「まあ当然の結果よね。ママも分かってたのよ。どっちの娘に価値があるのか。地味で取り柄のないあんたに遺産なんて猫に小判だもの。」
勝ち誇った姉の言葉が、私の心を容赦なくえぐる。弁護士から続けて読み上げられた遺産の内容。姉には都心のタワーマンションと金庫に保管されていた宝石の一切。そして私には、母が長年愛用していたという汚い日記帳が一冊だけ。
私に残されたのは、本当にこれだけ。俯く私の前で、姉はこれ以上ないほど勝ち誇った笑みを浮かべ、スマホのカメラを起動した。きっとこの光景を撮影してSNSに投稿するつもりなのだろう。
だが、その時だった。
「お待ちください。遺言にはいくつか重要な補足事項がございます。」
ピタリと姉の指が止まる。
「補足?何よ。早く済ませてちょうだい。私、この後タワマンの家具を見に行く予約入れてるんだから。」
渋々といった顔をする姉を無視して、工藤先生は淡々と、しかし強い意思を感じさせる声で続けた。
私は図書館司書として、静かに本に囲まれて過ごす毎日。そんな私の日常とは正反対に、いつもキラびやかな世界の中心にいるのが姉のリナだ。元モデルの姉は、今や数十万人のフォロワーを持つインフルエンサー。SNSを開けば、海外の高級ホテルでポーズを取る姉の写真で溢れている。
父が亡くなったのは私がまだ幼い頃のこと。母は父の莫大な遺産を相続し、私と姉を女手一つで育ててくれた。父がいない寂しさをさせたくない。その一心だったのだろう。母はお金に関しては惜しむことなく私たちに与えてくれた。それも母なりの愛情表現だったのかもしれない。
甘え上手な姉は、その愛情を独り占めしていた。リビングで私がお茶を入れていると、姉がスマホの画面を母に見せながら、わざとらしく大きな声で話していた。
「見てママ。この投稿、もういいねが1万件超えたの。みんな私のライフスタイルに憧れてるんだって。」
「まあすごい。ありな。あなたは本当にママの自慢の娘。」
そう言って母はいつも姉を褒める。すると姉は待ってましたとばかりに甘えた声を出す。
「でもねえ、ママ。来月の海外ロケの資金がちょっと足りなくて。一流の私を維持するのも大変なのよ。」
「まあ大変ね。分かったわ。これにしなさい。」
そう言って母は、まるで義務を果たすかのように分厚い封筒を姉に手渡した。母はお金を渡すことでしか愛情を示せないのかもしれない。そして姉はそれを分かって甘えているんだ。
顔で受け取る姉と、無表情な母。そんな二人を見ていた私に、母の鋭い視線が突き刺さる。
「さっき。あなたもたまには何か欲しいもの言ったらどうなの?そんな地味な格好ばかりしていないで。」
違う、母さん。私が本当に欲しいのはお金やものじゃないのに。母の言葉はいつも私の心を傷つける。それが、甘えることを知らない私にどう愛情を注げばいいのか分からない母の不器用さの裏返しだなんて、当時の私に分かるはずもなかった。
姉はいつも輝く太陽で、私はその影。母にとって褒める価値があるのは姉だけで、私はいつも知らされるだけの存在。そんな諦めにも似た感情を、私はずっと抱えて生きてきた。
穏やかだった日常は、一本の電話によって突然終わりを告げた。図書館のカウンターで本の整理をしていると、ポケットのスマホが鳴り響いた。
「お母様が倒られました。至急病院へ。」
頭が真っ白になりながらも、私は夢中で病院へ向かう。集中治療室の前で待っていると、医師から厳しい顔で告げられた。
「お母様は治療が難しい難病を患っておられます。延命は取り止めましたが、治癒は望めません。これからはご自宅での長期的な介護が必要になるでしょう。」
介護?私が母さんを?あまりに突然の宣告に、足元が崩れ落ちそうになる。でも、しっかりしなきゃ。私しかいないんだから。私が母さんを支えないと。そう自分に言い聞かせ、覚悟を決めた時だった。
ハイヒールの音をカツカツと響かせながら、姉のリナが香水の匂いを振りまいてやってきた。
「ちょっとどういうこと?ママが何だって?私のスケジュールがめちゃくちゃじゃない?」
一番に母の体調ではなく自分の予定を心配する言葉に、私は耳を疑った。
「お姉ちゃん、そんなこと言ってる場合じゃないよ。これからは在宅介護も必要なのに。」
「はあ?在宅介護?冗談でしょ。私には来週からパリでの撮影があるの。SNSの更新だって毎日しなきゃいけないのよ。そんな地味なことしてる時間ないんだけど。」
姉はため息まじりに話す。
「SNSの更新って…母さんの命がかかってるんだよ。」
「うるさいわね。大体、あんたが図書館をやめたって誰も困らないでしょ。ちょうどいいじゃない。家のことは全部あんたに任せるわ。」
あまりの言い分に言葉を失った。姉にとって母の命よりも、自分のキャリアやSNSのいいねの数の方が大事なんて。結局、私は長年務めた図書館を退職し、たった一人で母の介護に専念することになった。大好きだった本と同僚たちに別れを告げるのは、胸が張り裂けるように辛かった。
それからの日々は想像を絶するものだった。食事の介助、入浴、排泄の世話。24時間休みもなく続く介護に、私の心と体は少しずつすり減っていった。日に日に痩せていく母の体。かつてはあんなに張りのあった声も、今はか細く聞き取るのがやっとの時もある。その弱っていく姿を見ているだけで、私の心は締めつけられるように痛んだ。
母は病気のせいか気性が荒くなり、私に辛く当たることも増える。
「こんなもの食べられないわ。味がしないじゃない。」
その言葉がグリと胸に突き刺さる。私だって好きでこうしてるわけじゃないのに。それでも私は必死に笑顔を作って耐え続けた。
でも、ある夜のこと。私が母の手を拭いていると、骨ばったその手が弱々しく私の手を握り返してきた。
「さっきはごめんね。」
「え?お母さん、どうしたの?」
「あなたにばかり辛く当たって。本当は感謝してるのよ。ごめんなさい。」
涙を浮かべる母の姿に、私は慌てて首を横に振った。
「うん。気にしないで。お母さんは何も悪くないから。」
違う。謝って欲しいんじゃない。ただ元気になって欲しいだけなのに。母の弱々しい姿が私の心を締めつけた。
そんな日々の中で、母が唯一続けた日課。それは枕元に置かれた汚れたカバーの日記帳に何かを書き込むこと。震える手でペンを握り、毎日毎日何かを綴っている。何を書いてるのと聞いても、母は何も答えてはくれなかった。
そんな地獄のような生活の中に、時折姉のリナが嵐のように現れる。彼女は介護など一切手伝わず、SNSのネタを仕入れるためだけに家にやってくるのだ。
「ちょっとママの顔を綺麗にしてあげて。今から写真撮るんだから。あーん、この部屋なんか暗いわね。ちょっと光が入るようにしてくれない?」
ブランドものの服で着飾った姉は、介護で疲れきった私のことなど目に入らない様子でスマホを構える。そしてぐったりと眠る母の横で、さも自分が献身的に看病しているかのような悲しげな表情を作って、何枚も自撮りをしている。カシャ、という無機質なシャッター音だけが部屋に響いた。
その日の夜、姉のSNSにはこんな投稿が上がっていた。
「今日もママの看病。日に日に弱っていく姿を見るのは辛いけど、私が支えなきゃ。家族愛。#看病 #大切な家族」
その投稿には数千のいいねと「リナちゃんは親孝行で偉いね」「お母様きっと良くなるよ」「頑張って」という応援のコメントで溢れていた。
ふざけないで。怒りでスマホを握りしめる手に力がこもる。姉がここに滞在したのはたったの5分。その5分のために、私は何時間もかけて母の体を拭き、髪を整え、部屋を片付けたというのに。
姉の卑劣な行いはそれだけではない。姉が来るたびに、母の部屋からアクセサリーや現金が少しずつ消えていく。ある日、姉が電話しているのを私は聞いてしまった。
「だから来週までには必ず振り込むって言ってるでしょ。しつこいわね。こっちにはママの遺産があるんだから、すぐに大金持ちになるのよ。」
どうやら姉は派手な生活を維持するために、消費者金融に多額の借金をしているらしい。だから母の金品にまで手をつけて。
「お姉ちゃん、母さんの部屋から物がなくなってるんだけど。」
私が問い詰めると、姉は心底から私を軽蔑した目つきで鼻で笑った。
「はあ。ママがボケてなくしただけでしょ。それか、あんたが足りなくて盗んだんじゃないの?」
「ひどい。私がそんなことするわけないじゃない。」
「大体、あんたがいるとこの家全体が貧乏臭く見えるのよ。そのよれよれのTシャツも、疲れきった顔も、全部見すぼらしいわ。私のSNSにそんなのが映り込んだらどうしてくれるのよ。あんたは介護しか能がないんだから、黙って言うこと聞いてればいいのよ。」
そう吐き捨てて去っていく姉の背中。私はただ震えながら見送ることしかできなかった。悔しくて情けなくて、涙が溢れてくる。なんで私がこんな目に?
そんな地獄のような日々が2年も続いた、ある冬の日。母は静かに息を引き取った。最後の瞬間まで、母は枕元の日記帳の方に視線を向けていた気がした。
嵐のような葬儀が終わり、家に一人取り残された私。心にはぽっかりと大きな穴が開いていた。これからの私、どうなっちゃうんだろう。悲しみと不安に押しつぶされそうになっていた私に、追い打ちをかけるような出来事がすぐそこまで迫っていることなど、知るよしもなかった。
母が亡くなってから数週間後、私と姉は母の顧問弁護士である工藤先生の事務所にいた。重厚な調度品で整えられた応接室の空気が、やけに息苦しく感じられる。いよいよ遺言が公開される日だ。
全身をハイブランドで固めた姉のリナは、まるで女王様気取りで革張りのソファーにふんぞり返っている。その手には最新のスマホが握られ、この後の勝利宣告をSNSに投稿する準備でもしているに違いない。
「ふうん。ママも結構いい弁護士使ってたのね。ま、それだけの資産を残すんだから当然か。さっきも立派な場所で緊張しちゃうんじゃない?」
私を嘲笑うような見下した視線。もうすでに母の遺産を自分が全て相続できると信じて疑っていないようだった。
やがて工藤先生が入室し、深々と一礼すると、母の遺言を朗々と読み上げ始めた。
「以上を持ちまして、長女リナ様には都心のタワーマンション一室と、金庫に保管されている宝石類の一切を相続させ…」
心臓がドクンと嫌な音を立てて、冷たい石のように沈んでいく。やっぱりそうなんだ。母さんにとって、私の2年間の介護なんて何の意味もなかったんだ。絶望で目の前が真っ暗になりかける。
そんな私の様子を、姉はテーブルの向かいから唇の端を歪めて満足そうに見ていた。
「まあ当然の結果よね。ママも分かってたのよ。どっちの娘に価値があるのか。地味で取り柄のないあんたに遺産なんて猫に小判だもの。」
勝ち誇った姉の言葉が、私の心を容赦なくえぐる。
「そして、次女咲様には、母静子が長年愛用しておりました、この日記帳を相続させるとのことです。」
差し出されたのは、見覚えのある汚れた表紙の日記帳。私に残されたのは、本当にこれだけ。俯く私の前で、姉はこれ以上ないほど勝ち誇った笑みを浮かべ、スマホのカメラを起動した。きっとこの光景を撮影してSNSに投稿するつもりなのだろう。「悲しい遺産相続。でもママの愛は私が受け継ぎます。」なんてハッシュタグをつけて。
だが、その時だった。
「お待ちください。遺言にはいくつか重要な補足事項がございます。」
ピタリと姉の指が止まる。
「補足?何よ。早く済ませてちょうだい。私、この後タワマンの家具を見に行く予約入れてるんだから。」
渋々といった顔をする姉を無視して、工藤先生は淡々と、しかし強い意思を感じさせる声で続けた。
「まず、タワーマンションの件ですが、こちらの物件の所有権は、静子様が設立されたNPO法人『若葉の会』に、生前のうちに寄付手続きが完了しております。」
「あ、寄付?何よそれ。どういうことよ。あんた、先にいくらもらってそんな嘘ついてるの?」
「個人の意思により、リナ様にはそのNPO法人から月額1万円の家賃で、生涯に渡りその部屋に居住する権利が与えられます。ですが、所有権は法人にありますので、売却などは一切認められません。もちろん、賃貸に出すことも不可能です。」
「何それ?豪華なトカゲってこと?豪華なトカゲ…」
タワマンを売却して現金を手に入れ、借金を返済し、さらに贅沢な暮らしをするという姉の最大の夢が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「そ、そんな…じゃあ宝石は?宝石があるじゃない。あれを売れば借金なんてすぐに…」
そうだ。まだ宝石がある。あれを売れば数千万円にはなるはず。姉が震える声で叫ぶと、工藤先生は静かに、もう一枚の書類を取り出した。有名な宝石鑑定機関のロゴが入った、分厚い鑑定書らしきもの。
「次に、宝石の件ですが、こちらが先日鑑定に出した結果の証明書でございます。」
「鑑定?なんでそんなこと?」
「はい。静子様の強いご意思で、娘の戒めとするために。全て精巧なイミテーション、つまりキュービックジルコニアとクリスタルガラスで作られたものとなっております。資産価値はございません。」
資産価値はゼロ。その言葉はまるで死刑宣告のように静かな部屋に響き渡った。姉の顔からさっと血の気が引いていく。カタカタと震える指先で鑑定書をひったくるように掴む。そこには「ダイヤモンド モルガナイト」「サファイア モルガナイト」という無慈悲な鑑定結果がはっきりと記されていた。
「嘘よ。嘘、嘘、嘘。ママが私に偽物なんて渡すわけない。私が一番のお気に入りだったのよ。その書類が偽物なのよ。」
プライドも未来の資産も、一度に全てを失った姉は、ただ呆然と「嘘よ。ママが私に偽物なんて…」と繰り返すだけである。そして、その怒りの矛先は、静かに座っている私に向けられた。
「あんたね、あんたがママをその気にさせたんでしょう。地味で根暗なあんたが、輝いてる私を妬んだんでしょう。」
椅子を倒し、姉は私の胸ぐらに掴みかかってきた。
「やめて、お姉ちゃん。」
「うるさい。全部あんたのせいよ。私の人生を返しなさい。」
だが、その騒乱は工藤先生の氷のように冷たい一喝によって止められた。
「リナさん、おやめなさい。これ以上見苦しい真似をなさるなら、暴行で警察を呼びますよ。」
その言葉に、姉の動きがピタリと止まる。私は掴まれた服を整え、震える姉を真っすぐに見据えた。
「見苦しいのはお姉ちゃんの方よ。母さんが本当に見ていたのは、キラびやかな石なんかじゃない。お姉ちゃんにはそれが最後まで分からなかったのね。」
私の言葉に、姉は完全に力が抜けたようにその場にへたり込んだ。そして、子供のように泣きじゃくりながら、意味の分からない言葉をつぶやき始める。
「これじゃ借金が返せないじゃない。どうしてくれるのよ。フォロワーが…私の人生が…」
その絶叫は誰にも届かなかった。
その後のことはあまり記憶にない。私はただ、母の形見である日記を抱きしめ、自分の家へと帰った。その夜、私は悲しみと虚しさで一睡もできなかった。母は姉に復讐するために、こんな手の込んだ計画を立てたというの?じゃあ、私のことは?疑問が頭の中をぐるぐると回る。
窓の外が白み始めた夜明けの頃。私は吸い寄せられるように、テーブルの上に置かれた日記を手に取った。パラリと最初のページをめくる。そこに記されていた言葉に、私は息を飲んだ。
「愛する咲へ。これを読んでいるということは、私の最後の計画が始まったのね。この計画は、長年お世話になっている工藤先生の助けがなければ、到底成し遂げられなかったわ。」
え?私の知らない母の本当の思い。その全てが、この一冊の日記に隠されている。私は震える手で、次のページをめくったのだった。
母が仕掛けた第一の罠によって、金もプライドも失った姉のリナ。私はこれで少しは自分の行いを反省するだろうと思っていた。借金も返せなくなって、少しは頭を冷やすはず。だが、姉は私の想像をはるかに超えて、熱かましく、そして愚かだった。
数週間後、私の元へ裁判所からの訴状が届く。遺言の無効を主張し、母の遺産の全てを自分に引き渡すよう、姉からの訴えである。それと同時に、姉はSNSを巧みに利用して最後の反撃に打って出た。彼女が最も得意とする、世論を味方につけるという汚いやり方で。
「皆さんにご報告があります。信じていた妹に、母の遺産を独り占めされそうです。病気の母を必死に看病していたのは私なのに、妹は母を騙して遺言を偽造したんです。」
スマホの画面の中で、姉は完璧なメイクを施し、ボロボロと大粒の涙を流しながら訴えていた。その動画はまたたく間に拡散される。コメント欄は「妹がひどすぎる」「リナちゃん頑張れ」「リナちゃんを救おう」という姉への同情と、私への誹謗中傷で埋め尽くされていた。顔も知らない大勢の人々から向けられる悪意の渦。私は身に覚えのない罪で、世間から「遺産を奪った悪魔の妹」というレッテルを貼られてしまった。
そして、裁判の日がやってきた。黒いスーツに身を包み、やつれた表情を浮かべた姉は、法廷でも完璧な悲劇のヒロインを演じている。姉の弁護士は、私が母の弱みに付け込んで遺言を書かせたと主張し、姉のSNSが彼女がいかに母を愛していたのかの動かぬ証拠だと誇らかに述べた。傍聴席からは「ひどい妹だ」「お姉さんがかわいそう」という囁き声。誰もが姉の嘘を信じきっている。
悔しさで唇を噛みしめる私の隣で、工藤先生が静かに立ち上がる。彼はただの法律家としてではない。母の固い意思を継いだ協力者として、そこに立っているのだ。
「裁判長、ここで被告の証拠を提出いたします。」
法廷の大きなモニターに、母の日記のページが映し出される。そこに記されていたのは、姉が母の部屋から金品を盗んだ日付と品目の詳細なリストだった。
「そ、そんなの、ボケた老婆が書いた妄想よ。証拠にもならないわ。」
姉が金切り声をあげた。だが、工藤先生は動じなかった。
「では、これはどうでしょう?リナ様が最も得意とする、SNSの投稿です。」
次にモニターに映し出されたのは、二つの画像を並べたものだった。左側は姉がSNSに投稿した母の看病写真。右側は、その写真に対応する母の日記の記述である。
「原告は6月10日、『涙ながらに一晩中母に付き添いました』と投稿しています。いいねがついていますね。」
法廷がざわめく。工藤先生は静かに日記の記述を読み上げる。
「6月10日。リナ、午後3時15分に訪問。寝ている私の横で12枚の写真を撮影。『顔が汚い』と不平を言う。午後3時22分に退出。滞在時間7分。咲は介護のためほとんど眠れていない。」
シンと法廷は静まり返った。傍聴席の空気が明らかに変わったのが分かる。
「7月3日、『ママのために栄養満点のスープを作ってあげた』という投稿。素晴らしいですね。ですが、日記にはこうあります。『7月3日。リナ、デパ地下で買ったスープを自慢げに見せる。写真を撮り終えると、こんなの食べないわよね、と言って自分でスープを飲んでいた。私には食事を一切くれず、病院は、大人しく寝てなよ、と笑いながら帰っていく。』」
姉がガタリと音を立てて立ち上がった。
「ち、違うわよ。あれはママの健康を考えて、スープは私が毒味してあげたのよ。そう。買ったスープなんて、何が入ってるか分からないじゃない。」
とんでもない言い訳に、傍聴席からクスッと笑い声が漏れた。工藤先生は表情を一つ変えず、冷静に続ける。
「なるほど。毒味ですか?日記によりますと、原告はこの後、『デパ地下のスープ最高。自分へのご褒美』とSNSに投稿されていますが、これも毒味の一環で?」
「ち、違う。そんなんじゃなくて…」
私は慌てふためく姉を、軽蔑した目で見つめる。
「8月1日、猛暑日。リナ訪問。夜9時30分に訪問。寝ている私を起こし、写真撮影を開始。寝たきりの私がリナに『お水を飲ませて』とお願いするも、『自分で取れば?病人は大人しく寝てなよ』と笑いながら帰っていく。」
姉の顔がみるみるうちに青ざめていく。高価なファンデーションで塗り固められた顔に油汗が滲み、メイクが崩れ始めている。得意げだった表情は消え去り、カタカタと小刻みに震え始めた。彼女が最もこだわっていた世間からの評価。彼女が必死に作り上げてきた偽りの自分。その全てが、母の残した日記によって、今、無残に破壊されていく。
「裁判長。これが原告の言う献身的な介護の実態です。これはもはや介護放棄、虐待と言っても過言ではありません。」
その言葉がとどめの一撃となった。姉は「ひっ」と短い悲鳴をあげ、その場にへたり込む。そして、次の瞬間、彼女は信じられない行動に出るのだった。なんと、私の方へ膝ではい寄ってきたのだ。
「さ、ごめんなさい。私が、私が全部悪かったわ。お願いだから許して。ねえ、聞いてるの?」
私の足元にすがりつき、ワンワンと泣き叫ぶ姉。その姿は哀れを通り越して、ただただ滑稽だった。
「ママ、ごめんなさい。もう嘘つかないから。だから、こんなのやめて。私のフォロワーが、私のブランドイメージが…」
結局、最後まで自分のことだけなんだ。今まで黙って耐えていた私も、もう限界だった。私は静かに立ち上がり、足元で泣きじゃくる姉を冷たく見下ろした。
「お姉ちゃん、あなたのその涙は誰のために流してるの?ママのため?私のため?違うわよね。自分のプライドと、失ってくいいねの数のためでしょ。」
私の言葉に、姉の嗚咽がピタリと止まる。
「もう二度と、私と母さんの名前を、あなたの汚い口にしないで。」
そう言い放つと、工藤先生が静かに続けた。
「裁判長、原告の茶番はもう十分でしょう。これ以上は時間の無駄です。」
裁判長の厳粛な声が響き、姉の訴えは退けられた。それだけでは終わらない。工藤先生は立ち上がり、最後の通告を突きつけた。
「リナさん。我々は、あなたが静子様の生前に行った窃盗、及び咲様に対する名誉毀損について、断固として法的措置を取ります。請求する慰謝料と損害賠償額は、合計で3000万円です。」
「さ、3000万…」
姉の顔から完全に色が消えた。彼女は「そんなお金ない。払えるわけない」と力なくつぶやき、とうとう床に突っ伏してしまった。
法廷の外に出ると、姉はネットニュースの記者たちにまたたく間に取り囲まれた。さっきまでの悲劇のヒロインは、今や3000万の賠償請求をされた嘘つきインフルエンサーとして、無数のカメラのフラッシュを浴びている。涙と汗でぐちゃぐちゃになったブランドの服を掴みながら、彼女は何かを叫んでいたが、その声は誰にも届いていなかった。
スマホの通知音が鳴りやまない。しかし、それは称賛のいいねではない。彼女の嘘に気づいたフォロワーからの罵詈雑言と、フォロー解除の冷たい通知。その全てが、姉を地獄の底へと突き落としていた。姉は金もプライドも、そして命よりも大事にしていた社会的信用も、その全てを失ったのだ。
あれから数ヶ月が経った頃、姉のリナは裁判に敗訴して全てを失った。世間からの信用、ちやほやしてくれていた友人、そして命よりも大事にしていたSNSアカウント。その全てである。先日、昔の職場の同僚から偶然連絡が入る。
「駅前でリナさんを見かけたけど、ひどい格好だったわ。あんなにこだわってたブランド品は全部偽物みたいで、髪もボサボサ。独り言をブツブツ言いながら、ずっとスマホの画面を睨みつけてた。」
誰にも相手にされない自分のSNSを、今でも見ているのだろう。かつて輝く太陽のようだった姉は、今や誰にも顧みられることのない孤独な影。自らが作り出した虚構の世界に、今も一人囚われている。
私は、母が日記に残してくれた本当の遺産を相続した。日記には、タワマン以外の本当の資産、つまり父が残してくれた資産の詳細や不動産情報、そしてそれらを私が正式に相続するための工藤先生への指示が、びっしりと書き記されていたのだ。それは私が想像もしていなかったほどの大きな資産だったけれど、お金以上にもっと大切なものが、日記の最後のページに記されていた。
震える手でページをめくると、そこには私だけに宛てた母の最後の言葉があった。
「咲へ。今までずっとあなたに厳しくしてごめんなさい。母が間違っていました。私はリナが甘えてくるままにお金を与えることが愛情なのだと、ずっと勘違いしていたのです。でも、あなたは昔から何もねだらなかった。だから、どう愛情を伝えたらいいのか分からなくて、気づけばいつもあなたを傷つける言葉ばかり。本当に不器用な母親でごめんなさい。」
母さんの本当の気持ち。ずっと聞きたかった言葉が、そこには綴られていた。
「私が自分の過ちに初めて気がついたのは、あなたが私の介護をしてくれた時でした。文句も言わず、ただ黙々と私のために尽くしてくれるあなたの姿を見て、本当の愛情とは何なのか、ようやく分かったのです。気がつくのがこんなに遅くなってしまって、ごめんね。私の最後の夢は、この資産を使ってあなたが幸せになること。今まで母親らしいことができなかった私が、最後にできることだと思います。過去に囚われず、未来に向かって幸せになることを信じています。」
日記の文字が涙で滲んで見えなくなる。ずっと私を苦しめてきた母からの愛情への渇望。その全てが、この数ページに込められた言葉で、温かく満たされていくのを感じた。
ありがとう、お母さん。長年の心の溝がスッと消えていく。私はもう大丈夫。母さんは私のことをずっと見てくれていたんだ。私が誰よりも本を愛していることを知ってくれていたんだ。涙が後から後から溢れてくる。でも、それはもう悲しみの涙ではない。
そして今、町の片隅に新しくオープンした小さな図書館で、私は館長を務めている。工藤先生のサポートもあり、母の夢だった図書館の設立はスムーズに進んだのだ。「日向文庫」。それは母の日記に書かれていた名前。日の光がたっぷりと差し込む館内は、子供たちの楽しそうな笑い声と、新しい本の匂いで満ちていた。
私はもう、誰かの影じゃない。母が残してくれたたくさんの愛情と夢が詰まったこの場所で、私は私の人生を胸を張って生きているのだ。



