会議室の静寂を切り裂くように、上司の言葉が響いた。「君は冤罪だ。」
隣に座っていた瀬川さんは、その言葉に立ち尽くす。まるで視界が真っ白になるかのように。
「そんなの嘘ですよね。彼女が一体何をしたっていうんですか?」
思わず声をあげたのは、俺だった。
ここは大手製薬企業の一室。俺は地味な部署に所属する、入社して間もない若手社員だ。華やかな研究チームや営業で成果を上げる同期たちを横目に、毎日資料整理やデータ管理をこなしている。正直、社内での評価は高くない。それでも、地味に見える作業ほど命に直結する重大な責任があると信じて、この会社に身を置いてきた。
そんな俺の前で、同じプロジェクトに携わる女性が、極秘情報の漏洩だとか重大な虚偽報告だとか、ありもしない罪をなすりつけられている。
彼女は震える声で否定するが、上層部はまるで聞く耳を持たないようだ。
「裏切り者には法的措置も検討している。身に覚えがないだなんて、よく言えたものだな。」
冷ややかな上司の視線。容赦なく突きつけられる書類。そこには大量の研究データと、彼女に不利な証拠ばかりが並んでいる。こんなもの、どう考えても仕組まれているとしか思えない。
俺は心臓をわし掴みにされたような感覚に襲われながら、彼女の絶望的な横顔を見つめる。諦めきれない意思が宿る瞳と、震える唇。ごく最近まで、一緒にデータを突き合わせながら「絶対に患者さんのために新薬を完成させたい」と語り合っていたばかりなのに。
廊下の外では、ホーム担当者や顧問弁護士が控えているらしい。どうやら会社は本気で彼女を排除しようとしているようだ。
声を張り上げれば、俺まで巻き込まれてしまうかもしれない。けれど、俺の心はもう決まっていた。
「待ってください。話も聞かずに冤罪だなんて、あんまりじゃないですか。彼女が何を見つけたのか、ちゃんと確かめてからでも遅くはないはずです。」
俺の声が会議室に響く。その瞬間、上司はあからさまに鼻で笑った。
「若造のくせに口応えするとはな。お前みたいな下っ端に何ができる?下手に構うと、お前も一緒に首にしてやってもいいんだぞ。」
睨みつけるような視線。圧迫感で息苦しくなるが、俺はぐっと奥歯を噛みしめて言葉を継ぐ。この行動が、俺と彼女の運命を大きく変える始まりになるとも知らずに。
俺の名前は高野。製薬会社「桜ファーマ」で働く、いわゆる若手の平社員だ。部署は研究開発のサポート、データ管理を行うチーム。会社が進める大きなプロジェクトの裏方で、何かあれば書類整理や数値のチェックを任されるような地味な業務ばかりを引き受けている。
正直、社内にはいかにも華やかという部署がいくつもあって、そこに配属された同期たちは早くも頭角を表しているらしい。おかげで俺は「窓際扱い」だと陰口を叩かれることもあるようだ。
もっとも、そういう評価はあまり気にしていない。目立つ立場からは遠いけれど、俺にはこの会社に来た理由がある。サポート業務というのは、製薬の世界で言えば最前線の成果を支える土台みたいなものだと俺は思っている。研究開発のデータが正しく管理されていなければ、新薬の安全性や有効性を証明することはできないし、営業が外にアピールする際にも正確な数字がなければ意味がない。そう考えると、これらの地味な仕事には大きな責任が宿っているし、やりがいも感じる。
そして、俺が会社に入ってもうすぐ1年が経つ。華やかな研究室に配属された同期や、営業成績をドカンと上げて表彰されている同僚たちを横目に、今日も俺は目の前のデータと格闘している。書類を受け取れば受け取るほど作業量が増えていくけれど、不思議と嫌じゃない。情報を丁寧に拾い上げて、プロジェクトの成功を影から支えられる。それこそが、俺がこの会社で果たすべき役割だと信じているからだ。
俺の日常は、ある日思わぬ出来事をきっかけに大きく揺らぐことになった。
あれは週の半ばを過ぎたある日の午後だった。資料室に向かおうとフロアを歩いていた時、廊下の先から「キャッ」という短い悲鳴が聞こえたんだ。妙に印象に残る透き通った声。とっさに俺は小走りでその声の方へ駆け寄った。
そこには、両手に大きなファイルの束を抱えたままバランスを崩している女性がいた。足元を見ると、分厚い研究データのファイルが散乱している。彼女は踏ん張ろうと一生懸命に体勢を立て直そうとしていたが、そのままだと足をひねるか床に倒れ込んでしまうのは明らかだった。
「危ない!」
声をかけるのと同時に、俺は彼女の腕を引いてなんとか体を支えた。ドサッという鈍い音と共に資料のいくつかは床に落ちたが、彼女自身の怪我は免がれそうだと思った直後、彼女の足首がぐらりと変な角度に曲がるのが見えた。外側に過重がかかったらしい。
「大丈夫ですか?」
思わず彼女を支える腕に力を込める。彼女は顔を歪めて短く息を飲み、声にならない悲鳴をあげた。まさか捻挫を起こしかけているんじゃないか。それでも俺の腕の中でなんとか姿勢を保ち、すぐに「すみません。ありがとうございます」と頭を下げてくる。痛みをこらえているのが分かるから、とにかく応急処置が必要だった。
「ちょっとそこの空き部屋に入りましょう。」
落ちた資料を慌てて拾い上げる社員が周囲に何人か見えたが、とりあえず俺は彼女を支えながら近くの休憩スペースへ誘導した。
彼女は痛みを隠そうとしているのか、無理に笑って「ごめんなさい。ただどじっただけで」とつぶやく。だが足首周辺をちらりと確認すると、少し腫れが出始めている。放っておけば悪化するかもしれない。
「少し足を見せてもらっていいですか?」
俺がそう声をかけると、彼女は「あ、はい」と戸惑いながらも素直に了承してくれた。休憩スペースのソファーに腰掛けさせ、ゆっくりとパンプスを脱がせる。スーツの裾から覗く足首は、やはり腫れがうっすら目立っている。すぐに冷やさないと良くない。
こういう時、つい体が勝手に動いてしまう。俺は近くにあったタオルと冷却パックを探しに行き、それを彼女の足首に当てがって安静を促した。合わせて、万が一捻挫に問題があった場合を想定して、ソファーのクッションで足を少し高く持ち上げる。
「慣れてますね。」
彼女が不思議そうに笑う。俺は少しだけ苦笑して、「子供の頃、こういう処置の仕方を教わっただけですよ」とごまかしておいた。
「助かりました。高野さん、ありがとうございます。」
彼女がそう言ってくれた時、初めてちゃんと顔を見た。長い髪を一つに束ね、知的でありながら柔らかな雰囲気をまとった女性だ。社員証を見ると、瀬川と書かれていた。
「あの、瀬川さん。足首、少しひねっているかもしれない。念のため、午後は無理せず病院に行った方がいいですよ。」
俺がそう言うと、彼女は一瞬はにかむような笑みを浮かべ、しかしすぐに困ったようにまぶたを下げた。
「できればそうしたいんですけど、急ぎでまとめなきゃいけないデータがあって。研究部から渡された資料を精査しないと、プロジェクトが滞っちゃうんです。」
彼女が抱えていた大量のファイルは、どうやら新薬開発に関する重要書類らしい。俺も同じ会社の人間だから、新薬開発プロジェクトが大詰めであることは知っていた。社内では何かと話題になっていて、もしこの研究が成功すれば企業として大きな飛躍になる。そんな期待があちこちでささやかれているけれど、その分内部はピリピリしているのも事実だ。少しでもミスがあれば部署ごと責任を追求されるし、社内政治に巻き込まれる危険だってある。瀬川さんは、その中心に近いところで働いているらしい。
「でも、無理は禁物ですよ。」
「え、分かってはいるんですが。」
彼女は小さく息をついた。少しの間冷やした後、俺がとりあえず処置を終えようとすると、「手伝ってもらっちゃってすみませんでした」と申し訳なさそうに頭を下げる。その仕草はどこか儚げだ。完璧を装っているように見えるが、彼女の心の奥には何か深刻な問題を抱えている気がした。
それから数日、俺は瀬川さんと顔を合わせる機会が増えた。資料室や休憩室、それから廊下ですれ違うたびに、ちょっとした会話を交わす。怪我の具合はどうか、あれから忙しくしていないかなど。本来はただの社内トークに過ぎないが、俺には不思議な意識が芽生えていた。彼女の表情を見るたびに、この人は何を抱えているんだろうと気になってしまうのだ。
ある日のこと、俺は資料室でファイルを整理していた。周囲に人気はない。静寂の中で、ファイルのページをめくる音だけが響いている。すると入り口の方から小さな足音がして、そっとドアが開いた。振り返ると、瀬川さんだった。
「あ、高野さん、いましたか。ちょうど良かった。」
少しほっとしたような顔をしている。いつもの笑顔は形だけで、内心は焦っているようにも見えた。
「どうかしました?」
「実は、研究データの一部がおかしいみたいで。整合性を取るために過去のファイルを引っ張り出して確認する必要があって。でも急ぎすぎて、どれを探せばいいかよく分からなくなっちゃったんです。」
彼女が困ったように、資料の番号を書き出したメモを差し出す。数字やアルファベットが並んだそのメモは、一見しただけでは何の資料を示しているのか俺にも分からない。だが、少し時間をかければ社内のデータ管理システムで紐づく資料を割り出せるはずだ。
「どれだけ急ぎなんです?」
「急ぎで研究責任者に確認を取って提出したいんです。これがうまくいかないと、次のステップに進めなくて。」
こういう話は珍しくもない。新薬開発のプロジェクトが進めば進むほど、膨大なデータ管理が必要になる。たくさんの人間が関わり、少しでも誤差が出れば取り返しのつかない事態になることもある。俺は彼女の顔から緊迫感を読み取りながら、淡々と提案した。
「分かりました。俺が手伝いましょう。」
「あ、でも高野さんもお仕事あるんじゃ?」
「大丈夫です。ちょうど手が開いてますから。」
実際、俺は先ほどまでやるべき書類整理を終えていたし、ここ数日は大きな案件も抱えていない。こういうサポート業務は俺の役目の一つだ。瀬川さんは少し遠慮がちに笑い、そっと頭を下げた。
「すみません。ありがとうございます。助かります。」
その表情は、ほんの少し先日よりも素直に見えた。忙しさに追われて孤立しているのだろうか。そんな想像が頭をよぎる。
俺がダンボールの中から古い資料をいくつか取り出すと、彼女は積極的にファイルを広げて内容を確認し始めた。その目つきは真剣だ。研究者気質なのか、一度作業に没頭すると周りのことなど目に入らなくなるらしい。
「この辺りが怪しいんです。数値が合わないのは、もしかすると試験参加者のデータが重複しているんじゃないかって思うんですけど。」
彼女が小声でつぶやきながらページをめくる。その横顔は、美人というよりはどちらかといえば仕事にひたむきな研究者に見える。俺は彼女が指差した箇所を覗き込み、「こっちの報告書と照合してみましょうか」と提案する。すると彼女はすぐに「はい」と自分の手元の資料を見せてくれた。
こういう作業を何時間も続けるうちに、俺たちは自然とやり取りが多くなった。照らし合わせる数値、英語だらけの臨床データ、先行研究の論文。普通なら音をあげたくなるような地味で根気のいる仕事だが、不思議と彼女といる時間は苦ではなかった。
ちらりと彼女の横顔を盗み見ると、ふと考え込むような表情を浮かべている。書類をめくる手が止まったところを見計らって、「何か引っかかることでもあります?」と声をかけると、少しだけ迷った後、彼女は穏やかな口調で答えた。
「実は、私、子供の頃に重い病気の治療を受けていたんです。主治医の先生に『これがうまく効けば、もっと早く症状を抑えられるかもしれない』って言われた薬があったんです。新しく開発されたばかりで、私自身もよくわからないまま試したんですけど、当時の私はその薬を飲むたびに強い吐き気に襲われて、正直苦しさの方が勝ってました。それでも、あの薬のおかげで私はなんとか生き延びることができた。」
彼女の声には、懐かしさよりも悔しさと感謝が入り混じったような響きがあった。効果が全くなかったわけじゃない。ただ、その分だけ副作用も大きかったのだろう。彼女の小さな体が、その新薬のメリットもリスクもまとめて背負うしかなかった。
当時の記憶を振り返っているのか、彼女の瞳はどこか遠くを見つめている。
「あの薬は、私にとって最後の頼みの綱だったんです。周りの人たちも励ましてくれたし、実際それがあったからこそ救われた部分もある。でも、もっと安全な薬があったらって思う気持ちもあるんです。」
そこでふっと彼女は切なげに微笑んだ。
「だからこそ、新しい薬の開発には本気で取り組みたいんです。もしもっと早く、もっと優しい薬が作られていたら、私だけじゃなくて同じ病気で苦しむ人たちも、生きていくことに前向きになれたはずだから。」
彼女の言葉には飾り気がない。ただむき出しの思いがそのまま伝わってくる。単なる好奇心や出世欲なんかじゃなく、誰かの命を救いたいという彼女の願い。そのひたむきさに、俺は胸を突かれるような気持ちになった。ああ、彼女は本当に研究が好きなんじゃなくて、人を救う可能性が好きなんだ。
「そうですか。」
そう口にするのが精一杯だった。彼女は一瞬目を伏せるようにしてうつむくと、ファイルを抱きしめる。
「ごめんなさい。なんだか押し付けがましい話になっちゃって。」
「いや、そんなことないですよ。むしろ話してくれて嬉しいです。」
わずかに見えた彼女の微笑みは、どこか脆くも尊い輝きを帯びていた。小児期の苦しい治療から生まれた彼女の強い思い。それを聞いてしまったら、なおさら俺は彼女の作業を手伝わずにはいられなくなる。彼女の見る先には、かつての自分や今まさに苦しむ誰かがいて、そこに新薬の可能性が届く未来があるのだ。
その思いを裏切ることなく、共により良い薬を目指すために、俺は強くファイルを握りしめ、「俺にできることがあれば、遠慮なく言ってください」と言った。すると彼女は小さく頷き、これまでよりも少しだけ明るい表情で「ありがとうございます」とつぶやいた。今この瞬間、俺たちの間には確かな目指すべきゴールが繋がった気がした。
そうして何時間か粘った末、なんとか当該データの整合性を確認できた。時計を見ると、すでに定時を過ぎている。いつの間にか日はとっぷりと暮れて、社内も人が少なくなっていた。瀬川さんはファイルを閉じ、ほっと息をつくと俺に向き直った。
「本当にありがとうございます。1人じゃ間に合わなかったと思う。」
彼女の顔には安堵の笑みが浮かんでいた。捻挫した足首の調子ももう痛まないらしく、立ち上がって歩く姿には違和感がない。その笑顔を見ていたら、なんだか俺まで気持ちが軽くなるような気がする。けれど、その一瞬、彼女の瞳の奥に何か悩ましげな影が見えた気もした。
「でも、高野さんはどうしてそこまで手際がいいんです?応急処置もそうですけど、データの整理の仕方とか研究に関する知識とか、普通はここまでできる人ってそういない気がします。」
一瞬、鋭い質問だなと思った。彼女に悪気はないのだろうが、ズバリと確信に近いところを突かれた気分だった。俺は愛想笑いを浮かべて、持っていたファイルを閉じる。
「うーん。なんだろう。色々勉強する機会があったというか、量が良かっただけかもしれません。昔、色々……まあ、大したことじゃないです。あまり深く考えないでくださいよ。俺、器用貧乏なだけですから。」
そう答えてお茶を濁す。すると彼女はふっと笑い、それ以上は詮索してこなかった。どこか物分かりのいい大人の対応というか、こちらを傷つけない優しさが感じられる。俺はほっと胸を撫で下ろしつつ、気を引き締める。
「そういえば、足首はもう大丈夫ですか?」
俺が話題を変えるように尋ねると、彼女は「もうすっかり痛みもないです」と元気に答えた。今日は長時間立ち仕事をしていたから、本当なら痛みが再発してもおかしくないが、ひとまずは無事そうだ。
「よかった。あんまり無理しすぎないでくださいね。」
「そうですね。」
彼女は視線を落として、何か考え込むように口を一文字に結んだまま、しばらく言葉を探しているらしい。やがて、意を決したように顔を上げる。
「あの、またお願いしてもいいですか?」
「もちろん。遠慮なく言ってください。必要ならいくらでも手伝いますよ。でも、1人で全部抱え込んでないですか?」
まるで図星を突かれたように、彼女の目がかすかに伏せられる。肩をすくめるように小さく息をついた後、ぽつりと声を落とした。
「私がやらないと、意味がないんです。」
それ以上は語らなかったが、その声の奥にはどうしようもない苦悩がこびりついているのが分かった。俺はその言葉を飲み込みながら、「分かりました」とだけ答える。妙に張り詰めた沈黙が続き、やがて彼女は静かに微笑むけれど、その表情はやけに寂しげだった。
翌日、俺はいつものように研究データの管理や整理をしていた。すると急にオフィスの空気がざわつき始めた。
「ちょっと、瀬川さんのことで……」
「もしかして何か不祥事でもあったの?」
誰かがひそひそ話し合う声が聞こえる。嫌な予感がして廊下へ足を向けると、ちょうど先の方で瀬川さんが上司らしき数人と対峙していた。彼らは険しい表情でファイルを突きつけ、何かを一方的にまくし立てているようだった。その背後からは、部署の人間が心配そうに見守る姿が見える。
「どういうことですか?私、そんなつもりじゃ……」
瀬川さんの声が震えている。彼女の手元にあるファイルは、見覚えのある研究資料だ。懸命に説明しようとしているのに、上司の1人が厳しい口調で怒鳴りつけた。
「言い訳するな。極秘情報を外部に漏らしかけたんだろう。しかも報告内容に虚偽がある。このままでは業務妨害の疑いで訴えられてもおかしくないぞ。」
「え……」
思わず足が止まる。瀬川さんが情報を漏らした?虚偽報告?にわかには信じがたい。だが、どうやら上層部はそう断定して彼女を追求しているらしい。
「違います!」
彼女は必死に抗弁しているが、完全に取り合ってもらえていない。
「瀬川、お前のせいでプロジェクトが危機に陥ったんだぞ。首どころじゃ済まない。賠償請求だって検討している。」
そう告げる開発本部長の笹原部長。その冷酷な宣告に、オフィスの空気が凍りついたのを感じる。
なんで、そこまで急に。昨日まで真面目に資料を整理していた彼女が、たった1夜で極秘漏洩者扱いだなんて、あまりにも不自然だ。俺は駆け寄ろうと一歩踏み出したが、彼女に向けられるあまりの剣幕に動きが鈍る。
すると、視線を落としていた瀬川さんと目があった。ほんの一瞬、彼女は助けを求めるような視線をこちらに投げかけた。
胸が締めつけられるような感覚のまま、俺は慌てて彼女の近くまで行き、声をかけた。
「待ってください。瀬川さんが何をしたって言うんですか?」
「高野、お前には関係ないだろう。これは社の機密に関わる重大な話なんだ。」
上司が鋭い視線を俺に向ける。正直、俺の立場など社内では弱い。ここで口を挟めば、俺も責任を追求されかねない。しかし、そんなことを気にしている余裕はない。瀬川さんの硬直した表情が、それを全て物語っているからだ。
「失礼します。とにかく彼女の話を聞いてあげてください。もし彼女が本当にそんな不正を働いたなら、ちゃんとした証拠があるはずでしょう。」
一か八か。そう言葉をぶつけてみる。だが、笹原部長が鼻で笑うように答えた。
「証拠なんて山ほどある。あとは法的な措置を進めるだけだ。瀬川、お前にはもう会社に在籍する理由はない。」
彼らはそれだけ言い残し、瀬川さんを突き離すように資料をドサッと置いて廊下を去っていった。
辺りに残ったのは、彼女の絶望的な沈黙と、社員たちの戸惑うざわめきだけ。しばらくその場に立ち尽くしていた瀬川さんは、こぼれ落ちるように小さく息をついて、ふらりと廊下の壁に背を持たれさせた。
「瀬川さん、大丈夫ですか?」
声をかけながら、その手元の資料をそっと覗き込む。そこには、俺も少しだけ関わった新薬開発プロジェクトのデータが大量にまとめられていた。彼女が「これが承認されれば、みんなが喜んでくれる」と期待していたはずの研究。だが今は、それが彼女の首を絞める凶器のように扱われているのだ。
「私、会社の記録を調べてたんです。新薬の臨床データとどこか食い違う検体結果があって、もしかしたらデータを改ざんしてるのかもって。でも、そんな重大なことを黙っていられなくて、上に話を通したんです。そしたら、こういう仕打ちを……」
彼女は震える声でそう打ち明けると、資料をぎゅっと抱きしめるように胸に引き寄せた。
なるほど。彼女があれほど懸命に突き止めようとしていたのは、会社の不正の可能性だったのか。それがどうやら上層部の逆鱗に触れたらしい。
「私だって会社を貶めたいわけじゃないんです。ただ、もしこのまま間違ったデータを使って薬を承認したら、患者さんに何かあった時に取り返しのつかないことになるかもしれない。それが怖くて……」
声が裏返る。いつもは凛として孤立すら恐れない雰囲気の彼女が、今は心から助けを求めている。俺は彼女の肩にそっと手を置いた。
「どうしたらいいと思いますか?高野さん。私、もう解雇されるかもしれない。おまけに、あんな賠償請求なんて。私、何か悪いことしましたか?」
「瀬川さんは間違ってないと思います。」
そう言い切るしかなかった。真実はどうあれ、瀬川さんが不正を見つけたのだとしたら、少なくとも彼女は正しいことをしようとしている。そんな彼女が追い詰められるなんて、おかしい。だけど、上層部を敵に回したらどうなるか、俺だって分かっている。相手は権力と資金と法的手段を総動員してくるかもしれない。
「私、ずっとここで頑張って、いつかは世の中のためになる薬を作りたかったのに……」
初めて見る彼女の弱々しい姿に、心が軋む。言葉を失ったままの俺の腕に、彼女はしがみつくように身を寄せてきた。普段は絶対にこんなそぶりを見せないのに、よほど追い詰められているのだろう。
「瀬川さん、落ち着いて。どうにか方法を考えましょう。」
俺はなるべく穏やかな声で言いながら、彼女を支える。だけど、この状況をどう切り抜ければいいのか、はっきりとした答えはまだ見えない。ただ1つ言えるのは、このまま彼女を放ってはおけないってことだ。昨日まで地味に裏方業務をしていた俺が、今ここで立ち上がらなきゃいけないのかもしれない。理由なんて考えるまでもない。彼女が泣きそうな目をして「助けて」と訴えているなら、ほっておくわけにはいかないだろう。
「もし会社が本当に不正を隠そうとしているなら、まだ証拠が必要です。瀬川さんが掴んだデータの周辺、そこから掘り下げられるかもしれない。やれるだけやってみましょう。俺、手伝います。」
そう口にしてみたものの、頭の中ではもう1人の自分が警鐘を鳴らしている。下手をすると、俺も彼女も会社を敵に回し、どうしようもなく孤立してしまうかもしれない。それでも、足がすくむ思いに逆らうかのように、彼女の手をしっかり握った。怖くないといえば嘘になる。だが、俺はこの人の苦悩を見捨てるつもりはなかった。
「高野さん、ありがとうございます。」
瀬川さんの瞳に、かすかな光が戻る。
彼女の瞳に戻ったわずかな光が、しかしすぐに再び翳ってしまったのは、その日の夕方のことだった。瀬川さんは謹慎処分という形で、事実上の追い出しを言い渡された。出社は認められないどころか、社内ネットワークへのアクセス権も一時停止。急にそこまで厳しくするのは、どう考えても異常な対応だけれど、「内部告発の恐れがある社員を野放しにはできない」というのが上層部の理屈らしい。いよいよ会社は本腰を入れて彼女を排除するつもりだと、誰の目にも分かった。
俺もあれこれ動きたいところだったが、下手に表立って行動すれば、彼女と同じように処分される恐れがある。今のところは疑いが浮上していないというだけで、俺も万が一のスケープゴート候補になりかねないからだ。だからこそ、俺は会社にいる今の立場を最大限に生かし、こっそりと証拠となり得る資料を洗い出すことにした。日中は目立たぬように仕事をこなし、退社後にこっそりと調べる。そんな二重生活に近い行動を続ける日々が始まった。
それでも、瀬川さんと全く顔を合わせられないのはお互いに辛い。彼女は会社に来られない以上、外でやり取りするしかない。そこで俺はこっそりと連絡を取り合い、夜に一目につかない場所で落ち合っては、得られた情報を共有するようにした。ファミレスや図書館の資料スペース、あるいは夜の公園。いつもは早々に明かりが落ちる場所を頼りに、俺たちは密かに言葉を交わす。
その日も、会社を出て少し離れたビルの裏通りで彼女を待ち受けた。控えめな照明の下、顔を出した瀬川さんは相変わらず憔悴した様子だったけれど、どこかほっとした表情を浮かべて近づいてきた。
「高野さん、連絡ありがとうございます。どうですか?会社の方は……」
「相変わらずですよ。上は早期収束を最優先したいみたいで、瀬川さんがいなくなった研究部門では、徹底調査なんてやってるふりをしてるだけ。実態は何も明らかにしようとしない。むしろ、あなたを悪者に仕立て上げる証拠探しをしてるようにしか見えません。」
彼女の表情が曇ったけれど、唇を噛みしめ、「そうですか」と小さく頷く。もはや逃げ道は塞がれつつある。
俺はその様子を見てから、静かに声をかけた。
「でも、まだ手はあります。疑わしいデータの出所を特定できれば、上層部が改ざんの指示を出した形跡がつかめるかもしれない。少しずつ証拠を探してみます。」
「すみません、高野さん。」
彼女が申し訳なさそうに視線を落とす。だが、俺は首を振ってかぶりを振った。
「あなたのせいじゃないし。俺もこれが間違っていると思うから。誰かが言わないと、会社はずるずると不正を押し通してしまう。そんなの、見過ごせませんよ。」
彼女は驚いたように目をまたたかせた。
「どうして、そこまで……」
途切れた声をこぼす。俺は少し視線をそらしながら、正直な気持ちを伝えることにした。
「俺にも、譲れない信念があるんです。医薬の世界は、人の命に直結する分野ですよね。もしここで事実をねじまげるような連中が幅を利かせているなら、いつか取り返しのつかない被害を生むかもしれない。そんなのは、絶対におかしい。」
そう語るうちに、胸の奥から熱いものが込み上げる。瀬川さんは一瞬目を伏せたが、次の瞬間、潤んだ瞳で俺を見つめ、「ありがとう」と小さくつぶやいた。そのまま緊張が溶けたように肩を落とし、さやかに微笑む。俺は彼女の姿を見ると、改めて「守らなくちゃ」と決意を強めずにはいられなかった。
ところが、そんな夜の調査を続けて数日後、彼女の元に社内調査通知が届いた。内部監査部門の正式な通達で、そこには「速やかに出頭し、事情を説明せよ」といういかめしい文言が並んでいる。会社が本気で動き出した証拠だ。背任行為だとか重大な規定違反だとか、ありもしない疑惑がいくつも上げられていた。
俺は慌てて彼女と合うと、通知の書類をちらっと確認し、思わず言葉を失う。最後のページ、担当責任者として名をつらねているのは、父の法律事務所だった。顧問弁護士として内部調査の主導をバックアップすると明記されているのを見た瞬間、頭が真っ白になる。
「高野……そう一郎……」
思わず小声で読み上げてしまった。彼女が不安げにこちらを見上げる。
「この名前、知り合いなんですか?」
俺は一瞬答えに詰まったが、嘘をつくわけにもいかない。
「俺の父です。会社の顧問弁護士をしてるって話、前にしたことありましたっけ?」
「いえ、そこまでは……」
彼女の手元がかすかに震える。内部調査と称して最強の弁護士。しかも俺の父が裏で糸を引くということは、会社が瀬川さんを容赦なく追い詰めるつもりだということに他ならない。
「向こうは本気で事実関係をうやむやにして、あなたを追放する気でしょうね。しかも、もしデータ改ざんの疑惑が明るみに出るなら、それまでに握りつぶす。徹底的にやるつもりだ。」
そんな彼女は、うつむきそうになりながら書類を抱きしめる。その肩は、ずっと張り詰めているように見えた。
「高野さん、どうしたらいいんでしょう?このままじゃ、私……」
「大丈夫ですよ。落ち着いて。会社が社内調査を行うことは、まだ表沙汰になる前に決着をつけたいってことでもある。逆に言えば、調査の場で証拠を突きつければ、会社が不正を認めざるを得なくなるかもしれない。」
自分で言いながらも、腹のうちでは焦りが込み上げていた。何しろ、相手の代表として記載されているのは父だ。あの男は、会社側の利益を守るためならどんな手段も選ばない。下手をすれば、調査という名の瀬川さんの発言を封じる方向に持っていくだろう。けれど、だからと言って逃げるわけにはいかない。
「俺にできることは全部やります。会社の内部システムにはまだアクセスできますし、あなたと僕で突き止めたデータ改ざんの疑惑を、きちんと固めておきましょう。これ以上会社に情報を奪われないように、慎重に動く必要があるけど。」
彼女は目を見開き、そして小さく頷いた。瞳に宿る恐れと、ほんの少しの希望。その両方を抱えながら、彼女はか細い声でつぶやく。
「ありがとうございます。本当に、私1人じゃどうしようもなかった。調査なんて言われても、何をされるか……」
「俺も怖いですよ。でも、あなたが見つけた不正をこのまま放っておくのはおかしい。やるしかないです。」
そう言った瞬間、彼女の瞳が弱々しく揺れながらも、どこか決意を帯びた光に変わっていくのを感じた。会社が仕掛けてきた内部調査。その場はきっと、一方的に彼女を追求するための舞台装置だろう。だが、こちらには本当のデータがある。彼女の誠実さを踏みにじる連中に、何としてでも一矢報いる必要があるのだ。
翌朝、内部調査が行われるという連絡が来た。場所は社内の会議室ではなく、なぜか外部の研修施設。おそらく会社の上層部は、極力内輪の問題として処理したいのだろう。俺は謹慎処分に近い扱いを受けている瀬川さんの付き添いとして、呼び出しに応じる形で車両に同乗することになった。
車内は重苦しい沈黙に包まれている。運転席には会社のホーム担当者らしき人物が乗っており、助手席には俺たちを監視するように、父の事務所の若いスタッフが座っている。瀬川さんは後部座席で硬い表情のまま黙り込み、俺がその隣で寄り添うように座っている格好だ。
「すみません。こんな形で付き合わせて……」
「俺の方こそ、あなた1人で行かせるわけにはいきませんし。」
小声でやり取りをしながら、かすかな緊張が込み上げてくる。これから行われる聞き取りと称した内部調査は、実質的に瀬川さんに不利な材料を集め、彼女を排除するための場だ。胸に嫌な汗が浮かんだ。
到着した先は、無機質な会議室だった。長机が2列向かい合わせに並び、一方にはホームと監査部の人間。それから会社の上層部と役員が数名。彼らは瀬川さんに冷たい視線を向けてくる。もう片方には俺と瀬川さんが座るように促され、芯と張り詰めた空気のまま、短い挨拶もなく調査が始まった。
「瀬川さん、まずは本件について、あなた自身の言葉で説明してもらいましょう。」
橋に座っているのは、父の法律事務所の若手弁護士らしい。背後には父の姿があった。強い眼差しでこちらを一瞥すると、まるで鼻で笑うかのように目を細める。
「えっと……」
瀬川さんが震えた声で切り出したところへ、早速役員の1人である開発本部長の笹原が、矢継ぎ早に口を挟む。
「君が虚偽の報告をしたという疑惑が出ている。社外に機密を漏らそうとした形跡もある。いかなる理由があっても、そのような行為は到底容認できない。」
「違います。私が見つけたデータの改ざんは、むしろ……」
「うんざりなんですよ、瀬川さん。勝手に改ざんなどと言われても、濡れ衣を着せられている気分だ。根拠はどこにあるんです?」
高圧的な態度に、瀬川さんが言葉を失いかける。しかし、隣にいた俺は耐え切れず口を開いた。
「瀬川さんが発見した数値のずれには、きちんと記録があります。元のデータと最終報告が食い違ってる事実は明白です。」
すると、開発本部長の笹原が鋭い目をこちらに向けた。
「高野君だっけ?そもそも君にその調査権限なんてあるのか?ただのサポート業務の若手社員が、どの立場で口を挟んでいる?」
彼らにとっては、俺など窓際部署の下っ端社員に過ぎない。だが、だからこそ俺は強い気持ちで言い返した。
「1社員ではありますが、法的知識を有しています。かつて弁護士資格を取得しましたので、会社の就業規則や業務上の法的側面も確認しながら手伝っているんです。」
「弁護士?」
その場の空気がわずかに揺らぐ。父は腕を組んだまま動かないが、ちらりと俺を睨みつける。まるで「余計なことをするな」と言わんばかりだ。
「信じられないなら、後で資格番号でも確認してください。私が言いたいのは、瀬川さんが不正な行動をしたわけではないということです。むしろ、これだけ重大な問題を社内で握りつぶそうとする方が問題でしょう。」
若手弁護士がやや顔を曇らせて反論しかけるが、その前に父が静かに口を開く。
「家から逃げ出したと思えば、お前がやりたかったことは、こんな弁護士の真似か。」
冷たい笑みを浮かべる父の一言で、室内の空気が凍る。周りは突然の親子関係に気づいてざわめき出したが、父はお構いなしに続ける。
「散々私が時間と金をかけて育ててやったというのに、弁護士になった途端に家から飛び出し、今更こんな場で偉そうに語るとは。中途半端な真似をして、何がしたい?」
痛烈な皮肉。しかし、俺はここで引くわけにはいかない。逃げ出した過去は事実だが、それは俺が自分の道を選んだ結果だ。視線をそらさずに、父に対してはっきり言い返した。
「父さんこそ、会社のために真実を歪めようとするのは、弁護士として正しいんですか?法的手続きを乱用して、彼女をスケープゴートにするのがあなたの仕事ですか?」
その言葉に、父はふっと息を漏らすだけだった。若手弁護士や役員たちが「なんだこれは」と戸惑う中、瀬川さんは唇を噛みしめながら小さく息をつく。
「あの、私の発見した数字の改ざんについて、もう少し詳しく説明させてください。実は、この臨床試験の結果データと最終報告書が、まるで別物で……」
彼女がファイルをテーブル上に広げると、開発本部長の笹原が苛立たしげに言い放つ。
「またその話か。根拠はあるのか?副作用が強く出たという報告は、そもそも見当たらないが。」
「いえ、ここに実際の被験者の症状と血液検査の数値があります。それからカルテのコピーも。どう考えても、最終的なレポートの改善傾向とは合致しないんです。」
資料を差し出す彼女の手が震える。すると父は若手弁護士に目くばせして、何かを言おうとする。だが、俺はその前に声を張った。
「法的に見ても、これだけ原データと最終報告に開きがあるなら、コンプライアンス上も大問題です。社内倫理規定にも抵触する。ましてや医薬品に関わるデータですから、患者さんの安全にも直結します。要は、データ改ざんの疑いが濃厚なんですよ。」
そう告げたところで、笹原部長がわざとらしい咳払いをしながら睨んできた。
「高野君だっけ?それは一体誰の意見だ?ただの推測に過ぎないだろう。難しい単語を並べればいいってもんじゃないぞ。」
一瞬、鼻で笑うようなその態度に、俺はぐっと奥歯を噛みしめる。目の前に並ぶ上層部の役員たちは、まるで無理な言いがかりを黙らせようとでもいうかのように、一斉にこちらを見下ろしていた。けれど、ここで折れるわけにはいかない。
「推測ではありません。医師免許を持つ者として、改めて数値を精査した上で指摘しているんです。」
俺が静かにそう言うと、連中の表情が一斉に強張った。
「医師免許だと?そもそも君、ただの平社員のはずじゃ……」
湧き上がる困惑と動揺。その隙を逃さず、俺は手元の資料を開き、テーブルの上に並べる。
「こちらは被験者Aの診療記録。そしてこっちは臨床試験の原データです。先ほど『難しい単語』とおっしゃいましたが、例えば炎症マーカーや、AST、ALTを含む血液検査結果は、医療従事者なら誰でも重要視する項目です。投与後に数値が上昇しているのに、最終レポートには副作用や悪化の兆候は見られず、むしろ改善したと書かれている。これはどう考えても矛盾しています。」
「あるいは測定ミスという可能性は……」
「もちろん、測定機器や検体処理の誤差はありえます。でも、ここまで極端に情報修正された結果だけを取り上げて『改善した』と断言するのは、医療現場では考えられないことです。普通なら再検査や異なる施設での再測定を行うなど、慎重に検証を重ねるのが当たり前です。ところが、最終報告にはそんな記述が一切ない。」
淡々と資料を示す俺に、彼らは面食らったような顔をする。誰かが「バカな」とつぶやき、別の者は「そんなはずは」と書類をめくり始めた。数名の視線が、顧問弁護士である父の方へちらりと向かうが、父は腕を組んだまま口を開かない。
「つまり、貴重な臨床データが雑に扱われ、しかも改ざんされた可能性が高いということです。医者としても看過できません。医薬品の開発は、患者さんの命や生活を左右する重大な仕事なんですから。」
俺は静かに言い切った。会議室には一瞬、ピリッとした沈黙が落ちる。すると、笹原部長がわざとらしく咳払いをして口を挟んだ。
「だが、君が医師免許を持っているとしても、それは個人的な見解ではないのか。企業として公式に契約した医者の意見とは言えないだろう。専門家の証言を得るなら、社外の公正な機関に依頼すべきじゃないか。」
「そうですね。でも、その公正な機関や専門家に依頼される前に、あなた方は瀬川さんを虚偽報告だと決めつけた。それこそおかしくありませんか?この段階でデータの精査も確かめず、彼女を懲戒や訴訟の材料にするのは、どう見ても不自然ですよ。」
俺がそう言い放つと、笹原はぐっと言葉に詰まった。周囲に座る役員たちも、居心地が悪そうに書類をめくるばかりだ。会議室には重い沈黙が落ちるが、そのタイミングを狙ったように、俺は1枚の書類を取り出した。
「実は、もう1つ見過ごせない事実を掴んでいます。」
封筒からスライドさせたのは、会社の財務資料と関連する外部企業の取引明細をまとめたコピー。ホームや経理部が閲覧できない一部データに、不審な金額のやり取りが示唆されていた。俺はそれをテーブル上に並べ、指で示す。
「新薬の臨床試験を行うにあたって、こちらの関連企業に異常なペースで多額の資金が動いているんです。いわゆる『コンサル料』という名目がついていますが、実態はただの袖の下。賄賂の可能性が高い。これを見れば、改ざんデータを作っていたのが誰の指示だったかも見えてきます。」
会社側の役員たちが、あからさまに動揺し始めた。笹原などは「こんなもの、どこで手に入れた!」と声を荒げるが、俺はあくまで冷静を装う。瀬川さんも息を飲むように書類を見つめたまま固まっている。初めて見る数字の羅列が、そのまま会社の裏工作を物語っていたからだ。
「この金の流れが、改ざんされた報告書を黙認させるための代償ではないか。当たり前ですけど、患者さんのための研究費がこんな形で使われているなら、到底許されない行為ですよね。」
言葉を重ねるたび、役員たちの顔色が青ざめていくのが分かる。そんな中、開発本部長の笹原が大きく机を叩きつけるように立ち上がった。
「こんなの嘘っぱちだ!どこから手に入れたか分からない怪しい資料を持ち出して、勝手なことを言うな!」
苛立ちをあらわに叫ぶ笹原に対し、周囲の役員の視線がさらに厳しく注がれる。すでに彼らの顔には動揺が隠しきれない。笹原は思わず、弁護席に座る父に目を向け、苛立ち混じりに声を上げた。
「高野先生、あなたの息子は一体何者なんですか?こんな根拠不明な書類で会社の信用を損ねるだなんて、黙って見過ごすんですか?早くなんとかでもして、息子さんを黙らせてくださいよ。」
だが、父は何も言わず、静かに書類に目を落としていた。周囲が注視する中、父は深い息をついて、やがて低い声で問いかける。
「本当に、ここに書いてあることは事実なのか?」
まっすぐに見つめられた俺は、ファイルを人差し指で弾くように示しながら応じる。
「公的機関に開示請求すれば、一瞬で裏が取れるはずですよ。今まで内輪で隠せていたかもしれませんが、表沙汰になったらどうしようもない。これは紛れもなく、会社が動かした金の流れを示す証拠です。すでに俺は複数の関連文書も控えていますから。」
父は黙って聞いたまま、眉を潜めてうつむく。そんな姿に苛立ちを募らせた笹原が、さらに声を荒げる。
「ま、結局、息子をかばっているだけじゃないですか。こんな書類には納得できませんよ。彼が捏造したかもしれないじゃないですか。」
まるで最後の悪あがきのように叫ぶ笹原。ところが、父はその言葉に反応して、ゆっくりと首を横に振る。
「かばう?いや、こればかりはかばいようがない。笹原さん、私も会社を守るために最善を尽くしてきましたが、これほどの証拠が出た以上、弁護し続けるのは難しい。はっきり言って、負けます。」
「そ、そんなバカな!あなたは会社の顧問弁護士でしょ。どうにかならないんですか?」
青ざめた笹原が父に食らいつくように問いかけるが、父は揺るぎない口調で続ける。
「今回の不正は明らかだ。データの改ざんだけでなく、賄賂と疑われる資金の流れが判明している。こんな証拠を突きつけられたら、勝てるわけがない。どうやって正当化するつもりだ?」
父が突き放すように言い放つと、笹原は「う、うるさい。そ、それは……」と大きく肩を震わせたまま言葉を失う。すると、会議室の橋から社長が重々しい口調で声をかけた。
「笹原、本当なのかね?これはどういうことなんだ?」
「し、社長、私はただプロジェクトの成功を早めようと、そのスピードアップを図っただけで……」
わけのわからない弁解を始める笹原。周囲の幹部や監査役たちが次々と厳しい目を向ける中、彼はついに追い詰められたようにうなだれた。もう逃げ場はないと悟ったのだろう。か細い声で「申し訳ありません」とつぶくと、後は何も言えなくなってしまう。
そんな笹原の姿を見下ろすように、父は静かな声を落とした。
「詰めが甘かったですね。社外の監査はもちろん、社内でさえ隠し通せるわけがなかった。私も会社を守るために全力を尽くしてきましたが、これ以上は擁護のしようがない。」
深く落胆した空気が会議室を支配する。一部の幹部や役員が「信じられない」「なんてことだ」とささやき合い、瀬川さんの方を伺う。彼女は息を詰め、俺の隣で蒼白になった顔をそっと上げていた。
「お疲れ様、瀬川さん。あなたは間違ってなかった。」
俺がそう声をかけると、彼女はかすかな笑みを浮かべて頷いた。ずっと追い詰められていたスケープゴートの立場から、一気に名誉を回復する瞬間。そんな安堵が、ゆっくりと彼女の表情に染み渡っているのが分かった。
一方の笹原は、社長に「事実を洗いざらい報告しろ」と厳しく指示され、何かを言おうとして喉が詰まったようになっている。今までの威勢は見る影もなく、まるで虫の息だ。こうして社長や上層部の前で、会社の不正がはっきりと明らかになった。もはや隠し通すことなどできない。会議室は、まるで竜巻が過ぎ去った後のように、一種の虚脱感に包まれている。
やがて幹部連中が次々と退席し、残されたのは俺と瀬川さん。それから、書類を抱えたまま沈黙する父の姿だった。父は深く息をつき、わずかに肩を落として顔を上げる。
「今回の件は、明らかに会社に責任がある。私はこれまで会社を守るために争うつもりだったが、もはや擁護する余地はない。改ざんにせよ、裏金にせよ、真実を歪めてはいけない。」
ぽつりと落ちる父の言葉には、凛とした決意が込められていた。どこか重苦しい会議室の空気を断ち切るように、父は息をついて背筋を伸ばし、俺をまっすぐに見据える。
「それにしても、お前が弁護士の資格を取ってから家を飛び出した後、まさか本当に医者になっていたとはな。」
「医者になりたい」と言った時は、単なる思いつきだとばかり思っていたが。その声には、皮肉な響きよりもむしろ驚きと戸惑いが混ざっているように感じられる。父はさらにつぶやいた。
「医者になる夢を口にしていた頃、お前を止めたのは私だ。弁護士一家の後取りとして育てたのに、母さんが亡くなった途端に医療の道へ進もうだなんて。当時の私は、とても受け入れられなかった。」
父が視線を落とすのを見ながら、俺は自然と幼い頃の記憶に引きずり込まれる。俺がまだ小学生の頃、父も母も弁護士事務所に務めていた。家では法律の専門書が山のように積まれ、事件についての難しげな会話が日常茶飯事だった。そんな両親から「お前も将来は弁護士になるんだ」と繰り返し言われて育った俺は、当然のように法律の道を歩むものだと信じて疑わなかった。
だが、大学に進学した頃、母が突然病気で倒れてしまった。病院を行き来する毎日の中で、父は弁護士として多忙を極め、母も医療の説明を十分に受けることが難しいまま、やがて息を引き取った。母を救えなかったという強烈な喪失感。それが俺に医者という道を意識させた大きなきっかけだ。
けれど、父は「お前は弁護士になればいい。家の後を継げ」と言って張る。望む言葉は聞いてもらえず、俺はやむを得ず司法試験を受ける形になった。そして資格は取ったが、どうしても母を救えなかった悔しさが胸に残っていたのだ。
「患者を直接助けたい。」
そんな思いに突き動かされるまま、俺は家を飛び出し、もう一度医学部を目指して勉強を始めた。父と完全に決裂しても、医者になる夢だけは諦めきれなかった。
「でも、なんで今はこの会社にいる?医者として働けばいいだろう。」
父の問いかけは、まるで過去のわだかまりを超えて、今更素直に疑問をぶつけるような響きがあった。答えに詰まる俺を見て、隣にいた瀬川さんがふと一歩前に出る。
「そのことなんですけど、私、高野さんから少し事情を聞いています。話させてください。最初は私も不思議だったんです。法的知識もあり、医療の知識もある彼が、どうして製薬会社で地味に働いているのかって。」
俺は慌てて「瀬川さん、もういいですよ」と静止しようとしたが、彼女はかぶりを振り、意を決したように続けた。
「でも、高野さんは言っていました。お母様が倒れてしまった時に、自分は無力だった。医者になってみて、確かに患者さんを直接治療できるけれども、それでも救えない人はいる。そこでもう一歩踏み込んで、薬の開発や改良が進めば、もっと多くの人を救えるんじゃないかと感じたそうです。実は、お父様のことも気にしてたんですよ。お父様には拡張型心筋症という持病があって、大掛かりな手術で劇的に治るものではない。将来的には薬の進歩が鍵になるかもしれない。だから、製薬会社に入って研究や開発を間近で支えたい。そう言ってました。お母様を失った悔しさを、もう繰り返したくないんだと。」
父は息を飲むように瞳を見開いた。瀬川さんは構わず言葉を継ぐ。
「そんなバカな。」
父は小さくつぶやき、俺の顔を凝視する。やがて絞り出すように問いかける。
「……本当なのか。私のために、わざわざ医者から製薬会社に進んだのか。」
視線がぶつかる。父の声に宿るのは、驚きと何か言い表せない揺れ。俺は少し呼吸を整えてから言葉を発する。
「母さんを救えなかった悔しさは、ずっと背中にのしかかってたんだ。父さんの体も、いつか同じように失ってしまうんじゃないかって。医者として働く中で、薬の可能性に気づいて、もっと根本的に病や苦しみを取り除けるんじゃないかと思った。もう、大切な人を失いたくなかったんだよ。」
それだけ言うと、父は驚いたように目を見開いたまま、しばらく何も言えない。会議室の騒動から一転、今は2人きりのような空気になっている。瀬川さんもそっと口を閉じ、父と俺のやり取りを見守っていた。
やがて、父の硬い表情がほぐれていく。まるで長い間抱えていた心の霧が晴れるかのように、深く息を吐き出して、小さく頷いた。
「そうか。そんな思いがあったとはな。俺はずっと、お前が医療に興味を持つなんて、一時の気の迷いだと思ってた。無理やり弁護士にさせればいいと。だが、お前は母さんを亡くして、それでも諦めず医者になり、さらに薬の可能性を求めてここまで来たのか。」
父の声には、かすかに感情が詰まっているように思えた。まるで自分の知らなかった息子の本心を初めて知るかのように。困惑しながらも、納得しようとしている。最後に、父はかれた声で言い絞った。
「悪かったな。俺はお前を道に縛りつけようとばかりして、何も聞いてやらなかった。お前が家を飛び出した理由も、今なら分かる。本当に、すまなかった。」
涙がこぼれる寸前のような父の横顔に、俺も胸が締めつけられる。後ろで瀬川さんが小さく息を飲むのが分かるけれど、きっとこれが俺たち親子にとっての和解の一歩なのだろう。俺はそっと首を振り、静かな声で返した。
「父さんが厳しく育ててくれたおかげで、弁護士としての知識も、医師としての視点も生かせる。今は感謝してる。母さんを失った悔しさは、俺だけじゃなく父さんも同じだったんだよな。」
それを聞いて、父はかすかに微笑む。長い間すれ違っていたものが、ようやくその正体を見せて、少しずつほどけていく感覚。背後で瀬川さんも安堵の息をつき、静かに見守っている。
この一件で、会社の不正は明るみに出た。瀬川さんの潔白も証明され、俺と父の確執も溶けかけている。もう、大切な人を失わずに済む道を、俺たちは少しずつ取り戻している。そんな実感が、廊下に差し込むかすかな光のように、胸に広がっていった。
それから数週間後、社内では不正を主導していた笹原部長が、全ての証拠を突きつけられ、責任追求を免れなくなった。かつて高圧的に瀬川さんを追い詰めていた彼が、今や世間の批判を浴びてひっそりと退職する姿を見ると、正直やるせない気持ちもある。でも、あれほどの悪意を秘めた人間を野放しにしては、また同じような不正が繰り返されるかもしれない。だから、今は会社として正しい決断を下したのだと思うしかない。
おかげで、瀬川さんが追われていた解雇や賠償請求の話は全て白紙撤回。むしろ、彼女が内部不正を食い止めた被害者であり、誠実な研究者だったことが社内外に知れ渡った。そんな彼女の研究が、思わぬ形で俺の父の病気にも大きく貢献することになるとは、誰も想像していなかった。
父の病は、大掛かりな手術では改善しづらい慢性的なもので、新しい薬の開発や治療プログラムが鍵を握る。瀬川さんは、その分野の研究を深めていたのだ。彼女の地道な試験データの解析や海外論文の調査が実を結び、ある有望な新薬を見い出すことにつながった。
「私1人の力じゃなくて、たくさんの研究者が積み上げてきた成果があったから。ただ、私が少しだけ背中を押せたというか、そんなところです。」
彼女はそう謙遜するが、彼女の誠実かつ粘り強い姿勢は、父の病気を改善する1つの光となった。実際、社内でも「瀬川さんの調査がなければ、あの重要情報は見落とされていたかもしれない」と評判になっている。
「ありがとうな、瀬川さん。俺も父さんも、あなたには本当に感謝してる。」
研究室で書類を抱える彼女にそう声をかけると、「いえ、私こそ」と照れ臭そうに笑みを浮かべる。かつては1人で抱え込んでいた彼女が、今や仲間に囲まれ、次のプロジェクトへと意欲を燃やしている。その姿は、とても輝いて見えた。
父は相変わらず口下手で不器用な親父しか述べられない人間だけれど、「あの子は大した研究者だな」とぽつりと漏らすのを、俺は聞き逃さなかった。瀬川さんはその後も開発部門と連携しつつ、父の病気に適用できそうな最先端医療技術や新薬情報を引き続き探っているのだという。彼女は今や、会社の未来さえも左右する存在になりつつある。
一方、俺自身も部署移動の話を打診された。裏方サポートしかやってこなかった俺だが、この騒動で「法の視点を生かして欲しい」という声が上の人間から出たらしい。研究やコンプライアンスの強化を図るプロジェクトに参加して欲しいと言われ、「やらせてください」と答える。事務的な書類整理だけに追われていた以前の自分を思うと、まるで別人のような決断だけれど、弁護士と医師両方の知識を無駄にしたくない気持ちが大きい。
そんな報告を瀬川さんにしたのは、まだ誰もいない早朝の研究室だった。資料を広げながら「ついに打診を受けることにしたよ」と切り出すと、彼女は「そうなんですね」とパッと明るい笑顔を見せた。それが朝日に眩しく見える。
「高野さんなら、絶対にうまくいきますよ。きっと私なんかよりずっと……」
「あのさ。」
言葉を重ねる前に、思わず俺は彼女の名前を呼んでいた。元々は敬語混じりで「瀬川さん」と呼んでいたけれど、この時ばかりは声が震えるのが分かる。彼女は不思議そうに首をかしげる。
「え?」
「今まで、本当にありがとう。君がいなかったら、多分俺は会社に埋もれたままだったかもしれないし、こんな風に新しい一歩を踏み出せなかったと思う。」
彼女は照れ臭そうに笑って、「いえ、私の方こそ」と目を伏せた。少しの静寂。ラボの白い光が、彼女の横顔を柔らかく浮かび上がらせる。その一瞬、胸がドキリと高鳴る。
「俺、君をもっと支えたいし、君と一緒に前に進みたい。もし迷惑じゃなければ、俺のそばにいてくれませんか?」
息を飲むほどシンプルな言葉だったが、彼女は瞳を潤ませながら、はっきりと頷いた。
「はい。私も、高野さんと一緒にいたいです。」
その場で手を重ね合うだけのぎこちない仕草が、却って胸を熱くした。彼女の手のひらから伝わる優しい温度が、これからの未来を鮮やかに描いてくれるようだった。彼女は照れ隠しなのか、「この後、ちょっとだけお茶でも……」と目を伏せてつぶやく。すると、俺も思わず笑ってしまう。
「うん。休憩がてら行こうか。」
こうして、研究室の朝の静寂の中、俺たちはさやかな約束を交わした。まだ先のことなんて具体的には分からないけれど、守りたい人と共に歩む場所があるだけで、世界はこんなにも心強くなる。そのことを改めて噛みしめながら、俺は彼女の手を離さずに研究室を後にしたのだった。



