同窓会の会場に悲鳴が響き渡った。華やかなホテルの宴会場で、外国人の男性が英語でまくしたて、床に転がった荷物を前に一人の女性が途方に暮れている。誰もが遠巻きに見ているだけで、助けようとする者はいない。
その光景を見た瞬間、俺は迷わず足を踏み出そうとした。だが、それを止めるように腕を掴む男がいた。学生時代から自分が一番という態度を崩さなかった、派手なスーツに身を包んだ昔の同級生だ。
「おい、お前はただの町工場勤務だろ?何をしようったって何の助けにもならねえよ」
見下すような視線を投げかけ、あざけるような口調で言い放つ。そんな言葉を聞き流すまでもない。かつて一度は思いを寄せた彼女が困っているのに、理由がいるはずがなかった。
俺は男の手を振りほどき、短く言い返した。「ま、見てろよ」
笑う男など気にも止めず、俺は外国人の元へ駆け寄る。そして落ち着いた声で語りかけた。「すみません。何かありましたか?」
その瞬間、興奮気味だった外国人の表情から剣が消え、少しずつ状況を飲み込んでいく。言葉の行き違いによるトラブルだったと分かれば、誤解を解いて謝罪するだけ。驚いた顔で息を飲む彼女に向かって、俺はそっと笑って見せた。
周りは「なんであいつが」と息を飲んで見守っていた。そして、この出来事がきっかけに俺の人生は180度変わることになる。
俺の名前は坂口俊介。地元の小さな町工場で働いている。作業服に油汚れがつくのは日常茶飯事で、周囲からは「手が真っ黒だな」とよくからかわれる。だけど、この仕事は嫌いじゃない。黙々と機械を扱っていると、不思議と心が落ち着くからだ。
そんな俺の元に、ある日一通の招待状が届いた。高校卒業10周年記念同窓会実行委員会からのお知らせだ。卒業からもう10年か。作業場の片隅で封筒を開きながら、そうつぶやいて思わず手を止める。
ふと頭に浮かんだのは、学生時代に付き合っていた桜場由香の顔だった。地元で有名な桜工業の社長令嬢で、美人で明るく、いつも教室の中心にいた。あの由香と、卒業してからはお互い一度も連絡を取っていない。それどころか、俺はまともに別れの言葉すら交わしていない。
あれから10年。今更どんな顔をして会えばいいのか、正直気が重い。それでも招待状に書かれた日時に合わせてスケジュールを空けることにした。実を言えば、10年ぶりに顔を合わせたい友人もいないわけじゃない。由香のこともずっと気がかりのままだ。
何より、町工場勤務のままだと思われている自分が、今になって同級生たちとどう接するのか、少しばかり興味がある。昔から地味で工場臭いと思われていた俺が、果たしてみんなの中でどう映るのか。
迎えた同窓会当日。俺はいつもと違ってスーツに袖を通した。安物でどこにでもありそうなものだけれど、普段は作業着ばかりの俺にはこれで十分だろう。会場は地元でそこそこ名の知れたホテル。少し場違いな気もするが、ここで知り込んでいても仕方がない。
ホテルの宴会場に足を踏み入れると、そこには懐かしい顔ぶれがずらりと集まっていた。10年という年月は長いようで短い。みんなそれぞれ少し大人びた雰囲気になっているものの、面影は変わらない者も多い。
「あれ、坂口じゃん。久しぶり」
漢字の同級生が声をかけてくる。続けざまに数人が集まってきて、「今はどこで何してんの」と矢継ぎ早に質問が飛ぶ。
「まあ、地元の町工場に勤めててさ。相変わらず油まみれだよ」
そう答えると、「変わらないな。真面目にコツコツやってそうだ」とみんなは口を揃えて笑う。俺自身はその反応を肯定も否定もせず、ただ曖昧に相槌を打つ。10年前からずっとそう思われているのだから、今更訂正したところで何になるというわけでもない。
そんな中、一人ひときわ目を引く女性が視界に入った。明るい茶色の髪、整った顔立ち、そして周りをパッと華やかにするようなオーラ。桜場由香だ。高校の頃と変わらず、いやそれ以上に美しい。思わず小声で名前を呼んでしまう。彼女もこっちに気づいたようで、目が合うと一瞬びくりと体を強張らせ、ぎこちなく笑った。
「久しぶり。元気にしてた?」
「まあ、それなりに。由香は、桜工業だろう?」
「まあね。でも、やっぱり大変だよ」
その声はどこか疲れが滲んでいる。かつての無邪気さは薄れ、肩肘張っているようにも見えるのは気のせいだろうか。二人の間に少しだけ沈黙が落ちた。何を話したらいいのか、10年のブランクは思っていたよりも大きい。
そんな微妙な空気をさらに重くしたのが、後ろから急に飛んできた嫌味な声だった。
「へえ。坂口か」
その声に反射的に振り返ると、大月弘明が仁王立ちしていた。高校時代から常に派手なものを身につけ、目立ちたがり屋のトップを走っていた男だ。
「大月、久しぶり」
なるべく平静を装いながら声をかけると、大月は相変わらずのニタニタした笑みを浮かべ、鼻で笑って言い返してきた。
「よう、坂口。お前、今何してんだよ。まだ油臭い工場で下働きでもしてんのか」
いきなり確信を突くような言葉に、周囲が少しざわつく。俺が口を開くより先に、大月がさらに続けた。
「まあ、お前んとこは昔から町工場だったからな。大した出世もできなきゃ、毎日汚れ仕事してるのが落ちだろ」
露骨に見下す態度は10年前と何ら変わらない。大月はそれを隠す気すらないらしく、腕につけた派手な時計をやたらアピールするように腕を組んだ。
「で、俺はと言うと、親父の会社を継いだんだわ。今じゃグループ全体を仕切る立場でさ。オフィスビルも次々に買収して事業拡大中ってわけ。実質社長と同じようなもんだよ」
大月が継いだのは、地元でもそれなりに名の知れた企業グループだ。建設、不動産、小売りに至るまで手広く手がけており、ここ数年で急速に売上を伸ばしていると聞く。最近は収益の柱を拡大路線に振り切り、参加に進行企業を取り込んでは代々的に宣伝するやり方で存在感を増している。だが、その裏側では強引な買収や圧力をかけた取引など、あまり良くない噂も耳にすることがある。
高校時代から大月のやり方を見ていれば想像はつくが、目立つ数字の裏にはそれ相応の強引な手段があるはずだ。
「そうか。随分と景気がいいみたいだな」
短く返事をすると、大月はさらに鼻を鳴らしてくる。
「よく言われるぜ。『大月さんってやり手ですね』ってな。お前らがちまちま製品作ってる横で、俺たちは何倍何十倍の金を動かしてんだよ。さすがに勝負になんねえだろう」
まるで勝ち誇るように口角を釣り上げて長々と語る大月。俺がどう反応するか見ようとしているのかもしれない。正直腹立たしいが、ここで無粋になるのは得策じゃない。
「そりゃすごいな。俺は地元でぼちぼちやってるだけだ」
肩をすくめて返すと、大月は「だろう」とばかりに薄い笑みを浮かべた。
「ま、せいぜい頑張れよ。前みたいに手が汚れる仕事でも、誰かがやらなきゃ世の中回らねえしな」
昔と変わらない品のない笑い方。高校時代から「自分が一番」という承認欲求に取り憑かれていた男だが、今はそれが企業の看板を背負ってさらに膨れ上がっている。
「由香、お前も大変だったろ。高校の頃はこんな油臭い奴と付き合ってたんだろ」
そう言ってちらりと由香を見る大月の視線は、まるで「今は俺が格上だ」と言いたげだ。昔なら即座に言い返したかもしれない。由香も何かをこらえるように唇を結んでいる。表情が硬いのは気になるが、ここで不機嫌になっても話がややこしくなるだけかもしれない。
俺は拳を握りしめながらも、ごく短く相槌を打つにとどめた。「まあ、過去のことだしな。今はもうお互い関係ないよ」
大月に正面から反論しないでおくのは、今のところ俺自身の意図でもある。どうせ今の大月に言葉は通じない。無駄に目立ってトラブルを大きくするのは得策じゃない。
「ふうん。そうかよ。ま、俺には関係ない話だな」
大月はあくまで「自分以外はどうでもいい」とでも言いたげに肩をそびやかす。その時、由香のスマホが着信音を響かせた。画面を見た瞬間、彼女の目つきが急に変わる。どうやら会社絡みの急な連絡らしい。
「ちょっと会社の方でトラブルみたい。ごめん、すぐ行かなきゃ」
そう言って彼女はバタバタと出口へ向かう。その背中を見送りながら、大月は鼻で笑い、俺を軽く突き飛ばすように通り過ぎた。
「じゃあな、町工場君。くれぐれも俺に迷惑かけるなよ。学生の頃と違って、住む世界が違うんだ。お前が気軽に口聞く相手じゃないってことだからな」
嫌な空気を残しながら遠ざかる大月。その背後には聞こえよがしの高笑いが残る。高校時代から凝り固まっているプライドと、大企業の看板を手にした男の傲りは、10年という月日を経てますます輪をかけているようだ。
それから少しして、俺もそろそろ帰ろうかと思った頃、エントランスの方が何やら騒がしい。見れば、由香が外国人の男性とぶつかってしまい、どうも言葉が通じず揉めているようだ。
「ソリー、ソリー」と彼女は戸惑いながら頭を下げているが、どうやら英語がうまく出てこないらしい。相手の外国人は立ち上がって指を差し、怒りを露わにしている。周囲の同級生たちも遠巻きに見ているが、どう対応していいのか分からないのだろう。
一瞬、俺もどうするべきか迷ったが、気づけば体が勝手に動いていた。
「由香、ちょっと」
そう声をかけて彼女の横に立ち、興奮気味の外国人男性に向かって落ち着いた声で英語を使い始める。
「すみません。彼女はわざとぶつかったわけじゃないんです。お荷物、大丈夫ですか?」
相手は最初こそ怒り心頭だったが、俺が流暢な英語で事情を説明すると、少しずつ落ち着きを取り戻していった。大事な荷物だから困ると言われたものの、実際にはほとんど損傷はないらしい。最後には「気をつけてくれよ」と言い残し、不満な顔をしながらも立ち去っていった。
やり取りを終えて振り返ると、由香は呆然とした表情で固まっている。
「俊介、そんなに英語が話せたの?」
周りの同級生たちも同じように驚いた面持ちでこっちを見ている。昔は「町工場の息子」と呼ばれ、油まみれのイメージしかなかっただろう。俺がいきなり流暢な英語を口にしたことに、みんな信じられないといった様子だ。
「いや、まあ、仕事でちょっとだけ使うからさ」
俺がさらりとそう言うと、周囲の同級生たちは一気にざわめき始める。
「すげえな、坂口。いつから英語喋れるようになったんだよ」
口々に興奮気味な声が上がり、みんな興味津々といった様子でこっちを覗き込んでくる。ふと横を見ると、大月が悔しそうに唇を引き結んでいるのが見えた。大月は高校時代から自分が一番偉いと思い込み、誰かが注目を集めるのを嫌っていた。きっと今この瞬間も「なんで坂口なんかが注目されてるんだ」と面白くないのだろう。
そんな彼の視線を背中に感じつつ、由香の声が再び耳に届く。
「本当にありがとう。あの人、怒ってたからどうなるかと思った。俺、今度ちゃんとお礼させてね」
由香はそう言い残すと、慌ただしく会場を後にしていった。俺はその背中を見つめながら、小さく息を吐く。「俺ね」という言葉が胸の奥で妙に響いた。
数日後、由香から連絡が来たのは夜の遅い時間だった。
「この間は本当にありがとう。お礼もしたいし、久しぶりに二人でゆっくり話したいんだけど、都合どうかな?」
少し緊張しているようにも聞こえたその声に、俺の胸はどこかざわついた。それでも、ここで会わずにいるのはもっと落ち着かない。どうせなら、いっそ会ってしまおうという気持ちもあった。
そうして迎えた週末の午後。俺は地元でも評判の落ち着いたカフェに先に到着し、窓際の席で由香を待っていた。薄いコーヒーの香りが辺りを包み、店内はほどよい静かさだ。木のテーブルを指でなぞりながら、俺は少し緊張したまま何度も時計を確認する。
「ごめん、待った?」
ドアのベルが軽やかに鳴り、聞き慣れた柔らかな声が店内に届く。顔を上げると、スーツ姿ではなくラフなカーディガン姿の由香が微笑んでいた。
「いや、今来たところ」
そんな月並みなやり取りに、二人して思わず笑ってしまう。10年ぶりと言うには不思議な安心感があった。俺たちはカウンターでコーヒーを受け取り、二人並んで奥のテーブルへと向かった。テーブルの上には小さなランプシェードがあって、柔らかな明かりが漂っている。
「あの後、大丈夫だったの?会社の方」
椅子に腰を下ろすと、すぐ俺は気になっていたことを口にした。由香は苦笑しながら、少しだけ肩をすくめる。
「うん。まあね。ゴタゴタは多いけど、一応なんとかなってる。たまに思うんだけど、やっぱり人をまとめるって難しいなって」
「そりゃ大変だろうな。桜工業の社長令嬢ってだけでも、周りからのプレッシャーも相当あるだろう」
「そうなんだよね。高校の頃は『将来は会社継ぐんでしょ』って会う人会う人に言われて。いざ実際に動かす側になると、社長令嬢どころか経営者としての責任も乗っかってくるし」
由香はそう言いながらコーヒーカップを両手で包み込む。湯気が揺れ、香ばしい香りが広がった。何気ない仕草だけど、ふと思った。こうして指先に意識をやるような癖、確かに高校の頃から変わってない。
「なんかお前って、昔からそうやって手を温めるようにするよな。冬場は特に。授業中もしょっちゅうやってたっけ」
俺がそう言うと、由香は驚いた顔で手元に視線を落とす。
「え、そうだったっけ?全然意識してなかった」
そう言って笑う横顔は、どこか昔と同じ面影を残していて、胸の奥がちくりと痛んだ。
思えば高校時代、俺はいつも油まみれの作業着で町工場の下働きをしていて、みんなから「汚い」なんて言われることも少なくなかった。だけど彼女は違った。カフェの薄暗い照明とコーヒーの香りに誘われるように、俺は高校時代のある夕方の光景を思い出す。
あの頃、由香は文字通りクラスの中心だった。社長令嬢という肩書き抜きでも目立ち方がくっきりしていて、スタイルも良く、明るい性格でいつも周りを笑わせていた。休み時間になると自然に人が集まってきて、「由香、ちょっと聞いてよ」とか「今度みんなで遊びに行こうよ」とか、彼女の元には笑い声が絶えない。
だけど一方の俺は、実家の工場を手伝っていたせいでいつも服や手に油汚れがついていて、「なんだかいつも汚れてる奴」って陰口を言われていた。そんな俺と由香には、どこにも接点なんてないと思われていた。実際、普段はクラスの真ん中にいる彼女と、端っこで地味に過ごす俺とじゃ、あまりにも立ち位置が違う。
けれど、あの日たまたま放課後の教室に二人だけ残っていた時、俺たちは初めてお互いの本音を言い合った。夕日が差し込んだ教室は、長い放課後を経て静まり返っていた。教壇から少し離れた席に由香がポツンと座っていたのを見つけた時、俺は一瞬驚いた。こんな時間まで残るなんて珍しいな。そう思いながらも気になって、思わず声をかける。
「まだ帰んねえの?」
すると由香は驚いたようにこちらを向き、気まずそうに笑った。
「ああ、うん。ちょっと考え事してて」
「そっか。あれ、クラスの連中は?」
「みんなバイトや塾があるみたい。私もそろそろ帰るべきなんだけど」
そこまで言ったところで言葉が途切れる。いつもは周囲に人だかりができるくらい人気者なのに、今日は珍しく一人。俺が何となくドアのそばで立ち止まっていると、由香が自分の机の前の空席を軽く叩いた。
「よかったら座ったら?私、あとちょっとで終わるから」
「終わるって、何か用事してるのか?」
「うん。家のことで」
そう言った彼女の瞳は、どこか不安げだった。何気なく見回すと、机の上に学校行事の資料やプリント、さらに家の会社に関する書類らしきものが並んでいる。俺には内容こそ分からなかったが、「桜工業」というロゴが目に入ってしまった。
「桜工業のこと?」
「うん。『はぐんじゃないか』って周りが勝手に思い込んでるし、親もそれを期待してる。だけど私自身は、本当にそれでいいのか分かんなくなってきたんだよね。なのにみんなからは『由香なら大丈夫だよ。さすが社長令嬢』って言われるばかりで、疲れちゃって」
いつも明るい由香がこんな風に弱音を吐くなんて、正直少し驚いた。クラスメートの前では絶対に見せない、肩の力が抜けた姿。彼女もやっぱり一人の人間なんだって、当たり前のことを再確認する。
「まあ、周りは勝手に言うよな。俺もよく『汚い奴』とか『油臭い』とか言われてるけど、正直気分のいいもんじゃない。それでも工場で働くのは嫌いじゃない」と俺は続けた。「昔から町工場の息子だし、油にまみれている方がむしろ落ち着く時もある。周りの評価なんて二の次だ」
由香は俺の言葉に小さく笑う。
「なんかいいな。坂口君は自分の居場所がちゃんとあるんだね。そういうの、ちょっと羨ましいかも」
俺は思わず苦笑いしながら、ポケットに突っ込んでいた手をゆっくりと取り出した。そこにはまだうっすら工場の汚れが残っている。だけどそれを見ても、由香は嫌そうな顔一つしない。むしろ羨ましそうに俺の方を見ていた。
「そっか。でも、別に大したことはないんだよ。俺はただ工場で物いじってるのが好きで、毎日油まみれになってるだけだし。そんなのを居場所って呼んでいいのかどうかも分かんない。でもな、お前だってちゃんとあると思うんだ。ほら、周りは色々うるさいかもしれないけど、桜場は桜場じゃん。社長令嬢だとかそういう肩書きに縛られてるだけで、本当の居場所を見つけてないだけなんじゃないかって、俺は思う」
自分で言いながら少し偉そうに聞こえたかもしれない。けど、目の前で肩を落としている由香を見てると、そんなことはどうでも良くて、素直に本音を伝えたかった。
「それに、もし周りが何か言ったって、結局どうするか決めるのはお前自身だ。桜工業を継ぐかどうかも、お前がやりたいって思えるかどうかが大事なんだろ。少なくとも俺は、無理に背負い込む必要はないと思う。お前が本当に納得できる場所を探していいんじゃねえかな」
言い終えた瞬間、心臓がドクンと鳴る。こんなに真剣に人に言葉を投げかけたのは久しぶりだ。由香は少しだけ目を見開いて、それからふっと笑みを浮かべた。
「ありがとう、俊介君。やっぱり話してよかった。なんだか肩が軽くなった気がする」
その瞬間、これまで大勢のクラスメイトの中で見てきた由香と、今こうして二人きりで話す由香が、まるで別人みたいに重なり合って見えた。人気者と呼ばれる派手な一面とは違う、その彼女。こいつもまた、俺と同じように自分を理解してくれる相手を探していたんだと思うと、なぜか胸が熱くなった。
そしてその日は、そのまま二人でしばらく話し込んだ。俺の工場バイトの愚痴や、彼女の家業に関する不安。それぞれの身の上話を取り留めもなく交わしていたら、いつの間にか外はすっかり暮れていた。
俺たちが自然と付き合い始めたのは、その後だった。周りはこぞって「え、由香とあの油臭い坂口が?」と驚いたり、面白がってからかったりもしたけれど、彼女はいつも笑っていた。そんな思い出が、今まさに目の前でコーヒーをすすっている彼女と重なり合う。少し大人びた表情になっても、ふとした仕草に見せる照れや真っすぐな笑顔は変わらない。俺はその横顔を見ながら、過去の夕暮れの教室の空気をふっと思い出していた。
「俊介、今って誰かと付き合ってるの?」
コーヒーを一口すすった由香が、不意にそんなことを聞いてきた。予想外の質問に、俺は思わず唇を噛み、慌ててカップを置く。
「いや、いないよ。どうしたんだよ、急に」
由香は少しだけ視線を落としたまま、口を結んでいる。どこか探るように瞳を揺らしているのを見て、俺も少し心がざわついた。
「そっか。私が振られたような形になったから、てっきり俊介の方に好きな人ができたのかなって思ってたんだよね」
彼女の言い方に、思わず眉を潜める。
「いや、待て。振ったのは由香だろ。『もう会わない』って。卒業式の少し前に、そう言ったのはお前の方じゃないか」
そこまで言ったところで、ふっと頭の中にあの時の風景が蘇った。教室のカーテンが春風に揺れ、もうすぐ卒業を迎えるという浮ついた空気の中、当時の由香は珍しく沈んだ表情で俺を見つめていた。まだ卒業まで日があるのに、由香は急に俺を呼び出して、ぽつりと切り出してきたんだ。
「ごめん。私たち、ここで終わりにしよう」
当時の由香の言葉は静かで、それでいて有無を言わせない響きがあった。正直、何が起こっているのか分からず、俺はただ呆然とするしかなかった。
「振られたって、俺の認識じゃ。あの時一方的に終わりを切り出したのはお前だったと思うけど」
俺が苦笑混じりに言うと、由香はほんの少し困ったような笑みを浮かべた。
「違うの。私は、私たちの関係、もう俊介は嫌なんだなって思い込んでたんだよ。最後の方、ずっと私を避けてるように感じたから。目を合わせてくれないし、予定を聞いても歯を濁して、会ってくれなかったし。だから、きっと私なんかもういらないんだって。先に口に出さなきゃって。それだけ」
その言葉には、やりきれない後悔の色が滲んでいた。あの時は、自分が捨てられる側だと思っていたんだ。
「そんなわけないだろう。お前を捨てるとか嫌うとか、そんなつもりじゃなかった」
俺は小さく息をついて、肩の力を抜きながら口を開く。
「あの頃、俺なんかじゃお前を守れないって痛感してたんだ。社長令嬢とか、周りからのプレッシャーとか、俺には到底背負いきれないって。でも、お前を思う気持ちは変わらなかったからこそ、このままじゃダメだって悔しくなったんだよ」
由香がじっと目を見開いたまま、俺の言葉を聞いている。そこに悪意や戸惑いはなく、ただ切なさと驚きが混ざったような表情があった。
「ごめん。あの時は何も説明しなくて」
俯いてつぶやくと、由香は震える声で返してきた。
「私こそ、ちゃんと聞かなかった。自分が嫌われたんだって思い込んで、先に別れようなんて言っちゃって。どっちが悪いとかじゃないけど、何も知らなくてごめん」
気づけば二人とも下を向いて、カップを見つめている。沈黙が訪れると、コーヒーの香ばしい香りがじわりと鼻をくすぐった。その静かな空気の中で、俺たちは10年前の時間をようやく埋め始めているような気がした。
やがて、ゆっくりと顔を上げた由香が、再びカップに口をつける。そして、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。
「そっか。知らなかったな。そんなこと考えてたなんて。今になってこんな風にお互いの本音を言ってるけど、あの頃の自分たちに教えてあげたいよ」
俺も小さく頷く。あの時に戻れるなら、きっと言葉を尽くして話せただろう。けれど、あの不器用なすれ違いがあったからこそ、今こうして少し大人になった俺たちが再会しているのかもしれない。
ぎこちなくも、どこか温かい雰囲気が漂う。テーブル越しに、俺はもう一度由香の目を見つめて、そっと微笑んだ。ほんの数秒、二人とも言葉を交わさない。緩やかな時間が流れる中、由香が少しだけ口を開いて、何かを言いかける。
「ねえ、私たち、もう一度……」
その瞬間、カフェのドアが乱暴に押し開けられ、大きな声が割り込んできた。
「おい、由香」
聞き慣れた、あの嫌な声が突然カフェの扉を押し開けるように響いた。思わず振り向くと、大月が仁王立ちしていた。
「何やってんだよ。今日の打ち合わせ、すっぽかしか。大事な会議があるって言っただろ」
いきなり高圧的な口調でそう言いながら、大月は由香の腕を乱暴に掴んだ。由香は驚いた様子で目を見開く。
「ちょ、ちょっと待ってよ。私は休憩のつもりで……」
「はあ?休憩?お前は将来、うちの会社と一緒になる身だろ。余計な時間を無駄にするなよ」
大月の言葉に、俺はカッとなる。視線をそらさずに言い返そうとしたが、先に奴がこちらを向いて笑みを浮かべる。
「聞いてなかったか?こいつは俺と結婚する予定なんだよ。お互いの家同士で話がついてる。この間も社長同士がゴルフしながらがっちり握手してたぜ」
「結婚?」
由香の顔色がさっと変わった。どこか苦い表情を浮かべ、俯き加減になっている。大月の言葉が決まり事のように聞こえるのは、どうやら会社間の利害関係が絡んでいるかららしい。
「坂口、お前んとこは町工場だろ。社長になったって高が知れてる。うちみたいに大企業を束ねてるわけじゃないんだよ。お前には由香を守る力なんかないってこと、分かってるよな」
鼻で笑いながらそう吐き捨てる大月。その態度に、俺は胸の奥が怒りで熱くなるのを感じた。
「お前、本当にそれでいいのか?そんな無理やりな話し合いで由香を縛りつけて、幸せになれるとでも思ってるのか?」
「は?何言ってんだ?会社同士のメリットがあればいいんだよ。俺は社長令嬢を手に入れるし、桜工業はうちの後ろ盾を得られる。利害が一致すりゃ、結婚する価値は十分だろうが」
それだけ言うと、大月は由香の手首をさらに引っ張る。由香は一生懸命に抵抗するでもなく、ただ居心地が悪そうに目を伏せている。見れば、その肩はわずかに震えていた。
「由香」
俺が名前を呼んでも、彼女は視線を合わせようとしない。そんな由香の姿に、大月の言葉だけじゃなく、この状況に何もできない自分にも苛立ちを覚える。
「じゃあな、町工場君。俺たちはこれから打ち合わせがある。お前とは住む世界が違うんだよ」
そう吐き捨てるように言って、大月は由香を連れ去るように店を出ていく。最後にちらりと振り返る由香の目には、どうしようもない不安の色が浮かんでいた。
俺は奥歯を噛みしめながら、遠ざかる足音を聞きつつ、何もできなかった自分自身に腹が立った。そして、あの傲慢な態度で由香を支配しようとする大月に対して、かつてないほどの苛立ちを覚えていた。
それから数日、俺はいつものように町工場で作業をしつつも、頭の片隅ではずっと由香のことを考えていた。あの後、連絡が途えたままになっている。彼女のことが気がかりでならない。大月が明言した「結婚」という二文字と、彼の背後にある巨大な企業グループ。それに対して、由香の会社はどう動くのか。実際、俺は自分がどうすればいいのか、はっきりとした答えを出せないままにいた。
仕事に没頭している時だけは、まだ雑念を追い払うことができる。俺はエンジンの部品を磨きながら、海外で身につけた技術を生かして新製品の試作を進めていた。町工場と言っても、今は単なる下請けに収支しているわけじゃない。今まで培ってきた人脈やノウハウを少しずつ持ち帰り、俺独自の技術を開発しながら、小さいながらも着実に業績を伸ばしてきた。最も表向きは「地元の工場」という看板のままだ。騒がれるよりは、その方が都合がいいと判断していた。
そうして試作品の仕上がりを確認していた昼下がり、俺のスマホが震えた。画面を見ると、由香の名前が表示されている。急いで出ると、聞こえてきたのは震えるような声だった。
「俊介、助けて。桜工業が急に不穏な噂を流されてるみたいで、取引先が次々と撤退しそうなの」
言葉じりがわずかに涙声なのを感じて、俺は胸がざわついた。作業場で工具を握ったまま、思わず電話に力がこもる。
「由香、落ち着けよ。一体何があったんだ?」
「詳しくはうまく言えないんだけど、大月さんの会社が絡んでるのは確かで。とにかく次々と『信用が危ない』とか言われて、取引が切られそうなの。もうどうしたらいいのか分からなくて」
由香の声は明らかに追い詰められていた。あのいつも強がりで前向きな彼女が、こんなに怯えた声を出すなんて、相当なことだ。俺はグッと奥歯を噛み、周囲を見回す。
「分かった。今どこにいる?すぐに行く。とにかく落ち着いて。そこで待っててくれ」
「ごめん。ありがとう。今は会社に戻ってる。時間があるなら、できるだけ早く来てほしい」
電話を切った後、俺はすぐに作業着を脱いで簡単に着替え、工場の仲間たちに一声かける。
「悪い。ちょっと出る。しばらく頼むな」
仲間たちの心配そうな視線を背中に感じつつ、俺は駐車場に止めてあった車へ駆け込んだ。エンジンをかけながら、胸の奥にぐらつく感情を感じる。あの由香が、あんなにも弱々しい声で助けを求めるなんて、放っておけるわけがない。
急ぎ桜工業へ向かい、玄関口で受付を済ませると、由香は憔悴した顔で俺を待っていた。
「俊介、ごめんね。忙しいのに。ちょっと話せる場所へ行こう」
そう言って、会社の大会議室でもなく、近くの小さな会議室でもなく、わざわざ建物を出て裏手の空きスペースへと歩いていく。一目を気にしているのか、その表情にはどこか緊張が滲んでいた。
「ここなら、周りに聞かれにくいから」
深呼吸をするように息を整えながら、由香は持っていた書類を脇に抱え、ようやく落ち着いた声を出そうとするけれど、何度か言いかけては言葉が空回りする。
「大丈夫。ゆっくり話せ。何があった?」
俺がそう言うと、由香は一瞬瞳を伏せ、それから震えをこらえるように語り出した。
「大月さんたちが、うちを追い込んでるの。表向きは『業績不安』みたいな噂を流して、取引先に『桜工業は危ないから手を引いた方がいい』って。私と結婚するなら取引を続けるとも言われた。父さんも色々と打つ手を考えてくれてるけど、正直時間がないの」
由香の瞳が潤んでいるのを見て、俺はぎっと拳を握り込んだ。まさか大月がここまで露骨な手を使うとは。結婚を人質に会社を追い込むってことか。最低だな。わずかに震える由香の肩を見ていると、自分の中の怒りがじわじわと膨れ上がっていく。
「うん。しかも大月さんは、うちの会社と取引するなら『桜工業とは手を切れ』って圧力をかけてるって。大月さんたちのグループは業界でも大手だから、そんな噂が立っただけでも取引先は不安になる。実際に何社かは動揺してるらしくて」
由香の声が少し詰まる。大月ホールディングスの影響力は、桜工業の取引先を抑え込むには十分すぎるほど大きい。相手の企業としても、余計なことを被りたくなければ、比較的規模の小さい桜工業を簡単に切り捨ててしまうだろう。
「こうなると、逃げ道を塞がれてるようなものなんだ。父さんも『大月グループに逆らうと会社を本当に潰すぞ』って脅されてる。しかも、万が一噂が現実になったら、取引を失ってうちだって持ちこたえられない」
淡々と説明する彼女の口調とは裏腹に、その表情は今にも泣き出しそうだった。全方位から首を締められているような気分なのだろう。何をどう動いたって、大月は次の手を打ち、最終的に「結婚するか会社を潰すか」の二択を迫ってくる。大規模な企業同士の戦いならまだしも、老舗とはいえ中堅規模の桜工業は、どうしても分が悪い。
「でもさ、だからって大月の言いなりになったら、結局は会社も由香の人生も、完全にあいつの支配下に置かれるってことだろう。それこそ、先の見えない地獄じゃないのか」
俺がそう言うと、由香はかすかに頷く。
「うん。私も父さんも、そうなるのは絶対嫌。でも、どうしても今は時間がないって言われると、何もできなくて。ここで決断を間違えたら、一瞬で会社が回らなくなるかもしれない。父さんも悩んでる。無理に結婚させたくないって言ってくれてるけど、それでも社員を路頭に迷わせるわけにもいかないし」
その言葉を聞いていると、どれだけ苦しんでいるのかが伝わってきて、胸が締めつけられる。何もかもが追い詰められた状況で、彼女が唯一頼れる相手は、自分よりもはるかに力を持つ大月なのだと思わされているのだろう。
「分かった。俺がなんとかする。いや、なんとかするつもりじゃない。必ずどうにかしてやるよ」
俺は気合いを入れるように言い切る。どこかで少しだけ弱気になりかけていた自分を、こうして鼓舞でもしなければ、今この彼女の不安を引き受けることなどできない。
「俊介……」
由香が潤んだ瞳でこちらを見つめる。それだけで十分だ。たとえ大月がどれだけ巨大な企業を背負っていても、関係ない。俺は俺の方法で、この状況を覆してやる。そう強く決心しながら、彼女の震える肩にそっと手を置いた。
「詳しい資料とか、これからのスケジュールが分かるものがあれば、全部見せてくれ。今は何よりもまず、具体的に手を打たないと話にならないから」
「うん。分かった。親父の方に保管してある資料をまとめてくる。少し時間をもらってもいい?」
「もちろんだ。ここで待ってるから、準備ができたら教えてくれ」
ほっとしたように小さく微笑み、由香は足早に建物の奥へと消えていく。俺はその背中を見送りながら、唇を固く結んだ。大月がどれだけでかい会社を背負っていようと、関係ない。俺も黙ってやられるほど小さくないから。
資料を取りに行った由香を待つ間、思わず一人ごちる。気づけば拳を強く握り込んでいた。タイミングを見計らったかのように、由香が小走りで戻ってくる。両腕に書類の束を抱え、少し息を切らせていた。
「ごめん。お待たせ。これが大月さんサイドから来てる契約書とか、うちが進めようとしていた新規事業のプラン。全部。父さんは今、来客中でここに来られないから、私が説明するね」
「分かった。とにかく、できるだけ詳しい状況を知りたい。何がどうなってるのかを整理して、最善の手を打つ」
由香が一枚ずつ書類をテーブルに広げながら説明してくれる。グループが流している悪質な噂と、それによって撤退しようとしている取引先のリスト。その数は予想以上だ。桜工業は伝統ある老舗とはいえ、ここ数年は業界再編の波に押されて、経営体力がギリギリの状態だったらしい。そんな絶妙なところに、大月はつけ込んできて、由香との結婚を人質にさらなる拡大を狙っている。
見れば見るほど、えげつないな。だけど、これくらいなら逆手に取れる。今は何より、取引先の不安を解消するだけの材料が必要だよな。大月の力なんか借りなくても、桜工業が十分やっていけるって証明できればいいわけだ。
「そうできたら、どんなに楽か。でも大月さんたちは、うちのグループを相手にしないなら『星を上げる』って脅してる。取引先のほとんどは、大月さんの顔色を伺うようになってしまってるんだよ」
由香の言う通り、相手は業界でも屈指の大企業グループ。しかも近年は買収や進行企業との合弁で急激に市場シェアを伸ばしている。桜工業の規模から考えても、普通なら立ち打ちできないのは明らかだ。だが、俺はそう簡単に諦めるつもりはない。
「俺に任せてくれ。まだ詳しい話は伏せるけど、実は海外で色々な企業と取引してきた。そこで開発した特許技術があるんだ。それを使えば、桜工業は一気に海外に打って出られるはずだ」
そう言って確信めいた表情を浮かべると、由香は驚いた顔でこっちを見つめる。
「特許技術?俊介がそんなすごいもの持ってるなんて、全然聞いてないよ」
「別に隠してたわけじゃないさ。ただ、俺の工場はまだ小さく見せておいた方が都合が良かったからな。それでも、作り込んできた技術は本物だ。今なら世界中の企業がこの技術を求めてると言っても過言じゃない」
由香は思わず息を飲むようにして、それからほんの少し笑った。
「そっか。知らなかった。俊介、私の知らないところで、そんなにすごいことをやってたんだね」
「いや、すごいかどうかはともかく、使えないまま眠らせておく理由もない。俺はお前に、ここまで追い詰められた顔なんてさせたくない。だから、その技術と人脈を全部使う。大月がどれだけでかい会社を背負っていようが、関係ない。桜工業がもう二度と頭を下げなくて済むようにしてやるよ」
由香の目から涙が一筋流れ、すぐに手の甲で拭う。口を結んだまま言葉をつまらせているようだったけれど、はっきりと希望を取り戻している。
「ありがとう。私、本当にどうしていいか分からなかったから。父さんも社員も、なんとか守らなきゃって分かってるのに、もうどうにもならないんじゃないかって怖くて」
「大丈夫だ。絶対になんとかなる。俺を信じろ」
そう言って由香の肩を軽く叩くと、彼女はようやく笑顔を返した。まだ不安は消えきらないだろう。それでも、俺がここにいる限り、もう孤独じゃないはずだ。
早速、俺は工場に戻り、デスクに置いてあるノートPCを起動させる。すでに海外パートナーの連絡先は整っているし、必要ならすぐビデオ会議もできる体制を整えてある。まずはドイツの自動車部品メーカーの担当ディレクターへ連絡。次にアメリカのスタートアップ、そして中国の大手メーカー。みんな、俺が海外で技術者として働いていた頃に知り合った仲間やビジネスパートナーで、あの技術を高く評価してくれている人たちだ。
複数のオンライン会議をこなした後、彼らはすぐに返信をくれた。
「当然、口が動くなら私たちは協力するよ。日本での生産拠点を探していたところだし」
「試作段階で見せてもらったあの素材強度は本物だからね」
「こっちも投資ファンドを紹介できるかもしれない」
やはり思った通り、彼らは乗り気だった。検討期間などほとんど必要ない。何より、すでに俺の工場とのやり取りは進んでいて、実証実験も一部行っていたから、いざ本格的に動くとなれば最初の一歩は踏み出しやすい。
次に、由香の父、桜場茂光社長にも連絡を入れ、近い日程で桜工業の役員会を開くよう手配してもらった。いきなり海外展開という夢物語を語っても信用を得られないが、ここまで準備してきた具体的なプランと海外企業からのサポートがあるなら、十分に説得力を持つはずだ。
数日後、桜工業の本社ビルで行われた役員会。それは文字通り桜工業の運命を分けると言ってもいい緊迫した雰囲気だったが、俺は動じることなく自分の計画をプレゼンテーションした。
「弊社と桜工業が共同でライセンスを管理し、私が特許を取得した技術を用いた新製品を世界に向けて売り出します。すでに海外企業との下準備は済んでおり、資金面でも協力を得られる見込みです。これが実現すれば、桜工業は大月グループに依存せずとも飛躍的な成長が見込めるでしょう」
プロジェクターに映し出される海外企業との共同開発プラン、サプライチェーンの構築案、投資ファンドの紹介状。そうした具体的な材料に、役員たちの目は明らかに輝き始める。最後に、由香の父、桜場社長が口を開いた。
「正直、こんな大きな話が舞い込むとは思っていなかった。坂口君、君はそこまで力を蓄えていたのか?」
「ええ。海外で学んだことを地元の工場に持ち帰って、一歩ずつ形にしてきました。表に出す機会はなかっただけです。でも、今こうして桜工業が危機に直面しているなら、自分の持てる全てを使うべきだと思っています」
そう言いながら、俺は胸の奥にしまい込んでいた10年分の記憶を少しだけ呼び起こした。高校を卒業した直後、俺は地元を飛び出し、まずドイツへと渡った。元々日本の町工場で培った物づくりの基礎はあったけれど、もっと大きな世界を知って自分を高めたいという一心で、慣れない異国へ飛び込んだんだ。
最初は向こうの小さな金属加工工場で、見習いのような形で働かせてもらった。正直、言葉の壁もあるし、ドイツ特有の職人気質の厳しさもあって、何度もくじけそうになったが、なんとか食らいついて頑張った。半年もすると、金属3Dプリンターを使った複雑な金属パーツの製造や、新素材を生かした軽量化技術なんかを学ぶ機会が増えた。ヨーロッパには伝統的な職人技と最新の工学技術が混在していて、その両方を吸収できたのは本当に大きかったと思う。
やがて1年が経つ頃、俺は知り合いの伝手でアメリカへと渡り、今度は先端素材の研究開発をしている企業で技術サポートを任された。そこでは従来のアルミ合金よりも強度が高く、なおかつ加工しやすい新素材を扱っていて、俺はそこで部材の設計から試作に至るまで深く関わらせてもらった。その流れの中で生まれたのが、今回の特許技術。金属粉末と特殊樹脂を併用した複合素材の成形プロセスだ。
簡単に言うと、金属と樹脂の両方の利点を生かしつつ、従来の金属加工よりも大幅に軽量化と強度アップを同時に実現できるというもの。しかも、金属部材が必要な製造ラインならほぼ応用可能だから、自動車や航空宇宙分野はもちろん、ロボットや建築資材にも幅広く使える。このプロセスを開発するためには、素材に対する深い知識だけじゃなく、精密加工のノウハウや高温高圧下での化学反応の制御技術など、多岐に渡るスキルが必要だった。そこに、俺がドイツで学んだ金属3Dプリンターの知識や、日本の工場で培った現場の勘がうまく融合したんだ。結果として、複数の国際特許をまとめて取得することができた。
当初は「町工場の若者がなんでそんな特許を」と不思議がられたけど、実際に試作品を作って見せると、欧米の企業が興味を示してきて、あっという間に共同開発や投資の話が舞い込んだ。とはいえ、俺は拠点を地元に戻そうと決めていたから、日本のこの工場でまずは小さく始めて、徐々に実績を積んでから世界へ打って出ようと考えていた。だからこそ、今桜工業が危機に瀕していると聞いて、俺は海外で築いた人脈やこの特許技術を全力で活用しようと思ったわけだ。
大月のような企業グループは確かに規模が大きいけれど、それは決して超えられない壁じゃない。この技術があれば、桜工業は一気に海外展開を視野に入れられるし、そこには俺のパートナー企業がいくつも協力を申し出てくれている。
「要するに、この新素材を使えば、金属の強度と樹脂の柔軟性を両立しつつ、大幅な軽量化が可能になります。製造コストも比較的抑えられる。桜工業の長年培ってきた精密加工技術との相性もいいでしょう。実際、海外企業がすでにこの技術を本格導入したいと名乗りを上げています」
そう説明すると、役員会の面々は熱心に資料を覗き込む。その一人が感心したように言った。
「なるほど。私も以前、この手のハイブリッド素材の話を聞いたことがあるが、こんなに製造コストを抑えられる技術は珍しい。もし実用化できれば、確かに非常に大きなインパクトがあると思う」
桜場社長も深く頷きながら、「坂口君は海外でそんなすごい研究開発を進めていたのか」とつぶやく。俺は静かに微笑み返す。
「自分自身が手を動かし、海外の仲間と切磋琢磨して得た技術です。だから、大月グループがどれだけの業界シェアを持っていようと関係ありません。もし彼らが桜工業の評判を落とそうとしても、俺たちが世界規模で正当な評価を示せば、それを覆すことは十分に可能なんです。もう頭を下げる必要なんてありませんよ」
こうして俺は、桜工業の役員たちに自分の真の力を示していく。あの頃、油まみれの作業服を着ていた町工場の息子のままでは終わらない。10年という時間をかけて練り上げた技術と人脈は、ここでこそ役に立てるべきだと思っている。
桜場社長は深く頷き、役員たちに目を配る。彼らも口々に「これは大きいチャンスだ」「大月の顔色を伺う必要なんてもうないんじゃないか」などと声を上げ、場の空気が一気に熱を帯びていく。
しかし、そのわずか翌日。大月は再び強引な手を打ってきた。ネット上や業界内に「坂口の技術は根拠のないハッタリ」「海外パートナーは全て怪しい投資家だ」という噂を一斉に流し始めたのだ。
けれど、俺はすぐさま海外のパートナーに連絡し、公式SNSやプレスリリースで「坂口工房との提携は事実。共に新製品を開発する準備が進んでいます」と発表してもらう。噂は根拠がない分、証拠を提示されれば一気に信用を失う。しかも、今回の特許技術はすでに一部の大手メーカーで部分導入されており、その評価は高かった。「坂口の技術なしには、大月ホールディングスも生産が止まる」とまで業界内で囁かれるほど、俺の技術には汎用性と確実性があったのだ。
桜工業にもすぐに海外からの取材希望や引き合いの問い合わせが入り始め、わずか数日で状況は劇的に変化していった。大月がばらまいた噂よりも、目に見える結果こそが人々を動かすからだ。
やがて、ホールディングス内でも大月の強引なやり方が会社のイメージを傷つけていると問題視され、重役会で責任を追求されるはめになった。何よりも致命的だったのは、ホールディングスが利用している生産ラインの一部に、俺の特許技術が使われている事実。大月はそれを知らずに「潰す」などと息巻いていたが、それこそ自分たちの足元を崩す行為に等しかった。
「こんな特許、大したことない」と最後まで否定しようとしていた大月だが、一度広まった「坂口の技術がないと生産が成り立たないかもしれない」という不安は、取締役や出資者の間で大月への不信感を増幅させる結果になった。結局、大月は事実上の降格処分を受け、隅に追いやられる形でその影響力を失っていった。
そんなある日の夕方、いつものように桜工業の玄関口で打ち合わせを終え、外に出ようとした時のことだ。ふと視界に入った人影に、俺は足を止めた。大月。今までなら高級スーツや派手な腕時計を見せびらかすような男が、今日は妙に小さな背中をしていた。スーツのジャケットもどこかくたびれているし、その表情はどこか憔悴した様子だ。まるで行き場を失ったかのように、玄関の脇に立ち尽くしている。
一瞬、こっちに気づいたような気がしたが、大月は目を伏せたまま動かない。遠巻きに見ていると、こちらが近づいていくのを待っているのか、それとも俺の存在に気づかないふりをしているのか、判断がつかなかった。迷ったが、このまま無視をするのも気が引ける。それに、俺自身、彼がどんな顔をしているのか、もう少しよく見ておきたかった。そう思い、意を決して大月の正面に回り込む。
「どうしたんだ?こんなところで」
俺がそう声をかけると、大月はわずかに体を硬直させ、視線を横に逸らしながら答えた。
「別に、なんでもねえよ。ちょっと考え事をしてただけだ」
低く吐き出す言葉。どこか昔の強気な調子をよみがえらせているようにも聞こえるけれど、その力の抜けた立ち姿は、俺の知っている大月とは大きく違っていた。
「ねえ、ここ、桜工業だぞ。お前が今更何を考えたって、もう分かってる。俺はもう何の立場もねえ。『せいぜい感触だ』とか言われて、はみ出されただけの男だ。でもよ、俺にも少しくらい言いたいことはあるんだよ」
その言葉に、若干のトゲを感じる。だが、下を向いたままの顔は、さっきまでの憔悴そのもの。やがて大月は絞り出すように声を続ける。
「昔から、全部思い通りにしてやろうって意地になってきた。特にお前みたいな地味な奴に注目が集まるのが、気に食わなかったんだよ。あんな風に暴走して、むちゃくちゃやって、結果はこれだ。笑えるよな」
俺は何も言わず、息を飲む。大月は顔を上げず、苦笑混じりに続ける。
「俺が会社のためとか言いながらやってたことは、結局自分のプライドを守るためだけだった。帰って社員にも迷惑をかけちまって、親父も怒ってるだろうな。全部、自業自得だって分かってるんだけどよ」
最後はほとんど呟くように、掠れた声が消えていく。かつて人を見下し、常に一番であろうとする傲慢さを全身にまとっていた男が、こんなにも小さく見えるとは思わなかった。
少しの間沈黙が続いた後、俺はやや乱暴な口調で言った。
「何が言いたいんだ?俺に仕返しでもしようってのか?それとも、由香になんか言いたいのか?正直、もうお前と話すことなんて、あんまりないんだけどな」
言いながら、自分でも意外なほど穏やかな気持ちでいるのを感じる。前なら即座に言い返して、怒鳴り合いになっていたかもしれない。でも、今大月の姿を見ていると、そんな気力さえ湧かない。
大月は乱雑に髪をかき上げて、ようやく俺の方をちらりと見る。
「いや、なんだろうな。うまく言えねえんだけどよ。お前に文句を言いたいわけじゃない。むしろ、お前が凄くて仕方なかったって、ちゃんと認めないといけない気がするんだ」
言葉の節々に、やりきれない悔しさが滲む。
「お前が町工場でくすぶってるって決めつけてたのに。気づいたら、世界規模の技術を持って帰って来やがった。桜工業まで救って、俺の計画全部ぶち壊しにしてさ。それがムカついて、ムカついて仕方なかった」
大月は自嘲するように鼻で笑った後、少しだけ顔を伏せる。
「でも、元を言えば、俺が強引に色々やりすぎたせいだ。ああ、くそ。まさかこんな形で全部失うとは思わなかった。やり方を間違えたんだな、俺は」
その声に、わずかながら詫びの響きが混じっているような気がした。はっきりと「ごめん」と言ったわけじゃないが、これが今の彼にできる精一杯なのかもしれない。
俺はしばらく彼を見つめる。どこまでも不器用で、最後の最後まで無駄なプライドにしがみついている男。それでも、その姿が少し哀れに見えて、息をつくように言った。
「まあ、お前のやり方は確かに最悪だった。俺だってお前には腹が立ってるし、桜工業の連中も迷惑したと思う。でも、あれだな。今こうして自分の口で認めるってだけ、少しは救いがあるんじゃねえか」
言い終わると、大月は一瞬戸惑ったような顔になる。俺は続けて言葉を足す。
「恨むなら、これから先は自分自身を恨めよ。お前がやり直したいなら、もう一度きちんと立ち上がればいい。立場がどうあれ、仕事なんていくらでもやり方があるんだろ」
そう言うと、大月は言い返すでもなく、小さく笑ったように見えた。
「口が悪いとこは変わんねえな、坂口。ま、さすがに今は仕返しとか、勇気にはなれねえよ。全てを失ってみると、少し見えてくるもんがあるんだな」
俯いたままの彼が一歩後ろへ下がる。そして、そこから頭を下げるでもなく、ただ短く「じゃあな」と言い残して、ややふらつく足取りで去っていった。どこか不完全燃焼な空気が残るけれど、これが今の大月の精一杯なのかもしれない。あいつなりの区切りなのだろう。
「たく。最後まで不器用だな」
呟いて顔を上げれば、空は夕焼け色に染まり始めている。全てを失ってもなお、プライドという白線の上を歩くようにしか生きられない男。いつか本当にやり直す日が来るのかは分からないが、少なくとも少しは自分の非を認めるようになった分、前進したのかもしれない。
「お前も負けずに頑張れよ。俺は俺で、こっちの道を進むからさ」
全てが終わったわけじゃない。ここから先も、俺や由香、そして大月にとって新しいステージが待っているだろう。だが、この夕暮れ時に交わした言葉こそが、一つの区切りでもあるのだと思えた。
桜工業が俺の特許ライセンスと海外ネットワークを得て、一気に事業拡大を狙える体制が整いつつあった。元々老舗の技術と信用はあったのだが、この海外企業との連携が加わることで、国内外から注目が集まっている。社内は活気に満ち、いつもより早い時間から社員が出社しては企画会議や新製品の打ち合わせに奔走し、あちこちで「こんなチャンス、二度とない」「とにかく今が踏ん張り時だ」などと意気込む声が聞こえてくる。
そんな盛り上がりを感じながら、俺は昼下がりにふと社内を見渡していた。受付には取材の申し込みらしき電話が絶えず鳴り続け、エントランスには新しく入ったばかりの社員が目を輝かせてパンフレットを補充している。今までは陰りがあった桜工業が、まるで生まれ変わったように活気づいている様子は、見ているだけで胸が熱くなる。
「ああ、坂口さん。すみません。ちょっとここにサインを」
若手社員の一人が書類を手に駆け寄ってくる。どうやら海外との取引に関する契約関連のようだ。俺は資料を確認しながらサインを入れ、そのまま社員に笑顔で書類を返した。
「ありがとうございます。助かります。今度、コラボ企画の件でもう少し詳しいお話を伺いたいんですが」
「分かった。後で落ち着いた時間にミーティングを入れよう。段取りができたら声をかけてくれ」
若手社員が嬉しそうに頭を下げて走り去るのを見送り、俺は再び辺りを見回す。そんな明るい雰囲気の中で、ふと廊下の向こう側に由香の姿を見つけた。彼女はこっちを見つめて一瞬躊躇したような表情を見せるが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべて近づいてくる。
「なんだか、まだ信じられないよ。こんなに活気づくなんて、まるで別の会社みたい」
由香はそう言いながら軽く息をつき、廊下の奥で打ち合わせに奔走している社員たちに視線を向ける。その瞳には、会社を支えようと忙しく立ち回るみんなへの感謝と驚きが滲んでいた。
「でも、これって全部、俊介のおかげだよね。あなたが海外で得た技術や人脈がなかったら、桜工業はここまで変われなかったと思う」
そう言って由香はほんの少し照れながら笑う。照れ隠しのように目線をそらしているのを見ると、俺の胸の奥まで温かいものが広がった。
「いや、それは違うさ。俺はただのきっかけに過ぎない。元々お前たちが築いてきた技術と信頼があったから、こうして海外の連中も興味を持ってくれたんだ」
「そうかもしれないけど、でも少なくとも今の状況を引き寄せたのは、あなたが動いてくれたからだよ」
由香はそう言って、少し間を置いた。
「俊介、ここまでしてもらって、何て言えばいいのか分からないくらいだけど。どうして、そんなに海外で頑張ってたなんて、一言も教えてくれなかったの?」
その問いに、俺は少し息を詰まらせた。面と向かって聞かれると、どうにも気恥ずかしい。何と言えばいいのか、当時の自分の未熟さをどう説明してしまったものか。言葉に詰まっていると、不意に後ろから桜場社長が近寄ってきた。
「かい。私の方から話すとしよう」
そう切り出して、社長は少し苦笑いを浮かべた。由香は軽く首をかしげる。
「まだお前が高校を卒業する前、彼は私のところに来て、『娘さんとの交際を正式に認めてほしい。結婚も前提に考えている』と申し出てきたことがあったんだよ」
「え、俊介がそんな話を父さんに?」
驚いた由香が俺を見る。確かに、あの頃は自分でも相当勇気を振り絞ったと思う。ただ、いつか本気で由香を守りたいという思いだけは、嘘じゃなかったから。
「その時、私はまだ学生の二人が交際するのは否定しなかった。だが、将来を誓い合うとなると話は別だと。『うちの由香には、いずれ桜工業を守ってもらうつもりがある。結婚する相手には、お前を支えて会社を盛り立てていけるだけの器量が必要になるだろう』と、彼に伝えたんだ」
社長の静かな声には、かつての厳しさがかすかに滲んでいる。自分自身も、あの時のことは忘れられない。社長がこんな風に言ったのを、鮮明に思い出す。
「娘には会社を継がせるつもりだ。その時、君は彼女の相談役になれるのか?一緒に会社を守っていけるのか?君自身はどう思ってるんだ?」
あの瞬間、俺は何も言い返せなかった。地元の町工場の下働きをしていただけの俺に、会社を支えるなんて想像すらできなかったからだ。
「当時の坂口君は、ただうつむいていたよ。私も意地悪だったかもしれないな。ただ、娘の未来を思えばこそ、簡単に『いいよ』と笑って返すわけにはいかなかった。私は君の立場や肩書きが問題だと言ったんじゃない。器量の部分が問題だと。そこをちゃんと考えて欲しかったんだ」
由香は驚いたように息を飲む。そして、改めて俺の方を向いて、小さく呟いた。
「じゃあ、俊介が海外に行ったのは、そういうことだったの?」
「あの時は何も言い返せなくて、情けない思いをしたよ。でも、このままじゃ由香を守れないって痛感したんだ。それで、もっと大きな世界を知って力を付けようと思って、海外に飛び出す決意をしたんだよ。自分が役に立てる人間になりたかった」
自分の言葉が少し震えているのが分かった。あの頃は、ただ無我夢中で海外に行って、技術を身につければ、いつかまた由香の隣に立てるかもしれない。そんな漠然とした思いだけで行動していた。
「でも、私はそんな話、何も聞かされてなかった。俊介が急に海外へ行っちゃったから、私、嫌われたのかと思ってたんだよ」
「ごめん。ちゃんと話すべきだったよな。由香を置いて一人で行くのは、由香を大事に思ってないみたいに映ったかもしれない。でも、それしか方法がなかったんだ。自分の未熟さを痛感してからは、強くなるためには行くしかないと思い込んでたから」
言いながら、胸の奥が少し痛む。俺の勝手な決断で由香を傷つけた事実は変えられない。だけど、今こうしてもう一度向き合って話せるようになったのは、あの時海外に飛び出したからこそ得られた成果があるからだと思っている。
すると、桜場社長が静かに俺たちを見渡し、少し目を細めて笑った。
「今となっては、私も随分遠回りさせちまったもんだと思っている。だけど、君がこうして世界規模のパートナーシップや特許技術を持ち帰ってくれたことは、結果的に由香を守るどころか、桜工業全体を助ける力になっている。まるであの時の私の問いかけに対する答えを出してくれたようなもんだな」
俺はその言葉に返すことができないまま、深々と頭を下げた。
「まあ、終わったことをあれこれ言っても仕方がない。これからは、二人で協力して会社を支えていくもよし。自分たちの道を歩むもよし。好きにすればいい。私はただ、由香の幸せと桜工業の発展を願っているだけだ」
社長はそう言うと、軽く咳払いして背筋を伸ばす。由香はその横顔を見て、少しだけ目を潤ませながら笑みを浮かべた。
「父さん、ありがとう。私もずっと甘えてばかりはいられないからね。これからはもっとしっかり会社のことにも関わっていく。俊介の技術を借りつつ、桜工業を伸ばしていきたいし」
「そうしなさい。それに、坂口君。あの時は娘の将来を思うあまり、君にきつい言葉をぶつけてしまった。すまなかったな。だけど、今こそ本当に君の力が必要なんだ。私というか、そしてこの会社のために。どうか力を貸してほしい。お願いします」
一瞬、いつもは堂々としている社長が見せる謙虚な態度に、俺も驚いて言葉を失う。だが、その言葉には確かな重みを感じた。桜場社長の厳しさも、ずっと娘と会社を守り抜きたいという真摯な思いが根底にあったからこそ。だからこそ、今は誰よりも誠実に「君が必要だ」と伝えてくれる。
「もちろんです。俺はこの町で得た知識や技術を、海外でさらに磨いてきました。全部、由香と桜工業のために使いたいと思っています」
そう言って頭を下げると、桜場社長はほっとしたように小さく微笑んだ。由香も同じように柔らかな笑みを浮かべている。俺はその二人の姿を見て、改めて決意する。もう迷いはない。ここから先の未来は、俺も由香も、そして桜場社長も一緒になって、桜工業と町を守り育てながら歩んでいくんだ。



