「お前は私を厄介ものだと思わぬのか?」義父のその言葉に、私はただ首を振った。兄嫁は消門をどっさり貰い、私たち夫婦には年寄り一人の世話だけが押し付けられた。町中が私を気の毒がり、兄嫁を高慢な嫁と褒めそやした。それでも私は、焦げ飯を分け合い、布団一枚で震えながら、義父の着物を縫い続けた。すると義父は突然、糸を買えと言い、商いの秘訣を教え始めた。そして、兄嫁が私の店を潰そうと企んでいることに気づい…

「お前は私を厄介ものだと思わぬのか?」義父のその言葉に、私はただ首を振った。兄嫁は消門をどっさり貰い、私たち夫婦には年寄り一人の世話だけが押し付けられた。町中が私を気の毒がり、兄嫁を高慢な嫁と褒めそやした。それでも私は、焦げ飯を分け合い、布団一枚で震えながら、義父の着物を縫い続けた。すると義父は突然、糸を買えと言い、商いの秘訣を教え始めた。そして、兄嫁が私の店を潰そうと企んでいることに気づい...

深川の裏通りに、古びた平屋が一軒あった。屋根板は所々落ち、雨が降れば座敷まで漏ってくるような家だ。そこに、かつては名の知れた商人だった権蔵という老人が一人で暮らしていた。妻は十二年前に病で亡くし、店は十年前、同業者に騙されて一夜にして潰した。今は継ぎだらけの着物をまとい、細々と日を送る身の上だった。

ある朝、長男の安五郎とその嫁のお種が訪ねてきた。お種はうやうやしく頭を下げたが、その目は権蔵の着物を上から下まで舐めるように見ていた。台所を覗き込み、米びつが透けて見えるのを確かめると、唇に薄い笑みが浮かんだ。

「お父様、お暮らしが大変なようですけれど」
「構わぬよ。年寄りの一人暮らしなどこんなものじゃ」

お種は押入れや箪笥の引き出しを探るように目を動かしていた。何かを探しているのは明らかだった。帰り際、安五郎が古い糸巻きを見て「母上が好んでおられたものだ」と言うと、お種の目が一瞬光った。

その日の昼過ぎ、末の息子の九造と嫁のお杉が訪ねてきた。お杉の手には風呂敷包みがあった。

「お父様、私が漬けましたぬか漬けでございます」
「良いのに、お前たちが食べれば良いものを」
「私たちはまた漬ければ良いのです。お父様に召し上がっていただきたくて」

お杉はぬか漬けを皿に移すと、庭に出て野菜に水をやり、権蔵の湯飲みに水を注いだ。縁側の埃を払い、破れた障子に紙を張り、糸が絡まった糸巻きを丁寧に解きほぐして巻き直した。権蔵は黙ってその指の動きを見つめていた。

日が暮れて息子たちが帰った後、権蔵は古い長持ちから帳面を取り出した。最後のページまでめくり、筆を手に取って、そっと置いた。「まだ早い」と呟いて。

数日後、大家の手代がやってきて言った。「屋根板がまた落ちておりましたよ。大雨でも来たら大事になりますぞ」

その夕方、お杉が訪ねてきて屋根を見上げ、言葉を失った。

「まあ、こんなになるまで。お父様、なぜ早くおっしゃってくださらなかったのですか? 私が明日にでも板を手に入れてまいります」
「お前たちの暮らしも楽ではなかろうに」
「お父様のお住まいが先でございます。何を置いても雨をしのげねば」

お杉は近所の機織りの手伝いや賃仕事を請け負い、夜鍋に糸を紡いで少しずつ銭を貯めた。指先にまめをこしらえながら、板を買い、大工の与吉を呼んで屋根を直した。汗を拭いながら笑うお杉の手のひらには、潰れたまめから血が滲んでいた。

与吉は感心して言った。「お杉さんの旦那さんは幸せ者だ。こんな嫁さんはそういるもんじゃない。よその大仕事まで手伝って、自分の親でもない年寄りのためにこれほど尽くすとは」

お杉は顔を赤らめて言った。「お父様は九造の父上でございますもの。私の父上でもございます。それが通りと申しましょう」

数日後、お種が町の女房たちを連れてやってきた。新しくなった屋根を見上げて言った。「立派な屋根になりましたこと。私が大金を工面して大工を頼んだのですよ」

女房たちはお種を褒めそやして帰っていった。権蔵は何も言わなかった。

町には、権蔵のところにまだ財産が残っているという噂が広まった。誰が言い出したのか、消門や古番がしまい込んであるというのだ。お種はそれを聞いて、すぐに権蔵の元を訪ねた。

「お父様、もしやどこかにお残しになったものがございませんか? 私どもにも知らせてくださっても」
「ない」

権蔵の声はきっぱりとしていた。お種は疑いを残したまま帰っていった。

九造にも噂が届いた。お杉は静かに首を振った。「噂は噂ですよ。お父様がお暮らしに困っていらっしゃること、私たちが一番よく知っているじゃありませんか。屋根一つ直すのにあれほどのご苦労をされたのですから。もし本当に財産が残っていたら、あんな屋根を放っておかれるはずがございません」

その夜、権蔵は帳面に書きつけた。安五郎の名の横に「財を問うもの」、九造の名の横に「財を問わぬもの」。

間もなく、権蔵は二人の息子を呼び寄せた。座敷に並べ、しばらく黙って二人の顔を見つめていたが、やがて口を開いた。

「お前たちの父が最後に残したものがある。店が傾いても、これだけは守り通した」

風呂敷を解くと、中から消門と小判がいくつか出てきた。安五郎が息を飲んだ。

「これを安五郎に渡す。本家として家を継いで行きなさい。消門の始末はお前の役目じゃ」

安五郎の目に隠しきれぬ喜びの色が浮かんだ。

「九造、お前は私を引き取っておくれ。何も持たせられずにすまぬな」
「何をおっしゃいます。お父様。喜んでお引き受けいたします」

お杉はその知らせを聞くと、夫の手をそっと握った。「それがどうしたというのです。お父様をお世話するのが私たちの勤めですよ」

町は持ち切りだった。「本家は消番を手に入れて、弟の方は年寄り一人だけ引き受けるんだとさ。全く気の毒な話じゃないか」

お杉は広い方の部屋を権蔵に差し上げ、自分たちは土間の脇の狭い板の間で、布団一枚を分け合って寝た。夜中に権蔵の咳が聞こえれば、湯を沸かして持っていき、夜が明ける前に起き出して飯を炊いた。白い飯は権蔵の元へ。底にこびりついた焦げ飯に水を注いだものが夫婦の食事だった。

「俺たちの飯はこれか? これだけかい?」
「お父様に先にお出しせねばなりませんもの」

九造は黙って俯いた。お杉は笑って言った。「大丈夫ですよ。私たちは若いんですから。焦げ飯だって味噌を添えれば美味しゅうございます」

冬が近づき、深川の掘り割りにも薄氷が張るようになった。九造は大工仕事の合間に、隙間風の入る壁に古い布を詰め、権蔵の部屋だけは日当たりを絶やさぬようにした。お杉は夜鍋の手を休めることはなかった。

ある夜、権蔵が咳込む声で目を覚ました。お杉は慌てて隣の部屋に飛んで行った。

「お父様、大丈夫でございますか?」
「暗いじるでない。ただの年寄りの風邪じゃ」

お杉は湯を沸かし、生姜を刻んで差し出した。権蔵はゆっくりとそれを飲み干し、ため息をついた。

「お前は私を厄介ものだと思わぬのか?」
「何をおっしゃいます? お父様は私どもの大切な父上でございます。厄介などと思うことなど一度もございません」

その夜遅く、権蔵は目を覚ました。隣の板の間からかすかな衣ずれの音がする。そっと襖の隙間から覗いてみると、行灯の淡い明かりの下、お杉が一人で権蔵の着物のほつれを縫っていた。薄い夜着だけを羽織ったその肩は、寒さに小さく震えている。指先にはひび割れが浮かび、針を持つたびに顔をしかめていた。それでも手を止めることなく、一針一針丁寧に糸を通していた。

権蔵は音を立てぬようそっと襖を締め、しばらく闇の中で目を閉じていた。

翌朝、権蔵はお杉の手を取り、ひび割れた指先をじっと見つめて言った。「それはいつからじゃ」

お杉は慌てて手を引っ込め、笑って言った。「何でもございません。ただの水仕事のあれでございますよ」

ある日、権蔵がお杉を呼んだ。「糸を買えるだけ買っておいで」

「そんなにたくさんですか? 手元の銭には決して多くございませんが」
「今年は当たり年だ。買った糸から糸を引いて蓄えておきなさい」

お杉は訳を問わず、言われた通りにした。朝から晩まで糸市に通い、少しの銭で買えるだけの糸を求め、家に帰っては夜鍋に糸を引いた。町の者たちは笑った。「今日はいくら買うつもりだね」「ありったけ買わせてくださいませ」

しばらくすると、糸が消えた。絹物を求める者が増え、糸の相場がみるみる跳ね上がった。

「さあ、引いた糸を持っていって売りなさい。相場より下では決して売ってはならぬよ」

お杉は半信半疑で糸を並べた。初めは高いと渋る者もいたが、他に糸を持つ者がいないと知れると、次々に買い求めていった。戻って銭を見せると、権蔵は言った。

「品物はあり余る時に買い、足りなくなった時に売る。これが商いの道じゃ」

権蔵の教えは続いた。「春は糸が出る。引いて蓄えておけば秋に高く売れる。夏は薄物が求められる。冬になれば厚手の織り物が値上がりする。人の入り用は季節ごとに決まっておる。時を読めばそれが銭になるのだよ」

「品を見合ってはならぬ。糸も布も一匹ごとに良し悪しがある。粗悪なものを混ぜて売れば、その場は儲かっても、いずれ客が離れる。心を売ることを忘れてはならぬよ」

ある夜、お杉は思い切って尋ねた。「お父様はどうして商いをお畳みになったのですか?」

権蔵はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと語り始めた。「若い頃の私は、銭を稼ぐことばかりに気を取られておった。人を見る目を養わずして銭ばかりを追えば、いずれこうなる。お前には同じ轍を踏ませたくない」

お杉はその言葉を深く胸に刻んだ。

お杉は季節ごとに糸と反物を売り買いした。少しずつ銭が溜まり、古い機を一つ手に入れ、機織りの手伝いをもう一人雇った。店を「川村屋」と名付けると、品者が次第に集まり始めた。手伝いに雇った大梅という娘は、初めは糸の扱いもおぼつかなかったが、お杉は根気よく教えた。「糸はな、強く張りすぎても緩めすぎてもいけないよ。手に馴染むまで何度も繰り返すのだよ」

ある夏の日、近所の女房が店先で言った。「お杉さん、この薄物、随分と手触りがよございますね。うちの子の浴衣にどうかしら」

お杉は丁寧に物を選び、寸法を確かめながら言った。「この子ならこの柄が似合いましょう。裾を少し長めに仕立てておきますね」

女房は満足して帰っていった。「品も良ければ心も良い店だ」と、川村屋の評判は少しずつ広まっていった。

ある秋の日、呉服問屋の主人が店を訪ねてきた。「噂に聞く川村屋とはここでございますか? 良い糸を扱う店だとあちこちで耳にいたしましてな」

お杉は丁寧に糸の束を広げて見せた。「この糸は今年の春に仕入れました上等の糸から引いたものでございます。艶と強さ、両方お確かめくださいませ」

主人は糸をひねり、光にかざしてしげしげと眺め、感心したように言った。「なるほど。これは良い仕事をしておられる。今後もお付き合いを願いたい」

こうして川村屋の名は深川の外にまで届くようになった。権蔵はその話を聞くたび、目を細めて言った。「良い商いというものは、遠くの誰かにまで届くものじゃ。目先の銭だけを追ってはそうはいかぬ」

お種の方は我慢ができなくなっていた。「あなた、消を一つだけ売りましょうよ。私だって少しはいいものを置きたいのです。皆が私を本家の嫁と持ち上げるのに、この身では恥ずかしゅうございます」

安五郎は妻に押し切られ、一番小さな消を手放した。呉服屋へ走り、上等の縮緬を買い求めた。町の女房たちが目を丸くした。「まあ、本家のお種さんが昨日いらしていましたよ。さすが本家は違うね」

お種はその噂を聞いて満足そうに笑ったが、残った銭は長くは持たなかった。縮緬の着物は何度も袖を通すうちに色あせ、質屋に持っていっても二、三文にしかならなかった。

「あなた、また消を売りましょうよ」
「今度は何を買われるおつもりか」
「それは……これから考えます」

安五郎は妻の顔色を伺いながら、また消の一枚に手をかけた。

その頃、口入れ屋の千吉という男が安五郎を訪ねてきた。声を潜めて耳打ちする。「大橋のそばに、手放しで出ている土地がございます。あそこに新しい市が立つという話でして、今のうちに抑えておけば三倍にはなりますよ。安五郎さんだけに教えて差し上げるのです」

安五郎は心を動かされ、家に帰ってお種に相談した。お種は目を輝かせて言った。「それは良い話ではありませんか? すぐに買いなさいませ。ぐずぐずしていて、他の者に取られてしまいますよ」

安五郎は消をもう一枚売り払い、その銭で川向こうの土地を買った。お種はにんまりと笑った。「三倍になったら、弟たちより先に大尽ですよ」

一月が過ぎ、二月が過ぎた。地面はぴくとも動かない。安五郎が千吉を尋ねると、困った顔で耳打ちした。「市の都合が変わりまして、市は別の場所に作ることになったそうで。誠に申し訳ないことでございますが」

安五郎はよろめきながら家へ帰った。「全部、使い道のない空地を掴まされただけだ」

お種はへたりと座り込んで泣いた。千吉という男は、口入れ屋を畳んで姿を消していた。近所の者に聞けば、あの手の口入れはあちこちで同じ手口を使っているという噂だった。

「安五郎さん、あんたも人が良いね。うまい話には裏があるものですよ」

町の者にそう言われるたび、お種は唇を噛みしめていた。残った消はもう二枚しかなかった。

その頃、川村屋は店が二つに増えていた。川向こうの外れに新しく立てた小さな店には、糸の販売を分けて大梅に任せ、お杉自身は本店で機織りと客足に追われる日々だった。

町にこんな噂が広まった。「権蔵さんは商いの秘訣を全部、弟嫁に授けたんだそうだよ」

その言葉がお種の耳に突き刺さった。「私たちには消だけを売り渡して、儲かることは全部あの子にやらせたのよ」

九造が言った。「弟の嫁がよくやっているから、そうなったのではないか」

「違いますよ」とお種は声を荒げた。「あの年寄りは何もかも弟の方に回したのですよ。私たちは試されたのです。あの子が可愛くて、私たちは追い払われただけなのです」

その夜から、お種は川村屋の様子を伺い始めた。誰が出入りするのか、誰と商いをしているのか、一つ一つ書き留めていった。「隙を探すのですよ。あの連中がしているところがきっとあるはず」

ある日、お種は川村屋の前を通りかかった。ちょうど客が店先で深々と頭を下げているところだった。「おかげで良い品に巡り合えました。ありがとうございました」

それを見ていた昔馴染みの女房が、お種に気づかず言った。「あら、お種さんじゃないの? 近頃、杉さんの店は繁盛でようございますこと。あなたも見習わなくちゃね」

かつては自分に向けられていたはずのその言葉が、今では当たり前のようにお杉へ流れていく。お種は何も言えず、その場を足早に立ち去った。

家に帰り、色あせた縮緬の袖を見つめ、箪笥の底に残った二枚の消を取り出し、そのうち一枚を長いこと見つめてはしまい直した。「あの女さえいなければ、私たちだって……」

お種はそう呟くと、残った消のうち一通を手放した。手元には、使い道のない川向こうの土地の証文が一枚残るばかりだった。「これもダメなら、私たちはおしまいですよ」

お種は古着で穴の開いた継ぎだらけの野良着を買った。一目を忍ぶためだ。その夜、川村屋の裏手に回り、破れた窓から手を差し入れて上等の反物を抜き取り、代わりに古い布切れをねじ込んだ。布も何枚か破り取った。手が震えていたが、もう後戻りはできぬと、お種は自分に言い聞かせていた。

次の日、客が怒鳴り込んできた。「この反物、昨日買ったばかりなのに穴が開いているじゃないか。銭を返してくれ」

お杉は驚いて反物を確かめたが、覚えのないことだった。「申し訳ございません。すぐにお返しいたします」

たちまち噂が広がった。取引先の商人が帳面を確かめに来て、破れたページを見るなり顔を真っ赤にした。「こんないい加減な商いをされては困りますな」

お杉は何度も頭を下げたが、疑いは晴れなかった。

お種はそれだけでは止めなかった。安五郎の名で町役所に訴えたのだ。「訴えたいことがございます。川村屋は粗悪な品を売りさばき、店が二つあるのに、女将に収める運上金を一つ分しか納めておりません」

同心が川村屋を調べに来た。いかめしい顔つきで店の中を見回す。「運上金を納めた証はあるか?」

お杉が走り回って証を探したが見当たらない。「確かに納めいたしましたけれど、帳面が……誰かに破られたのでございます」

「それを証し立てるものは?」

「それは……その……」

お杉は言葉に詰まった。役所の帳面にも、店は一つしか記されておらなかった。

「証もない。記録もない。証人もおらぬな。これでは申し開きの立たぬこと。神を欺く商いと皆さざるを得ぬ」

同心はそう言い残して去っていった。

取引先が次々と手を引いた。客の足が途絶えた。雇っていた大梅も去っていく。「申し訳ございません。私も暮らしがございますので、ここにい続けたら共倒れになります」

糸車は隅に置かれたまま、くるりとも回らない。棚に並んだ反物は埃を被ることもなく、ただ静かに売れる日を待ち続けていた。お杉はそれでも朝には店を開け、夕方には戸を閉める。その繰り返しを幾日も続けた。

ある夕暮れ、お杉は店の暖簾に手をかけた。しばらくその布地を見つめてから、静かに外し、丁寧に畳んで胸に抱えた。ガランとした店の土間にへたり込んで、お杉は泣いた。

「お父様、私は本当にそんなことはしておりません。誰かが私を落とし入れようとしているのです。信じてくださいませ」

権蔵がお杉の手をそっと握った。「感じるな。私はお前を信じておる。長年お前の働きぶりを見てきたのじゃ。お前が粗悪な品を売るような人間でないことは、誰よりも私が知っておる。お前のせいではない。誰かがお前を落とし入れようとしたのだよ。心当たりがある。しばらく私に任せておくれ」

お杉は涙を拭い、権蔵の言葉にすがるように頷いた。九造も妻の肩をそっと抱き、「大丈夫だ。父上がついておられる」と静かに励ました。

安五郎とお種の暮らし向きは、日に日に貧しくなっていった。かつて呉服屋で縮緬を買い求めた頃の面影はどこにもない。お種は古びた木綿の着物をまとい、安五郎は村役の仕事も減り、内職の縄作りで食いつないでいた。かつては本家の嫁と持て囃されたお種も、今では井戸端で肩身の狭い思いをすることが増えた。

「あら、お種さん、今日はどちらへ?」
「いえ、その……ちょっとそこまで」

お種はうつむきがちに答え、足早に立ち去るのが常となっていた。近所の子供たちが「あの家は本家のくせに、弟の家より貧しいんだって」と囃し立てることもあった。お種はそのたびに悔しさで唇を噛みしめていた。

その頃、お種は策を練っていた。「あと少し攻めれば、あの店は潰れますよ。そうなれば、お父様もこちらへいらっしゃるでしょう」

安五郎は不安げに言った。「そこまでせずとも良いのではないか」

「何をおっしゃるのです。あなたは黙っていらしてください」

町の女房たちの間でも、川村屋の噂で持ち切りだった。「聞きましたか? 川村屋の話、金をごまかしていたんですって」「まあ、あんなに評判の良い店だったのに」「人は見かけによりませんね」

中にはお杉に同情する声もあった。「お杉さんはあれほど働き者でしたよ。何かの間違いではありませんか?」

噂に噂が重なり、真偽の定かならぬまま、街中を駆け巡っていった。

三日の後、権蔵は九造を伴い、風呂敷を一つ抱えて町役所へ出向いた。同心の前に帳面を三冊並べた。

「嫁の一件について申し上げたいことがございます」

一冊目を開いた。日付、金額、店の名がびっしりと記されている。「弟の嫁が二つの店の運上金を、どちらもきちんと納めた記録でございます。この手で私が書き留めました」

同心が帳面を手に取り、目を通す。二冊目を開いた。商いのやり取りが一つ残らず書き込んである。「粗悪な品を売った記録はただの一度もございません。仕入れた糸の量、引いた糸の目方、売った反物の値まで、細かく記されております」

同心の目が大きく見開かれた。「これほど詳しい帳面は見たことがない」

権蔵は三冊目を取り出した。「そしてこれは、誰が品物をすり替え、帳面を盗んだかを記したものでございます」

「どうしてそれがお分かりになったのですか?」

「店の近くに、与吉という大工に頼みまして、夜な夜な誰が出入りするか見張ってもらいました。それから、その隙間に灰を巻いておいたのです。中に忍び込めば足跡が残りますのでね」

与吉が見たものの着衣の色柄、灰に残った足跡の形まで、権蔵は克明に書き留めていた。

「それだけでは動かぬ証にはなりますまい」と同心が渋い顔で言った。

「いかにも。それだけならば単なる推測に過ぎませぬ。しかし、あの夜のことです。与吉が裏木戸の影から見張っておりましたところ、物音に驚いた何者かが慌てて逃げ出し、その際に片方の草履の鼻緒を切らせ、灰の上に置き去りにしていったのでございます。与吉はとっさに追いかけましたが、暗がりの中、見失ってしまいました。ただ、月明かりに浮かんだその後ろ姿と、残された草履だけは確と見届けたと申すのです」

権蔵は懐から小さな布包みを取り出し、灰にまみれた草履の片方を差し出した。

同心が息を飲んだ。「これは……」

「鼻緒の切れ具合、布の色柄。それに、この右足だけが擦り減った歩き癖。同じ草履をお持ちの方が、この町にただ一人おられます」

「それにしても、ここまでのことをなさるとは、並々ならぬご覚悟でございましたな」

権蔵は静かに頭を下げた。「嫁の潔白を明かすためならば、これしきのことは当然のことでございます」

同心はしばらく帳面を見比べ、やがて筆を取って書き始めた。権蔵は最後のページを開いた。そこには「兄の嫁、お種」と記されていた。

数日後、お種が役所に呼び出された。「その方が川村屋を訴えたな。川村の権蔵殿から証拠が差し出された。その方が品物をすり替え、帳面を盗んだというが、そうか」

お種は膝が震え、その場に崩れ折れた。「申し訳ございません。私が……私がいたしました」

「何かようなことを」と同心が厳しく問う。「妬ましくて、悔しくて。あの嫁が褒められて、私どもは何もかも失って」

「それで人を落とし入れて良いと思ったか」

お種は答えることができず、ただ震えるばかりだった。安五郎も呼び出され、事の次第を初めて知り、言葉を失った。「お前がこれほどのことをしていたとは、存じませんでした」

町の噂はひっくり返った。「兄嫁が弟嫁を落とし入れたんだとさ」「品物をすり替えて、帳面を盗んで」「権蔵さんが全部記録していたんだよ」「全く恐ろしいことをするものだね」

井戸端の女房たちも顔を見合わせ、ばつが悪そうに言った。「私たちもお種さんを高慢な嫁だと持ち上げておりましたね」「人というものは、上辺だけでは分からぬものでございますよ」

取引先の商人たちがお杉の元を尋ねてきた。「飛んだ思い違いをいたしました。またお取引を願いたいのですが」

お杉は涙をこぼしながら深く頭を下げた。「ありがとうございます。ありがとうございます」

大梅も戻ってきて、両手を合わせて詫びた。「お杉さん、私、恐ろしくて店を離れてしまって、本当に申し訳ございませんでした」

お杉は大梅の手を取り、優しく言った。「良いのですよ。お前も暮らしがあるのですから。また一緒に働いておくれ」

大梅は涙をこぼしながら、何度も頷いた。

その日の夕方、九造が権蔵に尋ねた。「お父様、どうして全てお分かりだったのですか? 与吉さんに見張りを頼まれたのも、灰を巻かれたのも、いつのことでございますか?」

権蔵がふっと笑った。「お杉が店を大きくし始めた頃からじゃ。人というものは、他人が幸せになるのを見て心を乱すこともあれば、共に喜ぶこともある。お種の目を見て、俺はいずれ何かをしでかすと分かっておった。それ故、用心しておったのだよ」

「与吉に頼んで見張りを立てたのも、店の商いが軌道に乗り、人の目を引くようになった頃からじゃ。人の心というものは、豊かになった隣人を見て素直に喜べる者もいれば、妬みに飲まれてしまう者もある。お前の兄嫁がどちらであるか、私には見えておった」

「それでも、まさかここまでするとは思わなんだ。人の心の底というものは、豊かさや貧しさによって初めて姿を表すものなのかもしれぬな。屋根を直した時のあの噂の立ち方を見た時から、私は薄う気づいておったのだよ。お種が自らの手柄でないものを己のものと語り、それを正そうとしなかった。この小さな嘘の積み重ねが、いずれ大きな災いを招くであろうことな」

権蔵はしばらく間を置いて、静かに続けた。「人を疑うて用心するのは辛いことじゃ。しかし、お前たちを守るためには、そうせねばならなかったのだよ」

九造は父の言葉に深く頭を下げた。「お父様のお心遣い、身にしみてありがとうございます」

「初めから見ておったよ。お前の嫁がまっすぐに生きてきたからこそ、誠がそのまま証となったのだ」

それから日を置いて、権蔵は再び二人の息子を呼び寄せた。縁側に並んで座らせた後、奥の間から長持ちを開けて、古い風呂敷包みを一つ取り出した。中に消門と小判が入っていた。前に渡したものより、むしろ多い。

「お前たちの母が最後に残したものだよ。私がずっと隠しておいた」

安五郎の顔から血の気が引いた。「では、初めから……」

「そうだよ。安五郎に渡したものが全てではなかった」

権蔵は風呂敷包みをお杉の前にそっと押しやった。そして安五郎の方を向いた。

「お前に消を渡したのは試しだった。銭をどう使うか、欲をどう収めるか、それを見ておきたかったのだよ」

安五郎がきつく唇を噛んだ。「申し訳ございません」

「良い。人は誰しも過ちを犯す。大切なのは、そこからどう生きるかじゃ」

権蔵は今度はお杉を見た。「九造のところへ私が行ったのも試しだった。何も持たぬ暮らしの中でどう生きるか、人をどうもてなすか、それを見ておきたかったのだ。焦げ飯を分け合いながら、お前は一度も不満を申さなかった。狭い部屋で布団一枚を分け合いながらも、お前は夫を責めることも、私を疎むこともなかった。それがどれほど尊いことか、私は知っておる」

お杉の頬を涙が伝った。「私はただ、当たり前のことをしただけでございます」

「それが当たり前でないことが、この世には多いのだよ」

権蔵はゆっくりと口を開いた。「安五郎は銭を受け取った。九造は道を受け取った。銭は使えばなくなるけれど、道は一生消えせぬ」

権蔵はお杉の手を取った。「今日からこの嫁が川村の家の名を預かる。九造、お前にこの家を継がせるよ」

そして背を向けながら、こう付け加えた。「お杉よ、兄の家を助けてやりなさい。家族は捨てるものではないよ」

「はい、お父様」

お杉は本家を訪ねた。握り飯と漬け物を風呂敷に包んで差し出した。「お姉様、これを召し上がってください」

やつれたお種の目から涙がこぼれ落ちた。「許しておくれ。私は取り返しのつかないことをした。お前を落とし入れようとまでした。合わせる顔がございません」

「もう過ぎたことでございます。詫びを言いたいと思われましたら、いつでもいらしてくださいな。お父様がおっしゃったのです。家族は捨てるものではないと。人は誰しも道を踏み外すことがございます。大切なのは、そこからどう歩き直すかだと、お父様はいつも仰せでございました」

お種は声をあげて泣いた。安五郎もまた深く頭を下げた。「お杉さん、私どもは本当に浅ましいことをいたしました」

お杉は静かに首を振った。「お兄様、もう終わったことでございます。これより、これからのことを考えましょう。お兄様は村役の帳付けがお得意でございましょう。よろしければ、川村屋の帳面をお手伝いいただけませんか?」

安五郎は驚いて顔を上げた。「私に、そのようなことをさせてもらえるのですか? あんなことをした私どもに」

お杉は微笑んで言った。「お父様がおっしゃったではありませんか。家族は捨てるものではないと。それに、お兄様の帳付けの腕前は町でも評判でございますよ」

安五郎の目に久しぶりに光が戻った。「ありがとう、お杉。この恩は忘れぬ。今度こそ、しっかりとお前たちの役に立って見せる」

それから安五郎は川村屋の帳面を預かるようになり、几帳面な性格を生かして店の商いを裏から支えるようになった。

その夜、権蔵は帳面を全て庭に持ち出し、火をつけた。炎が夜空に立ちのぼり、灰が舞い上がった。九造とお杉も縁側に並び、燃える炎を静かに見つめていた。

「お父様、どうして焼いてしまうのですか? あれほど大切にお書きになっていたものなのに」

「もういらぬよ。全て明るみに出たのだから。あの帳面は誠を明かすためのものであった。今はもう、誰の胸にも誠が宿っておる。証をいつまでも握りしめておっては、人の過ちをいつまでも許せぬままになってしまう。お種にも安五郎にも、やり直す道を歩ませてやりたいのじゃ」

お杉が静かに頭を下げると、権蔵は笑って言った。「私が渡したのは銭ではないよ。真心を残したのだ。それは決して燃えて消えるものではない」

炎はやがて小さくなり、灰だけが夜風にさらされて、闇の中に消えていった。

それから幾年か経った。川村屋は深川でも指折りの店となり、九造とお杉の間には子が生まれ、権蔵は縁側で日向ぼっこしながら、孫の遊ぶ姿を眺めるのが何よりの楽しみとなった。孫がよちよちと権蔵の膝によじ登ると、権蔵は目を細めて「お前もいつか、誰かに真心を渡すのだよ」と語りかけていた。

お種の方も、身の丈にあった小さな商いを一から始め、時折お杉の元へ店の修繕を頼みに来ては「姉様、いつもすみません」と頭を下げるようになった。お種は今では井戸端で自らの過ちを隠さずに語るようになり、「私は昔、愚かなことをしました」と若い嫁たちに諭すこともあったと言う。

かつての遺恨を知る者も、今では誰も口にしないほどだ。町の者たちは長いことこの話を語り継いだ。川村の権蔵が残した誠の証は、銭ではなく道であった。消門ではなく人であった。帳面には記されないが、胸に刻まれるものがある。

かつて自らも欲に目がくらみ、一夜にして全てを失った権蔵だからこそ、哀しさと儚さを誰よりもよく知っていたのであろう。銭は使えばなくなるが、人に与えた道は決して消えぬということ。財は取り上げられても、まっすぐに生きた者の心は奪えぬということ。そして、誠の証とは銭にではなく、人を思う者の手から生まれるということを。

深川の掘りは今日も静かに流れ、木の音は変わらず、かんかんと響いている。川村屋の暖簾をくぐる客は、品物と共に、そこに込められた真心をも持ち帰るのであろう。

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