その年も剣一は杖をつきながら、苔むした石段を一段ずつ踏みしめていた。息が切れる。心臓が早鐘を打つ。六十八歳という年齢のせいだけではない。この精月寺へと続く参道は、彼にとってただの道ではなく、過去の罪を背負って歩く終わりなき贖罪の道だった。晩秋の冷たい風が山肌を滑り降りてくる。彼の吐く白い息に混じって、ふと甘く重たい香りが鼻先をくすぐった。金木犀。金木犀だ。剣一は思わず足を止め、胸元を強く掴んだ。この季節にはもう散っているはずの花の香りが、なぜか今、強烈に漂ってきたのだ。
「まさ子、お前、今年も俺を呼ぶのか。」
喉の奥で押し殺した声は、誰に届くわけでもなく虚空へ消えた。十年前のあの日も、庭には金木犀が満開だった。そしてあの日、彼が妻であるまさ子に浴びせた言葉は、今も鋭い刃物となって剣一の心臓に刺さったままだ。
「いい加減にしろ。二度と俺の前に顔を見せるな。」
それが最後の会話になった。その日のまさ子は交通事故にあった。警察からは損傷が激しく、顔での判別は不可能と言われた。剣一は恐怖と罪悪感から遺体と対面することさえ拒絶し、震える手でただ骨壺だけを受け取ったのだ。
「俺が殺したんだ。あの一言があいつを死へと追いやったんだ。」
剣一は重い足取りで山門をくぐり、本堂へと向かった。本堂にはすでに多くの参拝者が座り、低い読経の声が響いていた。線香の煙が白く立ち込め、視界をぼんやりと霞ませている。彼はいつもの場所、本堂の右端にある太い柱の影に膝を下ろした。ポケットから数珠を取り出す。国端の冷たい感触が指先から全身へと伝わった。目を閉じ、手を合わせる。
「まさ子、すまない。今年も来たよ。許してくれとは言わない。ただ……」
その時だった。閉じた瞼の裏を一筋の風が通り抜けた気がした。堂内の空気がふっと変わったのだ。線香の匂いに混じって、先ほどの金木犀の香りがまた鼻先をかすめた。剣一は引かれたように顔を上げた。視線の先、本堂の奥にある長い回廊を、一人の尼僧が静かに歩いていくところだった。灰色の衣をまとい、白い足袋を履いた足取りは音もなく滑るようだ。顔は見えない。だが剣一の目はその背中に釘付けになった。少し左に傾いた華奢な肩のライン。そして、数珠を握りしめた右手の親指で人差し指の付け根を落ち着きなく何度も擦る、その仕草。
どくん、と心臓が痛いほど跳ねた。全身の血液が逆流し、指先の感覚が一瞬で消え去る。
「まさか……そんなはずはない。あいつは死んだんだ。十年前に俺が葬式を出したんだ。これは幻覚だ。罪悪感が見せる悪い夢に違いない。」
だが剣一の体は意思とは裏腹に動いていた。痺れた膝を無理やり立たせ、よろめく足取りで柱の影から身を乗り出した。声にならなかった。しかし、その視線を感じ取ったのか、回廊を行く尼僧の足がぴたりと止まった。ゆっくりと、あまりにもゆっくりと、尼僧が首を巡らせる。堂内の読経の声が剣一の耳から遠ざかった。時が止まるとはこういうことか。
尼僧の顔が半ば影になりながらも、剣一の方を向いた。深い皺が刻まれている。眉は剃り上げられ、青白い。だがその目。大きく見開かれ、潤んだ瞳。悲しみを湛えたその目は、十年前、彼が怒鳴りつけた時にまさ子が見せた目、そのものだった。剣一と尼僧の視線が線香の煙越しに絡み合う。間違いようがない。骨格も、眉の形も、そして何より、自分を見て明らかに動揺し、唇を震わせているその表情。
「まさ子、なのか。」
剣一の唇が動いた瞬間、尼僧ははっとしたように表情を固くし、まるで何か恐ろしいものから逃げるように素早く袖で顔を隠した。そして逃げるように回廊の奥へと早足で消えていった。
「待ってくれ、まさ子!」
剣一は叫ぼうとしたが、喉が張り付いて音が出ない。その場に崩れ落ちるように膝をついた。彼の手のひらには、知らず知らずのうちに力が入りすぎて、引きちぎれた数珠がばらばらと床に散らばっていた。乾いた音が、静寂を取り戻した本堂に虚しく響き渡る。死んだはずの妻が今、目の前にいた。十年前の骨壺の中身は、一体誰だったというのか。剣一の目から、血よりも濃い涙が溢れ出した。
玄関のドアを閉めた途端、剣一は膝から崩れ落ちた。三和土の冷たさがズボンの生地を通して膝頭に染みてくるが、立ち上がる気力もない。静まり返った家の中、古びた柱時計が時を刻む。ボーン、ボーンという重い音だけが耳鳴りのように響いている。
「俺は、とぼけたのか。」
震える手で靴を脱ぎ、這うようにして居間へ入る。薄暗い部屋の空気がじっとりと肌にまとわりつく。精月寺で見たあの尼僧の残像が、瞼の裏に焼きついて離れない。あの目。あの右手の指を擦る癖。だが、そんな馬鹿な話があるものか。剣一は自分の頬を両手で強く叩いた。痛みで正気を取り戻そうとした。
「あいつは死んだんだ。十年前に俺がこの手で骨を抱いたんだ。」
しかし否定すればするほど、記憶の蓋がこじ開けられていく。脳裏に蘇えるのは、十年前のあの日、九月三日の朝の光景だ。あの朝、まさ子はいつものように台所に立っていた。だがどこか手際が悪かった。弁当のおかずを詰める手が震え、味噌汁が少し鍋にこぼれていた。当時の剣一は、会社での重圧と人間関係のストレスで神経が擦り切れていた。些細なことが許せなかった。
「おい、何をもたもたしてるんだ。俺を遅刻させる気か。」
怒鳴り声に、まさ子はびくっと肩を震わせ、小さく謝った。
「ごめんなさい、あなた。少し体が重くて……」
「言い訳なんて聞きたくない。お前は家にいるだけでいい、気楽な身分だから。そうやって甘えてるんだ。」
言葉はエスカレートした。止まらなかった。剣一はスーツの上着をひったくり、玄関へ向かった。追いかけてきたまさ子が背中に向かって何かを言おうとした、その時。彼は振り返りもせずに吐き捨てたのだ。
「うるさい。もううんざりだ。二度と俺の前に顔を見せるな。」
バタンと乱暴にドアを閉めた音が、二人の別れの合図となった。その数時間後、警察から電話が鳴った。
「奥様と思われる女性が交通事故に巻き込まれました。身元確認を……」
警察署の暗い廊下。消毒液と土の匂いが混じった。若い警察官は言った。
「遺体はその車の火災に巻き込まれておりまして、損傷が激しく、お顔を見ての確認は難しいかと。」
剣一はその言葉に頷いてしまったのだ。直前に浴びせた暴言。もしまさ子の亡骸が自分を恨むような顔をしていたら。その恐怖に耐えられなかった。彼は白い布をめくる勇気を持てず、震える声でただ答えた。
「妻のコートです。間違いありません。」
DNA鑑定も待たず、状況証拠だけで全てを終わらせた。早く何もかもを忘れて、罪の意識から逃れたかったからだ。
「俺が殺したんだ。」
剣一はソファーに顔を埋めた。顔を見せるなと言った俺の呪いを叶えるためにお前は顔のない遺体になって帰ってきた。そうだろう、まさ子。夕闇が濃くなる中、剣一はふらりと立ち上がり、仏壇の引き出しを開けた。そこには生前のまさ子が微笑む写真がしまってある。家族旅行で撮った一枚だ。震える指で写真を取り出し、ガラス越しに妻の顔を見つめる。優しく垂れた目尻。控えめな口元。やはり今日見たあの尼僧と重なる。重なりすぎて恐ろしい。
「お前なのか。本当にそこにいたのか。」
剣一は衝動的に写真の裏板を外した。写真を直接手に取り、その感触を確かめようとした時だった。写真と裏板の隙間に挟まっていた、変色した四つ折りの便箋がひらりと床に落ちた。
「え……十年、一度も気づかなかった紙片。」
心臓が嫌な音を立てる。剣一は床に膝をつき、その紙を拾い上げた。指先が震えてなかなか開けない。がさりと乾いた音を立てて開かれた紙には、見慣れた、しかし乱れたまさ子の筆跡で、短い一文だけが記されていた。
「あなたが望む通り、私は消えます。さよなら。」
息が止まった。これは遺書か? それともあの日の朝、家を出る前に書いたものなのか? 「あなたが望む通り」、それはつまり「顔を見せるな」という俺の言葉への返事なのか。だとしたら、あの遺体は……もしまさ子が死んでおらず、自らの意志で消えたのだとしたら……
「うわあああ!」
剣一の絶叫が、誰もいない家にこだました。手の中のメモが、まるで焼けつくように熱く感じられた。
父の家の重い玄関扉が閉まる音が、背中で鈍く響いた。歩みはしばらく、ドアの把手に手をかけたまま動けなかった。剣一の様子があまりにも異常だったからだ。十回忌の法要を終えて帰宅した後、父はまるで何かに取り憑かれたかのように青ざめ、歩みとお茶を飲むことさえ拒んで自室にこもってしまった。
「疲れたから寝る。帰ってくれ。」
追い立てるその声は震えていた。
「お父さん、一体どうしちゃったの?」
車のシートに身を沈め、歩みは大きくため息をついた。エンジンをかけても、すぐにはアクセルを踏めない。ワイパーが小雨を払う規則的な音だけが車内を満たす中、彼女の脳裏にもまた、法要ですれ違った一人の尼僧の姿がこびりついていた。法要の最中、父が突然立ち上がりかけた、あの瞬間。歩みは父の視線を追った。そこにいたのは、灰色の衣をまとい、足早に回廊を去っていく小柄な背中だった。一瞬だった。顔など見ていない。だが、その尼僧が角を曲がる寸前、ふと立ち止まり、こちらを振り返るような素振りを見せた時のことだ。歩みの胸の奥で、言語化できない強烈な既視感がざわざわと波打った。あの立ち姿。少し猫背気味で、左肩が右肩よりわずかに下がっている。それは母、まさ子の特徴だった。長年家族のために重い買い物袋を左手で持ち続けたせいでついた、母の生活の証とも言える身体の癖だ。
「まさか。お母さんは十年前に死んだから。」
歩みは自分に言い聞かせ、アクセルを踏み込んだ。母が亡くなったあの事故。警察からは遺体の損傷が激しいと聞かされ、棺の蓋は釘打ちされていた。歩み自身も、まだ幼い悲しみと混乱の中で、父が言うままに現実を受け入れるしかなかった。骨になって帰ってきた母。その事実だけが揺るぎない真実のはずだ。しかし自宅マンションに戻っても、あの左肩の下がった背中が頭から離れない。父のあの慌てぶり。ただの幻覚を見たにしては、反応が生々しすぎた。
夜中の一時過ぎ、眠れなくなった歩みはベッドサイドのスマートフォンを手に取った。画面の明かりが暗い部屋の中で彼女の深刻な表情を青白く照らし出す。検索窓に「精月寺」と打ち込む。古くから有名な寺だが、最近は若手の僧侶がブログやSNSで修行の様子を発信していることでも知られていた。画面をスクロールする指が、ある記事で止まった。タイトルは「秋の特別法要のご報告」。数日前にアップされたばかりの記事だ。本堂の写真、住職の説法、色づき始めた紅葉の写真が並ぶ。歩みはさらに過去の記事へと遡った。何を探しているのか自分でも分からないまま、ただ胸騒ぎに従って指を動かし続ける。そして、半年前の「境内の清掃」というタイトルの記事を見つけた時、彼女の指が凍りついた。
そこに写っていたのは、竹箒を持って庭を掃く尼僧の後ろ姿だった。顔は映っていない。遠目からのスナップ写真だ。だが、歩みは画面をピンチアウトして拡大し、息を飲んだ。袈裟の裾を少し短めにまくり上げている足元。そして何より、箒を持つ手の位置だ。右手を上に、左手を極端に下の方に添える独特の構え方。母は掃除が好きだった。実家の庭を掃く時、母はいつも「こうすると腰が痛くならないのよ」と言って、全く同じ持ち方をしていた。写真の下には短い紹介が添えられていた。
「こちらで修行を積まれている尼僧、無心尼。言葉を発することはなく、過去の全てを捨てて仏道に入られました。その名の通り、心を無にしてひたすらに庭を清める姿は、参拝者の心をも洗うようです。」
無心尼。言葉を発しない。言葉がないって、どういうこと? 歩みの心臓が早鐘を打つ。もしこの人が母だとしたら、なぜ生きているのか。なぜ言葉を捨てたのか。そして、なぜ父はあんなにも怯えていたのか。歩みはさらに画面を拡大した。画質が荒くなり、ドットが目立つ。それでも彼女は見逃さなかった。袈裟の襟元からわずかに覗く左側。そこに、小さな黒い点が映っている。
「うそ……」
歩みは口元を手で覆った。それはただのシミかもしれない。画質のノイズかもしれない。だが、歩みの記憶の中の母の首には、確かに同じ場所に小さなほくろがあったのだ。幼い頃、母の背中におぶさった時にいつも見ていた、あのほくろが。
「お母さん、生きてるの?」
問いかけは深夜の部屋の静寂に吸い込まれた。画面の中の無心尼は何も語らず、ただ静かに背を向けているだけだった。歩みは震える指でその画像を保存すると、明日一番で父を問い詰める覚悟を決めた。この背中が母ならば、十年前の骨壺に入っていたのは、一体誰だったというのか。
翌朝、東の空がわずかに白み始めた午前五時。剣一の車は深い霧に包まれた参道をヘッドライトで切り裂くように登っていた。昨夜は一睡もできなかった。ポケットには、写真の裏から出てきたあの変色したメモが入っている。「あなたが望む通り、私は消えます。」その文字が心臓に張り付いて離れない。確かめなければ。ハンドルを握る手は脂汗で滑り、視界は寝不足と緊張でぼやけている。だがアクセルを緩めることはできなかった。もし彼女が生きているのなら、俺の言葉が彼女を殺したのではなく、俺の言葉から逃れるために彼女が死んだふりをしたのだとしたら。それは罪の許しになるのか、それともより重い罪の始まりなのか。
精月寺の駐車場にはまだ一台の車もなかった。車を降りると、晩秋の早朝特有の針のように鋭い冷気が頬を刺した。吐く息が真っ白に凍る。静寂。鳥の声さえまだ聞こえない。ただ、山門の奥から規則的な音が響いてくるだけだった。ざっ、ざっ、ざっ。砂利を掃く音だ。剣一は吸い寄せられるように門をくぐった。白い霧の向こう、本堂前の広場に灰色の影が一つ動いている。昨日見たあの尼僧だった。彼女は一心不乱に地面を掃いていた。腰を低く落とし、全身を使って箒を動かす。そのリズム、その背中の丸め方。剣一の記憶にある、朝早くに庭掃除をしていたまさ子の姿と完全に重なる。近づくにつれ、心臓の音が鼓膜を叩く音が大きくなり、箒の音をかき消しそうになった。あと五メートル。剣一は乾いた喉を無理やり震わせた。
「まさ子。」
箒の音が唐突に止んだ。早朝の冷たい空気が、その瞬間に凍りついたようだった。尼僧は背を向けたまま、ぴくりとも動かない。その肩が小刻みに震えているのが見て取れた。やはり聞こえているのだ。自分の声が。剣一は一歩、また一歩と距離を詰めた。砂利を踏む自分の足音が爆音のように大きく聞こえる。
「まさ子。何故だ? 生きていたのか? 俺のせいで、こんなところで十年も……」
尼僧がゆっくりと振り返った。袈裟の襟を立て、顔の半分は隠れている。だが、その目。昨日よりも近くで見るその目は、恐怖と深い悲しみに濡れていた。目尻の皺、一本一本までが、剣一の知っている妻のものだ。
「おい、何か言ってくれ。俺だ。剣一だ。あの朝のことは……」
剣一は手を伸ばした。その腕に触れようとした、その時だ。
「人違いです。」
低く、擦れた声だった。しかしその声の響き、抑え方。それは十年前に失ったはずの妻の声、そのものだった。剣一の動きが止まる。
「ええ、私は無心。無心尼という名のものです。俗世の縁は持っておりません。どうぞ、お引き取りを。」
尼僧は視線を剣一からそらし、拒絶するように箒を抱きしめた。言葉遣いは丁寧だが、その態度は氷のように冷たい。
「嘘だ。その声、まさ子じゃないか。なんで他人のふりをするんだ!」
剣一が叫び、一歩踏み込むと、彼女は短い悲鳴をあげ、だっと踵を返した。
「待ってくれ!」
彼女は逃げた。老いた体とは思えぬ俊敏さで、一般の参拝客が立ち入れない庫裏の方へと走り去っていく。剣一は追いかけようとして砂利に足を取られ、派手に転倒した。膝を強く打ち、手のひらを擦りむく。激痛が走ったが、彼は顔を上げた。もう彼女の姿はなかった。重厚な木の扉がバタンと音を立てて閉ざされただけだった。
「まさ子! 開けてくれ! まさ子!」
叫び声は虚しく反響するだけだ。剣一は痛む足を引きずり、彼女が立ち去った場所まで這うように進んだ。そこには、彼女が落としたのであろう一枚の手拭いが落ちていた。擦り切れ、何度も洗濯して変色した白い木綿の手拭い。剣一は震える泥だらけの手でそれを拾い上げた。端の方に小さな刺繍が施されている。紺色の糸で縫い取られた、一文字の漢字。
「忍。」
それを見た瞬間、剣一の呼吸が止まった。これはただの文字ではない。まさ子は生前、裁縫が得意だった。忍耐強い彼女が、辛いことがある度に好んで刺していた文字が、この「忍」だったのだ。剣一のハンカチにも、Yシャツの裾にも。彼女は家族の幸せを願って、この文字を縫い込んでいた。
「お前は、何をしてきたんだ? 十年間、言葉を捨て、なお、家族を捨てて、この山奥でたった一人、耐え忍んでいたというのか。」
手拭いを握りしめた剣一の手から力が抜けていく。確信は絶望へと変わった。妻は生きている。だが彼女はこの十年間、死ぬことよりも辛い忍耐の中で生きてきたのだ。では、あの骨壺に入っているのは誰だ? そして、俺が弔ってきた十年間は、一体何だったんだ? 朝霧の中、剣一は手拭いに顔を埋め、獣のような慟哭を漏らした。その布からは、線香の香りに混じって、かすかにかつて家の台所で嗅いだ味噌の匂いがした。
泥だらけのズボン、乱れた白髪、まるで幽鬼のような姿で帰宅した剣一を見て、リビングで待ち構えていた歩みは言葉を失った。だが父が震える手で差し出したものを見た瞬間、彼女の目から涙が溢れ出した。泥と手垢で薄汚れた白い手拭い。その端に刺繍された「忍」の一文字。
「お母さんの……」
歩みの声が震える。幼い頃、熱を出した自分の額に乗せられた手拭いにも、同じ文字があった。これは母の魂そのものだ。剣一は床に崩れ落ち、絞り出すように言った。
「あそこにいたのは、間違いなくまさ子だった。だが、あいつは俺を人違いだと言った。俺から逃げたんだ。」
「逃げた? じゃあ、あの骨は? 私たちが拝んできたあの骨は、誰なの?」
歩みの鋭い問いが剣一の胸を刺す。
「確かめるんだ。今すぐ。」
二人はその足で県警の警察署へと向かった。十年前の事故記録。通常なら閲覧は難しいが、剣一は元部長職で当時の所長とも面識があった。コネクションを使い、強引に担当者へ面会を求めた。出てきたのは、定年退職し、現在は嘱託で相談窓口にいる初老の元警部だった。彼は剣一の顔を見るなり、気まずそうに目を伏せた。
「田所さん、あの日あなたは言いましたね。『ご遺体の損傷が激しい』と。」
調書室のような狭い部屋。パイプ椅子の冷たさが尻から全身へ伝わる。
「はい。車両火災による焼損体でしたから……」
「DNA鑑定は?」
剣一が机を叩く。田所は前のめりになり、困惑したように答えた。
「いえ、当時はご主人であるあなたが『妻のコートで間違いない』と断言されましたから。ご家族による身元確認が取れれば、事件性がない限り、解剖や鑑定は省略されることもありまして……」
剣一の頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。そうだ。あの日、俺は逃げたんだ。焼け焦げた顔を見るのが怖くて、妻の死を直視するのが怖くて、係官が見せた燃え残ったベージュのコートの切れ端だけを見て頷いたのだ。「妻です。もういいです。連れて帰ります。」その一言が捜査を打ち切らせた。
「じゃあ、あの中身が母じゃなかった可能性もあるってことですか?」
歩みが悲鳴のような声をあげる。田所は脂汗を拭いながら、分厚いファイルをめくった。
「理論上はゼロではありません。ですが、あの車は奥様の名義で、運転席に遺体があった。状況証拠は揃っていたんです。」
「状況証拠……」
剣一は乾いた笑いをした。
「俺は状況証拠だけで妻を殺し、見知らぬ誰かの骨を拾い、十年間も毎日手を合わせていたのか。この十年の涙は、線香は、一体誰のためのものだったんだ。」
「父さん……」
歩みが青ざめた顔で剣一の袖を掴む。その時、田所がファイルをめくる手が止まった。彼の視線が、ある一点で凍りついている。
「田所さん、何かあるんですか?」
田所はしばらくためらい、一枚の変色した報告書を指でなぞった。
「これは事故当日に現場検証を行った若手警官の手書きメモです。正式な調書には採用されなかった、現場の雑な記録です。」
「これは当時の聴取メモですが……」
田所は読み上げるのをためらったが、剣一の詰め寄る視線に押され、重い口を開いた。
「事故発生直後、通りかかったトラック運転手の証言があります。炎上する車のガードレール脇に、一人の女性が呆然と立ち尽くしていたと。」
部屋の空気が凍りついた。
「女?」
「はい。ですが、救急隊が到着した時にはその女性の姿はなく、運転席から遺体が発見されたため、運転手が見違えたか、あるいは幻覚だろうと処理されました。ショック状態の幽霊でも見たんだろう、と。」
剣一は椅子から転げ落ちるように立ち上がった。
「幻覚なものか。幽霊なものか。それはまさ子だ。事故の衝撃で車外へ放り出されたのか、あるいは自力で這い出したのか。彼女は燃え盛る自分の車を、そしてその中で焼かれていく誰かを、ただ見ていたのだ。そしてそのまま立ち去った。家には戻らず、警察にも行かず、山へと消えた。『二度と俺の前に顔を見せるな』。俺の言葉を守るために、自分が死んだことになるのを、彼女は黙認したのだ。」
「うわあああ!」
警察署の狭い相談室に、剣一の慟哭が響き渡った。十年間、仏壇の中央に鎮座していた骨。あれは妻ではない。俺は十年間、空っぽの虚像を拝み続けていたのだ。
帰り道、車の中は水を打ったように静まり返っていた。だが、助手席の歩みがスマートフォンの画面を見つめ、震える声で呟いた。
「父さん、これを見て。」
彼女が見せたのは、十年前の地方新聞のデータベース記事だった。事故の翌日、現場から数キロ離れた山のバス停で、小さな窃盗事件があったという別記事。「山小屋から仏飯と数珠が盗難。犯人の形跡なし。」全てが繋がった。まさ子は生きている。だが、それは剣一が知っている妻ではなかった。自らを殺し、幽霊となり、縁を絶つことで、夫という地獄から逃げ出した一人の女の物語がそこにあった。
「行くぞ、歩み。」
剣一はハンドルを握る手に血が滲むほど力を込めた。あの手を引きずってでも連れて帰る。いや、違う。彼はバックミラーに映る憔悴した自分の顔を睨みつけた。
「俺が、迎えに行くんだ。」
精月寺の本堂に、虚無的で無機質な音が響き渡っていた。ぽく、ぽく、ぽく。木魚の音だ。一定のリズムで叩かれるその乾いた音は、人の感情を一切拒絶するかのように冷徹だった。夕闇が迫る境内を、歩みは肩を怒らせて突き進んだ。その後ろを、剣一が罪人のように背を丸めてついていく。二人が本堂の引き戸を荒々しく開け放つと、冷たい風と共に落ち葉が堂内へ舞い込んだ。
「お母さん!」
歩みの絶叫が高い天井に反響した。だが、御本尊の前に座る小さな背中は、ぴくりとも動かなかった。灰色の衣、剃り上げられた頭。彼女、無心尼はまるで石像のように背を向けたまま、一心不乱に木魚を叩き続けている。ぽく、ぽく、ぽく。その背中からは、「私はここにいない」という無言の拒絶が立ちのぼっていた。歩みは靴も脱がずに畳の上へ上がり込み、母親の背後へ駆け寄った。
「やめて、答えてよ。警察で全部聞いてきたのよ。」
歩みの手が母親の肩を掴んだ。華奢で骨ばった肩。その感触は、間違いなく記憶の中の母のものだった。
「振り向いてよ。十年も、十年も死んだふりして、私たちがどれだけ泣いたと思ってるの!」
無心尼の手が止まった。静寂が訪れる。彼女はゆっくりと、まるで錆びついた機械のように首を巡らせた。その瞳は驚くほど澄んでいて、そして虚ろだった。
「どなたですか?」
静かな声だった。怒りも悲しみも、喜びさえもない。
「ここは修行の場です。騒がれるなら、出て行ってください。」
その他人のような口ぶりに、歩みの頭の中で何かが切れた。
「ふざけないで!」
歩みはその場に膝をつき、尼僧の胸ぐらを掴んだ。
「『どなたですか』じゃないでしょう。歩みよ。あなたの娘の歩み。こっちはお父さん。夫の剣一。分からないわけないでしょう!」
無心尼は抵抗しなかった。揺さぶられるがままに身を任せ、ただ淡々と、壊れたレコードのように繰り返した。
「人違いです。私は無心。俗世の名も、家族も捨てました。あなた方の探しているまさ子という方は、十年前に死んだのでしょう。」
「生きてるじゃない。ここにいるじゃない!」
歩みの目から大粒の涙がこぼれ落ち、尼僧の衣を濡らした。
「私が成人式の時、誰が着付けしてくれたの? 私が失恋して泣いた時、誰が一晩背中をさすってくれたの? 全部、あなたじゃない。それを全部忘れて、ふりをして、逃げてるだけじゃない!」
後ろで見ていた剣一が、唸るような声をあげた。
「まさ子、すまない。俺が、俺があんなことを言ったから……」
剣一が土下座をするように額を畳になすりつけた。
「俺を恨むのはいい。だが、歩みだけは。娘のことまで他人のふりをするのは、やめてくれ。」
無心尼の視線が、床に伏す剣一へと落ちた。その瞬間、能面のような彼女の顔に、かすかな亀裂が走ったように見えた。一瞬、唇がわずかに動く。だが彼女はすぐに目を閉じ、再び木魚を握り直した。
「死んだ人間は生き返りません。帰ってください。」
乾いた音が一つ、空間を叩いた。ぽく。彼女は再び自分の世界へ閉じこもろうとしている。歩みは震える拳を握りしめた。このままでは、また逃げられる。この壁を壊さなければならない。
「せり。」
歩みは低い声で呟いた。ぽく、ぽく、ぽく。
「せりのごまえ。」
歩みの声が大きくなる。
「お父さんね、あれから十年間、毎週食べてるのよ。スーパーでせりを買ってきて、下手くそな手つきで茹でて、すり鉢でごまをすって……」
木魚のリズムが変わらない。ぽく、ぽく。
「『やっぱり母さんの味にはならないな』って、毎回言いながら食べてるの。仏壇のあなたの骨が入ってると思ってた、あの空っぽの骨壺に備えて。」
ぽく、ぽく、と、その音がわずかに乱れた。歩みは畳みかけた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、母の背中に向かって叫んだ。
「あの日の朝も、そうだったでしょう。あなたが最後に作ろうとしてたお弁当。せりのごまえが入ってた。キッチンに残ってた作りかけのボウル、私が片付けたのよ。冷たくなってたせりを捨てながら、私がどれだけ泣いたか、あなたにわかる?」
ぽく、と、木魚の側面を叩く鈍い音が響いた。木魚を持つ無心尼の手が、空中で止まっていた。震えている。細い指先が白くなるほど強く木魚を握りしめ、わなわなと激しく震えている。
「帰りなさい。」
絞り出すような声だった。先ほどまでの冷徹な響きとは違う。熱を帯びた、苦しい声。
「帰りなさい。お願いだから。」
無心尼は顔を伏せた。その目から、一筋の涙がこぼれ落ち、畳に黒い染みを作った。
「私はもう死んだの。あなたたちの知っているまさ子は、あの炎の中で焼け死んだのよ。」
彼女の慟哭に近い叫びが本堂にこだました。それは、幽霊が初めて見せた、人間としての感情だった。歩みは言葉を失い、ただ泣き崩れる母の小さくなった背中を、触れることもできずに見つめていた。
静まり返った本堂に、冷たい夜気が満ちていた。剣一と歩みが去ってから、どれほどの時間が経っただろうか。無心尼は投げ出された木魚を拾い上げることもできず、ただ自身の震える両手をじっと見つめていた。節くれ立ち、擦り切れだらけの老婆のような手。かつて夫のためにネクタイを結び、娘の髪を編んだ白魚のような手は、十年という歳月と過酷な修行によって、跡形もなく消え去っていた。
「まさ子は死んだのです。」
誰もいない闇に向かって、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。だが、一度決壊した記憶のダムは、もう止めようがなかった。閉じた瞼の裏に、十年前の炎が鮮やかに蘇る。あの日、九月三日。彼女は泣きながらハンドルを握っていた。涙で視界が歪み、夫の怒号が頭の中で反響して離れなかった。「二度と俺の前に顔を見せるな。」その言葉が心臓をわし掴みにしていた。夫を怒らせてばかりの自分。娘にも心配ばかりかける自分。私はいない方がいいのではないか。その時だった。車線をはみ出してきたトラックの影。ブレーキを踏む間もなかった。凄まじい衝撃音と、世界が回転する浮遊感。気がついた時、彼女は割れたフロントガラスから放り出され、アスファルトの上に叩きつけられていた。全身に走る激痛。流れる血が目に入り、視界が赤く染まる。這うようにして身を起こした彼女の目の前で、ひっくり返った車がどす黒い煙をあげていた。ガソリンの匂いが鼻をつく。次の瞬間、ボウッという音と共に、車体全体が炎に包まれた。肌が焼けるような熱気。だが、まさ子はその場から逃げようともせず、ただ燃え盛る車を見つめていた。炎の中で、助手席に置いてあった自分のバッグが、コートが、そして主婦・まさ子としての全てが灰になっていく。
「ああ、燃えている。」
不思議と恐怖はなかった。むしろ奇妙な安堵感があった。「二度と顔を見せるな。」の言葉が、天啓のように降りてきた。そうだ。これでいい。この車と一緒にまさ子が死ねば、夫は不機嫌になることもない。彼は自由になれる。さよなら。彼女は裸足のまま炎に背を向けた。サイレンの音が遠くから近づいてくる。救急車に乗れば身元が割れ、またあの家に戻される。罵倒される日常、罪悪感に苛まれる日々へ。嫌だ。帰りたくない。彼女は痛む足を引きずり、ガードレールを乗り越え、雑木林の茂る森の中へと姿を消した。
それから数日間の記憶は、途切れ途切れだ。空腹と喉の乾き。泥水をすする。木の実をかじる。獣のように山を彷徨った。所持金も身分もない。あるのはボロボロになった衣服と、空っぽになった心だけ。たどり着いたのが、この精月寺の門前だった。雪に倒れていた彼女を拾ったのは、先代の住職だった。温かいお粥を口に含ませてくれた住職は、何も聞かなかった。名前も、過去も、なぜ傷だらけなのかも。ただ一つ、こう言った。
「行場がないなら、ここに捨てていきなさい。過去も、名前も、苦しみも。」
その言葉に、彼女は泣き崩れた。最初の数ヶ月、彼女は記憶を失ったふりをした。いや、半分は本当に混乱していたのかもしれない。だが季節が秋から冬へと変わる頃、霧が晴れるように全てを思い出していた。剣一のこと、歩みのこと、家の電話番号も住所も、全て鮮明に。公衆電話の前で受話器を握りしめ、震えた日もあった。生きてると伝えれば、どれほど楽になるか。だが、その度に耳元で剣一の声が蘇るのだ。「お前がいるだけで俺は不幸だ。顔も見たくない。」もし帰れば、一時は喜ばれるかもしれない。だが、やがてまた日常が戻り、彼を苛立たせ、憎しみの言葉を投げつけられる日が来る。自分が生きていること自体が、夫にとっての害悪なのだという強迫観念が、彼女の足を止めた。私が死んだことになれば、彼は新しい人生を歩める。優しい誰かと再婚して、幸せになれるかもしれない。それは歪んだ愛情であり、犠牲だった。彼女は受話器を置き、自分の小指の爪を千切りるようにして決意した。まさ子は死んだ。ここにいるのは、ただの抜け殻だ。彼女は髪を剃り落とした。鏡に映る自分の顔。夫が憎んだその顔を見たくなくて、寺の鏡という鏡を避けて暮らした。無心という名をもらった時、彼女はようやく息ができた気がした。
なのに。無心尼は十年ぶりに流した涙を、袖で乱暴に拭った。なぜ来たのですか。なぜ私を見つけたのですか。彼らは忘れてくれなかった。幸せになっているはずの夫は、やつれ果て、罪悪感にまみれた顔で現れた。立派に成長したはずの娘は、母を失った悲しみを十年も引きずり、泣き叫んでいた。自分の選択は間違っていたのか。彼らを解放するために消えたはずが、逆に彼らを十年もの間、苦しみの牢獄に閉じ込めてしまったのか。
「ああ……」
無心尼の口から、かすれた声が漏れた。自分もまた、十年もの間、彼らを片時も忘れたことはなかったのだ。お経を唱える時も、庭を掃く時も、心の中ではいつも呼んでいた。剣一さん、歩み。会いに行って、一度でいいから抱きしめたい。その欲望を煩悩として押し殺し、蓋をしてきただけだ。戻れない。彼女は冷たい畳に額をなすりつけた。今更戻れるはずがない。十年も家族を欺き、死んだふりをし続けた女を、誰が許すというのか。真実を知れば、彼らは私を憎むだろう。夫の罪悪感は、激しい怒りへと変わるだろう。このまま、死人として生きるしかないのです。彼女は立ち上がり、ふらつく足取りで本堂の戸締まりをした。外の闇を遮断するように。しかし、その閉ざされた戸の隙間から、月明かりが細く差し込んでいた。それはまるで、断ち切れない現世との縁のように、彼女の足元を白く照らし続けていた。
「もう、無理じいはしない。」
翌日、剣一は歩みにそう告げた。その声は、昨日のような興奮も慟哭も消え、不気味なほど静かだった。
「連れ戻そうとしたのが、間違いだったんだ。あいつは俺から逃げた。俺の言葉が刃物となって、あいつの心を殺したからだ。殺した人間が、生き返れと命令する資格なんてない。」
剣一は会社時代のOB会からの電話を着信拒否にし、趣味のゴルフ道具を物置の奥へ押し込んだ。友人との付き合いも、酒も、テレビさえもやめた。彼の生活から楽しみという色が全て消え、残ったのはただ一つ、精月寺への通いだけだった。その日から、奇妙な日々が始まった。午前六時、剣一は寺の山門の前に立つ。門はくぐらない。敷地には一歩も入らない。ただ古い仁王像のように門の前に直立し、じっと本堂の方を見つめるのだ。手には何も持たない。雨の日には傘をさすが、それ以外はコートの襟を立て、寒風にさらされるまま立ち尽くす。
「お父さん、お願いだから車の中で待ってて。風邪を引いちゃう。」
心配する歩みが泣きそうな顔で懇願しても、剣一は首を横に振った。
「これは罰なんだ。」
白い息を吐きながら、彼は視線を外さずに言った。
「あいつは十年間、言葉を封じ、寒さと孤独に耐えてきた。俺がぬくぬくと暖房の効いた部屋にいて、何が謝罪だ。俺も同じ痛みを味わわなければ、あいつに顔向けできない。」
一時間、二時間。六十八歳の体には過酷すぎる苦行だった。膝が笑い、腰が悲鳴を上げる。指先の感覚がなくなり、指先は紫色に変色した。それでも剣一は動かなかった。時折、参拝客が不思議そうに彼を見る。「あの方、毎日いらっしゃいますね。何かのお百度参りかしら。」そんな囁き声も、今の剣一には耳に入らなかった。彼の意識は、門の向こう遠くに見える庭の一点に集中していた。そこには、毎日決まった時間に無心尼、まさ子が姿を表すからだ。午前八時の掃除、午後の鐘つき、夕方の読経。彼女は剣一の姿に気づいているはずだった。最初の数日、彼女は剣一を見つけると逃げるように姿を消した。だが一週間が過ぎる頃には、彼女もまた逃げるのをやめた。門の外に立つ夫。門の内側で働く妻。二人の間には、数十メートルの距離と、十年という深い断絶の川が流れている。言葉はない。目も合わせない。だが剣一がそこで凍えていることを、まさ子は背中で感じていた。そして、まさ子が生きていることを、剣一はその箒の音で感じていた。
ある寒風の日、剣一の帽子が風に飛ばされ、門の内側へ転がった。彼が拾うのをためらっていると、無心尼が静かに歩み寄り、その帽子を拾い上げた。彼女は無表情のまま、門の境界線ギリギリまで近づき、そっと帽子を地面に置いた。手渡しはしない。言葉もない。だが、その一瞬の動作に、剣一は胸が張り裂けそうになった。
「まさ子、お前はまだ俺に優しさを残しているのか。」
帽子には、かすかにぬくもりが残っていた。剣一はその帽子を胸に抱き、目頭を熱くさせながら、彼女の小さくなる背中に向かって深く、深く頭を下げた。何度無視されても、何度背を向けられても、彼は頭を下げ続けた。かつて「顔を見せるな」と吐き捨てたその口で、今は音のない「ごめん」を繰り返した。季節は晩秋から初冬へと移り始めていた。山肌から紅葉が散り、裸の枝が寒空を突き刺すようになる。剣一の頬はこけ、眼窩はくぼみ、その姿はまるで修行僧のように痛々しいものになっていった。歩みは父の体が限界に近いことを悟っていた。家で咳込む背中をさすりながら、彼女は恐怖を感じていた。
「お父さん、もう許してあげて。自分を。」
「まだだ。まだ足りない。」
剣一の目は、熱に浮かされたように輝いていた。そして十二月の半ば、天気予報が数年に一度の大雪を告げた朝のことだ。空はどんよりと、朝から曇っていた。「今日だけは休んで」という歩みの手を振り払い、剣一はよろめきながら門前に立った。冷たい風が骨の髄までしみる。昼過ぎ、空から白いものが散らつき始めた。雪だ。最初は粉のような雪だったが、次第に牡丹雪へと変わり、視界を白く染め上げていく。あっという間に、剣一の肩に、帽子に雪が積もる。体温が奪われていく。意識が朦朧とする。足の感覚はもうない。自分が立っているのか、浮いているのかさえわからない。門の向こう、本堂の戸が少しだけ開いているのが見えた。あそこから、誰かが見ている気がする。
「まさ子、寒いな。お前が家でしたあの夜も、こんなに寒かったのか。」
剣一の膝が、がくりと折れた。杖をついて必死に堪えるが、雪の重みと疲労が彼を地面へと引きずり込む。視界が暗転しかけた、その時。門の奥から、何かが飛び出してくる気配がした。
「あ……」
剣一の口から白い息が漏れる。雪の白さの中に、灰色の衣が翻ったように見えたのは、幻覚だろうか。彼の体はゆっくりと、冷たい雪の上へと傾いていった。
その日の朝、天気予報は記録的な大雪を告げていた。窓の外はすでに白一色で、視界は数メートル先も見えないほどの猛雪だった。
「お父さん、今日はダメ。絶対にダメ。」
玄関で靴を履こうとする剣一の背中に、歩みがしがみついた。
「ニュース見たでしょう。山はもっとひどいわ。遭難しに行くようなものよ。」
だが剣一は静かに、娘の手を解いた。その手は冷たかったが、力強かった。
「今日は十二月十八日だ。」
歩みの動きが止まる。
「お母さんの誕生日。」
「ああ、十年。祝ってやれなかった。今日行かなければ、俺は死ぬまで後悔する。」
剣一の決意は、岩のように固かった。歩みは唇を噛みしめ、何も言えずにハンドルを握った。車は参道の途中で立ち往生しかけたが、なんとか寺の駐車場までたどり着いた。
「ここで待っててくれ。」
剣一はそれだけ言い残し、吹き荒れる吹雪の中へと足を踏み出した。山門の前は、地獄のような寒さだった。風が唸り声を上げて吹き抜け、雪の粒が顔面に叩きつけられる。剣一は膝まで埋まる雪の中に立ち、傘もささずに両手をポケットに突っ込んだ。感覚がない。足の指先から始まった麻痺は、すでに腰まで達していた。髭が凍りつき、瞬きをするたびにバリバリと音がする。
「まさ子、誕生日おめでとう。」
心の中で呟くが、唇は凍りついて動かない。十年前の誕生日、俺は何をした? 仕事が忙しいと言い訳をして、プレゼントはおろか「おめでとう」の一言さえ言わなかったのではないか。あの時、寂しそうに笑っていたまさ子の顔が、雪の向こうにぼんやりと浮かぶ。一時間、二時間。体温が奪われ、意識が白い靄と溶けていく。「お父さん、もういいから戻って!」車の中から歩みが叫んでいる気がするが、その声も風の音にかき消されて遠い。ああ、温かいな。極限状態に達した肉体が、偽りのぬくもりを感じ始めていた。これは死の前兆だ。剣一は薄れゆく意識の中で悟った。でも、これでいい。この雪の中で果てれば、俺の罪も少しは清められるだろうか。門の向こう、本堂の縁側で、かつてまさ子が雪景色を眺めていた姿が見えた気がした。ふっと、膝の力が抜けた。支えを失った剣一の体は、スローモーションのように前へと傾いた。とさっ。鈍い音がして、彼は深い雪の中に顔から突っ込んだ。冷たさは感じなかった。ただ、深い眠りの淵へと落ちていくような感覚だけがあった。
その時だった。本堂の奥、戸の隙間からじっと外を見ていた無心尼の視界から、夫の姿が消えた。
「あっ!」
彼女の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。毎日毎日、あの場所に立っていた男。痩せ衰え、震えながら、それでも自分を待ち続けていた夫。彼が今、雪の塊となって動かなくなった。理性が吹き飛んだ。無心という名の仮面が、粉々に砕け散った。彼女は戸を蹴破るように開け放った。
「きゃあっ、無心さん!」
近くにいた若い僧侶が驚いて声をあげるが、彼女は止まらない。ぞろり。履物さえ履かなかった。彼女は裸足のまま、境内の雪の上へと飛び出した。足の裏を氷の刃で切り裂かれるような激痛が走る。だが、そんなことはどうでも良かった。雪を蹴立て、転びそうになりながら、彼女は山門へと疾走した。
「あなた!」
口をついて出たのは、仏名でも念仏でもなかった。十年もの間、喉の奥に封印し、尼僧として誓ったその名前だった。雪に埋もれた剣一の背中にたどり着く。無心尼は雪の中に膝をつき、必死の形相で彼を抱き起こした。そして、恐ろしいほど冷たい。顔色は土色で、唇は紫色に変色している。息をしていないように見えた。
「いや、いやよ。目を開けて!」
彼女は剣一の凍りついた頬を両手で激しく叩いた。自分の体温を全て彼に移そうとするかのように、強く、強く抱きしめる。冷え切った彼の胸に耳を当てると、弱々しいが心音が聞こえた。
「生きて。お願い、生きて!」
無心尼の目から溢れた涙が、剣一の頬に落ちて、瞬時に凍りつく。薄れゆく意識の底で、剣一はその声を聞いた。低く落ち着いた尼僧の声ではない。十年前に失ったはずの、あの日々の中で聞いていた、愛しい妻の声。
「あなた、死なないで。あなた!」
剣一はかすかに目を開けた。視界一面の白い世界。その中心で、剃り上げた頭のまま、なりふり構わず泣き叫んでいる女。それは普段の無心尼ではなかった。ただ一人の男を愛し、その男の命を救おうとする、一人の妻の姿だった。
「あ、さ、あ、こ……」
剣一の唇がかすかに動いた瞬間、彼女は獣のような咆哮を上げて、彼をさらに強く抱きしめた。その絶叫は吹雪の音さえも切り裂き、山全体に悲しく、そして熱く響き渡った。
意識の底から浮上する時、最初に感じたのは匂いだった。消毒薬のような鋭い匂いではない。古い木材の香り、畳のい草の匂い、そしてかすかに鼻をくすぐる出汁の甘い香り。剣一は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。ぼやけた視界に、見知らぬ天井の木目と、裸電球が映る。体の芯まで凍りついていたはずの手足が、今は温かい布団の中でじんわりと熱を取り戻していた。
「気がつきましたか?」
枕元から聞こえた声に、剣一は引かれたように首を動かそうとした。だが体が鉛のように重くて動かない。視線だけを横に向ける。そこに彼女がいた。まさ子だった。袈裟の上から割烹着のようなものをつけ、手には湯気の立つ茶碗を持っている。剃り上げられた頭はそのままだったが、その表情にはあの能面のような冷たさは微塵もなかった。赤く腫れた目。心配そうに寄せられた眉。それは剣一が風邪を引くたびに枕元で看病してくれた、かつての妻の顔、そのものだった。
「まさ子……」
喉が焼けつくように痛い。声はかすれて、擦れるような音しか出なかった。
「喋らないで。まだ体が冷えきっています。」
彼女は震える手で、さじ、さじ、とお粥をすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ました。その仕草、唇の尖らせ方。十年という月日が嘘のように、記憶の中の光景と重なる。彼女は剣一の口元にさじを運んだ。温かいお粥が口の中に広がり、喉を通って胃袋へと落ちていく。その温かさが、剣一の涙腺を刺激した。
「すまない。」
剣一の目から涙が溢れ出し、枕を濡らした。
「俺は、お前を殺したと思っていた。毎日毎日、お前を殺した自分を呪っていたんだ。」
まさ子はさじを茶碗に戻し、床に置いた。そして布団の上に投げ出された剣一の右手を、両手で包み込んだ。ざらざらとした感触。かつて白魚のようだった妻の手は、毎日の雑巾がけと寒風にさらされ、ひび割れ、節くれ立っていた。剣一の手もまた、同じく傷だらけだ。二つの傷ついた手が、十年ぶりに触れ合い、互いの体温を確かめ合う。
「私も、自分を殺していました。」
まさ子の声も震えていた。
「あなたが憎くて言えたのではありません。私の存在があなたを不幸にすると思ったから、消えたのです。でも……」
彼女は剣一の手を頬に押し当て、慟哭した。
「雪の中であなたが倒れた時、仏の教えも、戒律も、全部どうでも良くなった。ただ、あなたを失いたくない。それだけでした。」
「まさ子。」
剣一は力を振り絞り、彼女の荒れた頬に指を這わせた。
「帰ろう。家に。歩みも待っている。」
部屋の戸が少し開き、そこには目を真っ赤にした歩みが立っていた。彼女は入ってくることができず、入り口で口元を抑えて泣いている。家族が十年ぶりに、一つになった瞬間だった。外の吹雪はやみ、静寂が包む部屋の中、三人のすすり泣く声だけが響いていた。長い沈黙の後、剣一は言った。
「もう十分だろう。お前は十年、ここで償った。俺も罰を受けた。もう、許し合ってもいいはずだ。」
まさ子は涙を拭い、剣一の手を握り返した。その力は強かった。だが、彼女の口から出た言葉は、剣一の予想を裏切るものだった。
「いいえ、あなた。私はまだ、山を降りることはできません。」
剣一の表情が凍りつく。
「なぜだ? まだ俺が許せないのか?」
まさ子は首を横に振った。その瞳には、深い悲しみと、ある種の決意のような光が宿っていた。
「あなたを許していないのではありません。私がまだ、私を許せていないのです。」
「自分を許す?」
「十年前、私は幼かった歩みを捨てました。あなたを見捨てました。自分の心の弱さから、一番卑怯な『死んだふり』という逃げ道を選びました。その罪は、雪の中で一度抱き合ったくらいで消えるものではないのです。」
彼女はまっすぐに剣一を見つめた。
「私が今、母として、妻として帰れば、私はこの十年の自分自身を否定することになる。無心として生きた日々が、ただの嘘になってしまう。それでは、本当の意味であなたたちの元へ帰ったことにはなりません。」
剣一は言葉を失った。彼女はただ逃げていたのではなかった。この山で孤独と向き合い、何か壮絶なものと戦い続けてきたのだ。その覚悟の重さが、痛いほど伝わってくる。
「なら、どうすればいい?」
まさ子は優しく微笑んだ。それは聖母のような、しかしどこか儚い微笑みだった。
「春まで待ってください。雪が溶け、この山に花が咲く頃まで。それまでに、私がここで積み上げてきたものを、きちんと畳ませてください。」
「春まで……」
剣一は呟いた。あと数ヶ月。十年待ったのだ。数ヶ月くらい待てるはずだ。だがその時、剣一の胸の奥で鋭い痛みが走った。ずきり、という心臓の発作。最近頻繁に起きていたその痛みを、彼は顔をしかめて飲み込んだ。待てるか。俺の体は、春まで持つのか。不安がよぎる中、まさ子は剣一の布団を掛け直し、静かに言った。
「今日はここで休んでください。住職様のお許しは得ています。」
彼女が部屋を出て行こうとした時、剣一はその背中に向かって、心の中で祈るように叫んだ。春まで。どうか、俺の命を春まで続いてくれ。窓の外では、雲の切れ間から差し込んだ月光が、雪を照らし出していた。
精月寺の冬は厳しく、そして静かだった。住職の計らいで、剣一は体力が回復するまでの間、寺の離れにある参拝者用の小部屋に寝泊まりすることを許された。
「雪を待ちなさい。今の身体で山を降りれば、二度と登ってこれなくなりますよ。」
住職の言葉は、剣一の寿命を見透かしているかのようだった。奇妙な共同生活が始まった。朝、まだ暗いうちに本堂から響く読経の声で目が覚める。それがまさ子の声だと知っているだけで、剣一の心は満たされた。剣一はリハビリを兼ねて、縁側まで歩く練習をしたり、野菜の泥を落としたりした。尼僧姿のまさ子がその横で、黙々と大根を洗う。会話は少ない。だが、ふとした瞬間に目が合うと、まさ子は少女のように小さく微笑むのだった。週末になると、歩みが麓の町から食料や日用品を抱えて登ってきた。
「お母さん、ハンドクリーム持ってきたよ。その手、ひどすぎるから。」
「ありがとう。でも、修行の身だから、匂いの強いものは無理よ。」
「私が厳選したんだから。」
歩みがまさ子の荒れた手にクリームを塗り込む。その光景を、剣一はストーブの前で目を細めて眺めていた。失われたはずの時間が、ゆっくりと縫い合わされていくようだった。ある吹雪の夜、三人は囲炉裏を囲んで茶をすっていた。焚き木の爆ぜる音だけが響く中、剣一がぽつりと言った。
「まさ子、お前がいない間、歩みは立派だったぞ。」
まさ子が顔を上げる。
「成人式の朝、俺はどうしていいかわからなくて、おろおろしていた。そしたら、歩みは動画サイトを見ながら一人で着付けをして、俺の前に立ったんだ。『お母さんがいなくても大丈夫?』って笑ってな。」
まさ子の目が潤んだ。
「就職が決まった時も、初任給で俺にネクタイを買ってくれた時も、あいつは一度も泣かなかった。お前の分まで強くあろうとしていたんだ。」
「ごめんなさい。」
まさ子は顔を伏せた。
「歩みちゃん、ごめんなさい。」
歩みは首を横に振り、母の背中をさすった。
「いいの。お母さんが生きててくれただけで、もう十分だから。」
剣一は湯飲みを置き、ずっと聞きたかったことを口にした。
「まさ子、お前はこの十年間、毎日何を祈っていたんだ? 誰のために経を読んでいたんだ?」
まさ子は涙を拭い、囲炉裏の火を見つめたまま、静かに答えた。
「あなたたちの幸せです。」
「え?」
「あなたたちが私という過去を忘れ、新しい人生を歩めるように。あなたが優しい誰かと再婚して、温かい家庭を築けるように。歩みが母のいない寂しさを乗り越えて、笑顔でいられるように。」
彼女は一度言葉を切り、悲しげに笑った。
「毎日祈っていました。どうか、彼らの記憶から私が消えますように、と。それが、私の愛し方でした。」
「バカ野郎。」
剣一の声が震えた。
「忘れられるわけがないだろう。俺が再婚なんぞできるわけがない。お前を殺したという罪悪感と、お前への未練だけで生きてきたんだ。お前の祈りは、ちっとも届かなかったな。」
まさ子は驚いたように剣一を見た後、ふっと表情を崩し、目尻に涙を溜めたまま笑った。
「ええ、本当に私の祈りは、ちっとも叶わなかった。仏様は意地悪ですね。」
「ああ、全くだ。」
三人は笑い合った。涙を流しながら、声を上げて笑った。十年間、それぞれの場所で孤独に耐えてきた魂が、ようやく一つの場所に帰ってきた夜だった。この穏やかな時間が永遠に続けばいい。剣一は本気でそう願った。春が来なければいい。雪がこのまま世界を閉ざしてくれればいい、と。だが現実は残酷なほど正確に時を刻んでいた。笑い声が収まり、まさ子が新しいお茶を入れようと立ち上がった時だった。
「うっ……」
剣一の喉から、押し殺したような唸り声が漏れた。
「お父さん?」
歩みが振り返る。剣一は左胸を強く押さえ、囲炉裏の縁に前のめりに倒れ込んだ。顔色が瞬時に土色に変わり、脂汗が滝のように吹き出す。それは今まで隠し通してきた発作とは比べ物にならない、強烈な激痛だった。
「あなた、どうしたの?」
まさ子が取り落とした急須が割れる音。
「父さん! 薬、薬どこ?」
歩みが叫びながら剣一の荷物をひっくり返す。剣一は薄れゆく視界の中で、まさ子の青ざめた顔を見た。まだだ。まだ早い。やっと会えたのに。やっと笑い合えたのに。心臓が、まるで冷たい手で握りつぶされるように痛む。彼は必死に呼吸をしようとしたが、肺が空気を拒絶した。
「さ、あ、こ……」
伸ばした手は空を切り、剣一の意識は深い闇へと引きずり込まれていった。春を待たずして、彼の命の灯が揺らぎ始めていた。
ピッ、ピッ、ピッ。無機質な電子音が、剣一の浅い眠りを切り裂いた。目を開けると、そこは精月寺の天井ではなく、白い蛍光灯が並ぶ病院の個室だった。鼻には酸素チューブが通され、胸にはいくつもの電極が貼り付けられている。
「気がつきましたか?」
白衣の医師がカルテを見ながら淡々と告げた。その眼鏡の奥の瞳は、事実だけを伝える冷徹さと、わずかな哀れみを帯びていた。
「正直に申し上げます。あなたの心臓は、限界を超えています。長年のストレスと、最近の急激な寒暖差。そして極度の疲労。エンジンで言えば、部品が焼き切れて止まる寸前です。」
剣一は酸素マスクの中で口を動かした。
「治るんですか?」
医師は一瞬沈黙し、静かに首を横に振った。
「今の体力では、手術も耐えられません。このまま入院して延命治療を行えば、数週間、あるいは一ヶ月。ですが、二度と歩いて外へ出ることはできないでしょう。」
死の宣告だった。だが不思議と、剣一の心は静かだった。恐怖よりも、「ああ、やはりそうか」という納得の方が大きかった。十年間、妻を殺したという罪悪感を燃料にして、無理やり動かしてきた心臓だ。妻との再会を果たし、許しを得た今。その役目を終えようとしているのだと思えば、それは寿命というより、むしろ救いのようにさえ思えた。
「先生。」
剣一はかすれた声で言った。
「帰らせてください。」
「行けません。今動かすのは危険すぎます。」
「病院のベッドでチューブにつながれて死ぬのは、ごめんだ。俺は、あそこで妻のそばで死にたいんだ。」
病室の隅で、歩みが泣き崩れていた。
「お父さん、何言ってるの? 入院してれば、もしかしたら……」
剣一は娘の方へ顔を向け、弱々しく微笑んだ。
「お前も、もう分かっているはずだ。俺に残された時間は、砂時計の最後の数粒だ。それをここで使い切るか、あいつのそばで使い切るか。俺に選ばせてくれ。」
歩みは唇を噛みしめ、ぼろぼろと涙をこぼしながら、やがて小さく頷いた。彼女は会社へ休職届を出した。もう父のそばを片時も離れないと決めたのだ。翌日、剣一は退院届にサインをし、病院を後にした。介護タクシーに揺られ、再びあの雪山へと向かう。揺れる度に胸に痛みが走ったが、窓の外に近づいてくる精月寺の屋根を見た瞬間、痛みは安らぎへと変わった。山門の前で、まさ子が待っていた。彼女は剣一の姿を見ても、取り乱したり駆け寄って泣いたりはしなかった。ただ静かに合掌し、深く頭を下げた。その姿は、妻であると同時に、人の死を見送る覚悟を決めた尼僧のものでもあった。
「お帰りなさい。」
車椅子に乗せられた剣一の手を、まさ子が両手で包み込む。
「ただいま。迷惑をかけに来たよ。」
「ええ、最後の最後まで、世話の焼ける人ですね。」
まさ子は穏やかに笑った。その目には涙が光っていたが、決してこぼれ落ちることはなかった。彼女もまた悟っていたのだ。これが生の終わりではなく、旅立ちの準備であることを。離れの部屋に介護用ベッドが運び込まれた。そこから、剣一の最後の日常が始まった。日は短く、夜は長い。窓の外ではしんしんと雪が降り積もり、部屋の中は石油ストーブの温かなオレンジ色の光に満たされていた。剣一の身体機能は、日に日に低下していった。一人では起き上がれなくなり、食事も流動食しか喉を通らなくなった。だがその瞳だけは、穏やかだった。まさ子は献身的だった。朝、濡れタオルで剣一の体を丁寧に拭く。昼は、読み聞かせのように経を唱える。痛みが強くなると、ずっと背中をさすり続ける。
「痛いですか? 苦しいですか?」
「いいや。お前の手が温かいから、平気だ。」
歩みもまた、懸命に動いた。下の世話も厭わず、父の手足をマッサージし、思い出話を聞かせた。
「お父さん、覚えてる? 私が自転車に乗れるようになった時、お父さんの方が大転倒して転んだのよ。」
「ああ、覚えているとも。あの時の傷、まだ膝に残っているよ。」
死が近づくにつれ、部屋の中には不思議なほどの愛が充満していった。十年間バラバラだった三人の時間が、濃密に圧縮されていく。言葉少なに交わす視線、触れ合う手のぬくもり。失った過去を取り戻すことはできないが、最後の瞬間をどう生きるかは、自分たち次第なのだ。一週間が過ぎた頃、医師の予言通り、剣一の呼吸は浅く、速くなっていた。窓の外は晴れていた。雪解けにはまだ早いが、日差しにはかすかに春の気配が混じり始めていた。昼下がり、剣一がふと目を覚ました。枕元には、まさ子が座っていた。数珠を持つ手が止まり、心配そうに覗き込んでくる。
「目が覚めましたか。お水、飲みますか?」
剣一は首を横に振った。何かを言おうとして、息を整える。その一言を発するだけで、全身の力を使い果たすほどの労力が必要だった。だが、どうしても伝えたかった。これを言わなければ、俺の人生は完結しない。
「まさ子。」
「はい。ここにいます。」
「頼みがあるんだ。」
まさ子は耳を剣一の口元に寄せた。
「何でも言ってください。私にできることなら、何でも。」
剣一は、かつて十年前、自分が文句を言い捨ててしまったあの料理。そしてこの十年間、妻の骨の前で詫びるように噛みしめ続けたあの味を思い浮かべた。
「食べたい。」
「え?」
「お前の作った、せりのごまえが食べたい。」
まさ子の動きが止まった。せりのごまえ。俺はあの事故の朝、彼女がお弁当に入れようとして、剣一が手際が悪いと怒鳴り散らした因縁の料理だった。そして歩みから聞いていた、剣一が十年間、スーパーでせりを買い、下手な手つきで作り続け、骨に備えていた料理だと分かった。まさ子は顔を上げ、涙をこらえて大きく頷いた。
「作ります。今すぐに。」
「ああ、頼む。あれが、俺の人生で一番食べたかったものなんだ。」
剣一は満足そうに目を閉じた。まさ子は立ち上がり、袖をまくり上げた。その背中は、修行者のものではなく、愛する夫のために台所に立つ妻の背中だった。歩みが見守る中、まさ子は雪深い裏庭へと走った。ハウス栽培をしている檀家から差し入れられた、初春のせりがまだ少し残っているはずだ。最後の晩餐。それは決して豪華なものではない。しかし、十年分の愛と後悔。そして許しが詰まった、世界でたった一つの味になるはずだった。
静寂に包まれていた離れの間に、小気味いい音が響き始めた。とん、とん、とん、とん。まな板を包丁が叩く軽快なリズム。続いて、ごりごり、ごり、という重い音が重なる。すり鉢でごまを摺る音だ。離れの部屋でその音を聞いていた歩みは、たまらず両手で顔を覆った。それは失われた日常の音だった。十年前まで、毎朝布団の中でうつらうつらしながら聞いていた、母のキッチン・オーケストラ。二度と聞くことはないと思っていたその旋律が、この山奥の古寺で鮮やかに蘇っている。
「懐かしい音だ。」
ベッドの上の剣一が、酸素マスクの中でかすかに笑った。まさ子は、すり鉢とおろし金を手際よく使い、一心不乱に手を動かしていた。かじかむような井戸水でせりを洗い、さっと湯に通す。茹ですぎてはいけない。鮮やかな緑色と特有の歯ごたえを残すのが、まさ子の流儀だ。摺りたてのごまを丁寧にすり、砂糖と醤油、そして隠し味にほんの少しの出汁を加える。立ち上る香ばしい匂いが、線香の香りが染みついた離れの空気を、瞬時に温かな色に染め替えていく。
「お待たせしました。」
戸が開き、まさ子が小さな盆を持ってきた。乗っているのは、飾り気のない素焼きの小鉢だけ。だがその中には、黄金色の衣をまとった鮮やかな緑色のせりが、宝石のように輝いていた。剣一は歩みに背中を支えられ、渾身の力を振り絞って上半身を起こした。酸素マスクを外す。荒い呼吸と共に、その懐かしい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。香ばしいごまの香りと、春の土の匂いがするせりの香り。
「ああ、いい匂いだ。」
まさ子は震える手で箸を持ち、少量のせりを摘んだ。
「口を開けて。ゆっくり、ゆっくりですよ。」
剣一は幼子のように口を開けた。緑色の葉が、乾いた唇を越えて口内へと運ばれる。噛みしめる。静寂な部屋に、かすかな咀嚼音が響いた。その瞬間、口の中に広がったのは、せり特有の野性味溢れる爽やかな苦みと、ごまの濃厚で優しい甘味だった。
「これだ。」
剣一の閉じた瞼から、涙が二筋流れ落ちた。十年間、スーパーの食材を買っても、休日ごとに自分で作ってみても、どうしても再現できなかった味。あの日、自分が「いらない」と拒絶し、ゴミ箱へ捨てさせた味。そして、骨だけの妻に備え続け、詫び続けてきた味が、今、食道を通り、冷え切っていた身体の芯を温めていく。
「うまい。」
剣一がかすれた声で呟くと、まさ子の表情がくしゃりと歪んだ。
「塩加減、濃くなかったですか? 昔より少し腕が落ちたかもしれません。」
「いいや、完璧だ。俺は、これを食べるために今日まで生きてきたんだ。」
剣一はもう一口、と訴えたが、身体がそれを受け付けなかった。たった一口。それが、彼の命に残された許容量だった。だが、その一口で十分だった。十年間の空白も、後悔も、憎しみも、全てがこの一口の苦みと甘みの中に溶けて、消化されていくのを感じた。
「おいしい。本当に、美味しいよ。」
「まさ子、よかった。本当に、良かった。」
まさ子は箸を握りしめたまま、その場に泣き崩れた。小鉢の中のせりが、彼女の涙で濡れて光った。剣一は震える手を伸ばし、まさ子の荒れた頬に触れた。
「ありがとう。もう、思い残すことはない。」
歩みもまた、父の背中をさすりながら、声を殺して泣いていた。最後の晩餐。それは決して豪華なフレンチでも懐石でもなかったが、世界中のどんな料理よりも贅沢な、愛と許しの味がした。
夜が更け、窓の外ではいつの間にか雪がやんでいた。雲の切れ間から差し込んだ冷たい月光が、三人の影を長く伸ばしている。剣一の呼吸が、波が引くように静かになり始めていた。彼は枕の下に隠していた手を、わずかに動かした。がさり、とかすかな音を立てて、震える指先が掴んでいたのは、一通の封筒だった。
「まさ子、これを受け取ってくれ。」
まさ子は涙を拭い、その封筒を両手で受け取った。
「これは、俺の遺言だ。法的なものじゃない。お前への、最後の手紙だ。」
剣一の瞳が、ろうそくの火が消える寸前に一瞬だけ明るく輝くように、強くまさ子を捉えた。
「俺が死んだら、読んでくれ。そして、約束してくれ。そこに書いてあること、必ず守ると。」
まさ子は封筒を胸に抱きしめ、深く頷いた。
「わかりました。約束します。あなたの言葉なら、どんなことでも。」
「ありがとう。」
剣一は安堵したように微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。その手紙には、「俺が死んだら、お前は自由になれ。袈裟を脱ぎ、山を降り、歩みと共に笑って生きてくれ」という、夫としての最後の願いが記されていた。部屋の中は、穏やかなぬくもりに満ちていた。薪ストーブの爆ぜる音と、三人の呼吸音だけが響く。死の気配は、恐怖ではなく、長い旅路の終わりのような安らぎを連れて、すぐそこまで近づいていた。剣一の手を、まさ子と歩みが左右から握りしめる。その体温を感じながら、剣一は夢うつつの中で、十年前の食卓を思い出していた。湯気の立つ味噌汁、焼き魚、そしてせりのごまえ。「いただきます。」あの日言えなかった言葉を心の中で唱え、彼は深く、静かな眠りへと落ちていった。
翌朝、世界は痛いほどに白く、そして眩しかった。昨夜までの重苦しい雪雲は嘘のように消え去り、晴れ渡った群青色の空から、冬の朝日が強烈な光を投げかけていた。積もったばかりの新雪がその光を反射し、精月寺の境内を銀色に輝かせている。
「まさ子。」
剣一の唇が、音のない言葉を紡いだ。その表情からは、苦しみの色が消えていた。数日前まで彼を苦しめていた胸の痛みも、呼吸の苦しさも、嘘のように消えている。それは、ろうそくの火が消える寸前、一瞬だけ炎が明るく輝く現象だと、まさ子は直感した。
「ええ、いい天気ですよ、あなた。」
まさ子は剣一の上半身を抱きかかえ、縁側の戸を一杯に開け放った。冷たく凛とした空気が流れ込み、部屋の淀んだ空気を一掃する。剣一は眩しそうに目を細めた。屋根から落ちる雪の雫、枝先で震える残り雪、そしてその向こうに広がるどこまでも高い空。
「ああ、春だ。」
剣一の心の中に、温かい風が吹いた。暦の上ではまだ初冬だが、彼の目には世界が春の光に満ち溢れているように見えたのだ。もう体は動かない。指一本動かす力も残っていない。だが意識だけは、驚くほど鮮明だった。
「お父さん、私、ここにいるよ。お母さんもいるよ。」
歩みが剣一の左手を両手で包み込み、頬を寄せる。まさ子は剣一の頭を膝に乗せ、その右手を固く握った。夫婦と愛する娘。三人の体温が、円を描くようにつながる。剣一の視線が、ゆっくりとまさ子の顔へ移動した。剃髪した頭、粗末な衣、荒れた肌。だが今の剣一の目には、彼女がウェディングドレスを着ていたあの日のように、あるいは歩みを産んだ日のように、光輝く菩薩のように見えた。
「愛している。」
声にはならなかった。だが、その唇がかすかに緩み、穏やかな笑みの形を作った。まさ子は見逃さなかった。十年間、憎しみと罪悪感で歪んでいた夫の顔が、本来の優しい剣一の顔に戻っていた。
「ええ、分かっています。私もです。」
まさ子は剣一の頬に手を当て、静かに経を唱え始めた。それは死者を送るための悲しい経ではない。愛する人の魂が苦しみから解放され、安らかな場所へと旅立てるように願う、慈愛に満ちた読経のような響きだった。剣一の呼吸が、ふっと浅くなった。胸の上下が小さくなる。砂時計の最後の砂が、さらさらと落ちていく。歩みが息を飲み、握った手に力を込める。
「お父さん……」
まさ子は経を止めた。そしてゆっくりと顔を近づけ、剣一の額に唇を寄せた。十年ぶりの口づけ。それは恋人同士のような情熱的なものではなく、乾いた肌に触れるだけの、羽毛のように軽い口づけだった。だが、そこには一生分の感謝と別れが込められていた。
「お帰りなさい、あなた。」
まさ子は耳元で囁いた。十年間、彷徨い続けた魂が、ようやく帰るべき場所へ戻ってきたことへの祝福を込めて。
「そして、行ってらっしゃい。もう、痛みも苦しみもない場所へ。」
剣一の瞳から、光が静かに吸い込まれるように消えていった。最後に一つ、大きな息を吐き出し、彼の体から力が抜けた。握りしめていた手が、するりと解ける。心臓の最後の鼓動が止まる。部屋を支配していた死の気配が、一瞬にして静寂という名の平安へと変わった。
「お父さん!」
歩みが剣一の胸に顔を埋め、子供のような声をあげて泣き出した。その鳴き声は、静かな雪山に吸い込まれていく。まさ子は泣かなかった。彼女は剣一のまだ温かい瞼を、指でそっと閉じさせ、その穏やかな死顔をじっと見つめた。苦しみの表情はない。まるで長い旅を終えて、久しぶりに我が家の布団で眠りに着いた時のような、満足げな顔だった。
「お疲れ様でした。」
まさ子は立ち上がり、空に向かって合掌した。涙が一筋だけ、頬を伝った。だがそれは悲しみの涙ではなく、何かが浄化された証のような、清らかな雫だった。
葬儀は翌日、寺でひっそりと行われた。参列者はまさ子と歩み、そして住職と数人の僧侶だけという、質素なものだった。雪の中の荼毘。剣一の棺は、彼が命がけで登ってきたこの山から、白い煙となって空へと登っていった。風のない穏やかな日だった。煙は迷うことなく、真っすぐに天を目指した。骨上げ。白い布に包まれた骨を抱いた歩みが、本堂の前で立ち尽くした。夕日が白い雪を赤く染め始めている。
「お母さん、これからどうするの?」
歩みの問いには、「山に残って修行を続けるの?」という意味が込められていた。まさ子は剣一の骨が入った骨壺を、そっと撫でた。そして懐から、一通の手紙を取り出した。昨夜、剣一が託した遺書。そこには震える文字で、「俺が死んだら、お前は自由になれ」と書かれていた。まさ子は無意識のうちに、自身の剃り上げられた頭に手をやった。ざらり、という感触。それは罪悪感と後悔のために捨てた女の証であり、十年間、無心として生きた証だった。彼女はその感触を確かめ、それからゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。
「降りましょう。」
「え?」
歩みが目を見開く。
「でも、お母さんは『春まで』って……」
「春は、来ました。」
まさ子は夕日に輝く下界の街並みを見据えた。
「あの人が、連れてきてくれました。私がここで償うべき時間は、終わったのです。」
これからは。彼女は手紙を握りしめ、強いまなざしで歩みを見た。
「これからは、償うためではなく、生きるために行きます。この人と、あなたと一緒に。」
まさ子は袈裟のほこりを払い、一歩、雪を踏みしめて前へ進んだ。その足取りには、もう迷いはなかった。十年間止まっていた時計の針が、剣一の死と共に、再び力強く動き出した瞬間だった。
春。開け放たれたリビングの窓から、薄紅色の花びらが舞い込んできた。庭の老木である桜が、今年は狂ったように満開の花を咲かせていた。まるで、帰ってきた主と新しい季節の訪れを祝福するかのように。南無阿弥陀仏。低い読経の声が響いている。だがそれは、かつて寺の暗い本堂で響いていた、自分を責め苛むような苦しいものではない。春の陽だまりのように温かく、聞く者の心を解きほぐすような響きだった。歩みはキッチンでコーヒーを入れながら、その背中を見つめた。まさ子の髪は、剃り上げた清潔な状態から少し伸び、短い銀髪が柔らかく光っている。尼僧ではなく、清潔な普段着を身にまとい、その姿は尼僧と主婦のちょうど中間にいるようだった。仏壇には、新しい写真が飾られている。剣一が亡くなる直前、病院へ向かう前に縁側で撮った写真だ。痩せてはいるが、その笑顔は憑き物が落ちたように穏やかで、横に並ぶ若い頃のまさ子の写真と、見つめ合っているようにも見える。
「お母さん、お茶が入ったよ。」
「はい。今、終わります。」
まさ子は数珠と一緒に、金の音を響かせ、ゆっくりと立ち上がった。その手には、白木の位牌が二つ握られていた。一つは剣一のもの。そしてもう一つは、「無縁仏」と記された小さな位牌だ。十年間、剣一が妻だと信じて拝み続けてきた、あの身元不明の遺骨。まさ子と歩みは、剣一の葬儀の後、その遺骨を丁寧に供養し直し、寺の無縁仏塚に納めた。だがまさ子は、この位牌だけは手元に残したのだ。
「私の身代わりになってくれた人だもの。私が生きている限り、この人の魂も慰め続けたいの。」
そう言って彼女は毎日、夫と共に、その見知らぬ女性へも祈りを捧げていた。
「いい天気ね。お父さんも、きっと散歩に行きたがっているわ。」
リビングの椅子に座り、まさ子はコーヒーカップを両手で包んだ。その手はまだ節くれ立ち、あかぎれの跡も残っているが、以前のような痛々しさは消え、働き者の母親の手に戻りつつあった。
「そういえば、午後は佐藤さんがいらっしゃるのよ。」
歩みが尋ねると、まさ子は小さく頷いた。
「ええ。ご主人の介護で、少し心が疲れてしまったみたいで。話を聞いてほしいって。」
山を降りたまさ子だったが、彼女は創籍を返上しなかった。無心としての十年の修行は、彼女の中に、人の苦しみに寄り添う力を育てていたのだ。近所の主婦や、悩みを抱える人々が噂を聞きつけて、この家を訪れるようになった。まさ子は何か特別なことをするわけではない。ただ相手の前に座り、静かに頷き、その苦しみを丸ごと受け止める。それだけで、訪れた人々は涙を流し、憑き物が落ちたような顔で帰っていくのだ。「生き仏様みたい」と、近所では評判になっていた。
「お父さん、嫉妬してるかもね。」
歩みが笑うと、まさ子も目尻を下げて笑った。
「そうね。あの人は焼きもち焼きだったから。『俺のまさ子を一人占めするな』って、空の上で地団駄踏んでるかもしれないわ。」
二人の笑い声が、桜吹雪の舞う部屋に溶けていく。十年前、涙と沈黙が支配していたこの家は、今、穏やかな光と再生のエネルギーに満ちていた。午後、来客の対応を終えたまさ子は、庭に出た。そこには、剣一が丹精込めて手入れしていた草木が並んでいる。まさ子は庭の隅にある古びたベンチに腰を下ろした。ここは、剣一がよくタバコを吸っていた場所だ。風が吹いた。桜の花びらが渦を巻き、まさ子の膝の上に舞い落ちる。ふと、彼女は隣に誰かの気配を感じた。目には見えない。だが、馴染みのあるタバコの匂いと、不器用なぬくもりが、確かにそこにあった。
「剣一さん。」
まさ子は空を見上げた。青く、どこまでも高い空。十年前、自分はこの空の下で死のうとした。十年間、この空を見上げることさえ許されないと思っていた。だが今、こうして空の青さを美しいと感じることができる。
「私、行きますね。」
まさ子は、誰に言うともなく呟いた。
「悲しみも後悔も、全部抱きしめて。あなたが愛してくれたこの命を、最後の瞬間まで使い切ります。だから……」
彼女はベンチの隣の空間を、そっと手で撫でた。
「そこで見ていて。私がいつかそっちへ行った時、『よくやった』って褒めてくれるように。」
風が、まさ子の銀髪を優しく揺らした。それはまるで、大きな手が頭を撫でてくれたような感触だった。
「お母さん、買い物行こう。」
リビングから、歩みの明るい声が聞こえた。
「はい。今、行きます。」
まさ子は立ち上がった。足取りは軽く、背筋は伸びている。彼女は一度だけ振り返り、桜の木の下に佇むような気がする夫の面影に向かって、少女のように微笑んで見せた。そして、光溢れる家の中へと歩き出した。その背中には、もう迷いも、孤独の影もなかった。人は失って初めて、その愛の深さに気づく。だが気づいたその瞬間から、本当の愛の物語は始まるのだ。死は終わりではない。残されたものがその愛を胸に、前を向いて歩き出すための、始まりなのだから。



