしてみせる」

私は手帳を手に、香りと共に病院へと向かうことにした。次は私が正吉を守る番だ。

ただ、病院に戻った途端、見覚えのある人物が目の前に現れる。

「どうして弘雪がここに?」

なぜか弘雪が正吉の入院している病院にやってきたのだ。私たちはもちろん連絡していない。彼はニヤニヤと笑いながら歩み寄ってきた。

「社員から噂で聞いたんだよ。正さんが近所で倒れたらしいって。会社近くだから、目撃した社員もいたようだ」

「それでわざわざ来たの。まだ正吉は目を覚ましてない。帰ってちょうだい」

「やけに冷たいな。久しぶりに会えたんだし、色々と話したいことがあるだろ。もしかして正さんから何か聞いたのか?」

隠蔽されていることに気がついたのだろう。弘雪は鋭い表情でこちらを見る。

「何かって、一体どのことかしら?心当たりでもあるの?」

「やっぱり知ったんだな。正さん、自分の死期を悟って打ち明けたか。あいつ、もうすぐ死ぬんだろ」

「縁起でもないことを言うのはやめて」

「お父さんは死なないわ」

今にも泣きそうな顔で香りが彼を睨みつけた。私も弘雪の発言が許せない。正吉は今、生きるために手術を受けている途中だ。たとえ家族である彼でも、なぜそのようなことが言えるのか。

「正吉の手術は成功する。彼が死ぬことはないわ。用がないなら帰ってちょうだい」

「正さんに散々冷たい態度を取られたこと、忘れたのか?あいつから何を聞かされたか知らないが、どうして今更優しくするんだよ」

「正吉はずっと弘雪から私たちを守ってた。あんたのせいで彼は苦しんでたの。むしろよく顔出したわね。全部知ってるんだから」

香りが低い声で言った途端、弘雪が鼻で笑った。

「父親と喧嘩して実家に寄りつかなくなった親不孝な娘が、何を言ってるんだ?もしかして遺産のつもり?」

「うるさい。どうしてお父さんをおじいちゃんたちの葬儀に参列させなかったの?おじさんが葬儀に来るなって言ったのよね。それなのに、お父さんを責めるなんてありえない」

「そんなことまで聞いたのか」

彼は面倒そうに頭をかく。私の両親の葬儀に参列しなかった正吉。実は彼は弘雪から欠席しろと命じられていた。手帳にそう書かれていたのだ。

「弘雪はじこが手にする遺産を狙ってる。両親の残したお金を全部自分のものにしたいのだろう。彼女をどこまで苦しめたら気が済むのか」

どうやら弘雪は正吉が葬儀に参列するなら、私に金をたかりに行くつもりだったらしい。正吉の印象を悪くするのが狙いなのだろう。父の葬儀となると、会社の社員も多く参列する。そんな中、正吉が来ないと知ったら、みんな不審に思うだろう。彼が周囲からの信頼を失うと思い、参列を拒んだようだ。

正吉は弘雪が私に近づくのを恐れ、葬儀を欠席したらしい。

「おじさんが脅したりしなければ、お父さんは葬儀に来てた。よくあの時、お父さんに嫌みを言えたよね。あんたのせいで参列しなかっただけなのに」

「どんな理由であれ、参列しなかったのは事実だ。今までお世話になった社長より妻を選ぶなんて、社員としてありえない。だから俺は愚痴を言っただけだよ」

彼は呆れた様子でため息をつく。全てがバレているというのに、悪びれることはなかった。むしろ、今後正吉から金をたかれないことに気づいて焦る。

「正さんの弱みがなくなったってことか。これじゃ、これから姉貴を狙うしかないな」

「何を言ってるの?」

「姉貴は今どこに住んでるんだよ。なんで正さんと別居した?あの人、姉貴の居場所を教えてくれないから、困ってたんだ」

私がいなくなってからも、正吉に付きまとっていたのね。別居後は変わらず正吉の元を訪れて、しつこく私の行方を尋ねていたそうだ。急にいなくなったことを怪しんでいたらしい。

正吉は自分が認知症だという疑いを抱き、その上で弘雪から引き離すために、私を別居させたのだろう。だからこそ、絶対に新居の家を教えなかった。

「急に兄貴と別居したってことは、何か理由があるんだろ。もしかしてどっちか死ぬの?」

「いい加減に」

香りが声を荒らげそうになるが、ここは病院。その事実を思い出し、彼女はとっさに声量を下げた。

「お父さんもお母さんも死なない。おじさんが何を企んでるか知らないけど、思い通りにはならないから」

「それなら別居する必要ないだろう。正さんは俺が余計なことをしないよう、姉貴をそばに置いてたんだし」

「正吉なりに考えて出した答えなのよ。私だって今なら彼の考えが理解できる」

「まあ、理由なんて何でもいいか。こうして兄貴に会えたんだし」

声を上げ、私を見つめる弘雪。彼は両親の遺産半分だけでなく、正吉の遺産まで狙っているようだ。

「正さんが死んだら、結構な額が入ってくるだろ。あの人、節約家だったし。家族なんだから、俺にも分けてくれるよな」

「悪いけど、遺産なんて当分先のことだから。そもそも弘雪に渡す理由がない。むしろ今まで正吉から奪った金、返してほしいくらいよ」

「ひどいな。奪ってなんかない。正さんがよかれと思って渡してくれたんだ」

「渡さないなら、姉貴の家を意地でも探し出して、押しかけてやるから」

私が思っている以上に、弘雪は金の亡者だった。しかし、違和感を覚える。彼は今、父の会社を継ぎ、社長となった。収入なら十分あるはず。私を追い回してまで、金を奪う必要はあるのだろうか。

「どうしてそんなにもお金が必要なの?お父さんたちの遺産だってもらってるのに」

「姉貴には関係ないだろ。金だけ渡せばそれでいい」

「そこまで会社の経営状況が悪いってことよね。横領までしておいて、一体何に使ってるんだか」

私は立ちまち、弘雪が目を丸くする。彼はその事実を私たちが知っているとは考えていなかったようだ。

「冗談はよせ。誰が横領してるって?社長の俺が会社の金に手をつけるわけがないだろう」

慌てて笑みを浮かべるも、額からは汗が流れている。動揺しているのが一目見て分かった。

「悪いけど、証拠はあるの?」

「嘘をつくな。姉貴は俺たちの会社に一切関わってないだろう。証拠なんて集められるはずが」

「私じゃなくて、正吉が集めてたのよ」

実は手帳を読んでいた時、とあるページにいくつかの書類が折りたたまれて挟まっていた。開いてみると、床に落ちた書類を開いた途端、目を疑う。それは帳簿か何かのコピーだった。挟まれていたページを確認すると、正吉が走り書きでメモを残していた。

「不自然な点がある。おそらく経費の不正利用。全て弘雪が関わってる。彼が怪しい」

その後、手帳を読み進めて分かったが、正吉は早くから弘雪の横領を疑っていたようだ。慎重に証拠を集め、告発するつもりだったらしい。しかし、突きつけたところで、弘雪を可愛がっている両親が揉み消す可能性がある。そこで正吉は両親の死後、動き出すと決めた。

「定年期間を終え、退職した。もっと早く告発したかったが、証拠が揃わない。部下のためにも、どうにかして不正を炙り出して見せる」

弘雪は社長という立場を使い、できる限り証拠を消していた。それゆえ、正吉は横領の決定的な証拠を見つけるのに、かなり苦戦したようだ。

「確実な証拠がないまま告発しても無駄だ。下手したら、弘雪が自分の保身のために社員を身代わりにする可能性がある。それだけは避けたい」

会社に残っている部下たちにも協力を得て、結果確実な証拠を手にした正吉。ただ、彼は告発寸前、認知症のような症状が出始める。

「俺が認知症だった場合、妄想だの何だのと言われて、うやむやにされるかもしれない。どうすればいいのか。部下に託すしかないか」

手帳には正吉の葛藤が記されていた。だからこそ、私は家族として自分が告発すると決めた。

「今後、きっと弘雪の罪が暴れるはずよ。私の言葉、伝わったかしら?すでに警察や税務署に相談してる。弘雪には伝えないけど、証拠は問題なく揃ってた。きっと調査してくれるだろう」

「一体どの証拠だ?あいつ、何を調べた?」

心当たりがありすぎるのか、弘雪が慌てふためく。証拠隠滅を図っているようだが、無駄だ。正吉は慎重に動いていたからこそ、弘雪がごまかせないほどの証拠を集めているのだから。

「父さんが生きてれば、どうにかできたのに」

「お父さんはあなたの横領、知ってたの?」

あ、それは都合が悪い質問だったからか、弘雪が途端に口を閉じる。実は正吉は40年前から弘雪を疑っていた。きっかけは父から示談金を出すよう頼まれたこと。

「会社の経営が悪化したのは、弘雪が入社した時から。彼が何か関係してるのではないか。あれだけ息子を可愛がってる社長のことだ。少し多めに見てる可能性はある」

社長である父が弘雪の不正を許しているのではないかと考えたらしい。その予想が当たっていたことが、後の手帳で分かった。

「やはり入社してすぐ、弘雪は会社の金に手をつけてたようだ。確実だとは言えないが、金の流れに不自然なところがある。これはきっと社長も知ってるだろう」

父ならば、確かに弘雪の着服に目をつぶりかねない。自分の息子に必ず後を継がせたいと願っていたのだ。

「情けない。いくら弘雪が可愛いとしても、不正を見逃すなんて。会社の経営が悪化したのは、弘雪の責任ね」

私は思わず頭を抱えた。自分の家族がここまでバカだとは思わなかったのだ。すると、いつも見下している私に呆れられて腹が立ったのだろう。

「どうせ姉貴は社長の座を狙ってるだけだ。不正の証拠があるなんて、どうせ嘘だろ」

周囲も気にせず、弘雪が声を張り上げた。

「俺を落としたくて嘘をついてるんだよな。姉貴も俺のこと、ずっと嫉妬してたんだろ」

「ありえない。お母さん、おじさんのことなんて妬んでないわよ」

「いや、姉貴は絶対に俺が憎いんだよ。両親が可愛がるのは俺だけ。姉貴はいつも冷たくされてたんだ。そりゃ悔しいよな」

彼は子供の頃の話を持ち出し、私を嘲笑う。確かに当時は悔しい思いをした。なぜ私だけ愛されないのかと、押し込んだこともある。でも、私には今、大切な家族がいる。

「両親から愛情注がれなかったけど、正吉や香りは私を大切にしてくれた。2人がいるから、寂しくも何ともないわ。弘雪、私が羨ましいんでしょう」

「うるさい。独身の俺を馬鹿にしてるのか?」

「そうじゃない。お父さんたちが亡くなって、荒れてるって聞いたから。家族がいなくなって、心細いのよね」

弘雪は結婚願望があった。だが、父が見合い話を持ってきてもうまくいかず、今も1人だ。弘雪自身、それがコンプレックスなのだろう。だからこそ、結婚して子供がいる私に時折当たっていた。両親も亡くなり、いよいよ将来が不安なのかもしれない。

「私は正吉に八つ当たりしても、現実は変わらない。だから、もう正吉を苦しめるのはやめて。弘雪のためにも、あなたは私たちに関わらない方がいいわ」

弘雪は悔しいのか、顔を歪めて唇を噛みしめた。

「あと、事故の責任、しっかり取りなさいよ」

「事故?40年前のことか」

彼は首をかしげたが、途端にぷっと吹き出す。

「俺を責めたいんだろうけど、もう遅いんだよ。あれは過去のこと。しかも示談金だって支払ってる。責任は取ったんだ」

得意げに語る弘雪を見て、香りは呆れ果てていた。彼の言う通り、40年前の事故は示談金を支払っている。ただ、私たちが言及しているのはその事故ではない。

「最近、事故起こしたよね」

「は?何のことだ?」

「しらばっくれても無駄よ。正吉が知ってるんだから」

実は弘雪はつい先日、とある交通事故を起こしたようだ。本人はバレていないと思っているようだが、正吉が手帳に記していた。

「この前起きたひき逃げ事件の映像をニュースで見た。あれは弘雪の車ではないのか。彼はなぜ捕まってないんだ。被害者がどんな思いか、もっと伝えるべきだった」

彼がそう書いたのは昨日のこと。1番新しいページで、弘雪の事故について触れていた。正吉が車体を見て気づくということは、警察もすぐ弘雪にたどり着くだろう。

「警察から逃げきれるとでも思ってるの?今すぐ自首した方が身のためじゃないかしら」

「1度事故を起こしたくせに、まだ反省してないんだね。今度こそちゃんと罪を償って」

私の言葉に続き、香りも語気を強める。だが、弘雪は顔をしかめた。

「俺がやったという証拠はない。それに今回だって、金の力で揉み消してやる。示談金を渡せば、向こうも黙るだろ」

彼は前回の事故の経験で味を占めたのだろう。示談金を支払えばそれでいいと考えていた。しかし、今回はそううまくはいかない。

「ひき逃げなんだから、お金で解決できる事故じゃない。そもそも弘雪は今、示談金を払えるような状況なの?」

「それは…」

以前は父と正吉の力を借りて支払うことができた。だが、正吉がもう協力することはないし、父はこの世にいない。社長とはいえ、弘雪は今後横領の罪にも問われることになるのだ。もちろん、収入など当てにできないだろう。

「処分を軽くしたい気持ちは分かる。だけど、貯金があるならまだしも。弘雪は金遣いが荒いから、大したお金は手元にないのよね」

図星だったからか、弘雪が口をつむぐ。香りは私の隣で深くため息をついた。

「前回の経験で何も反省してなかったから、こうなったのよ。お父さんはきっとこれを危惧して、責任を取らせたがったのね」

「あと、前回と今回の事故で大きく違うところがあるの。弘雪はそれに気づいてる?」

私の問いかけに、弘雪が考え込むそぶりを見せる。彼はうんうんと唸っていたが、結局分からなかったようだ。

「違うところなんてない。今回も前と似たような事故だし」

いつしかひき逃げ事件を起こしたことを認めていた弘雪。彼は自分の発言に気づかぬまま話し続ける。

「一体何が違うんだよ」

正吉は弘雪には伝えていなかったようだ。私は手帳で知った事実を弘雪に伝えた。

「40年前、あなたが起こした事故の被害者。彼は正吉の友人だったの」

「あ…」

彼は目を大きく見開き、絶句する。正吉が早くから弘雪の事故を知っていたのは、被害者である友人に話を聞いたからだった。

「あいつが無事でよかったが、事故を起こした弘雪が許せない。態度を見るに反省してないようだ。どれだけあいつが怖い思いをしたか、何も分かってないなんて」

友人が事故にあったと知った際、犯人が弘雪だと告げられた。彼が被害者と親しかったため、40年前の事故は揉めることなく示談に済んだのだ。とはいえ、正吉は事故後も定期的に被害者に会い、怪我の状況を聞いていたらしい。

「後遺症が残ると聞いて不安だったが、以前より腕が動くようになってた。来月から職場に復帰するらしい。どれだけ安心したか。俺のせいじゃないとしても、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」

彼と被害者の友人は今も親しいそうだ。そして、弘雪は事故のことなど忘れ、またもや同じ過ちを犯した。今回は以前よりも罪が重いひき逃げ。しかもお金はないし、被害者と関わりがあるわけでもない。そう簡単に解決できる問題ではないこと、理解している。

事実を知るなり、彼は体を震わせる。ようやく自分が犯した過ちの重さに気づいたようだ。すると、弘雪は目を潤ませ、私にすがりつく。

「姉貴、ちょっと金を貸してくれないか?どうせ正さんの遺産が入るんだし、余裕あるだろ」

彼はまだ正吉が死ぬと思い込んでいるようだ。怒りのあまり、拳に力が入る。

「バカ言わないで。正吉は死なないって、何度も伝えてるでしょ。そもそもお金に余裕があったところで、貸すお金はないから」

「じゃあ、香りでいいから」

「近づかないで。私たちに泣きついてる暇なんてないでしょ。おじさんが今するべきなのは自首すること。被害者のためにも、さっさと警察に行って」

「お前ら、人のこと分かってるのか?俺が逮捕されたら、犯罪者の家族になるんだぞ」

彼は正吉を脅した時と同じ方法で、私たちに詰め寄る。だが、何を言われようが答えは変わらない。むしろ、家族だからこそ罪を償ってほしいと願っている。

「もう弘雪を守る家族はいない。私たちはあんたに、少しでもいいから更生してほしいの。ほら、早く行って」

「おじさん、お父さんに合わせたくない」

香りが私を守るように立ち、弘雪を追い払おうとする。しかし、彼は意地でも病院に座ろうとした。

「正吉が死ぬまでここにいる。お前らが泣くところを見たら、警察に行くよ」

不気味な笑みを浮かべて、近くのソファに腰を下ろす弘雪。しかし、次の瞬間、医師が手術室から出てくる。正吉の手術が成功した。まだ目を覚まさないものの、命に別状はないという。

「よかった…」

「お母さん、良かったね。私たち、お父さんにまた会えるよ。ちゃんと気持ち伝えようね」

互いに抱きしめ、喜びを分かち合う私たち。弘雪は信じられないといった様子で呆然としていた。

「は?あいつ、死ぬわけじゃないのかよ」

「何度も言ったでしょ。お父さんは助かるって」

幸い、正吉の腫瘍は良性だったらしい。弘雪は居心地の悪さを感じたのか、その場を立ち去ろうとする。しかし、次の瞬間、複数人の警察官が彼の元へとやってきた。

「何なんだよ、あんたらは。俺は何もやってない。触るな」

わめいて逃げ出そうとするが、警察官には敵わない。彼は顔を真っ赤にしていた。実は弘雪が病院に来たことに気づいた段階で、香りが警察に通報してくれていたのだ。

「ひき逃げ事件のニュースで見た車に似たものが病院に止まってて」

駐車場には見覚えのある車が止まっていた。私たちはすぐ弘雪のものだと気づいた。彼が病院に来るとは思っていなかったものの、ちょうどいい。そう考え、警察に連絡を入れた。

「自首を促しても動かなかったのだから、警察官を呼ばれても仕方がない」

「あれじゃない。事故なんか知らないって言ってるだろう。話せ」

大声で叫び反抗する弘雪だが、結局彼は連行されていった。

それから4時間後、正吉が目を覚ます。

「正吉、私よ。分かる?お父さん、ずっと誤解しててごめん」

徐々に意識が覚醒していったのか、彼はゆっくりと口を開いた。

「2人とも、来てくれてありがとう」

正吉の声を聞き、私と香りは涙が止まらなかった。彼とまた話せることが、何よりも嬉しい。

その後、徐々に回復していった正吉に、私たちは手帳を見たことを打ち明けた。

「勝手に見てごめんなさい。私、正吉の気持ちに気づけなかった。あなたがどれだけ家族のために辛い思いをしてたか」

「お父さん、私の絵、見に来てくれてたんだね。家を出る時、ひどいことを言ってごめん」

頭を下げる私たちを見て、彼は目を細めた。

「謝る必要はない。俺が2人を騙してきたんだから。守る方法を間違えたのかもしれないな。きっと他にいい案があったはずだ」

「私ね、いい案が浮かんだの。これからまた2人で暮らしましょう。40年の空白を埋められるか分からないけれど、やっぱり正吉と一緒にいたい」

「でも、俺はじこに迷惑をかけるんじゃ」

正吉は今も自分が認知症ではないかと疑っているようだ。そこで、脳腫瘍の症状の1つが認知機能低下だと伝えた。

「正吉は認知症じゃなかったのよ」

「まあ、あなたが認知症でも他の病気であっても、私はあなたのそばにいたい」

「私ももっと実家に帰るから。お父さんと話したいこと、たくさんあるの」

「2人ともありがとう。俺は今、幸せだ」

長らく見ていなかった笑顔に、胸が熱くなる。私たちは改めて家族としてやり直すと決めた。

それから半年後、弘雪は横領とひき逃げの罪で逮捕され、社長も解任となった。現在は正吉も認めていた優秀な社員が会社を引き継いだ。ちなみに弘雪は会社への損害賠償と事故の被害者への示談金を、借金して支払ったらしい。返済のため、最近バイトを始めたそうだ。しかし、父の会社でしか働いたことがないので、うまくいかないとか。

事故の被害者は全治3ヶ月の怪我を負っていたが、無事完治したと聞いた。今後、弘雪が車に乗ることはないだろう。彼は借金返済のため、車と住んでいた実家を手放した。ボロアパートに移り住み、1人寂しい生活を送っているらしい。家族とも縁を切った。弘雪は今後、悲しい老後を送ることになるが、私にはもう関係ない。

一方、正吉は後遺症もなく、今まで通りの生活を送っている。私は別居後に引っ越したアパートを退去し、正吉の住む自宅へと戻った。夫婦2人、新しい生活を始めている。

「1人でいる間、掃除や洗濯はある程度覚えたんだ。だが、自炊はだめだ。やはりじこの作る料理が1番うまい」

正吉は夕食時、照れ臭そうに笑った。彼がこんなにも明るい表情で食事をしているなんて、未だに信じられない。

「何でもリクエストしてちょうだい。私が作れるものなら、なんだっていいわよ」

「じゃあ、弁当に入ってた卵焼きがまた食べたいな」

香りは夫と息子を連れて、定期的に実家に帰省するようになった。長年まともに会話したことがなかった孫との関わり方に苦戦している正吉。優しい彼なら、きっとすぐに孫とも仲良くなるだろう。私は残りの人生で、正吉からもらった愛情を返していくと決めた。

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