「もういい。この無能君は首だ」
社長であり、両親が亡くなってからずっと世話になっている叔父にそう告げられ、俺はその場に呆然と立ち尽くした。前々から普通で何の取り柄もない人間だとは思っていたが、この程度で体調を崩すようなら君は普通ですらない。無能だよ。無能。
叔父は無能を強調するように繰り返した。体がどんどん重くなっていく。
「あ、この会社をやめるということは、もちろんうちからも出て行ってもらうということだからね。何の役にも立たない奴を置いておくほど、僕もお人好しじゃないから」
こうして俺は家族から追い出され、行く当てもなく途方に暮れることになった。だが仕方がない。全ては普通で何の取り柄もない俺が悪いのだから。
だけど、俺のそんな考えは、一人の美女と交わした契約によって大きく覆されるのだった。
「ま」という表札の掲げられた、親戚と言っても過言ではないほどの大きな家を眺めて、俺、中岡大和はため息をついた。私物を詰めたリュックサックは思っていたほど重たくない。それだけこの家に物を置いていなかった。いや、置く場所がなかったんだと気づいて、思わず自嘲が漏れる。
俺の両親は俺が大学生の時に亡くなった。それからはこの家の持ち主である叔父の元に身を寄せていた。就職も叔父が経営している会社に入社した。
「君の両親が亡くなった後、学費を払ってやっていたのは僕だ。生活費だって君を養っている分、余計に払っているんだ。その分しっかり働いてもらわないとな」
叔父はそう言って、発揮で俺をこき使った。元々ブラック企業の気がある会社だ。サービス残業は当たり前だった。さらに、社長に嫌われている俺は、周りの社員から格好の不満の吐け口として雑務を押しつけられたり、暴言を浴びせられたりした。
そのストレスが溜まったのか、先日一週間寝込んでしまった。その結果、叔父から首を言い渡され、家からも追い出され、今に至る。
再びため息をついてから、その場を後にした。とはいえ、行く場などあるわけがない。足は自然と行きつけの居酒屋「騎兵隊」に向いていた。ここは大学時代の後輩である高杉が店長を務めている店だ。
金がなく、一杯だけお酒を頼むのが精一杯の俺に、高杉はよくビールや握り飯、唐揚げなんかをサービスしてくれた。後輩に奢られるなんて情けないと思いながらも、俺は彼の心遣いをありがたく受け取っていた。
ここに来るのも最後になる。高杉には今までの感謝と別れを伝えないと。そう決意し、俺は店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい。あれ、大和先輩じゃないっすか。あれ、どうしたんすか?その大荷物は」
大した量でもない荷物を見て、高杉は目を丸くする。まだ開店して間もないはずの店内には、すでに数人の客がいた。それにも関わらず、高杉は俺をカウンター席に案内し、ビールを一杯置いて、俺の前に立ったまま動かない。話を聞く気満々だとわかる。
「いよいよ家出っすか?」
「家出じゃなくて、追い出されたんだよ。前から『普通だの凡人だの』と言われていたけど、とうとう『無能』のレッテルを押されてな」
高杉は「ひえっ」と小さな悲鳴をあげた。そんな彼が置いてくれたビールを喉に流し込む。なんだか味がしなかった。
「まあでも、良かったんじゃないですか。俺はいつ、先輩が先輩の能力を適正に評価しない親戚たちに見切りをつけるんだろうなって思ってたんすよ」
「俺が凡人なのは事実だからな。叔父のように大勢の社員をまとめ上げることなんてできないし、お前みたいに何年も流行るような店の経営もできない。特に取り柄のない普通の人間さ」
「大和先輩、何度も言いますけど、普通の人間なんていないんですよ」
「はいはい」と高杉の言葉を聞き流す。それは彼がよく俺に言うことで、耳にタコができるぐらいには聞き飽きていた。高杉は口を尖らせながらも、「家出ってことで、全部俺が持ちます」と言いながら、料理を次々に出してくれる。遠慮せずに食べることにした。そもそも家出じゃないし。
「それで、先輩、住む場所はあるんですか?」
「あるわけないだろう。しばらくはネットカフェだな」
鳥の照り焼きを頬張りながら、思わずまたため息を漏らした。
「あ、じゃあ先輩、俺の店で、私が雇ってあげようか」
高杉の言葉を遮ったのは、抜群に顔立ちの整った美女だった。顔を真っ赤にし、片手にピンク色の何かを持って、カウンターに座る俺を見下ろしている。突然美女にそんなことを言われたら、普通の人間は驚きのあまり声も出ないだろう。俺も例外ではなかった。
美女は「よいしょ」と俺の隣に座った。高杉がカウンターを離れて、彼女が元いたらしい席から食べかけの湯豆腐を持ってきて置く。
「それで、どうなのよ?働く?もちろん住み込みよ。悪い話じゃないと思うんだけど」
グイッと顔を近づけてくる彼女に、思わず後ずさりする。完全に酔っ払っている。こんな美女の元で住み込みで働くなんて、いい話があるはずがない。酔っ払いの戯言だ。
「あの、申し訳ないんですが、その話は…」
断りの言葉を口に出したその時、目の前の美女がいきなり机につっぷした。何事かと慌てるも、どうやら寝落ちてしまっただけのようだった。すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てている。
「あら、秋さんたら、しょうがないっすね。先輩、彼女を送り届けてくれませんか?」
「はあ?なんで俺が?」
高杉の言葉に驚いていると、彼は意地の悪い笑みを浮かべた。
「送ってくれないんなら、今日食べた分の代金払ってもらいます」
「今日は全部持つって言ったじゃないか」
「気が変わりました」
言葉をつまらせる俺。文句が言えない。
高杉に彼女、秋さんの住所を教えてもらい、彼女を背中に、リュックを腹に抱えて店を出た。教えてもらった住所に着くと、そこは金持ちしか住めないであろう高級マンションだった。もちろんオートロックだったので、意識のおぼつかない秋さんをなんとか起こして鍵を出してもらい、中に入る。そのまま彼女の部屋まで行き、失礼ながらお邪魔して、彼女をリビングのソファーに寝かせた。さすがに寝室に入るのは気が引けた。
「よし、俺の仕事は終わり。高杉のところに戻ろう」
踵を返したその時だった。強く腕が引っ張られて、ソファーに背中を打ち付けるはめになった。リュックを背負っていたから痛みはなかったけど。
「どこ行くのよ。だめでしょ。大人しくしなさい」
まだ顔の赤い秋さんが、眠そうに目を半分開きながら頬を膨らませて、不機嫌そうにこちらを見下ろしていた。ポカンとする俺を、彼女は構わず抱きしめた。
「よしよし、いい子だ」
嬉しそうに俺を撫でて、満足したのか、再びソファーに身を沈めた。どうすればいいのか分からなかった。心臓は早鐘を打ち、頭は真っ白寸前だ。そっと抜け出そうとするも、ますます強く抱きしめられてしまった。これでは動けない。観念して、俺はこの部屋で一泊することにした。
とても眠れるものじゃないと思っていたが、徹夜明けで出社した上に、叔父にきつい言葉を投げられて疲れていたのだろう。いつの間にか眠っていた。
気がつくと、カーテンの隙間から朝日が漏れていた。秋さんは俺から腕を離している。一泊させてもらったのだからと、俺は秋さんを起こさないように掃除と朝食の支度を始めた。
すっかり支度が整ったちょうどその時、秋さんが目を覚ました。
「おはようございます」
挨拶すると、秋さんはぼんやりと俺を見上げた。眠そうだった目が、次の瞬間大きく見開かれる。
「誰?」
「え、もしかして覚えてないんですか?昨日、騎兵隊で絡んできたじゃないですか」
「騎兵隊に行ったのは覚えてるけど、その後は確か犬を拾って…」
「犬?」
呆気に取られてしまった。俺のことを犬だと思っていたのか?なら抱きついてきた理由は分かるけど、その前に言った「住み込みで働け」という言葉が理解できなくなる。まあ、酔っ払いの言うことなんて、大体はむちゃくちゃだから意味はないのだろう。
秋さんが酔っ払って俺に住み込みで働かないかと持ちかけてきたこと。その後寝落ちしてしまったから、高杉に頼まれてここまで送ったこと。帰ろうとしたら抱きつかれてしまって、仕方なく一泊したことを説明すると、秋さんは納得してくれた。胸を撫で下ろした。これで納得してもらえず、警察に突き出すなんて言われたらどうしようかと思っていたのだ。
納得してくれた秋さんは、ふと不思議そうな顔をして食卓の方を見る。
「ところで、美味しそうな匂いがするんだけど」
「泊めてもらったお礼代わりに、朝ごはん作っておきました」
「え、そんな、私のせいで一泊するはめになったのに」
申し訳なさそうに眉を下げた秋さんだったが、食卓を見て目を輝かせた。彼女は朝はパン派のようだったので、置いてあったロールパンを主食に、オムレツとほうれん草とベーコンのソテー、ポテトサラダをおかずとして作っておいたのだ。
「ああ、こんな朝食らしい朝食を食べるの久しぶり。いただきます」
食事を取りながら、秋さんは「美味しい」と顔をほころばせてくれた。向かいの席に座らせてもらって、俺も食べる。誰かと食事をするのは久しぶりだったからか、とても美味しく感じた。
秋さんが食べ終わるのを見計らって、コーヒーを出す。「ありがとう」と言って、秋さんはカップを受け取った。
「ところでさ、掃除もしてくれてるみたいなんだけど、私全然気づかなかった」
「起こさないように掃除や朝食の支度なんて、お手の物です。叔父の家でやらされていたので。家族のうち一人でも起こすと怒られていましたから」
「でも、そのおじさんの家を追い出されたんだよね」
頷くと、秋さんは難しい顔をしながらコーヒーを一口飲む。
「私の働いてる会社はね、父が社長なんだ。星岡塾員っていう学習塾を運営している会社なんだけど、知ってる?」
「もちろん。小中高とお世話になりました」
そう伝えると、秋さんは「へえ」と少し嬉しそうにしたが、すぐにしかめ面に戻ってしまう。
「親戚も働いてるんだけど、社長令嬢の私に嫉妬してるんだと思うんだよね。これが口やかましくてさ。大和さんとは事情が違うけど、私も親戚たちの中に居場所がないんだ。だから、よく昨日みたいに騎兵隊で一人で飲んでるの」
「そうなんですね」
しんみりと相槌を打つと、秋さんが小さく音を立ててコーヒーカップを置いた。そして、まっすぐ俺を見る。
「あのさ、昨日私が言ったらしいことなんだけど、大和さん受けてくれない?」
「え?住み込みで働くっていう話ですか?」
「そう、探してたの。結婚相手を」
「け、結婚相手?」
思わず声が裏返ってしまった。初対面の俺と結婚しようというのか、この人は。
「ああ、違う、違う。期間限定の、いわゆる偽装結婚よ」
慌てて言い直した秋さんに、「なるほど」と納得すると同時に首をかしげた。どうして偽装結婚なんて。秋さんなら、そんなことしなくても結婚相手なんて選り取り見取りでしょうに。
「ありがとう。でも、私、結婚する気ないのよね。仕事に生きていたいっていうか。なのに、親戚のみんなったら、顔を合わせれば『結婚はまだか』とか『女が一人で生きていくのは無理よ』とか『行き遅れだね』なんて言ってきて、ムカつくのよ」
食卓の上で、秋さんは拳を握った。それは腹が立っても仕方がないと、彼女に同感する。
「うちの子会社のどれかの社長になれば、親戚たちも黙ると思うの。みんなもその椅子を狙ってるからね。一年で社長になって見せるから。その期間、私の夫という仕事をやってくれない?もちろん報酬は出す。家事さえしてくれれば、あとは何をしても構わないわ」
秋さんは真剣だった。実際、彼女の提案は魅力的だった。住む場所を用意してくれるのは、行く当てのない俺にとっては都合がいいし、それに一年間、家事さえしていれば何をしても構わないのであれば、就活にじっくり取り組める。
「わかりました。その仕事、やらせてください」
そう言うと、秋さんはにんまりと笑った。
六月に入り、俺と秋は結婚式を挙げた。招待したのは両家の親戚のみという質素なものになったが、親戚に馬鹿にされるわけにはいかないと、秋が式場と入念に打ち合わせをした結果、大多数の人が想像するような理想の結婚式となった。誓いのキスの時はすごく緊張した。これは偽装結婚という契約に対する誓いなのだと、自分に言い聞かせながら触れた秋の唇は、ひどく柔らかかった。
披露宴が終わり、疲労困憊になった。高砂に俺と秋が座り、周りを親戚たちが囲む。食事と食事の間に、秋のご両親がお祝いを言いに来てくれた。それを見て、他の秋の親戚も集まってくる。ご両親とは結婚前の挨拶の時に顔を合わせたけど、親戚とは初めてだった。彼らはみんな、披露宴の間中、俺を値踏みするかのような目でじろじろと見てきていた。今もそうだ。
ご両親が下がると、代わって前に出てきたのは、仏頂面をした女性だった。年齢は秋と同じぐらいだろうか。「紀子よ」と秋が耳打ちで教えてくれる。
「結婚おめでとう。あ、行き遅れのままかと思ってたから、安心したわ」
笑顔だが、明らかに言葉に悪意が含まれている。それを秋も感じているのか、眉間にしわを寄せていた。せっかく綺麗にしてもらっているのに、台無しじゃないかと不満に思っていると、不意に紀子さんがこっちを見る。
「それにしても驚いた。旦那さん、主夫するんだって。今時、共働きが普通なのに、ありえないわ」
紀子さんがそう言うと、集まっていた親戚たちが忍び笑いを始める。秋が机の下で拳を握ったのが、隣に座っていた俺にだけ見えた。秋はいつもこんな風に悪意にさらされていたのだろうか。そう考えると腹が立つ。
「今は多様性の時代です。多様性というのは、それぞれの価値観を認めて敬うこと。つまり、共働きの夫婦がいてもいいし、一方が外で働き、もう一方が家で働くという夫婦がいてもいいということだと、俺は思っています。夫婦は共働きじゃないといけないというのは、女性は仕事に行かず家事をやるべきだと言っているのと同じではありませんか?」
平静を装うよう心がけながらそう言うと、紀子さんは言葉を詰まらせた。そして、悔しそうに口を歪め、「ふん」と言って去ってしまった。親戚たちも気まずそうに高砂から離れていく。
追い返せたことにすっきりしていると、隣から控えめな拍手が聞こえてきた。
「すごいね、大和。今の、かっこよかったよ」
秋に褒められて、思わず顔が赤くなった。照れ隠しに「今のは余計じゃないか」と言えば、彼女はおかしそうに笑った。
結婚式も無事済ませて、俺たちの新婚生活、いや、契約期間が始まった。
「ただいま」
夕方の六時を回った頃に、秋は帰宅する。スーツから部屋着に着替えて、化粧を落とすのがいつものルーティンだ。そのルーティンが終わる頃に合わせて、俺は食卓に料理を並べておく。ちょうどご飯をよそった時に、化粧を落としてすっきりした顔の彼女がリビングに入ってきた。
「ああ、今日はステーキ。ステーキ用の牛肉が安かったんだ」
ご飯を置いて、食事の準備が完成すると、「いただきます」と二人で声を揃えて食べ始める。
「うん、美味しい。この人参のグラッセも好きな甘さ」
「それは良かった」
秋はもりもりとあっという間に平らげる。その食べっぷりには微笑ましいものを感じる。その後は、二人並んでソファーに腰掛けて、秋が録画しているドラマを見る。それが終わる頃に、お風呂が湧いたという知らせが給湯器から聞こえてきた。
「じゃあ、お先」
秋がお風呂に入っている間に、俺は食器を洗う。洗い終わって「やれやれ」と一息ついていたところで、秋が上がってきたので、今度は俺が入浴する。お風呂から上がると、秋はバラエティ番組を見ていた。真剣に見ているわけではなく、ただ映っていたからぼんやりと眺めているだけのようだ。その隣に腰掛けて、俺もテレビを眺めた。
出演している芸人の掛け合いが面白かったのか、秋が笑う。そんな彼女に、思わず頬が緩んだ。
「何?こっち見て笑って。何か私、おかしかった?」
俺の様子に気づいたのか、秋は不審そうに眉をひそめた。
「あ、いや、違う違う。こうやってると、本当の家族みたいだなって思って。一緒に食事したり、何気なく一緒に過ごしたりさ」
慌ててそう言うと、「なるほど」と秋は眉間のしわを取り除いてくれた。しかし、安堵できたのも束の間だった。秋が俺の膝の上に頭を乗せてきたのだ。いわゆる膝枕の状態になり、驚きと緊張で体が固まる。
「な、な、何を…」
「耳掃除をしてもらおうかなと思って。そしたら、より家族っぽいでしょ」
そう意地悪く笑った秋が指差した先には、耳かきが置いてあった。
「お風呂上がりに耳掃除はしない方がいいぞ」
「ええ、そうなの?お風呂上がりの方がすっきりする気がするんだけど」
「耳の中の皮膚が取れやすくなるから、良くないんだって。そもそも耳掃除はあんまりしない方がいいと思う」
「ええ、そうなんだ」
そう言いながらも、秋は体を起こそうとしない。お風呂から上がったばかりのせいもあって、体温がいつも以上に高くて、ドキドキしてしまう。
「うーん。大和って、なんかいい匂いするんだよね。安心するっていうか…」
秋の言葉は途中で終わってしまった。顔を覗き込むと、眠っている。仕事の疲れが溜まっているのだろう。明日は秋の仕事も休みだし、このまま寝かせておいてあげることにした。さっきからバクバクとうるさい俺の心臓が、いつまで持つかは分からないが。
暦の上では秋だが、まだまだうだるような暑さが続く。そんな夜、冷房を適度に聞かせたリビングで、俺と秋は向かい合って座っていた。
「それで、相談なんだけど、俺、起業しようと思うんだ」
「叔父に言われて簡単なものだけど、色々なIT系の資格を持ってるから、その方向で。秋だったら、このうちのどの企業と提携しようと思う?」
テーブルの上に、昼の間に作っておいた事業計画書を五つ並べる。秋は真剣な顔つきで、それら全てに目を通してくれた。ふと軽く息を吐いた秋の表情は、厳しいものだった。五つともダメだったかと落胆していると、彼女は意外な言葉を口にした。
「大和、うちの会社で働かない?」
「え?」
「うちの会社のシステム、古いのよね。それを改善して欲しいんだけど、どう?大和がどうしても起業したいって言うんなら、そっちを応援するけどさ」
言い終わった後、秋はぎゅっと唇を一文字に結んだ。その目は本気だった。それに答えたいという思いが、ひしひしと強くなっていく。どうしても起業したいというわけではなかった。ただ、これなら家で仕事ができるから、家事と両立できるなと思っただけだ。どちらにせよ、俺は彼女の助けになりたいのだ。ならばと、俺は秋の提案を受けることにした。
俺が承諾した瞬間の秋は、とても嬉しそうだった。
秋が勤める会社に入った俺は、早速彼女の要望通り、システムの刷新に取りかかった。秋が古いと言っていたのは、生徒の成績をまとめるシステムだった。一目見て、確かにこれは古いなと思った。生徒の成績を入力して終わり、というものだった。せっかくデータを収集しているのだから、他に活かせる方法があるはず。秋や先輩たちに色々教わったり、「こういうシステムがあればいいのに」という要望を聞いたりして、システムの改良に励んだ。
一ヶ月後に完成したのは、生徒の成績を入力すれば、自動的にその生徒の強みと弱みを分析するシステムだ。もちろん、入力するデータが多ければ多いほど精度は上がる。このシステムは、塾の講師なら誰にでも共有できるようにした。そうすれば、担当が変わっても指導しやすいだろうと思ったからだ。もちろん、セキュリティは厳重にしている。
成果は、さらに一ヶ月が過ぎた頃に現れた。講師の指導の質が上がったおかげで、生徒の成績が格段に上昇し始めたのだ。そのことが知れ渡り、入塾者が一気に増えた。うちの会社は、学習塾業界のトップに踊り出た。そして、なんと嬉しいことに、秋が子会社のうちの一つを社長として任されることになった。業績アップに一役買った俺を引き入れた、先見の明が認められたらしい。
「本当に一年以内に社長になれるなんて、すごいな」
「あ、大和のおかげだよ」
会社の社長に就任が決まった日の夜、俺と秋でささやかな祝賀パーティーを開いた。食卓には、俺が腕によりをかけて作った秋の好きな料理がずらりと並んでいる。
「秋が社長になったのって、何をする会社だっけ?」
「塾で使う教材を開発する会社よ」
俺が注いだワインを、秋が一口飲む。ふと、それまで嬉しそうにしていた表情に影が差した。
「一つ懸念することがあってね。その子会社に、紀子がいるのよ。部長としてね」
「紀子って、確かこの前、一番秋に当たりが強かった」
「そう。私が社長になるのを知って、あからさまに不機嫌にしてたわ」
秋が長いため息をついた。そんな彼女の取り皿に、鶏のトマト煮をよそって差し出す。
「何があっても、秋なら大丈夫だ。俺もいる。困ったことがあったら、俺を頼ってくれていいから」
「そうね。よろしく、大和」
そう言った秋は、トマト煮を食べて「美味しい」と微笑んだ。
子会社の社長に就任した秋は、早速教材開発に取り組んだ。
「オンラインで試験を受けられるシステムを開発しようと思ってるんだけど、大和も手伝ってくれない?父、社長には許可を得てるからさ」
秋に頼まれて、断ることは俺にはできない。「もちろん」と承諾して、俺はそのプロジェクトの一員として参加することになった。そこには、紀子さんもいた。
「こんなシステム、どこにだってあるじゃない。わざわざ今更開発なんてしなくても」
「オンライン受験には、まだまだ問題点があるの。そこを全てクリアしたものを作りたいのよ」
秋と紀子さんの間に火花が散る。そんな彼女たちを、社員はみんな「触らぬ神に祟りなし」と言わんばかりに遠巻きにしていた。
「このシステムには、社長も期待しています。だから、紀子さんも協力してください」
俺がそう頼むと、紀子さんは鼻で笑った。これまでのオンライン受験システムの改善点を洗い出し、どうすればクリアできるかを連日議論し、プログラムを構築していく。
システムが完成したのは、年明けだった。社内で動作を確認したが、問題はない。不正行為を見抜くプログラムはもちろん、記述問題もスムーズに入力できる。何かしらのトラブルが発生すれば送られる信号も、正常に作動した。
「明日、社長に提出するわ。みんな、お疲れ様。終業時間にはまだ早いけど、もう帰っていいわよ」
秋の言葉に、みんな嬉しそうに帰り支度を始める。俺も今日は完成祝いとして、少し凝ったメニューを作ろうかと考えていると、椅子に座ったままじっと動かない紀子さんに気がついた。難しい顔でパソコンを睨んでいる。
「どうかしましたか?」
話しかけると、紀子さんの肩がびくっと跳ねた。
「な、何よ。急に話しかけないでちょうだい。あんたなんかに関係ないでしょ。さっさと帰ったら」
怒鳴られて、少しひるんでしまった。ちょうどその時、秋がやってきて俺の手を取る。
「ほら、いいわよ。帰ろう、大和」
秋に引っ張られるまま、俺は会社を後にした。紀子さんの様子に、どことなく違和感を覚えながら。
翌日、虫の知らせを感じた俺は、朝早くに出社。秋さんはまだ寝ていたから、朝ごはんを作り、「先に行く」という趣旨の手紙を置いて出てきた。パソコンを起動させて、今日提出するシステムのプログラムを確認する。画面にずらりと並ぶ文字の羅列をざっと目で追っていく。途中で変な部分があったので、止まる。プログラムが書き換えられていた。小文字の「l」が大文字の「I」になっているというような、一見して分かりにくいものだった。だけど、これ一つでシステムに大きな誤作動が起きてしまう。
慌てて書き換えて、他にも何か探した。すると、さっきの書き換えと同じように微妙に違う部分が、十箇所も見つかった。全部書き直して、念のためもう一度見直して、何もないことを確認したところで、秋がやってきた。
「どうして私を置いて行ったの?」
「すまない。システムの最終チェックをしたくてさ。そしたら、プログラムが書き換えられてたよ。もう直したけど」
「え?」
ちょうどその時、社員がちらほらと出社してきた。その中には、紀子さんもいた。彼女を見つけた秋は、眉を釣り上げ、足早に近づいていく。
「紀子、あなた、システムのプログラム書き換えたでしょう」
「え、なんでもうバレ…」
驚いたように目を丸くした紀子さんは、自分の失言に気づいて慌てて口を抑えたけど、もう遅かった。秋がふんと鼻を鳴らす。
「大和が気づいたのよ。あなた、とんでもないことをしてくれたわね。私への嫌がらせか知らないけどさ」
「な、なんで、あの男が…。簡単な資格しか持ってないって言ってたじゃない」
紀子さんは唇をわなわなと震わせて、俺を見た。秋が眉をひそめる。
「あなた、大和が何の資格を持ってるか、その様子だとちゃんと聞いてないみたいね。簡単な資格だなんてとんでもない。難関と言われているネットワークスペシャリストを持ってるのよ、彼は」
「え?」
秋の発言に、紀子さんどころか周囲の社員たちまでが驚きの声をあげた。俺も驚いた。ネットワークスペシャリストが難関と言われているなんて、全然知らなかった。叔父に「これくらい取るのは当たり前。取れない奴は無能だ」と言われて、二度のチャレンジの末になんとか取得できた資格だった。一度落ちた俺は、無能なんだと思っていたのだが。
「このことは、社長に報告させてもらうから」
秋がそう言い放つと、紀子さんは顔を真っ赤にして、その場に膝から崩れ落ちた。しかし、同情の余地はない。嫌がらせのためだけに、みんなが苦労して作り上げたシステムを壊しにしたのだから。
その後、提出されたシステムは問題なく稼働した。社長は大喜びだったらしく、すぐに導入が決定した。紀子さんは懲戒処分が決まり、部長からただの平社員になった。社員たちからは針のような視線を浴びせられていて、肩身が狭そうだ。
そして、春がやってきた。秋との契約最終日まで、あと一ヶ月を切っていた。散る桜にため息が落ちる。もう少しだけでいいから、咲き続けていてくれないものだろうか。
「ねえ、契約の最終日は、騎兵隊でお祝いしない?あそこは私と大和が出会った記念すべき場所だし」
そう笑いながら言う秋さんに、頷くことしかできなかった。この関係を終わらせたくないと思っているのは、どうやら俺だけのようだったから。
そうやって刻一刻と迫る契約最終日に心を痛めていたある日。その日、秋は大学の友達と遊びに行っていて、留守にしていた。部屋の掃除をしていると、叔父から電話が来た。
「大和か。久しぶりだな。君の活躍は聞いている。星岡塾員の業績が伸びたのは、君のおかげだそうじゃないか。さすが、僕の甥だな」
鼻高々な叔父の様子に、思わず呆気に取られてしまった。
「それで、何の用ですか?」
「こっちに戻ってこい」
「戻ってこいって、元はといえば、あなたが追い出したんでしょ」
「なんだ、お前。散々世話になったこの僕に反抗するのか。それに、いいのか?お前の親のことをマスコミに流すぞ」
叔父の言葉に、思わずスマホを持つ手が強くなった。俺の両親は、叔父の会社で働いていたが、俺が大学生の時、会社のお金を横領した。両親は「やっていない」と固く否定したし、俺もそれを信じているけれど、父の銀行口座に確かに横領したお金が入っているという証拠が残っていた。警察の度重なる取り調べや、周囲の白い目に心が折れたのか、父はとうとう罪を認めてしまった。
三年の刑期を終えた父は、叔父の会社にはもちろんいられなかったから、新しい仕事を探したけれど、どこも「横領罪」という過去を持つ父を雇ってくれなかった。時にはひどい言葉を浴びせられたこともあったようだ。父は自ら命を絶った。母はそれがショックだったのか、間もなく父の後を追ってしまった。
「今、成長中の塾業界の会社のゴシップだ。マスコミは食いつき、星岡塾員は大炎上するだろうな」
叔父のニヤついた顔が目に浮かぶ。しかし、俺は何も言い返せなかった。俺のせいで会社、そして秋に迷惑をかけるのは、絶対に避けたかった。
通話を終え、俺は部屋を見回す。静寂がうるさいと思ったのは初めてだった。荷物をまとめると、リュック一つには入りきらなかった。仕方なく、もう不要であろうものをゴミ袋に入れる。そして、以前からこっそり用意していた離婚届を机の上に置いた。秋が必要事項を書けば、すぐに提出できるようになっている。
「契約期間終了には少し早いけど、いいよな」
呟いた言葉に、帰ってくるものはなかった。俺はリュックを背負って、部屋を後にした。
叔父の元に戻ってから、一週間が経った。俺は以前と同じように、発揮で叔父にこき使われている。ブラック企業の気は相変わらずで、サービス残業は当たり前。さらに、久しぶりに戻ってきた不満の吐け口に、周りの社員は鬼の首を取ったように俺に雑務を押し付け、暴言を吐く。正直しんどかったけれど、俺の親のことがマスコミに流されて、秋に迷惑がかかることに比べたら、苦ではなかった。だから、これでいいんだと思っていた。
「おい、大和、俺のコーヒーはまだか?」
「すみません。すぐに入れます」
叔父に怒鳴られて、俺は給湯室にすぐ向かった。コーヒーぐらい自分で入れろよと内心で愚痴る。これが秋さんだったら、自ら喜んで美味しいコーヒーを入れてあげようと思えるのだが。俺の入れたコーヒーを飲んで、ほっこりしている秋さんの姿が脳裏に浮かんだ。目頭がじわりと熱くなったが、それをぐっと飲み込む。
「急に押しかけてすみません、おじ様」
ふと、叔父の部屋から秋の声が聞こえた。いやいや、気のせいだろう。きっと秋のことを思い出していたからだ。ここのところ疲労も溜まっていたし、とうとう幻聴の症状が出たかと自嘲する。
しかし、俺はそれが現実であることを目の当たりにすることになった。コーヒーを叔父のところへ運びに戻ると、なんとそこに秋がいたのだ。秋は俺を見て、一瞬泣き出しそうな顔になったが、その顔はすぐに真剣なものに戻る。
「大和さんを返してもらいに来ました」
きっぱりとそう言う秋に、俺は目を丸くする。叔父と言えば、「やれやれ」と言わんばかりにわざとらしく長い息を吐き、肩をすくめた。
「離婚届を出したと、大和から聞いているよ。そちらの会社にも、きちんと辞職届は提出されているはずだが」
「どっちも受理していません。大和の本意ではありませんので」
思わず胸が詰まった。叔父と言えば、まっすぐに秋さんを見つめられているが、その態度は余裕だった。
「これはね、君のためを思ってのことでもあるんだよ。秋さん、大和の親は、うちの会社のお金を横領したんだ。彼は、そんな親の息子なんだよ」
「知ってます」
「知らずに結婚したとでも?」
秋の言葉に、「えっ」と声をあげてしまった。彼女はこちらを見て、微かに笑みを浮かべる。叔父の顔に、少し焦りの色が見え始めた。
「し、知っていたのか?まあいい。ならば、こうしようじゃないか。大和をそちらに返してもいい。だが、うちの会社と取引をするんだ。もちろん、こちらに有利な条件でだよ。もし受けないというのであれば、大和は返せないし、それに、彼の親のことをマスコミに流す。君と結婚しているということも、もちろんね」
「へえ。そんなこと言っちゃっていいんですか?私がここに一人で乗り込んできたと」
「でも、何?どういうことだ?」
叔父が眉をひそめた時、部屋の外が騒がしくなった。「ちょっと、勝手に入らないでください」という叔父の秘書の悲鳴が聞こえたが、「構わん」と言わんばかりに扉が開かれる。そこにいたのは、マイクを持ったレポーターらしき女性と、カメラを抱えた男性だった。
「こちらに、星岡塾員の社長令嬢、星岡秋さんがいると伺いましたが…あ、いました」
「秋さん、あなたは、この会社のお金を横領した中岡さんの息子さんと結婚していると聞きました。本当ですか?」
「本当です」
レポーターが差し出したマイクに向かって、秋さんはしっかりと頷いた。カメラがそれをばっちり収めている。
「なんだね、君たちは」
叔父が慌てたように立ち上がった。俺もコーヒーを叔父の机に置いて、秋の元に向かう。
「秋、何してるんだ?」
「大和、黙ってて。レポーターさん、あなたの言った情報には、嘘が混ざっています。会社のお金を横領したのは、大和のご両親ではなく、あの人の息子です」
秋の指の先には、叔父がいた。カメラがそちらにレンズを向けると、叔父の額に冷や汗が流れる。
「何を言い出すんだ?証拠があるのか?」
「ありますよ。なかったら、こんなところで堂々と宣言しません」
秋は鞄の中からUSBと書類を取り出し、レポーターに手渡した。
「これは、当時の営業担当を記した書類です。横領された顧客の担当は、大和さんのお父様ではなく、叔父社長の息子でした。叔父社長は、息子が横領したことを知り、大和さんのお父様に罪を着せようと。担当が大和さんのお父様だったと書類を改ざんし、顧客にも口を合わせるよう、お金を積んで頼みました。そして、彼の名義で口座を開設し、そこに息子が横領したお金を入れたんです。USBには、書類改ざんと口裏合わせの証言を録音したデータが入っています」
叔父は怒りで顔を赤くした。それから俺を睨み、レポーターが持つ証拠品を指差す。
「おい、大和、あれを奪え」
けど、俺は動かなかった。叔父は歯噛みするほどだった。
「大和、恩を仇で返すつもりか?」
俺は短く息を吐いた。目を吊り上げる叔父と、しっかり対峙する。
「お世話になった分は、もう十分返しました。それに、あなたからは、家族の大切さも教えてもらいました。本当の家族は、利用するんじゃなくて、助け合うものだと。つまり、俺を利用するだけだったあなたとは、どうやら本当の家族ではなかったみたいです」
「なんだと?」
とうとう頭に血が上り切ってしまったのか、叔父は拳を俺に向けて繰り出した。「大和!」という秋の悲鳴が聞こえたけど、俺の頭はひどく冴えていた。大振りすぎる叔父のパンチを避けて腕を掴み、そのままねじり倒した。叔父が逃げられないよう体重をかけていると、誰が呼んだのか、警察がやってきた。そして、叔父に手錠をかけて連行していく。パトカーのサイレンが聞こえなくなって、ようやく胸を撫で下ろすことができた。
「ちゃんと撮れてる?」
「うん。ばっちりよ。ありがとう、秋。これはいいネタだわ」
ふと見れば、秋とレポーターの人が何やら話し込んでいた。俺の視線に気がついたのか、秋が顔を上げる。
「ああ、この子は、私の大学の友達。この間遊びに行ってたの。大和のおじさんの悪事を暴く方法を相談するためだったの」
「そうだったのか。じゃなくて、なんでこんな無茶をしたんだ?」
思わず大きな声が出てしまった。秋がびくっと身をすくめる。
「ちょっと、怒らないであげて」
秋の友達がむっとした表情を俺に向けるが、秋がその肩に手を置いて「大丈夫」と言うと、秋の友達とカメラマンは帰って行った。
部屋に二人だけになり、改めて秋と向き合う。
「ちゃんと説明してくれないか。どうして俺なんかを助けに来たんだ。それに、俺の親のことを結婚前から知ってたって、本当か?」
秋はバツが悪そうに頷いた。
「実はね、大和のことは、騎兵隊の店長、高杉君からずっと前から聞いてたの。最初は、ちょっとした私の好奇心だったんだよね。高杉君がいつもサービスしてる、あの男の人は何者かなって。そしたら、高杉君は色々教えてくれて、大和がどれだけすごい人かとか、でも自分の能力を理解できてなくて、叔父が経営しているブラック企業なんかに務めていることとか、ご両親のことも、その時に聞いた。高杉君は、ご両親に会ったことがあって、とても横領なんてする人には思えなかったって言ってた」
「それで、大和と偽装結婚を始めてから、こっそり証拠を集めてたの」
「どうして、証拠を?」
「あなたが、たった一人の、私の特別な人だからよ」
秋が俺の手を握りしめた。どきりと心臓が跳ねる。
「お、俺みたいな、普通を絵に描いたような奴が、秋の特別だなんて、そんなこと…」
「じゃあ、大和、あなたは私のことをどう思う?どこにでもいる普通の女だと思う?」
「そんなことはない。秋は特別な人だ」
「それと一緒。この世界に、普通の人なんていないの。誰もが、誰かの特別な存在なの。私にとってのそれが、大和なの」
秋の言葉は、すんなりと俺の心の奥深くにまで届いた。涙が一筋こぼれ落ちる。
「ねえ、大和、私と、本当の家族になってくれない?」
「あ、もちろん」
手を握り返せば、秋は嬉しそうに笑った。
「それじゃあ、改めて、誓いのキスをしましょう」
そう言って、秋は目を閉じた。あの時と同じように緊張しながらも、俺はそっと彼女に口付けた。彼女の唇は、あの時と同じように柔らかくて、それから、甘い味がした。
秋の計らいで、退職ではなく休職扱いとなっていた俺は、翌日から早速出社した。そんな俺の元に、紀子さんがやってくる。
「あの、大和さん、すみませんでした。プログラムを書き換えたこと」
弱々しい声で謝罪の言葉を口にした紀子さんは、頭を深く下げた。
「私、この会社を辞めることにしました。みんなも、私がいない方が仕事しやすいと思いますし」
言葉を濁したけど、紀子さん自身がここにいづらいというのが大きな理由だということは伝わってきた。
「本当は先週、退職願を出そうと思ってたんです。けど、大和さんが休職されたって聞いて、あなたにも謝ってからじゃないと、寝覚めが悪いから、今日まで我慢していました」
「そうか。それは、申し訳なかった。それから、今までご苦労様」
顔を上げた紀子さんは、眉尻を下げて微笑んだ。
「秋さんのことなんですけど、あの人、あなたと結婚する前は、本当に意地悪な人で、いっつも私たちに喧嘩腰だったんですよ。私たちに対して。だから、秋に反発心が湧いて、ここの子会社の社長になって見返してやろうと思って、これまで仕事してきました。だけど、あなたと結婚してから、彼女は丸くなりました。私がこうしてすっきりこの会社を辞めることができるのは、そんな秋への反発心がなくなったというのもあります。大和さんのおかげです。本当にありがとうございました」
もう一度深く腰を折った紀子さんは、そのまま社長室へと赴いた。その毅然とした後ろ姿に、彼女ならきっと新しい会社でもやり直せるだろうと思った。
帰宅して、秋と一緒に夕ご飯を食べている時に、紀子さんに言われたことを話した。すると、彼女は小さくため息をつく。
「紀子たちのことを、勝手に競争相手だと思ってたのは、私だったのよ。彼女たちが社長の椅子を狙ってるって思い込んで、目の敵にして…。そのことに、もっと早く気づけていたら、助け合うことができたのに。せっかく、血の繋がった親戚なんだから」
「でも、気づけたじゃないか。今からでも遅くない。これから、紀子さんや他の親戚と和解していこう。そして、助け合っていこう。もちろん、俺も家族として協力する」
秋さんは、ふっと笑顔を浮かべた。
「ありがとう。本当に、あなたには感謝してる。偽装結婚の相手をあなたに選んで、本当に良かった。じゃなかったら、大切なことを取りこぼしたままだったわ」
机の上に置かれた俺の左手に、彼女は自分の手を重ねた。薬指にはめたお揃いの指輪が、かちりと小さな音を立てる。
「これからも、よろしくね。夫として、パートナーとして」
「ああ、もちろん」
食卓に和やかな空気が漂う。幸福でお腹がいっぱいになりそうだった。この世界に、普通の人なんていない。誰もが皆、誰かにとっての特別な人なのだ。だから、自分は平凡だ、無能だなんて嘆く必要はない。俺は、自分にとっての特別である秋を大切にする。同時に、彼女にとっての特別である自分のことも、大事にしていこうと思う。



