もうだめだ。露天風呂のお湯が全部濁ってしまった。山奥の小さな温泉旅館「桜間」で、今夜の星空フェスタを控えたその瞬間、主役の露天風呂が使えなくなった。スタッフたちは青ざめ、若女将の綾乃はその場に崩れ落ちた。
「俺が解決します」
あまりにも静かな声に、その場の誰もが動きを止めた。ボイラー室の奥でいつも黙っているだけの俺、星野優馬が名乗り出たのだ。信じる者はいなかったが、俺は工具箱を握りしめ、地下の点検へと向かった。
「本気かよ」
誰かがつぶやく。その声に、誰かが小さく答えた。
「ああ。でも、あいつ、前に何か大学で…」
ざわめきが広がる中、俺はそれを背に通路の奥へと消えた。懐中電灯の明かりだけを頼りに、古びた点検路を進む。目指すのは、誰も使わなくなった旧配管。あの日、こっそり調べたあのバルブが生きていれば、間に合う。
俺の名前は星野優馬。33歳。無職に限りなく近いアルバイトだ。働いているのは、桜間という小さな温泉旅館。山の中にぽつんと立っていて、地元の人でも場所を知らない者がいるくらい目立たない。けれど、そこには確かな静けさと豊かな自然があった。
旅館の周りには杉や紅葉樹の林が広がり、春にはその名の通り桜が山肌を淡い桃色に染める。夏は蝉時雨と共に緑が濃く、秋には燃えるような紅葉、冬は一面の銀世界。まるで季節ごとに姿を変える巻き物のような場所だ。
そして何より、この旅館がひっそりと守り続けてきた宝がある。それが星空だった。町から離れ、光害もほとんどないこの場所では、晴れた夜になると信じられないほどの星が空に広がる。天の川が肉眼ではっきりと見えることも珍しくなく、夏にはペルセウス流星群、冬にはオリオン座流星群。どんな天体アプリよりも、ここの空の方がずっと正確で雄弁だった。
「星空の湯」と名付けられた露天風呂も、そうした土地の魅力を生かしたものだった。温泉に身を沈めながら見上げる夜空は、何かを祈りたくなるほど澄んでいて、言葉を失うほど美しい。旅館が繁盛していた頃は、この星空を目当てに都会から泊まりに来る客も多かったという。
だが今は、その数もすっかり減ってしまった。大手リゾートの台頭や観光の流れの変化。そこに追い打ちをかけた感染症の流行。気づけば桜間は、地図の端のような存在になっていた。それでもここにはまだ静けさがある。便利さや派手さはないが、時間の流れがゆっくりと優しく体に染み込んでいくような、そんな場所だ。
今は赤字続きで、正直いつ潰れてもおかしくないって言われてる。だけど俺はここで夜間のボイラー係として働いている。理由は単純。住み込みだから、食う寝る場所が確保されてる。それだけだ。
いや、正確に言えばそれだけじゃない。俺は星を見るのが好きだ。いや、好きって言葉じゃ足りないかもしれない。10年も20年も、ずっと星と一緒にいた。子供の頃からずっと暗い夜空を見上げては、あの無数の光の中に何かを探していた。でもそれが何か分からなかった。
高校を出て天文学の道に進んだ。運よく大学ではNASAのインターンにも呼ばれた。夢だった。でも現実はいつも冷たい。その頃、祖母の介護が必要になって、金も時間も底をついた。インターンの最終審査を辞退して地元に戻った。
祖母は俺を育ててくれた唯一の家族だった。両親は俺がまだ小学生の頃にいなくなった。事故だった。だから祖母のことは、家族というより最後の明かりみたいに感じていた。介護の数年間でほとんどの貯金を使い果たした。祖母が静かに眠りについた後、気づけば俺には何も残ってなかった。スーツケース一つと、解体して何度も組み直した手作りの望遠鏡だけ。
桜間で働き始めたのは、それからすぐのことだ。
「今日も晴れてるな」
そうつぶやきながら、仕事が終わった後の屋上に立った。ここは見晴らしがいい。街灯も少ないし、空が広い。この屋上がある限り、俺はここにいてもいいと思えた。金属の手すりに寄りかかって望遠鏡を覗き込む。土星の輪郭、木星の縞、オリオン座の左肩にある赤い輝き。そういうものを探してる間だけ、俺は自分が誰かになれた気がする。
昔、祖母に言われたことがある。
「優馬は星とお話ししてるみたいだね」
子供だった俺は笑って頷いたけれど、本当はそうじゃなかった。星に話しかけてたんじゃなくて、星が俺の話を聞いてくれてたんだ。寂しい夜も、不安で眠れなかった夜も、あのまたたきに何度も救われた。だけど人と話すのは今でも苦手だ。世間話とか普通の会話とか、そういうのがどうしてもうまくできない。
「星野さん」
突然背中にかかった声に、心臓が跳ねた。振り返ると、浴衣姿の女性が立っていた。立花綾乃。桜間の若女将見習いだ。小柄で細身だけれど、芯の通った雰囲気をまとっていて、見る者に育ちの良さを感じさせる。整った顔立ちに落ち着いた物腰。けれどどこか疲れたような影も差していた。まだ20代半ば。こんな場所には少し似つかわしくないほどの美人だったけれど、彼女がここにいるのには訳がある。
元々は都内の大学に通っていたが、2年前、主人だった父親が急病で亡くなり、突然呼び戻されたのだと聞いている。母親一人で旅館を回すのは限界があった。後継のつもりなどなかった彼女が、それでも戻ってきたのは、旅館を、家族を守るためだったのだろう。だが経営は思うように行かず、赤字は続いていた。若女将見習いとはいえ、今や実質旅館を回しているのは綾乃だと言ってもいい。日中は接客に、夜は帳簿や宣伝の作業までしていると噂で耳にしたことがある。
俺が彼女を知っているのも、あくまで通路で何度かすれ違ったことがある程度だった。挨拶すれば必ず笑顔で返してくれるけれど、その笑顔の奥にある苦労や孤独を、俺はこれまで考えたことがなかった。そんな彼女が今、わざわざ屋上までやってきた。俺に何か用があるとは思えず、思わず戸惑う。
「あの、邪魔しちゃいましたか?」
俺は慌てて望遠鏡から離れた。
「いいえ、俺はちょっと星を…」
言い終える前に、また喉が詰まる。こんな風に話すのが、どうしてもぎこちなくなってしまう。彼女はそんな俺を責めたりはしなかった。
「やっぱり星好きなんですね。実はご相談があって」
その声には、どこかためらいが混じっていた。俺が反応に戸惑っている間に、綾乃は胸元でぎゅっとファイルを抱えた。
「えっと、ごめんなさい。こんな時間に押しかけちゃって、迷惑ですか?」
顔を上げた彼女は、少しだけ困ったように笑ったけれど、その目は真剣だった。旅館の廊下でたまに見かける若女将見習いとしての顔じゃない。もっと素朴で疲れていて、それでも何かを掴もうとしているような、そんな目だった。
「迷惑じゃないです」
俺がようやくそう返すと、彼女はほっとしたように息をついた。
「よかった。あのね、ちょっとだけお話ししてもいいですか?」
彼女の言葉には、どこか不安げな揺らぎも混じっていた。ただの業務連絡じゃない。そう直感した俺は、思わず背筋を伸ばした。
「え、大丈夫です」
綾乃は小さく頷き、手にしていたファイルを胸元でそっと抱え直した。
「ありがとうございます。あの、実はですね、今旅館の立て直しのために『星空フェスタ』というイベントを企画しているんです。まだ案の段階なんですが」
そう言って彼女はファイルの中身をそっと広げてみせた。印刷された簡易的なレイアウト図に、星座観察会、星空スイーツなど手書きの文字が並んでいた。手作り感があった。でもその一文字一文字に切実さが滲んでいる。
「父が倒れてからお客様が減ってしまって、それでもなんとか続けてきたんですけれど、流行病の影響もあって、去年はとうとう赤字が2期連続になってしまいました。母ももう無理をしていて、このままだと本当にのれんを下ろすことになってしまいます」
その言葉に、俺は言葉を失った。いつも明るく立ち働く彼女の姿からは想像できなかった現実だった。
「私、まだ若女将見習いという立場ですが、この旅館は私にとって家なんです。子供の頃からお客様の笑い声が響くお座敷や、湯の向こうで父と母が働いている姿が当たり前の景色で…」
声が少しだけかれたけれど、彼女はすぐに目元を上げ、語気をほんの少しだけ強めて続けた。
「だから、今できることは何でもやろうと思っています。SNSでの宣伝や外部とのコラボ企画とか。でも予算が足りなくて、全部手作りです。本当はプラネタリウムのプロの方にお願いしたいところなんですが、それも叶わなくて」
彼女の視線が、そっと俺の望遠鏡に向けられた。
「そんな時に、星野さんのことを思い出しました。いつも屋上で望遠鏡を調整されているの。私、何度かお見かけして、その姿がとても印象的だったんです。まるで星とお話しされてるみたいで」
その言葉に、俺の胸の奥が少しだけざわついた。
「ですから、もしご迷惑でなければ、星空フェスタの中で星のお話や会のサポートなど、ご協力いただけないかと思って」
俺は口を開きかけて、けれどすぐに視線を逸らした。確かに興味はある。でも…
「申し訳ありません。俺にはそういう人前で話すようなこと、向いていないと思います。星のことは好きですけど、説明したり盛り上げたりとか、得意ではなくて」
彼女の目が、ほんの一瞬だけ曇った。
「そうですか。いえ、無理を言ってしまってごめんなさい」
けれど彼女はすぐに笑顔を戻した。その笑顔には、無理をしていないようで、やっぱりどこか背負うものの重さが滲んでいた。
「でも、こうしてお話できただけでも嬉しかったです。また夜空を見に来てもいいですか?」
俺は思わず頷いていた。
「いつでもどうぞ」
「ありがとうございます。じゃあまた」
深く頭を下げた彼女は、夜風に髪を揺らしながら階段を降りていった。残された俺は、望遠鏡を覗き込むこともせず、ただ空を見た。星はいつものように静かにまたたいていた。何も言わず、何も求めず。でもどこかで俺は気づいていた。今この瞬間、心のどこかがほんの少しだけ温まっていることに。
翌日からだった。旅館の空気が少しずつ変わり始めたのは。
「星空フェスタ、決まりました。準備期間は1ヶ月。みんなで盛り上げていきましょう」
朝のミーティング。いつもは事務的に終わる内容のはずが、今日は違った。中央で声を張ったのは綾乃だった。手には色とりどりのパンフレットとイベントの企画書がある。露天風呂を背景にした手書きのロゴに、手作り感と本気が滲んでいた。
「星座早見表を使った夜のガイドツアー。それから高校の科学部とのコラボで星空教室を。屋上をプラネタリウムみたいにするつもりです。それと星にちなんだ特別メニューや観望イベントも」
彼女は一息で言い切ると、周囲を見渡した。料理長、仲居頭、清掃スタッフ、みんな少し驚きながらも真剣に耳を傾けていた。
「そしてもちろん、星空の湯も目玉になります。夜のお風呂から星が見えるって、うちだけの特権ですから」
それを聞いて、俺の視線に彼女の目がすっと重なった。
「ボイラーの調整もいつもよりお願いしてしまうかもしれません。星野さん、どうかよろしくお願いします」
俺は一瞬だけ迷ったか。頷いた。
「できる範囲でやってみます」
それだけでも、綾乃は嬉しそうに笑った。俺にはまだ自分が何をすべきか分かっていなかったけれど、その笑顔を見て、背中を預けられた気がしたのは確かだった。
それから数日、旅館はにわかに慌ただしくなった。浴衣に星の刺繍を加える業者が出入りし、屋上には簡易スクリーンを貼る足場が組まれた。桜間は久しぶりに活気づいていた。俺の仕事は相変わらずボイラー室での温度管理と配管の見回りだけれど、フェスタを前にして、俺なりに何かできることはないかと考え始めていた。
そんなある日、綾乃が打ち合わせから戻ってくるところに出くわした。俺が声をかけるのをためらっていると、彼女の方から笑顔で近づいてきた。
「星野さん、こんにちは。あの、ちょっとお願いがあって」
「はい」
「露天風呂の照明、夜になると少し暗いって言われることがあって。でも普通の照明だと星が見えづらくなるし、うまくバランス取れないかなって」
俺は少し考えてから頷いた。
「やってみます。少し改造してみたいこともあって」
その日の夜から、俺はボイラー室の奥でこっそりと作業を始めた。大学時代に使っていたLEDと電子工作の残り部品。人感センサーに手を加えて、低電力で調光できる照明を作る。ただ明るくするのではなく、入浴客が近づいた時だけほんのりと足元を照らす仕組みにした。色温度は電球色よりも少しだけ低く、星の邪魔をしないギリギリのライン。設置は露天風呂の岩の間、手すりの下など、目立たずでも安全な場所に。
「これでどうかな?」
テスト点灯の日、俺は一人で作業を終えた照明の前に立った。人が近づくとぽっと温かい光が足元を包む。人が離れると、また夜の闇が戻る。星はどこにも逃げなかった。その夜、風呂に入った数人の客から「雰囲気がいい」「星がちゃんと見えるのが嬉しい」と声が上がったと、後で仲居から聞いた。
翌朝、食事の片付けを終えた綾乃が、わざわざボイラー室までやってきた。
「星野さん、昨日の照明、本当に素敵でした。ありがとうございます」
俺は少し戸惑ってしまった。「ありがとうございます」なんて、仕事以外で言われたのは、どれくらいぶりだろう?
「いえ、大したことじゃないです。自分の趣味みたいなもんですし」
「そんな風には見えませんでしたよ。お客様みんな感激してました。星がちゃんと見えて、でも安心できるって。お子さん連れのお客様なんか、特に喜んで」
綾乃は目を細めて柔らかく笑った。その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「フェスタが始まったら、みんなきっと星野さんのこと『星の人』って呼びますね」
冗談めかしたその言葉に、俺もつい小さく笑ってしまった。綾乃がそう言って立ち去った後も、俺はしばらくボイラー室の前に立ち尽くしていた。こんな風に人と関わって、自分の知識が誰かの役に立つなんて。それがこんな風に嬉しいことだったとは、ずっと忘れていた。手を動かすだけの日々、時間を埋めるための作業。それが誰かの笑顔につながる。そんな当たり前のことが、こんなにも胸に染みるなんて思わなかった。
ふと窓から空を仰ぐ。今夜の空はどこか澄んでいた。星が一際近かった。
その時だった。スリッパの足音が廊下の奥からゆっくりと近づいてくる。ぬるりとした空気をまとった、聞き覚えのある声が空気を割った。
「いや、いい仕事してますね。星野さんでしたっけ?」
振り向くと、山が立っていた。浴衣の上に羽織りをかけ、手には旅館のロビーで提供されるお茶を入れた湯呑み。まるで自分の家のような足取りで、俺の前まで歩いてきた。
「こうやって明かりにこだわって演出するの、大事ですよね。お客さんは雰囲気で選びますから。ただまあ、それも旅館が存続していればの話ですけど」
その言い方に、どこか含みがあった。俺は返事をしなかった。山もそれには構わず、勝手に話を続ける。
「最近あちこちの旅館が立て替えとか経営交代とかしてるでしょ。やっぱり今の時代、規模が物を言うんですよ。個人で続けるにはちょっと厳しすぎる」
そこにちょうど綾乃が通りかかった。配膳室から出てきたところで、俺たちの姿に気づき足を止めた。
「山さん、お部屋にはもうお通ししましたが」
「え、でも少し気になって。せっかく来たんですから、最後まで見届けたいじゃないですかねえ。これから先どうなるのか」
その目は笑っていたが、言葉には棘があった。明らかに「ここは長く持たない」とでも言いたげな雰囲気。綾乃は一歩前に出て、まっすぐに言った。
「どういう意味ですか?」
「いやいや、深い意味はないですよ。ただ、いくらイベント打っても限界ってあるでしょ。建物も施設も古くて使いづらいし、スタッフの数も限られてる。上も結局は潰されるんじゃないかなって。まあ、個人の意見ですけどね」
「そういう個人の意見を、わざわざ客として来て伝える必要があるとは思いません」
「おや、厳しいな。でも現実ってそういうものでしょう。古いものはいつか終わる。それを誰がどう止められますかね」
綾乃は一瞬だけ息を飲んだが、すぐに視線を強くした。
「それでも私はここを続けたいと思っています。この場所にしかないものを知っているからです」
「この場所にしかないもの?」
「はい。例えば星を見上げながら湯に疲れる静けさとか、顔の見える接客とか。そういうものは都会の最新リゾートにはないものです。うちはそれを大切にしてきました」
山はふっと鼻で笑った。
「理想論ですね。けれど、そんなぬくもりでは時代には勝てませんよ。もうすぐ答えが出ると思いますけど、せいぜい頑張ってください」
それだけ言い残すと、彼は湯呑みを持ったまま、また廊下をゆっくりと歩いて消えていった。後には、少しだけ重くなった空気と、綾乃の静かな佇まいだけが残った。
「あの人、誰なんですか?」
俺が問うと、綾乃は廊下に目を落とし、小さく息をついた。
「山さん、隣町のリゾート施設の現場責任者です。最近はもう経営側にも口を出してるって噂ですけど」
彼女の口調は穏やかだったが、その奥には明らかな悔しさが滲んでいた。
「うちにも何度か来たことがあるんです。前はもっと柔らかい物言いで『連携を』って言ってましたけど、何のことはない、買収の話でした」
俺は思わず彼女の顔を見た。
「買収ですか?」
「はい。桜間を引き取って、リゾートの別館にするって。でもうちは個人経営ですし、祖母の代から代々やってきた宿です。その都度お断りしてます」
淡々とした口調の中に、強い意志があった。
「それに買収されたら、おそらく大手の運営になって、価格もサービスも一律になります。お料理もセントラルキッチンで一括調理。接客もマニュアル中心で効率化が最優先。そうなると、心遣いが全部なくなってしまうんです」
彼女の指が、廊下の木目をそっとなぞった。
「私はここが好きなんです。古いけど、手間はかかるけど。それでもちゃんと人の顔が見える商いが、ここにはあるから」
言葉を選ぶようにしながらも、綾乃の声はしっかりとしていた。
「ここが潰れたら、土地は更地になって、きっと誰かの施設に変わる。でもそれってもう桜間じゃないんです。だから私は守りたいんです。お金では買えないものが、ここにはあるから」
その目はまっすぐに俺を見据えていた。その一瞬、俺の中で何かが静かに重なった。夜空に浮かぶ星の光。はるか昔に放たれた光が、何年、何千年もの時間を超えて、今この瞬間に届いている。その光。俺が子供の頃から見上げていたのは、ただの光じゃなかった。あれは、はるか彼方で何かを残そうとする意志だった。そして今、目の前でまっすぐに言葉を紡ぐ彼女の姿が、あの星と重なって見えた。消えそうなものを、一生懸命に黙々と守ろうとしている光。
俺は長いこと、自分のことを壊れたままだと思ってた。夢を途中で手放して、祖母の介護に戻って、それからはただ生きるために働いてきた。やりたいことを語るなんて恥ずかしくてできなかったし、人に期待されるのも怖かった。だからこそ、自分を裏方に閉じ込めた。でも…
「俺にもできることがあれば、やってみたいと思います」
その言葉が、自分の口から自然と出ていた。綾乃が目を見開いたまま、静かに微笑む。
「本当ですか?」
「はい。まだ何ができるか分からないけど。あ、でも、俺この旅館が好きかもしれません。ここで見る星も、ここで暮らす人も」
言ってみて、自分でも驚いた。「好き」なんて言葉は、きっともう何年も使ってなかった。
「そう言っていただけて、嬉しいです」
綾乃はふっと笑った。その笑顔は、さっきまでの凛とした表情とはまた違って、どこか緩んでいて柔らかくて、星の光みたいに温かかった。
フェスタまであと2週間。旅館は準備の真っただ中だった。屋上には地元の高校生たちと作ったAR星座投影のテスト装置が組まれ、俺はその電源と制御系を担当した。浴衣の刺繍には発光糸を使い、星の形がふわりと浮かぶようにした。露天風呂の足元灯も、昼夜の考慮を調整できるように手を入れ直し、安全かつ幻想的な雰囲気を演出した。
スタッフから声をかけられることも増えた。
「星野君、このライトすごく雰囲気いいわ。お客様もきっと喜ぶわよ」
「こっちの配線は分からなかったんだけど、助かった。やっぱり理系は違うな」
「え、あんたもしかして隠れ天才なんじゃないの?」
言われ慣れていない言葉に、思わず耳の後ろが熱くなる。
「いや、そんな大したもんじゃ…」
口ごもると、仲居頭の田村さんが笑いながら言った。
「照れてんの?あんた、意外と可愛いところあるのね」
「可愛くはないです」
自分でも笑ってしまった。誰かにからかわれて、それがただ楽しいと思えるのが不思議だった。数日前までは誰にも声をかけられず、静かにボイラー室で仕事を終えるだけの毎日だったのに。今はこうして誰かと一緒に何かを作っている。その事実が嬉しかった。
そんなある日の夕方、屋上で脚立に腰かけながら、俺は最後の配線をチェックしていた。空はオレンジから群青に変わり始め、山の輪郭がぼんやりと浮かび上がる時間帯。ここからの景色は何度見ても飽きなかった。静かで広くて、星が近い。
その時、後ろから足音が近づいてきた。振り返ると、綾乃が缶の麦茶を2つ手に持って立っていた。
「お疲れ様です。これ、冷えてますよ」
「ありがとうございます」
受け取った缶の表面は、しっとりと結露していた。冷えた手にちょうどよく、思わず一口飲むと、麦の香ばしさが喉を滑っていった。
「星野さん、ちょっといいですか?少し話したくて」
彼女は俺の隣に腰を下ろし、夜空を見上げた。
「フェスタの最終日、夜の時間帯のことなんですけど、いよいよメインの話をしていこうと思って」
俺は頷き、麦茶をもう一口飲んだ。彼女の横顔はほんのり夕日を受けていた。
「星空シアターって覚えてますか?屋上と露天風呂を使った、星座の映像と音楽のイベント。あれ、今回のフェスタの目玉にする予定です」
「ARの星座投影のやつですよね」
「はい。それに加えて、星野さんの解説もメイン演出の1つとして予定しています」
「え、俺?」
「もちろん無理にとは言いません。でも、あの話し方、声のトーン。試しに録音したのをスタッフで聞いたんです。すごく好評で。落ち着く、分かりやすい、また聞きたいって」
「なんか照れますね」
「そう思いました。でも、星野さんだからこそ伝えられること、あると思うんです」
そう言いながら、綾乃はそっと風に髪を揺らせた。
「最後の夜、温泉に浸かりながら夜空を見上げて、ARで星座を映して、あなたの声で星の物語を語るんです。地元の水奏学部の子たちが静かに音楽を添えてくれます」
「音楽も?」
「はい。曲は『惑星』とかアレンジしたクラシックを中心に。流星群のピークに合わせて、最後には光の演出を入れようと思ってます」
「光?」
「3Dライトを霧の煙に当てて、ミルキーウェイのような光の帯を作ります。これ、母が昔やりたかった演出だったんです。でも機材も人も足りなくて」
「じゃあ、それを今実現するんですね」
「はい。ようやく形にできそうなんです」
彼女の横顔に、静かな決意が滲んでいた。
「もしこれがうまくいけば、未来が変わるかもしれない」
「未来?」
「実は、最終日にいらっしゃる特別なお客様。母の旧知の方なんですけど、今は地方の旅館とか文化事業を支援している方です。すごく静かに動く人なんですけど、心が動いたものにはちゃんと力を貸してくれる。そういう方なんです」
俺は彼女の言葉をゆっくりと噛みしめた。
「お金を出すとか、そういう支援とはまた違って。価値があるって思ったものを、ちゃんと広めてくれる人です。私たちの旅館を褒めてくれたことがあるんです。『人の温もりがある』って」
「じゃあ、今回のイベントでその人にもう一度それを伝えるんですね」
「はい。それができたら、もしかしたらこの旅館の未来がもう少し前に進めるかもしれません」
彼女の声は静かだったけれど、その奥に熱があった。このイベントはただのお祭りじゃない。この旅館の生き残りをかけた、ラストチャンスなのだ。
「だったら、失敗できませんね」
「はい。だから星野さん、どうかお願いします。あなたの力が必要です」
俺はゆっくりと缶を置いた。
「やりましょう。その光の道、絶対に届けましょう」
綾乃が目を見開いて、ふっと笑った。
「はい」
その笑顔を見た時、胸の奥で何かが音を立てた。ずっと硬く閉じていた扉が、静かに開くような感覚。もう自分には関係ないなんて、言っていられなかった。
夜が明けて、空が白み始めた頃。山の空気はひんやりと澄んでいて、木々の間をすり抜ける風が、なぜか今日は優しく感じられた。旅館の中庭にはいつもより早く明かりが灯り、スタッフの動きもどこか慌ただしい。厨房では仕込みの音が響き、ロビーには早めに到着した客が星座マップを手に待機していた。
俺は作業着の上から羽織りを着て、屋上の点検に向かった。ケーブルは無事か、プロジェクターは正常に稼働しているか、ライトの調整、投影、全て最終チェック。ゆっくりとだけど確実に空が青から群青へと移り変わっていく。その空の下に、今がある。
そしてイベント当日。桜間は、会館以来初めてじゃないかと思うほどの賑わいに包まれていた。
「いらっしゃいませ。星座の早見表、こちらで配布しております」
「子供向けワークショップ、あと10分で始まります」
玄関前には屋台の湯気が立ち上り、浴衣姿の客たちが笑顔で列をなしていた。地元の水奏学部の演奏が旅館の庭に響き、屋上ではAR星座投影の最終調整が進んでいる。
「こんなに人が来てくれるとは」
綾乃が息を飲むように呟いた。
「大丈夫。うまくいきますよ」
俺は作業用の手袋を締め直し、電源盤の確認へと向かった。全てのケーブル、スイッチ、バッテリーは予定通りに稼働している。あと数時間で本番の星空シアターが始まる。
そんな時だった。
「綾乃さん、ちょっと!」
仲居頭の田村さんが、慌てた様子で駆け込んでくる。
「露天風呂からお客様が!お湯が変な匂いがする。濁ってるって、何人も!」
綾乃の顔色がさっと変わり、急いで露天風呂へ向かうと、濁った湯面を見下ろした彼女の顔から血の気がすっと引いていった。
「だめ、これはもう使えません」
露天風呂の縁に膝をつき、お湯に手を浸した彼女は、すぐにその手を引っ込めた。
「匂いもあるし、濁りもひどい。これ、今からじゃ完全には戻せません」
彼女の声が、わずかに震えていた。普段どんなことにも冷静に対応してきた綾乃が、言葉を失いかけていた。
「まさか、今日に限ってこんな…」
その声は細く、かすかだった。そこへ仲居頭の田村が駆け寄ってきた。腕まくりをしながら、声を潜める。
「ちょっと、あんたどうなってんのよ、これ。この状態じゃお客さん入れられないでしょ。下手したら保健所からも怒られるわよ」
綾乃は何かを言いかけたが、声にならなかった。背後では厨房スタッフの声がかすかに聞こえていた。
「え、露天使えないって?メインイベント、屋上と連動してるんでしょ?ダメじゃん。星空シアターって名前まで打ち出してさ」
もう一人、清掃担当の佐野が首を振りながら低く言った。
「配管までいじるなら、直すのに1日はかかる。しかもこの状態じゃ、ポンプシステム全部止めて入れ替えなきゃ。イベント、間に合わないだろうな」
その言葉に、場が凍りついた。綾乃は立ち上がろうとして、よろけた。
「ごめんなさい。全部私の責任です。もっと早く点検していれば。お父さんだったら、こんなこときっと…」
その瞬間、田村が思わず声を荒げた。
「やめなさいよ、そんなこと言うの!責めてるわけじゃないけど、でも現実どうするの?満室予約も多いし、星が見える露天を目当てに来た人も大勢いる。温泉がこれじゃ、フェスタの顔が立たないのよ」
「もう終わりかもしれない」
綾乃がぽつりと呟いた。その言葉が風に乗って、屋上まで届いた気がした。スタッフたちの目も、みんな下を向いていた。希望があった分、その反動は深かった。数週間をかけてようやく掴みかけた奇跡の夜。それが目の前で崩れていく。
夕方の空は群青へと染まりつつあった。空には確かに星が1つ、2つ顔を出し始めているというのに、誰もが下を向いていた。
「旧配管、まだ使えるかもしれません」
口にした自分の声は、思ったよりも冷静だった。驚いた顔をしてこっちを見た田村さんに、図面で見た限りでは閉じられてるけど、実際には塞ぎ切れてなかった部分があると説明した。それは数日前の夜勤の時に、たまたま気づいたことだった。配管の点検中、一つだけ妙に錆の薄いバルブがあって、気になって軽く回してみた。すると音がした。水の気配が、まだそこに残ってた。
「俺、やってみます」
綾乃さんが、思わず声を震わせていた。
「星野さん、本当にそんなことできるんですか?」
「できます。やります」
正直、自信があったわけじゃない。でももう、やるかやらないかのどっちかだった。誰かに命令されたわけじゃない。責任がある立場でもない。ただ、ここを守りたいと思った。それだけだった。
工具を抱えて、廊下を抜けた。地下は薄暗く、湿気と金属の匂いが入り混じっていた。懐中電灯の光がコンクリートの壁に跳ね返る。旧館のバルブに手を伸ばすと、あの夜と同じ鈍い金属の感触が手に帰ってきた。
「頼むぞ。まだ動いてくれ」
噛み込んだ錆を潤滑油でゆっくり溶かし、モンキーレンチをかける。歯を食い縛って力を込めると、バルブが沈む音と共に少しだけ回った。すぐさま感覚が伝わってくる。水が動いた。音が変わった。パイプの奥で、確かに流れが始まった。
「行ける」
配管を確認し、安全バルブを調整し、濾過装置の切り替えを手動で行う。全て、大学時代に覚えたシステム工学と、祖母の家の給湯機を自分で直してた頃の知識を総動員した。道具も設備も最新のものじゃない。だけど俺には手がある。手を動かせば、何かが変わるかもしれない。それがこの場所の光を取り戻せるなら、やるしかないと思った。
作業を終えて露天風呂へ戻った時、湯面にはもう濁りはなかった。ほんのりと湯気が立ち上り、光を受けた湯が静かに揺れていた。匂いも異常なし。流れもスムーズだった。
「間に合った」
そう思った瞬間、どっと膝が抜けそうになった。深く息を吐くと、いつの間にか後ろに綾乃さんが立っていた。目を見開いたまま、俺と湯の状態を交互に見つめていた。
「星野さん、治った…」
「応急処置ですけど、今夜は多分これで行けます」
彼女の目に、じわりと光が滲んだ。
「ありがとうございます。本当に」
その声に、胸の奥が少しだけ熱くなった。この「ありがとう」、ずっと聞きたかったものだった。誰の役にも立てないと思ってた俺にとって、それは星より遠い光みたいに、ずっと手が届かないものだったから。けれど今、その光は確かに目の前にあった。
「なんだよ。なんだよ、応急処置じゃねえかよ」
その声に、空気が変わった。低くて、鼻にかかったようなトーン。振り向かなくても分かった。山だった。露天風呂の手前、明らかに様子を見に来たとしか思えないタイミングで、浴衣の上に羽織りを無造作にかけて立っていた。手にはいつものように館内の湯呑み。ゆったりとした足取りで、俺と綾乃さんの間に近づいてきた。
「大事なイベントの当日になって水が濁るとか、演出が過ぎるんじゃない?」
綾乃さんがぴたりと動きを止めた。
「山さん」
その声には、緊張と疑いと、少しの怒りが滲んでいた。
「はあ、何?なんか俺、変なこと言ったか?」
「まさか、あなたが?」
「俺が何を?」
わざとらしく肩をすくめるその動作が、逆に違和感を増幅させていた。
「濁りの原因です。露天風呂の湯が、意図的に汚染された形跡があります。しかも、客の立ち入りが制限されてる配管室の辺りに、異物の痕跡がありました」
俺の言葉に、山はふーんと鼻を鳴らした。
「それ、俺のせいって言いたいわけ?ちょっと待てよ、星野君。俺はただの客だぜ。露天風呂が濁った。それは大変だ。で、俺に何か関係あるのかよ」
「まさか、本当に…」
綾乃さんが一歩、山に近づいた。
「何のことか、さっぱりわかんねえな」
湯呑みをくるくる回しながら、山は小さく笑った。
「しらばっくれても無駄ですよ」
俺の声は、さっきよりも低かった。
「今朝、湯の温度にわずかなずれがあって、普段より加熱のタイミングが早かった。それで気になって、午前3時過ぎにタンクの周りを点検した。そしたら、配管のバルブの1つに見慣れないゴム片が落ちてたんです。今朝は誰もそこに立ち入ってないはずなのに」
山はふっと鼻で笑った。
「そんなんじゃ証拠にならねえよ。落ちてたもんが俺のものだって、どうやって証明すんだよ」
俺は上着のポケットからスマホを取り出した。
「確認したんですよ。館内で提供してるスリッパ、全部そこの形を撮影しました。でも今朝見つけたゴム片と一致するスリッパは、一つだけ。あんたの客室に置かれてたやつでした。しかもあんたの分だけ、かかとが微妙に擦り減ってて、形が違ってた」
山の顔が、ほんの一瞬引きつった。その沈黙に、綾乃さんが一歩踏み出す。
「どうして、そんなこと?」
綾乃さんの声が、かれるように響いた。山は湯呑みを軽く傾けて口をつけると、小さく息を吐いて笑った。
「理由?そんなの決まってるだろう。うちの酒屋が潰されたからだよ」
そう言った山の声は、さっきまでの軽口とはまるで別物だった。
「覚えてるだろう。坂の下屋だよ。じいちゃんとばあちゃんが夫婦2人でやってた小さな酒屋。看板も古びてたけどさ。先代の女将さんの代からずっと、桜間に酒を納めてた」
綾乃さんの顔が、わずかに動いた。知っている名前だというように。山はその反応に気づきながら、言葉を続けた。
「年末になると、雪かきした足跡を辿って、じいちゃんが一生懸命瓶担いで届けに行ってた。ばあちゃんはその間にラベルを貼って、毎年違う絵柄の正月限定のやつ、手書きしてさ。昔ながらの地元の酒屋だったんだよ」
彼の声に、少しだけ震えが混じっていた。
「それが、ある日を境に突然『取引見直し』って言われた。お前が若女将になってからだ。『新しい経営方針でコストを見直す』って。効率化の名目で、うちを切った」
綾乃さんが息を飲む。
「それは…」
「うちのじいちゃん、何も言わなかったけどな。でも、逆に瓶持つ手が震えてた。仕込みもやめて、何度も帳簿眺めてさ。『こんな終わり方か』って、そう呟いたの、聞いたんだよ」
言葉を継ぐたびに、山の肩が小さく上下する。
「じいちゃん、あれから数ヶ月であっさり行った。ばあちゃんも後に続いた。あの人らなりに、誇り持って酒作ってたんだ。ちっぽけでも、自分の手でやってた仕事に自信持ってた。それをいきなり切るなんて、そりゃねえだろ。今までの付き合いも、あの人らの気持ちも、全部なかったことにされたような気がしてさ」
彼の声が、少しだけかれた。
「だから、潰そうと思った。ただそれだけだったんだよ」
その一言に、場の空気が重く沈んだ。誰もが口をつぐんでいた。綾乃さんも、何か言いかけては唇を閉ざしている。その沈黙を破ったのは、彼女自身だった。
「私、続けたかったんです。坂の下屋さんとの取引。本当は私の中では、見直しの対象にはしていませんでした」
山が目を見開く。綾乃さんはまっすぐに彼を見た。瞳の奥に、揺らぎと決意が同居していた。
「旅館の再建を始めた時、確かに取引の見直しという話は全体として持ち上がりました。けれど、私は最初に坂の下屋さんのことを考えました。あのお酒には、ここの味がありました。お正月の限定酒も、お客様からとても評判が良くて。私は絶対に続けたかった」
山の眉が動いた。
「じゃあ、なんで切ったんだよ。なんでうちにもういらないって通達を…」
「あちらから、断られたんです」
山が息を飲む音が聞こえた。
「え?」
「私が『今まで通りお願いします』とお願いに伺った時、おじい様はこうおっしゃいました。『今の酒じゃ、もう満足の行くものが作れない。昔のような仕込みはできない。体がもう動かんから、これ以上は迷惑をかけたくない』って」
言葉が、露天風呂の湯の中に静かに溶けていった。
「私は『それでもいい』って、何度も言いました。あの味がこの旅館にとってどれほど意味を持っていたか。多少の不安定さがあっても、うちのお客様にはそれがいいんですって。でも、おじい様は首を縦に振らなかった」
山は何も言えずに、立ち尽くした。
「そして最後に、こうもおっしゃった。『このまま続けたら、息子や孫にまで情けをかけられるような気がする。それだけは嫌なんだ。誇りを持ってやめたい』って」
言葉を選ぶように、ゆっくりと。でも確かに。
「私は、あなたにそれをどう伝えていいか分からなかった。きっと傷つけるだけだと思ったから。だから、何も言えなかったんです」
山の表情から、全ての力が抜けていくのが見えた。ふらりと後ろに重心が揺れて、湯呑みを握る手も力なく下がる。
「そんなこと…じいちゃんが自分から…」
「ええ。とても静かに、誇りを持って、旅館を去られました」
俺はそのやり取りを、黙って聞いていた。山が抱えてきた怒りと悔しさ。その全てが、思い込みと愛情の裏返しだったということ。そして綾乃さんが、その重さを一人で背負い、ずっと黙っていたということ。
「じゃあ、俺…」
山は言葉を失ったまま、目の前の綾乃さんを見つめていた。これまで見たことのないような顔だった。怒りも威圧も皮肉もなかった。ただそこにあったのは、戸惑いと悔しさと、自分の愚かさに気づいた男の顔。
「俺、何やってんだろうな」
ようやく絞り出した声は、まるで空気に染み込むように小さくて、かれてた。
「じいちゃんが自分で身を引いたなんて、知らなかった。俺、ずっとお前を恨んでたのに」
彼はしばらく何かをこらえるように拳を握っていたけど、やがてそっと視線を落とした。
「最低だな、俺」
その言葉に、綾乃さんが静かに口を開いた。
「確かに、してはいけないことをあなたはしました」
山がゆっくり顔を上げる。彼女の目はまっすぐだった。
「お客様に迷惑をかけて、旅館の信用を揺るがすようなことを。例え理由があったとしても、それは許されることじゃありません」
山は頷くことも否定することもせずに、それをただ受け止めていた。けれど、綾乃さんは続けた。
「でも、幸いなことにうちには星野さんがいてくれました。彼が旅館とお客様を守ってくれました。おかげで今夜のフェスタも、無事に迎えられそうです」
俺は不意に視線が向けられて、少し戸惑った。
「私一人だったら、きっと乗り越えられなかった。でも彼がいてくれたから、立て直せた。だから、もうあなたを憎むことはしません」
山は何も言わなかった。ただぎゅっと唇を結んで、視線を落としたままだった。
「だから、もう気にしないでください」
そう言った彼女の声は優しかった。でもその優しさは、ただの甘さではなかった。
「でも、あなたがしたことの重さは、あなた自身が受け止めてください。知らなかったでは済まされないこともある。だからこそ、あなたがこれから何をするかが大事なんです」
静かだけれど、凛とした声だった。それは言い逃れもごまかしも許さない強さと、でも人を見捨てない真っすぐな光のような言葉だった。山はそれに何も返せなかった。ただしばらく黙っていた後、ようやく小さく頭を下げた。
「わかった。ありがとう。そして、ごめん」
それだけ言うと、ゆっくりと背を向け、廊下の向こうへ歩き出した。その背中が小さくなるのを、誰も止めなかった。
夜の空気は少しだけ冷えてきていたけれど、不思議と心の中に残るのは冷たさじゃなかった。誰かが何かを失い、誰かがそれを支え、そしてまた少しずつ歩き直していく。
そして、メインイベントが始まった。
場内の明かりがすっと落ちた。天井に星が浮かび上がる。ただの投影じゃない。地元の高校生たちと何度も試作して完成させた、ARによる星座投影。流れる音楽も、照明も、空気までも、全てが今日のこの一瞬のために仕掛けられたものだ。
俺は会場の後方で、マイクのスイッチを確認しながら小さく深呼吸した。客席には浴衣姿の人たちが静かに座っていて、子供たちが小声で星の名前を言い合っているのが聞こえた。綾乃さんが遠くでこちらを見て、そっと頷いた。
イベントは順調だった。あれだけのトラブルがあったことなんて、きっと誰も思っていない。いや、思い出さなくていい。それでいい。
天井に流れる天の川の映像が、やがてオリオン座へと映り変わっていく。俺はマイクをオンにし、少しだけ空を見上げながら語り始めた。
「皆さん、こんばんは。桜間スタッフの星野優馬と申します」
ざわめきが一つ、空気の中で揺れて静まった。
「今夜はこの星空の湯にお越しいただき、本当にありがとうございます。このイベント、実はかなりの手作り作業でした」
前の方に座っていた何人かから、くすっと笑い声が漏れる。
「屋上に特注の照明を組んで、ARのプロジェクターを設置して、露天風呂の照明も星が見えやすいように調整しました。実は今、皆さんの足元で光っている明かりも、手作りのセンサー式照明なんです」
言いながら、自分でも少し照れ臭くなる。
「普段はボイラー室の中にいるような人間が、まさかこんなイベントに関わるとは思いませんでした。でも、気づいたら夢中で手を動かしていました」
天井にはオリオン座が浮かび上がっていた。プロジェクターの光が、夜の屋根をゆっくり流れていく。
「見えているこの星たちは、ほとんどが何百光年も先にあります。例えば、あそこに輝いているリゲル。あれは地球から約860光年先にある恒星です。つまり、今見えているその光は、860年前に放たれたもの。星の過去が、今私たちの目に届いているというわけです」
客席のあちこちから、静かな感嘆の息が漏れる。星の解説をしながら、俺は徐々に落ち着いていった。知っている言葉、慣れた語り口。プログラムのメインの解説が一通り終わり、会場が拍手に包まれたタイミングで、俺は一呼吸を置いた。
「ありがとうございます。ここまでの解説は、予定されていた内容になります。ですが、もしもう少しだけお時間をいただけるなら、最後に一つだけ、僕自身の話をさせてください」
客席が、再び静かになる。そして、静かに話し始めた。
「俺は、星が好きです。それはただ美しいからとか、ロマンチックだからとか、そういう理由だけじゃなくて。俺が星を見上げるようになったのは、きっと幼い頃、両親をなくした日からです。その時、何が起きたのかちゃんとは理解できませんでした。ただ、朝起きたら家には祖母しかいませんでした。泣きそうな顔でも、優しくて、少しだけ震える声で、俺に言ったんです。『優馬、パパとママはね、お星様になったのよ』って」
その言葉の意味もちゃんとは分からなかったけど、その夜、祖母に手を引かれて庭に出ました。空を見上げたら、たくさんの星があって。その日から、星を見るようになったんだと思います。
「祖母は俺の育ての親でした。小さな手を引いて、遠くの空を指さして、『あれがオリオン座。あれが北極星』と教えてくれました。でも祖母は、星に詳しかったわけじゃありません。知識はありませんでした。それでも、いつだって言ってくれました。『優馬は星とお話ししてるみたいだね』って。あの言葉は、今でも胸に残っています」
今でも星を見上げるたびに、祖母の顔が浮かびます。
「本当は、素直じゃなかったんです。ずっと小さい頃は、祖母と2人で暮らしてるってことが、どこか恥ずかしくて。クラスの友達が家族の話をするたびに、自分だけ何かが足りないような気がして。つまらないことで反発したり、あえて冷たく当たってしまったこともありました。わざと帰りを遅くしたり、話しかけられてもそっけない返事しかできなかったり。今思えば、本当に子供でした」
でも、そんな俺に祖母は、一度だって怒らなかった。怒らなかったし、悲しそうな顔すら見せなかった。どんな時も、いつものように笑って、夜には「今日はよく晴れてるわよ」って、決まって空を指さしてくれた。俺が不機嫌な顔で布団に潜っても、「おやすみ、優馬。明日はいい日になるわよ」って、変わらずに言ってくれた。
「あの笑顔を、俺はきっと甘えていたんです。どうせ何も言わなくても、変わらずにいてくれるって。でも、その優しさにどれだけ守られていたか、ようやく気づいたのはずっと後になってからでした」
「ありがとう、ばあちゃん。育ててくれてありがとう。一人ぼっちの俺を、あの夜空の下で見つけてくれてありがとう。あなたが言った『お星様になった』という言葉が、俺の人生を、未来を支えてくれました。俺は、ずっとあなたの光の中にいました」
その時、ARの星空の中に、一際大きな流れ星が描かれた。どこからか、小さな感嘆の声。まるでそれが、全ての思いに答えるかのように。
「星は遠くにある光です。だけどその光は、決して消えずに、何千年もの時を超えて、今の僕たちに届いています。その姿を目にするだけで、どこかで誰かが自分を見守ってくれている気がする。人は一人きりじゃないと、そう思わせてくれる」
「この桜間も、きっとそうです。人の手によって守られ、思いが繋がれて、今日という日を迎えた。誰かの願いが、誰かの涙が、そして誰かの『ありがとう』が、この夜空にそっと滲んでいる」
「だからどうか、今夜の星空を心にとめていてください。誰かを思う気持ちを、未来につなげるそのために。この空は、あなたの空です。ここにいる全ての人に、光が届きますように。そして、あなたの大切な誰かが、星のどこかで、今日もあなたを見守ってくれていますように」
語り終えると、会場は浸透したままだった。でもその沈黙は、不安の沈黙ではなかった。静かに、ゆっくりと拍手が起きた。最初は一人、そしてまた一人。やがて会場全体に広がっていく。
俺はその音の中で、ふと空を仰いだ。ARの星たちは今もまたたいていた。でも俺には、その向こうに本当の星空が確かに見えていた。祖母がくれた言葉と共に。
「優馬は星とお話ししてるみたいだね」
今夜、俺の声が誰かの夜空に届いていますように。俺はマイクを置いて、深く頭を下げた。涙ぐむ人もいた。小さな子供が親の腕を掴んで、「星ってすごいね」と囁いていた。
イベントが終わり、控室に戻ろうとしたところで、仲居頭の田村さんが小走りで走ってきた。
「星野君、ちょっと!あんたのこと、探してる人がいるのよ」
「え?」
「井さんよ。すっごい人。VIP中のVIPってやつ」
案内されたのは、旅館の一室。そこにいたのは、見るからに品のいい年配の紳士と、落ち着いた雰囲気の外国人女性だった。
「今夜の解説、本当に素晴らしかった。心から感動しましたよ」
「あなたの星に対する情熱、とても素敵です。深くて、真実味がある。それこそ、私たちが求めているものです」
俺は一瞬、何が起きているのか分からなかった。けれど、彼らの名刺を見て、心臓が跳ねた。日本側の紳士は、地方創生と文化保全に尽力する実業家で、旅館への支援を約束してくれた。そして、もう一人の女性は、NASAの関係者だった。
「実は、ここにいる友人と一緒に日本を訪れていたんです。まさか、こんな小さな温泉の町で、こんなに心を打つ話を聞けるとは思いませんでした。それに、会場の設備や技術など、ハイセンスなものばかりで驚きました。もしご興味があれば、星野さん、NASAのポジションをご提案したいのです」
信じられなかった。ずっと目指していた場所。手が届かないと諦めていた場所。大学時代にインターンの最終選考を辞退して以来、胸にしまい込んでいた夢。
「NASAで働きませんか?」
言葉に詰まって、うまく答えられなかった。でも心の中は、静かに震えていた。
その夜、館の裏手にある木のベンチで、綾乃さんと並んで腰を下ろした。彼女は俺の顔を見るなり、ふっと笑った。
「すごいね。スカウトされるなんて。さすが星の人」
「俺、自分でも信じられないんです。ずっと憧れてはいたけど、もう叶わない夢だと思ってた。でも、ここでまた星を見て、人と出会って、変わったんだと思います」
綾乃さんが、そっと視線を夜空に向けた。
「でも、行くんでしょ?」
「はい、行きます。今なら、行ってもいいって思えるから」
少しの間、2人で空を見上げた。星が静かにまたたいている。
「でも、必ず戻ってきます。日本に帰ってきたら、真っ先にここに来る。星空の湯に入りながら、今度は俺が星の話をする番ですから」
綾乃さんは、少し照れたように笑った。
「楽しみにしてる。空は繋がってるもんね」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
それから数ヶ月後、俺はNASAの研究チームの一員として、本格的な観測プロジェクトに関わるようになった。星の位置を追い、過去の光を読み解き、未来を描く仕事。かつて祖母と見上げた星空が、今、俺の机の上で動いている。
日本に残った綾乃さんも、旅館の支援を正式に受け、地元との連携事業や教育プログラムを次々に実現させていた。星空の湯は全国の観光誌でも話題になり、静かだった桜間は、今や「星を見に行く宿」として予約の絶えない人気になっていた。
その成長の裏には、もう一人、あの山の存在があった。彼は旅館と大手リゾートとの橋渡し役を買って出てくれた。
「最初に壊そうとした分、今度はちゃんと繋ぎたいんだよ」
そんな風に言って、伝統と個性を両立するための仕組みを、本気で整えてくれた。彼の手助けも、変わりたいという思いも、確かに桜間の未来を後押ししていた。
きっと人は、いつだってやり直せる。誰かと繋がって、誰かに支えられて、星のように軌道を描いていける。
夜、研究所の屋上で空を見上げる。遠く日本の空と、ここアメリカの空が、同じ星を映している。
「ばあちゃん、俺、ちゃんとやってるよ。夢、ちゃんと掴んだよ」
星は今日も、変わらずそこにある。誰かを見守るように、ただ静かに輝いている。そして今この瞬間も、どこかの夜空で、誰かが星を見上げている。



