「何かご用ですか?私、急いでいるんですけど。」
スーツ姿の老人が私の服の裾をしっかり掴んでいた。
「私は高木という者だ。言ってはいけない。信じてくれ。」
真剣な眼差しで語る高木という老人。なぜか彼の言葉を信じたくなった。
「どういうことですか?」
「あんたは騙されている。何もかも嘘だ。こうなった理由を思い出してくれ。そうすれば自ずと答えが出るはずだ。」
服を引っ張っていた手を離し、高木は続ける。
「もう時間がない。私は行くが、すぐに行動するんだ。いいね。」
よくわからなかったが、私は頷いていた。
こうなった、とは私が実家に戻ることだろうか。それなら妹のリナから連絡があったからだ。
いや、違う。彼は私が騙されていると言った。
私がここに来る経緯の中で、騙すことができたのは一人だけだ。
深く考えて、ようやく気づいた。今の状況が全て仕組まれたものだとすれば、私の留守中に何かが起きるはずだ。
すぐに家に帰らないと。私は駆け出していった。
私は内藤さおり、30歳。夫の高典が経営するソフトウェア開発会社で働いている。
仕事に不満はないけれど、彼には言いたいことがあった。
まずは生活態度だ。高典は取引先との付き合いがあると言って、毎晩飲み歩いている。体に悪いと注意しても聞いてくれない。
次に自分勝手なところ。家を建てた時もそうだったが、彼は何でも一人で決めていった。
「会社の経営方針くらいはみんなと相談しない?」
「俺のやり方に文句があるなら、会社をやめればいいだけだ。」
その言葉が彼の足を救うかもしれない。私は不安でいっぱいだった。ただ、何でも一人で決められるのは決断力があるとも言い換えられる。彼の決断力には私も何度も助けられた。
高典が今の会社を起業したのは4年前のこと。それまで私たちは同じIT関連会社で働いていた。
IT業界では珍しく融通の利く会社だ。給料も良かったし、納期も厳しくない。しかし仕事をする以上、大変な時は必ず訪れる。
機があり、選択を迫られたことが何度もあった。そういう時に生きたのが高典の決断力だ。
同僚たちはみんな彼を頼りにしていたけれど、私の中では仕事以外のことが思い出深い。
高典が私のために決断してくれたのは結婚だった。今でも胸が苦しくなってしまう。それくらい私の中では大きな出来事だ。
結婚をしたのは交際2年目の終わり頃。仕事が落ち着いたら結婚しようと話していた。そんな時、不意に妹のリナから電話がかかってくる。
「お姉ちゃん、大変。」
「リナ、どうしたの?」
「お父ちゃんが病気で…」
彼女は少し混乱しているようだった。仕方がないので落ち着くのを待つ。何度も話しかけ、ようやく冷静になったリナは私にこう言った。
「お父さん、ずっと隠してたみたい。ガン…」
「本当に?」
「うん。」
父は職場で倒れたそうだ。実家を離れている私に連絡してもすぐに駆けつけるのは難しい。それで実家で暮らしていたリナに連絡が行った。
彼女が医師から聞いた話では、父はあまり長くないとのこと。
「どうしよう。」
「どうって言われても答えに困ってしまうわ。」
幸いにもリナは大学を卒業して銀行に就職したばかり。急に彼女の生活が不安定になることはないだろう。
「とにかく落ち着くのよ、リナ。」
「うん。」
「私も休みを取ってそっちに帰るから、その時に相談しましょう。」
電話はそれで終わり。今後の対応で困った私は高典に相談した。
「そういうわけで、父が病気みたいなの。もしかしたら仕事をやめて実家に戻ることになるかも。」
「そっか。でもそれなら仕方ないよな。」
軽い感じの受け答えをする高典。将来の大事な話をしているのに自覚がないのだろうか。
「おい、どうした?」
「あのね、私は真剣に話してるのよ。大事な話をしているって分かってるのかしら?」
父の件で動揺していたのか、そっけない言い方をしてしまう。しかし高典は全く気にせずに答えた。
「分かってるよ。だから俺も考えたんだ。」
「何を?」
「結婚しないか?」
唐突な申し出に言葉を失う。
「あ、え、なんで急に?」
間抜けな顔で聞き返した。笑われると思ったが、高典は真剣な顔で話を続ける。
「お父さんの病状が厳しいんだろ。だったら今のうちに結婚式をして、お父さんにウェディングドレス姿を見せた方がいいと思うんだ。」
「いいの?冗談かと思って。」
「当然だろ。ずっと結婚するつもりだったんだから。それが少しくらい早くなっても何も問題ないよ。」
「ありがとう、高典。」
「いいって。じゃあ、早速次の休みにさおりの実家へ挨拶に行こう。いや、病院の方がいいのかな?」
高典がつぶやきながらスマホに視線を落とす。私のみならず父のことまで考えてくれたのが本当に嬉しかった。
その後、父が元気なうちに私たちは結婚式を挙げる。急な話だったため、互いの家族だけの小さな式にしたけれど、互いの家族全員に祝福され、私は大満足。笑顔の父を見られたのも本当に良かった。
父が亡くなったのは結婚式の半年後だ。後悔がないと言えば嘘になる。だができる限りのことはやれたと思った。
「さおり、ありがとう。色々と。」
「何を言ってるのよ。俺にとっても父親なんだから。」
本当に頼もしい。彼と結婚してよかったと心の底からそう思った。
ただ、父の葬儀の後、小さな違和感を覚える出来事が起きる。家の中で片付けをしていた時だった。
ふとリナが私にこう聞いてくる。
「ねえ、お姉ちゃんに相談なんだけど、どうする?」
「家はリナが住めばいいじゃない。」
母は私が幼い時に亡くなっている。だから家と土地は父の名義だった。
「私がもらって一人で住むのは気が引けるのよ。不平等というか、私だけが得をしたみたいになるし。」
「分かるけど、売ってしまうのはもったいないわ。それに引っ越したら家賃を払わないといけないのよ。リナが実家に住み続けるのなら名義変更と固定資産税の支払いだけでいいけれど、売却すれば煩雑な手続きや税金の支払いが必要になる。引っ越し先も探さないといけないし、生活費に家賃まで加わってしまう。いくら一人暮らしでも生活費と家賃を賄うのは大変よ。一人暮らしをしたことがないから分からないかもしれないけど。」
「うーん。」
そう言われたら難しい顔をするリナ。そこで後片付けを手伝ってくれていた高典が割り込んだ。
「じゃあ名義を2人にすればいいんじゃないか。」
「どういうこと?」
「家の名義をさおりとリナちゃんの2人にすれば、固定資産税の支払いは2人に責任が生じるだろ。共有名義の不動産の固定資産税は連帯納付義務がある。例えば共有者の誰かが支払わなかった場合、他の人に滞納した税金が請求されるという仕組みだ。さおりが固定資産税を全額払う代わりに、リナちゃんは家を管理する。こうやって分担すれば悪くないだろ。」
実際、私とリナを共有名義にすれば一方だけが得をすることにはならない。こちらが固定資産税を払えば、家の管理を任せきりにするという心理的な負担も減るだろう。
「いいアイデアね。リナ、そうしましょう。」
「結局私は住むだけよね。税金だって別に安くないでしょ。」
リナの表情は暗い。
「でも不動産を慌てて売却すると損をしやすいよ。時期を見て売るためにも、今は名義変更で共有にしておいた方が…」
なぜか必死にリナを説得する高典。私はその姿に違和感を覚えた。
父の遺産の法定相続人は私とリナだけだ。互いに合意すればどのような配分も可能になる。家も土地も単独名義にしてリナに渡すこともできたけれど、今の高典はそれを妨害しているように見えてならない。
何の得があってそんなことをするのか。答えは一つだ。私に入る遺産を少しでも増やしたいのだろう。ただ、遺産は共有財産ではない。仮に離婚することになっても全て私の手元に残る。高典に渡るお金は一円もない。だからこそ私は彼の行動に違和感を覚えたのだ。
「やっぱり私にはよくわからないわ。」
「それならここは俺の言う通りにしておいた方がいいと思うよ。別にすぐに家を売る必要はないわけだし。」
「それもそうね。」
リナが納得する。高典は笑顔だった。
「じゃあここで休憩。頭を使ったからコーヒーでも入れてくるわ。」
席を立つリナ。
「お姉ちゃん、手伝ってくれる?」
「ごめん、ちょっと高典に聞きたいことがあって。」
そっと隣の高典を見る。リナは不思議そうに聞いてきた。
「何?家のこと?」
「ええ、名義変更の手続きとか色々と大変でしょ。高典が詳しいみたいだから聞いておきたくて。」
「わかった。じゃあそっちはお願いね。」
リナが部屋を出ていく。彼女を見送った後、私は高典に尋ねた。
「どうして名義を共有にしようと提案したの?リナの単独名義でも何も問題はないでしょ。」
「おい、でもさ、固定資産税の支払いがあるし、支援という形で渡してもいいと思うけど、税金の支払いは基本的には本人が行う。ただしお金の出所がどこかは問われない。リナにお金を渡し、それが固定資産税の支払いに使われてもいいはずだ。」
「それはそうだけど、理由もなしにお金を渡すと贈与税になるとでも言いたいの?こんな古い家の固定資産税ってそんなに高くないと思うわよ。実家を建てたのは祖父で築35年ほど。私が生まれる前に建てられているだけあって、資産価値はかなり低い。詳しい金額は知らないが、父からは固定資産税は5万円弱と聞いている。そのくらいの額なら贈与税がかかることもない。」
「本当は何が気になったの?」
「まあ、その…本当は余計な詮索をされるのが嫌だっただけだよ。」
「なんで義理の妹に金を渡すのかって曖昧な言い方をされたのではっきりと聞いてみた。周りに浮気を疑われるってこと?」
「あ、まあ…」
本当にそれだけだったかどうかは分からない。ただその後はうやむやにされてしまった。何を聞いてものらりくらりと適当なことばかり言われる。仕方がないので私も諦めたのだった。
何にしても父のために結婚を早めてくれたことには感謝している。それに高典はまだ私を裏切っていない。遺産の件も単にリナに渡してしまうのが惜しいと思っただけだろう。
「お父さんのことがあったからって、嫌な言い方をしちゃったなあ。」
後日、一人で家事をしながら後悔した。高典はまだ仕事中だ。家事をするために私は早めに帰宅していた。
「高典が帰ってきたら謝ろう。」
呟いた私は洗濯をしつつ夕食の用意を始めた。
誰かが訪ねてきたのはちょうど食事ができた頃のことだ。インターホンに出ると義母がこちらを見ていた。
「急に訪ねてきたけど、大丈夫よね。」
にやりと笑う義母。思わず苦笑してしまった。
「どうされたんですか?お母さん。」
「友達とデパートに行ったのよ。デパ地下でお惣菜を買ったから、お分けしようと思って。」
義母はわざとデパートの紙袋が見えるように持ち上げる。こうなると家に入れないわけにはいかない。
「今オートロックを解除しますから。」
「助かるわ。」
インターホンを切った後、深いため息をついた。前日が日曜日だったため、一日かけて掃除をしたから室内は綺麗だ。お惣菜を持っているので夕食に文句を言われることもないだろう。
ああ、でも心理的な負担が大きいわ。もう一度ため息をつく。そこで玄関チャイムが鳴った。
「はい、どうぞ。」
できる限りの笑顔で出迎える。扉を開くと同時に義母が得意げにデパートの紙袋を見せてきた。
「これ、高かったのよ。感謝して食べなさい。」
「すみません。お気遣いいただいて。」
頭を下げながら紙袋を受け取る。
「ほんのついでだから。でもね、家事の手抜きは許さないわよ。外で仕事をする夫を支えるのが妻の役目ですからね。」
少し古臭い気もするが、言いたいことは理解できた。実際私も高典を支えたいという気持ちは強い。
「とりあえず中へどうぞ。」
「あら、ありがとう。じゃあお邪魔するわね。」
ズカズカと上がり込む義母。靴を脱ぎっぱなしにされ、ため息がこぼれる。しぶしぶ私は揃えておいた。
台所に向かううちにキッチンの方から義母の声がする。
「何よこれ?今いまいちの味ねえ。」
「お母さん!」
慌ててキッチンへ向かった。しかし時すでに遅し。義母は私が用意した夕食をつまんでいた。
「もうちょっと味見してるわよ。」
「お母さん、勝手に食べないでください。」
「少しくらいは構わないでしょ。何のためにお惣菜を買ってきたと思ってるの?」
渡されたデパートの紙袋を指差される。そっと中を覗くと皿が見えた。中身はローストビーフよ。
「この安っぽい鶏肉とは比べ物にならない高級品だから。」
私が作った夕食の唐揚げをつまむ義母。鼻を鳴らしてからひょいと口に放り込んだ。
「やっぱりだめね。シェフとしての修行がまだ足りないわよ。」
「す、すみません。未熟で…」
悔しいけれど言い返さない。ここで私が反論すれば喧嘩になるだけだからだ。良好な嫁姑関係を築くためには、まずは義母に逆らわないようにしたい。
「まあいいわ。結婚して1年も経っていないし。こんなものよね。せいぜいこれからも料理の腕を磨きなさい。」
「はい。わかりました。」
「じゃあリビングで待ってるから、お酒を用意して。そのローストビーフも忘れないように。いいわね。」
どうやら今日もここで飲んでいくつもりのようだ。
「またですか?」
義母がうちに押しかけてくるのはもう何度目だろうか。その度に彼女はうちで飲んでいく。大声で騒ぎ、翌日近隣の人に文句を言われるところまでがテンプレだ。
「何よ、息子の家に遊びに来たら悪いの?」
「いえ、そうではなく、できれば静かにしてもらいたいと遠回しに言ってみるけれど、義母は不愉快そうに顔をしかめた。」
「私がうるさいってこと?嫁のくせに生意気ね、あなた。」
「あ、いえ、近所迷惑になるといけないので。」
「分かったわよ。それじゃあさっさとお酒を用意して。」
鼻を鳴らした義母はドカッとソファーに腰をかける。勝手にテレビをつけ、独り言を言い始めた。
「何よ、それ。バカじゃないの?」
そして大笑い。相変わらずの義母だ。この後は私が出したお酒を飲み、大声で騒ぐだろう。
ああ、今日もか。キッチンで唸りながら冷蔵庫から缶ビールを出す。
義母が買ってきたローストビーフを皿に移していると、高典が帰宅した。
「ただいま。」
「ああ、高典。お帰り。」
私よりも先に義母が声をかける。
「え、母さん来てたの?」
「ええ、デパ地下でローストビーフを買ったから、あんたと一緒に飲もうと思って。」
「マジで?やった!」
子供のような喜び方をする高典。こうなると私が何を言っても無駄だ。二人で大騒ぎする未来しか見えない。
「頼むから声のトーンを落としてよ、高典。」
ビールとローストビーフをテーブルに並べながら高典に釘を刺す。
「分かってるよ。」
「この間もそんなことを言っていたけど…」
「うるさいな。大丈夫だって言っただろ。」
高典はこちらの言葉を遮った。仕方がないと私は口をつむ。
「うまそうだな。お前もこっちで飲まないか?」
「あ、うん。向こうを片付けてからね。」
そう言ってリビングを離れた。キッチンに戻ると、大声で話す高典と義母の声が聞こえてくる。
明日またご近所さんに謝らないと。気が重い。何かいい方法はないかと私は片付けを始めた。
用意していた夕食は全て冷蔵庫に入れる。明日以降の私の昼食にすればいい。
そんなことを考えていると、ふと高典が私を呼ぶ声がした。
「おい、さおり、ちょっと来いよ。」
「え、何?」
恐る恐るリビングに入る。すると高典が自分の隣を指差した。
「ちょっと座れよ。話がある。」
「何の話?大事なこと?」
酔っ払いの話だ。大したことはないだろう。そう高をくっていたが、実際はかなり大事なことだった。
私が隣に座った途端、高典はスマホを取り出す。簡単に操作して画面に二世帯住宅の写真を表示した。
「どう?二世帯住宅よね。これが何?」
何気なく首をかしげる。彼は口元を緩めていった。
「これ、俺たちの新しい家だよ。写真は合成だ。」
「ふーん。新しい家?」
高典の方を向くと、彼は得意げに笑っていた。
「どういうことよ?新しい家って答えて。」
とっさに問い詰める。彼は平然と答えた。
「聞いたままだよ。二世帯住宅を建てようと思ってるんだ。いいと思わないか?」
「いいも悪いも、なんで相談してくれないのよ。」
「おい、別に相談する必要はないだろう。俺が建てるんだから。」
「そういうことではない。家を建てるのが高典だとしても、私たちは夫婦だから相談くらいはするべきだ。費用も工期も必要になるから、家計にも大きな影響が出るだろう。家計を預かる身としては、相談もなしに行動されると困ってしまう。」
「なんだ?何か問題があるのか?」
「問題だらけよ。決断力があるのはいいことだけれど、ここまで勝手に行動されるのは困る。」
「あなたは嫁なんだから、夫の言う通りにしていればいいのよ。」
「ですが…」
「うるさいわね。嫁が偉そうにするんじゃないわよ。」
義母に一括され、言葉を失う。
「それより本当にいいの?高典。」
「当然だろ。実家のマンションも古いし、いい機会だと思ってるよ。」
「あはは。」
二人で笑っている。何が面白いのか私には全くわからない。
「高典、ちょっといい?」
「なんだよ。」
「向こうで二人だけで話したいんだけど。」
キッチンの方を指差す。何かを察したのか高典は拒否した。
「ここで話せよ。」
「母さんに聞かれたらまずいのか?」
まずいに決まっている。勝手に家を建てようとしていることを問い詰めるつもりだからだ。場合によっては声も大きくなるだろう。下手をすれば罵声を浴びせてしまうかもしれない。
「どうした?答えられないのか?」
もういい。諦めた。何を言っても無駄だと思ったからだ。
「あ、そう。じゃあ、ビールの追加を頼むよ。早くしなさいよ。」
義母にも煽られる。むっとしたが、ここは我慢した。キッチンへ行き、冷蔵庫から缶ビールを出す。リビングへ戻ると、横目で見ながら高典と義母が楽しそうに話していた。
「じゃあリビング以外は別々なのね。」
「ああ、いくら家族でもプライバシーは必要だろ。互いにも気持ちよく生活できる家じゃないと。」
もっともらしいことを言っている。せめて相談されていれば素直に喜べたのにと思った。私はそっとリビングを離れる。
一人でキッチンにこもり、寂しく食事をした。それからどれくらい経っただろうか。不意に高典がキッチンへ来た。
「さおり、いるんだろ?」
「何?」
「母さんが寝ちまったんだよ。どうしたらいい?」
本当に腹立たしい。それくらい自分で考えてもらいたいものだ。私はため息をつきながら立ち上がった。
「お父さんに連絡して迎えに来てもらいましょう。」
「父さんに連絡?それは迷惑だろ。」
「うちに泊めるのは許さない。」
私は視線をそらす。顔を背けたままスマホを取り出した。
「あ、おい、さおり…」
「あなたが連絡しないなら、私が電話をするわ。」
言うが早いか、私は義父に電話をかける。数コールで義父は電話に出た。
「お父さんですか?さおりです。」
「ああ、さおりさんか。どうした?」
「今うちにお母さんが来ておりまして…」
済ました顔で続ける。義母がうちに押しかけてきたと話した。さらに酔って寝込んでいることを教える。
「ああ、そうか。すまないな。迷惑をかけて。」
「いえ、大丈夫ですよ。」
「姿が見えないと思っていたが、すぐに迎えに行くよ。」
義父が電話を切った。私もスマホを置いた途端、高典が口を尖らせる。
「なんで勝手に電話をするんだよ。」
「それはこっちのセリフよ。どうして勝手に家を建てるって決めたの?母が寝ている。今がチャンスだと思った。」
「先に答えてくれる?」
「結婚したら家を建てようって前に話したことがあっただろ。」
確かに交際中に話をしたことがあるけれど、それは随分と前の話だ。結婚してからは一度も話題にしていない。
「先に相談してくれたら、私は反対しなかったわよ。それが二世帯住宅だったとしても。」
「あ、うん。ごめん。とにかく今度から大事なことを決める時は相談して。」
念を押すと、高典は不承不承に頷いていた。
それから1時間ほどが経ち、義父が義母を迎えに来る。高典が義父の車まで義母を連れていく間、私は義父に聞いてみた。
「お父さん、家を建てる話、聞きました?」
「いえ、この間高典が言っていたような…」
どうやら義父にもきちんと話をしていないらしい。つまり高典と義母が勝手に進めていたということか。
「私も先ほど聞いたばかりですが、二世帯だそうですよ。」
「二世帯住宅。さおりさんはいいのかい?うちは娘もいるし、友達を連れてきて騒ぐかもしれないぞ。」
義父の言う娘とは高典の妹のあみのことだ。リナと同じくらいの年齢だが、随分と彼女の方が幼く感じる。わがままで思ったことをストレートに言う子だという印象だった。
「でも、もう決まったことのようですから。」
遠回しに相談もなしに決められたと告げる。義父はすぐに気づいてくれた。
「ああ、そういうことか。私の方で高典に注意しておくよ。」
「お願いします。」
義母と違ってかなり常識的な人だ。ほっとする。
「じゃあ迷惑をかけたね。」
「いえ、今度はお父さんも一緒に来てください。」
「そうするよ。」
ゆっくりと頭を下げてから義父は帰っていった。結局、義父が高典を叱ってくれたかどうかは分からないまま。しばらくして彼から今後はきちんと相談すると正式に謝られた。義父が釘を刺してくれたと信じておこう。
それはさておき、二世帯住宅の件は変更なし。高典がすでにハウスメーカーと話を進めていたことも大きかった。仕方がないので、しぶしぶ家を建てることを認める。ただ一つだけ条件を出した。
「私もお金を出すから、私の名義も入れてくれる?」
「なんで?別に俺と父さんの名義でも…」
「私の名義が入っていないと、私が不利益を被る可能性があるわ。」
高典は首をかしげた。だが、私の言い分が分かる人も多いだろう。二世帯住宅であれば、私たち夫婦以外に義両親も同じ家に住む。義両親と高典、それにあみの4人が結束すると、私はどうなるのか。考えるまでもない話だった。
簡単に言えば、私一人が責められる可能性がある。義母が「住ませてやっている」と主張するかもしれない。そうなると私には反論する術がなくなってしまう。しかし私の名義も入っていれば、話は随分と変わる。住む権利があり、正当性を主張できるわけだ。
「ただの一軒家ならあなたの名義でも良かったわ。でも二世帯住宅なら話は別。私の名義も入れて共有にして。」
「ち、分かったよ。持ち分は1/3でいいよな。」
「当然よ。」
こうして私は新築の二世帯住宅の持ち分を確保した。少なくとも不当に追い出されることはない。私はほっとしていた。
しばらくして家の建築が始まる。仕事と並行して私は引っ越しの準備も始めた。そして約1年後、二世帯住宅が完成したのだった。
先に引っ越したのは義父たちだ。住んでいたマンションが古かったこともあるが、とにかくすぐに引っ越したいと義母が強く主張していた。
私たちが引っ越したのは義父たちの約1週間後だ。わざわざ仕事を休み、一日がかりで引っ越し作業をした。部屋で荷ほどきをしていると、義父が様子を見に来る。
「何か手伝おうか?」
「あ、お父さん、大丈夫です。すぐに終わりますから。」
「そうか。じゃあ私は夕食の用意をしておくよ。」
そう言い残した義父は部屋を出ていった。私は首をかしげながら高典に聞く。
「ねえ、お父さんって料理ができるの?」
「ああ、うまいぞ。離婚した後に苦労したみたいだから。」
「そうなんだ。」
納得しかけて、私ははっとした。慌てて詳細を尋ねる。
「離婚ってどういうこと?」
「父さんと母さんは再婚同士なんだよ。離婚したのは俺が大学生の時って話してなかったか?」
「初耳よ。」
顔をしかめていた。話を整理すると、義父と義母は互いに再婚だそうだ。あと高典もあみも連れ子同士。あみは義父の子で、高典は義母の子だという。
「じゃあお父さんは料理ができるのね。」
「まあ、母さんよりもうまいんじゃないか。」
「あはは。」
高典が笑う。笑い事ではないと思うが、面倒なので聞き流した。
やがて片付けを終えた後、リビングへ行く。中に入るといい匂いが立ち込めていた。
「ああ、二人とも座って。ちょうど今完成したところだ。」
テーブルの上には見事な和食が並んでいる。どれも美味しそうで、料理屋に入ったかのようだ。
「すごいですね。」
「大したことはないよ。さ、食べようじゃないか。」
食事は本当に美味しかったけれど、この先義父に料理をさせるわけにはいかない。内藤家の嫁として、私が食卓を預かるべきだからだ。
夕食の後のことを義父に話す。
「お父さん、明日からは私が食事の用意をしますので。」
「さおりさんは働いてるじゃないか。」
「うちの妻は専業主婦だから、あいつに任せればいい。」
義父はソファーで寝転がっている義母の方を向く。視線に気づいた義母はこちらを睨みつけた。
「何よ?家事は嫁の仕事でしょ?」
「何を言ってるんだ?さおりさんは外で働いているんだぞ。お前は何もしていないじゃないか。」
厳しい口調で義父が言う。顔をしかめた義母は不愉快そうに反論した。
「外で働いてるのは彼女の勝手じゃない。嫁の仕事とは関係ないわ。」
「だがな…」
「うるさいわね。とにかく嫁の仕事はきちんとしてもらいますからね。」
義父に口を出させない勢いで義母が言い放つ。呆気にとられた彼はため息をつくしかなかった。
「はあ。すまないね、さおりさん。」
「いえ、大丈夫ですよ。仕事の方は高典に調整してもらいますから。」
こういう時の夫が会社の社長というのが心強い。職業柄も可能だ。話せば彼も分かってくれるだろう。
その夜、早速高典に相談した。
「高典、仕事のことだけど、リモートワークにしてくれない?」
「は?なんで?」
「家事をしたいからよ。お母さんも一人だと大変でしょ。今までよりも人数が増えるんだから。」
私の言葉に高典はすぐに納得する。
「そういうことか。わかった。今後はリモートワークでいいぞ。」
「迷惑をかけるわね。」
「いいって。うちは自由な社風だからな。」
こうして私は仕事をリモートワークに変更した。翌日、今まで一緒に出勤していた高典を玄関先で見送る。
「お弁当作ったから、お昼に食べてね。」
「なんか変な気分だな。」
「ほら、早く行かないと遅れるわよ。」
追い出すような勢いで送り出した。その後は家事に専念する。朝食の後片付けをして、掃除、洗濯と順番に終わらせた。
「さて、9時になるし、そろそろ仕事を始めようかしら。」
部屋に戻って仕事を始める。リモートワーク初日だったけれど、特に問題もなく終了した。
初めはうまくいっていたが、徐々に歯車が狂い始める。仕事の時間中にも関わらず、義母は平気で用事を言いつけてきた。リモート会議を邪魔されたこともある。とにかく義母はリモートワークに理解がなかった。
「内職みたいなものでしょ。何が違うのよ。」
「ですから何度も説明しますけど…」
同じことの繰り返し、ついにはこちらが諦めるしかなくなっていった。それでも私が仕事を続けられたのは高典の存在が大きい。彼が「仕方ない」と色々なことを多めに見てくれたからだ。私は本当に彼に感謝していた。
そして1年ほどが経った時のことだ。とある休日に私は買い物へ行こうとした。生活費が入った口座の通帳とカードを手にする。
「お母さん、お買い物へ行きますね。」
「はいはい。すぐに帰ってきて掃除するのよ。」
「はい、わかりました。」
余計な一言が腹立たしい。だが笑顔で答えて家を出た。
まずはコンビニへ行きお金を下ろす。そのつもりだったが、なぜか引き出せなかった。
「え、残高が…」
思った以上に口座のお金が減っている。このカードからお金を引き出すのは私と義母だけ。
すぐに引き返した。家に戻り義母を問い詰める。
「お母さん、ちょっといいですか?」
「あら、早かったわね。」
「そうじゃなくて、口座のお金が少ないんですけど。」
銀行のカードを見せると、義母はすぐに白状した。生活費に使ったらしい。ただ、謝る様子もない。
「おい、無駄遣いをするなと何度も言っただろ。」
そばで話を聞いていた義父が注意してくれる。
「別に無駄遣いじゃないわ。」
「遊びに使ったんだろ。今後は生活費じゃなく、私が渡しているお前の小遣いを使いなさい。」
「分かったわよ。」
不服そうな義母。義父が何度も頭を下げるので、私は許すことにした。こんなことが続くようだと、二世帯住宅で暮らしていくのは難しい。私はそう思い始めていた。
そんなある日のことだ。リナが私に相談があると電話をかけてきたけれど、詳細は会って話したいという。不思議に思いながらも高典に話してみた。
「リナが会いたいって言ってるんだけど、どうしよう。」
「会いに行けばいいじゃないか。」
「あ、そうだ。いい機会だから社員全員で長期休暇を取ろう。」
確かに今は繁忙期ではない。今後のためにもまとまった休暇を取るのは今がチャンスだ。これならお前も罪悪感がなく休めるだろ。
「そうね。ありがとう。」
高典なりの気遣いだったのだろう。ありがたく休みをもらい、私は実家へ戻ることにした。
数日後、一足先に休暇に入った私は駅へ向かう。他の社員の休みは明日からだ。迷惑をかけるなと思いながら電車を待った。
実家の最寄り駅までは電車を乗り継いで数時間かかる。どうやって時間を潰そうかと考えてしまう。やがてホームに電車が入ってきた。乗り込もうとした時、ふと誰かに服を引っ張られる。
「え、誰?」
とっさに振り返ると、スーツ姿の老人が目に入った。私の服の裾をしっかりと持っている。
「何かご用ですか?私、急いでるんですけど。」
「私は高木という者だ。言ってはいけない。信じてくれ。」
真剣な眼差しで語る高木という老人。なぜか彼の言葉を信じたくなった。
「どういうことですか?」
「あんたは騙されている。何もかも嘘だ。こうなった理由を思い出してくれ。そうすれば自ずと答えが出るはずだ。」
服を引っ張っていた手を離し、高木が続ける。
「もう時間がない。私は行くが、すぐに行動するんだ。いいね。」
よくわからなかったが、私は頷いていた。
こうなった、とは私が実家に戻ることだろうか。それなら妹のリナから連絡があったからだ。いや、違う。彼は私が騙されていると言った。
私がここにいる経緯の中で、騙すことができたのは一人だけだ。
深く考えて、ようやく気づいた。今の状況が全て仕組まれたものだとすれば、私の留守中に何かが起きるはずだ。すぐに家に帰らないと。私は駆け出していった。
背後で電車の扉が閉まる音がする。私は気にも止めずスマホを取り出した。駅を出たところでまずはリナに電話をする。
「リナ、ちょっといい?」
「あ、お姉ちゃん。こっちに着くのは何時頃?」
「違うの。そうじゃないわ。相談があるって私に言ったわよね。」
早口で問いただす。リナは答えることをためらっているのか返事がない。
「大丈夫よ、リナ。もしかしたらあなたも騙されているだけかもしれないから。」
高木の言葉が真実なら、彼女も騙されている可能性がある。私は直感的にそう思った。
「私が騙されているって、誰に?」
「あなたが私に相談したいことを話してくれれば分かるわ。」
確信をつく。そもそも私が実家に戻ることになったのは、リナが相談したいと連絡してきたからだった。よく考えるとこれは不自然だ。電話でも問題ない。それなのに彼女は会いたいと言った。ではどうして会いたかったのか。答えは一つしかない。会わないといけない理由があったからだ。
「直接私と会わないといけないと思ったのはなぜ?それくらいは話してくれるわよね。」
「それは…」
「同意してもらう必要があったからよ。」
「同意?」
聞き返してみたものの、この時点で私は察しがついていた。やがてリナが堰を切ったように話し始める。
「だから家を売るためにはお姉ちゃんの同意が必要だったの。書類もいるし、来てくれないと何もできないじゃない。」
「やっぱりそうなのね。」
話が繋がった。私に相談したかったのは家の売却だ。
「だって仕方ないでしょ。私が聞いた話だと…」
リナがある人から聞いた私の金銭事情を明かす。もちろん出鱈目だった。そういう意味では、私と同じように彼女も騙されていたのだろう。
話を聞き終えたところで、私は静かに言った。
「リナ、それ全部嘘よ。」
「嘘?」
「あなたも騙されたのね。どうやら姉妹で騙されていたようだ。」
「なんだ、嘘なのか。もう話を聞いた時はびっくりして。」
リナのため息が聞こえる。同時に私は怒りが込み上げてきた。
「安心しているところ悪いけど、協力してくれる?」
「え?何に?」
「あなたを騙した犯人を追い詰めたいのよ。」
力強く言った。しばし無言になるリナ。やがて帰ってきたのは私の期待通りの答えだった。
「もちろんよ。お姉ちゃんのためなら何でもするわ。」
「ありがとう。じゃあまずは…」
リナにやってもらいたいことを指示する。全て言い終えたところで私は時計を見た。時刻は午前10時を少し過ぎたところだ。
「じゃあリナ、頼んだわよ。」
「オッケー。任せて。」
リナの返事を確認して電話を切った。続けて私は友人の村井に連絡する。彼女は高典の会社で働いている同僚だ。
「ゆか、ちょっとお願いがあるんだけど。」
「うん。さおり、実家に戻って…」
「そうだけど、今は時間がないの。お願い、聞いてくれる?」
ゆかの言葉を遮った。私の反応で彼女も事態が切迫していると気づいたようだ。
「いいわよ。何でも言って。」
「明日から1週間全社員が休みでしょ。だから…」
ゆかにあることを頼んだ。最初は理由が分からなかったようだったので、丁寧に理由を説明する。すると彼女はすぐに理解してくれた。
「なるほど。そういうことね。」
「いいかしら。」
「いいわよ。1週間後が楽しみだわ。」
ふふっと不敵な笑みをこぼすゆか。まるで悪だくみをしている気分だった。
その後は家に戻らず、駅前のビジネスホテルへ向かう。会社が休みの間、私は実家で過ごすことになっていた。だからこのまま家に帰るわけにはいかない。不本意だが、1週間はビジネスホテルに宿泊することにした。
そして6日が経った時のことだ。ホテルのバイキングで朝食を食べていると電話がかかってきた。
「あら、お母さんだわ。」
相手を確認したが、電話には出ない。そのまま放置する。しばらくすると再び着信があった。
「今度は高典か。そろそろ向こうも気づいたようね。これは明日が楽しみだわ。」
笑いながらスマホをテーブルの上に置く。当然電話に出るつもりはなかった。
その後も着信が続き、夕方までに30件を超えてしまう。翌日家に戻る頃には100件近い数に膨れ上がっていた。まさに鬼電という言葉がふさわしい。ただ私は一度も電話に出ないままだった。
家に着いた途端、高典が飛び出してくる。
「さおり、無事だったか?」
「どうしたの?顔色が悪いわよ。」
平然と聞いてみた。高典はむっとして強い口調で答える。
「当たり前だろ。自分の妻と連絡がつかなかったんだぞ。何かあったんじゃないかって不安になるじゃないか。」
「確かにそうね。でも家族で鬼電というか、そんなに連絡するようなことでもあったの?」
わざとらしい言い方をしてみた。どんな反応をするのか少し興味があったからだ。
「あ、いや…お前が心配だったから。」
「家族全員で心配してくれたの?」
「もちろん。」
彼は断言した。しかしそうなると少し問題が生じる。
「でもお父さんは電話をしてこなかったけど、どうして?」
「え?」
みんなが心配していたはずなのに、どうしてお父さんからは電話がなかったのかしら。答えは聞くまでもない。義父は単に私が実家に戻っているだけだと思っていたからだ。もちろんそこで私が何をするのかも知らない。義父以外の3人は私が何のために帰省したのか分かっていたから、電話をかけてきていたのだ。
「父さんは仕事があったからだよ。」
「そっか。私の勘違いみたいね。お父さん以外の3人が、お金が振り込まれないことに焦っていただけかと思ったわ。」
確信をついた。次の瞬間、高典の顔色が変わる。
「どうしたの?何か違った?」
「な、何のことだよ。お金とかなんとか…」
妙に視線が泳いでいる。やはり図星だったようだ。そこへあみがやってきた。
「心配していたんですよ、お姉さん。」
事情を知った上で、今、媚びるような声に虫酸が走る。我慢できずについ言い返してしまった。
「心配だったのは私?それとも振り込まれないお金、どっち?」
「え?」
あみは言葉を失う。私はにこりとして彼女の横を通り過ぎた。
「ここで話していても時間の無駄みたいね。リビングで話しましょうか。」
今日は休日だ。仕事が休みなら義父はリビングにいるはず。
「おお、さおり、待てよ。」
「どうしてお父さんもいるんでしょ?帰ってきたらまずは挨拶をしないといけないと思うわ。」
言いながらスタスタとリビングへ向かう。高典が追いかけてきて私の肩に手をかけようとした。しかしうまくかわしてその手を振り払う。彼を睨みつけた後、先制攻撃するように告げた。
「リビングで話すって言ったでしょ。余計なことしないで。」
私の声の大きさに驚いたのか、義父がリビングから顔を覗かせる。
「何を騒いでいるんだ?何かあったのか?」
「いえ、何も。お父さん、今戻りました。」
ゆっくりと頭を下げた。
「ああ、お帰り。妹さんの相談事は解決したかね?」
「はい。滞りなく。」
そう言ってから背後の高典とあみを見る。二人に向かって不敵に微笑んでから、私はリビングへ入った。中にいたのは義父と義母。義父は平然としていたが、義母は顔色が悪い。
わざと義母の方を向いた私は静かに言った。
「すみません、お母さん。私がいなくて大変でしたよね。」
「あ、いえ、そうでもないわよ。」
「そうですか。ではそのまま座ってください。お話したいことがありますから。」
義母の額に汗が滲む。おそらく彼女は話の内容を察したのだろう。
「さおり、俺の話を聞けよ。」
ちょうど高典がリビングへ入ってきた。私は彼を振り返る。
「いいわよ。私も話があるし。ここに座って。ほら、あみも。」
高典の背後にいたあみを指差す。彼女は小刻みに震えながら義父の向かい側に座った。私が座るとすぐに高典が口を開こうとする。
「あのな、さおり、まずは俺の話を聞いてくれよ。」
「いやよ。私が先に話をするわ。」
張り詰めた空気になってしまう。それに気づいた義父が私たちの仲裁に入った。
「どうしたんだ?二人とも何かあったのか?」
「いや、別に何でも…」
高典はごまかそうとするけれど、私は真っ向から否定した。
「ありました。とんでもないことが。」
バンと思いきりテーブルを叩く。高典がひるんだところで、私は鞄の中から書類を取り出した。リナが私に送信してくれたメールを印刷したものだ。
「これ、見てもらえますか?」
「なんだこれは?」
「高典が妹のリナへ送ったメールのコピーです。ここのところをよく見てください、お父さん。」
文章の真ん中辺りを指先でなぞる。そこにはこう書かれていた。
「ここには、さおりが会社の金を使い込んでいると書かれています。お父さん、確認できますか?」
「ああ、確かに。これは事実なのか。」
義父の視線が高典を捉える。彼はそっぽを向いていた。
「答えなさい、高典。」
「父さんには関係ないことだよ。」
「関係ない?そんなわけないだろう。」
義父が声を荒げる。続け様に私も強く言った。
「誤魔化さないで。いつ私が会社のお金を使い込んだのよ。今はリモートワークをしている私が。」
「全くだ。会社に行かずどうやって会社の金を使い込めるんだ?」
「ありえないと思うけど、聞かせてもらいたいわ。どうやったって言うのかしら?」
高典を問い詰める。彼は答えに困っていた。視線を泳がせ、震える唇に触れている。
「なんとか言いなさいよ、高典。」
「あ、いや、リモートワークと言っても、会社に顔を出すこともあるじゃないか。」
「そうね。月に1度くらいだけど、それもほんの1時間ほど。実際私が出社しているのは月1回。給料日だけ会社に行くと決めている。別に強制されているわけではない。大抵のことはリモート会議で足りるからだ。だが円滑に仕事を進めるためにはコミュニケーションが欠かせない。そのために会社に顔を出している。ほんの1時間だけ出社し、同僚と話をする。ちょっとしたことだが、これでかなり変わる。私はリモートワークを初めてから学んだ。」
「たった1時間で会社のお金を使い込めるなら、すごく手際がいいわ。ある意味ではとても仕事ができる人だと思うけど。」
「じ、違う。そのメールは別の人に送るはずで…」
「じゃあ誰に送るつもりだったの?答えて。ついでに嘘をついた理由も教えてくれると助かるわ。」
テーブルの上のコピーを高典の前へ滑らせる。彼は何も言えずに俯いていた。
「答えられないのは、嘘だからよね。」
「ごめん。違うんだ。ネットでバズろうと思ってて、アイデアを書いたものを間違って送ったんだよ。信じてくれ。」
「は?バイト先のノリで人気を取ろうとしてSNSに投稿する子供みたいなこと言ってるんじゃないわよ。」
ピシャリと言ってやる。高典は再び沈黙した。
「冗談では許されないことはあるわ。そう思いませんか?お母さん。」
わざと無関係を装っている義母に話を振る。彼女はビクっとした後、こちらを向いて苦笑した。
「そ、そうね。これは良くないと思うわよ、高典。」
「全くだ。ちゃんと謝りなさい、高典。」
二人に責められてうろたえる高典。そんな彼に私は追い打ちをかけた。
「とにかくちゃんと謝って。嘘をついてリナに家を売らせた後、その売却益をお母さんとあみの3人で分けようとしていたって。」
「え?」
高典がぎょっとする。
「あら、違った?お母さん。」
「な、何のことかしら。」
とぼけた義母は視線をそらした。仕方がないのであみの方を向く。
「あみは真実を話してくれるかしら?」
「え、私…わかんない。」
まるで子供だ。呆れた私は、呆然とする義父に告げた。
「お父さん、このメールのコピーをもう一度見てください。」
「どこだ?」
「ここです。」
私はコピーの中ほどを指差す。
「ここに『家を売ってお金を返せば、さおりの横領の件はごまかせる』と書いてあります。」
「確かに書いてあるな。」
「ここも書いています。『家を売ったお金はすぐに振り込んでくれ。俺の口座だとバレるから、母の口座に』と。」
その部分を指先でなぞる。最後の方には義母とあみの口座番号が書かれていた。
「会社のお金の使い込みは横領よね。そのお金を弁償させるというのは、横領の解決策ではよくあるわ。だからこれは冗談で…」
「じゃあどうしてお母さんとあみまで、あなたの冗談に巻き込むようなことを書いているの?」
全てを察したのがこの一言だ。仮に私が本当に会社のお金を使い込んでいれば、私や家族に弁償させるという方法にも納得できた。リナも信じてしまったのも頷ける。ただ解決を図るところまではいいが、その先に疑問が生じる。普通なら会社の口座に振り込ませるはずだ。会社の口座に振り込ませてバレることを恐れるなら、社長の口座を指定すると思われる。それなのにどうして社長の家族の口座が指定されるのか。
義父たちの前でそこまで話した私は、高典に尋ねた。
「あなたとお母さんとあみの3人がグルだったからよね。リナに嘘の話をしてお金を巻き上げようとした。」
「そ、それは…」
額から汗が流れ出ている。もう答えは出ているようなものだった。
「お母さんは何か言いたいことがありますか?」
「わ、私は関係ないわよ。何も知らないわ。」
確かに義母は関係ないと言えば責任逃れができる。
「あみは?」
「あみ、わかんない。何のこと?」
首をかしげる仕草をするあみ。この子なら、と私は賭けた。
「後で事実だってわかったら、あなたも罪に問われるわよ。そうね、今回の場合だと詐欺ってところかしら。」
「詐欺…」
わずかにあみの顔色が変わる。ごまかしていたが、やはり動揺しているようだ。
「だから素直に答えた方がいいわよ。私はちゃんと証拠があって追求しているんだから。」
「あ、あみは関係ないわ。お兄ちゃんにお金が欲しいって言っただけ。これを考えたのはお兄ちゃんだもん。」
見事に自白してくれた。義父を見ながら高典の方を向く。
「あみが自白よ。あなたはどうする?」
「余計なこと言いやがって。」
あみを睨みつけた彼は口ごもる。
「ほら、どうなの?嘘だったと認めなさいよ。3人がグルだったとも。」
「う、それは…」
本当にしぶとい。仕方がないので私は切り札を使った。
「詐欺で訴えてもいいのよ。リナからお金を騙し取ろうとしたんだから。」
「悪かった。」
小さな声が聞こえる。
「何?聞こえないわ。」
「悪かったよ。全部俺が仕組んだことだ。母さんとあみのために。」
「自白したわね。録音させてもらったから。」
胸ポケットに入れていたボールペンを取り出す。ペン型のボイスレコーダーだ。
「お前、何勝手なことをしてやがるんだ。」
「それはこっちのセリフよ。私の妹を騙そうとしておいて、偉そうに言わないでくれる?」
真っ向から反論した。悔しそうに唇を噛む高典。
「言っておくが、やめなさい、高典。」
義父が反撃を試みた彼を止める。
「もういいだろう。どう聞いてもお前が悪いじゃないか。」
「でも…」
「でもじゃない。少し黙っていなさい。」
怒鳴り声をあげた義父が私の方を向いた。ゆっくりと頭を下げる。
「迷惑をかけたね、さおりさん。」
「いえ。」
「君の言い分を聞きたい。どうやって決着をつけるつもりだね。」
義父が先を促してくれた。呼吸を整えてから、考えていたことを打ち明ける。
「1つ目は離婚です。こんなことをされて、これ以上彼と暮らすことはできません。」
「分かった。」
「あとは…高典には慰謝料、お母さんとあみには損害賠償を請求します。断るなら裁判になりますが、どうですか?」
義母とあみに視線を移した。二人は俯いたままこちらを見ようともしない。
「分かった。私が責任を持って対応させる。」
「分かりました。ではお願いします。」
高典たちの同意は取れなかったが、義父が言うのだから信じよう。私は鞄の中に手を入れた。
「じゃあ、これにサインしてね。」
一瞬にして青ざめて、緑色の紙を高典に渡す。言うまでもないが、私のサイン済みの離婚届だった。
目の前に置かれた離婚届に言葉を失う高典。彼はそれと私を交互に見た後、唇を震わせながら言った。
「り、離婚って、冗談だよな。」
「は?冗談なわけがないでしょ。もし私とリナが訴えれば、今回の一件は詐欺なのよ。当然じゃない。」
高典は私とリナの家を騙し取ろうとした犯人だ。絶対に許せない。ただ、詐欺として訴えるつもりはなかった。仮に彼を告発したところで、大した刑罰を与えられないと思ったからだ。詐欺には罰金はない。そういう意味では懲役となる可能性はある。だが初犯であることや未遂だった件を加味すれば、裁判所は執行猶予の判決を下すと私は推測した。執行猶予という結果は無罪も同然、ほとんどダメージがないと言える。そこで私は別のやり方を考えていた。もっと彼にダメージを与える方法がある。そのためにはここは離婚で終わらせるのが一番だった。
「でも…」
「サインしないの?じゃあ詐欺で訴えるけど。」
脅すような言い方をする。すぐに高典は青くなった。よほど訴えられるのが怖いように見える。少し考えればダメージは少ないと分かるはずなのに。
「詐欺で捕まるの、恥ずかしいわよ。世間に顔も名前もさらされるんだから。」
「い、嫌だ。それは絶対に。」
その点は私も同意できる。つまらない罪で逮捕されるのはかなり恥ずかしい。
「じゃあすぐにサインして。」
「わかった。」
唸るような高典。彼は素直に離婚届にサインした。
「はい、ありがとう。」
サインが終わると同時に離婚届を奪い取る。丁寧に折ってすぐに鞄の中に入れた。
「今回の損害賠償の分を含めて、あなたには慰謝料を請求するから覚悟しておいてね。」
「は?するのか…」
「当然でしょ。嫌なら…」
言いかけた途端、彼は激しく両手を振り始める。
「いい、分かった。もう何も言うな。言う通りに払うから。」
「そう。慰謝料は100万円くらいが相場かしら。損害賠償は分からないけど、全部で300万円で手を打とうけど。」
「300万…」
高典が目を見開いた。開いた口が塞がらないといった様子だ。
「嫌なの?」
嫌味な言い方をする。
「あ、分かった。それでいい。」
「話が早くて助かる。」
続けざまに義母の方を向いた。
「お母さんとあみには、精神的苦痛の分を請求しますね。」
「え、私も払うの?」
「さっきそう言いましたよね。お父さんも認めてくれましたよ。」
義母と同時に義父を見る。彼は力強く頷いていた。
「金額は10万円くらいが相場かな。」
「は、さっき相場は分からないと言ったじゃないか。」
急に高典が割り込んでくる。面倒なので強い口調で脅しておいた。
「何?文句があるなら裁判で争う?私は構わないわよ。」
「悪い。」
大人しくするくらいなら、余計なことを言わなければいいのに。本当に情けない人だ。
「どうします?お母さん。それ拒否したらどうなるの?」
「そうですね。詐欺の共犯で訴えます。高典も一緒に。」
ぎょっとしたのは高典の方だった。お金で解決できると安堵したところに、再び逮捕の危機が訪れたのだから。彼は大慌てで義母の説得を始める。
「母さん、ここはお金を払っておけよ。」
「はあ。どうして、私は悪くないでしょう。」
「そんなことはない。詳細は不明だが、少なくとも何らかの協力をしていたはずだ。無関係だと言い逃れは難しいだろう。」
「無理だって。もし裁判になったら終わりだぞ。」
「そんなわけないでしょ。何を怯えているのよ。」
「いいから言う通りに払うって言えよ。じゃないと縁を切るからな。」
高典がピシャリと言った。
「縁を切る…」
「ああ、そうだよ。俺は詐欺で逮捕とかごめんだからな。」
自分でやっておいて捕まりたくないとは身勝手だ。とはいえ、こちらの主張を素直に受け入れてくれるのは助かる。
「どうします?10万円でいいですか?」
「いい。それで…」
なぜか高典が返事をした。ちらりと義父を見て彼の意向を確認する。
「分かった。私が責任を持って2人に払わせる。」
「え、私も払うの?」
あみが唇を尖らせた。不愉快そうに眉間にしわを寄せている。
「当たり前だろ。お前も高典に合わせたんじゃないのか。」
「でも…」
「でもじゃない。嫌なら今から警察署へ行くか。」
義父は厳しい顔つきになった。警察という言葉に反応したあみは頬を膨らませる。顔を背けたまま、しぶしぶ頷いていた。
「分かった。」
子供っぽいけれど、一応働いている立派な大人だ。それくらいのお金は持っているだろう。
「では後日、弁護士の方から連絡してもらいますね。」
「え、これで終わり?」
「ええ、私はこのまま出ていきます。荷物は後で引っ越し業者に取りに来てもらうので。」
すっと立ち上がる。途端に高典がすがってきた。
「ま、待ってくれよ。こんなにあっさり終わりにするのが…」
「あのね、私はあなたと1秒でも一緒にいたくないの。それくらい分かるでしょ。」
そっけなく言ってやる。彼は呆然として動けなくなってしまった。
「ではお父さん、荷物を預かっててください。」
「分かった。私が責任を持って預かるよ。」
「それでは失礼します。」
ゆっくりと頭を下げる。何か言おうとする高典を無視して、私は玄関へ向かった。
玄関で靴を履いていると、高典が走ってくる。彼は私の前で土下座した。
「俺が悪かった。許してくれ、さおり。」
「はあ。あなたが慰謝料を払ってくれれば、それで私たちの関係は終わりにするって言ったでしょ。」
彼が求めている許しとは少し違うかもしれない。だが私の中では終わる。今はそれで十分だった。
「でも本当にしつこいわね。何を言っても関係修復は無理よ。」
突き放す。彼はがっくりとうなだれていった。
「じゃあね。自分がやったことがどれだけ愚かなことだったか、これからもせいぜい後悔してちょうだい。」
最後にそう言ってから家を出る。もちろんこれは私の優しさだ。関係が終わっても復讐はまだ続く。そう警告してあげたつもりだった。
ただ、私のそんな優しさは彼には全く通じなかったようだ。家を出た後も頻繁に復縁を迫るメールを彼は送ってきた。さすがに少し苛立ってしまう。仕事も必要だし、新居も探さなければならない。目が回るくらい忙しいのに、くだらないメールで邪魔をされるのだから。
もういいわ。仕方がないから次の作戦を実行するわ。私は怒りに任せてある人にメールを送った。
「あらかじめ相談していた件を実行してほしい。」
それだけを連絡した。返事はすぐに帰ってくる。
「了解。」
この先どうなるか楽しみね。私は一人でほくそ笑んだ。
それから2ヶ月と経たず、離婚の話し合いが終わる。家を出る前に慰謝料の金額を告げていたことも大きい。さらに損害賠償の件もすんなりと片付いた。離婚の件を依頼した弁護士がまとめて対応してくれたからだ。
「お世話になりました。高木さん。」
弁護士の高木に頭を下げた。あの日駅で私を引き止めてくれた老人だ。
「本当に良かったよ。間に合って。」
「あの日、高木さんが助言してくれたからですよ。」
「いや、私は大したことはしていない。偶然耳にした悪だくみを止めたかっただけだ。」
高木が笑う。実は彼は高典の会社の顧問弁護士だった。会社にも何度か訪れていたそうだ。しかし私は面識がなかった。理由は簡単。彼が顧問弁護士になったのは例の事件の直前だったからだ。
おそらく高典は目論んでいたのだろう。私を横領犯に仕立てた時、こちらが反論すると面倒なことになる。顧問弁護士がいれば言い訳が難しくなるはずだ。彼はそんなことを考えていたようだった。
「でも、彼の決断力のおかげで助かりました。」
「ある意味ではそうかもしれないね。」
高典は顧問契約後に、外で義母やあみと今回の件の打ち合わせをしている。そこに偶然にも高木が居合わせた。直後に高典と会う約束をしていたからだ。つまり彼は高木と会う場所で悪だくみをしていたということ。
「バレるリスクを考えなかったんですかね。」
「まあ、それはないだろうね。普通、誰かが人の話を聞いているとは思わないから。」
現場はファミレスだったらしい。高典が義母とあみの2人と話している席の背後に高木はいた。3人の話が終わった後、高木は高典に気づいたふりをしたそうだ。当然高典は慌てたけれど、高木がノートパソコンを開き仕事をしていたふりをしてくれたおかげでバレなかったと教えられた。
その後の説明は不要だろう。状況を理解した高木は、高典の妻である私のことを調べる。顔などを確認した上で、駅にいる私に話しかけたということだった。
「本当にお世話になりました。でもこれで顧問契約は終わりになりますよね。」
「構わないよ。悪い人間の味方をするつもりはないからね。」
高齢の高木が言うと、どこか重みがある。最後に私は鞄の中から書類を取り出した。
「最後にこれ、いいですか?」
「これは…」
高木が書類に目を落とす。
「会社の帳簿です。彼は改竄した帳簿を持ち込むと思います。今度はそれで私の責任を追求しようとするはずですから。」
「おお、そういうことか。」
「はい。これは改竄されていないものです。」
高木に会ったあの日、私は会社にいるゆかに連絡した。彼女は主に事務をしている。私と同じでシステムエンジニアとしての腕もあるが、本人の意向で事務員として採用されていた。そんな彼女に頼んだのが、普段彼女が管理している会社の帳簿の確保だ。
あの日は全社員が1週間の休みを取る前日だった。いつもはしっかりと管理されていたとしても、1週間も社員が出社しなければ改竄する隙は十分にあっただろう。リナに電話をして彼女が家を売ろうとした理由を知ったからこそ、自分が横領犯に仕立てあげられることも分かっていた。1週間の休みの間に改竄をするという予測もできたわけだ。そこで私は先回りして会社の帳簿を抑えたのだった。
「高木さんが『時間がない。すぐに行動しろ』と言ってくれたから、私はこれを手にすることができました。もし高木が声をかけてくれなかったら、高典の思惑通りに帳簿が改竄されていたはずだ。元のデータもなく、私は改竄されたものだと証明できなかったかもしれない。彼が会社を休みにすると言い出したのも、全ては私を落とし入れるため。そう思うと本当にギリギリだった。」
「本当にありがとうございました。高木さん。」
「ああ、これで無事に解決だな。お疲れ様。」
高木がにこりとする。私も微笑んだ。
「でも、まだ終わりじゃないですけどね。」
「ということだ。この帳簿のデータがあれば、彼が何を言ってきても突っぱねられるぞ。」
「ええ、そうですね。ただ、それは復讐とは別の話なので。」
目の前の高木が青くなる。おそらく私がかなり悪い顔をしていたからだろう。実際、悪いことを考えていた。リナと私を騙そうとした高典を簡単に許せるわけがない。お金で解決するのも生ぬるい。地獄を味わせてやろうと、私はある仕掛けをしていたのだった。
仕掛けが発動したのは、私たちの離婚が成立した半年後のことだ。この間、高典は何度も復縁を迫るメールを送ってきている。当然目的は私の家とお金だ。離婚の慰謝料を支払った彼は、今は金銭的に困窮している。さらに義母やあみも私に損害賠償金を支払ったため、彼女らからもお金をせびられているに違いない。だからこそ、お金を持っている私と復縁したかったのだ。
そろそろ諦めればいいのに。裏事情も分かっている私は、高典からのメールは読まずに削除する。面倒だから着信拒否にすることも考えていた。
そんなある日曜日のことだ。珍しく義父から電話がかかってきた。彼なら大丈夫だろう。そう考えた私はすぐに電話に出た。
「もしもし。お久しぶりですね。」
「ああ、さおりさんか。急に申し訳ない。今、大丈夫かな?」
高典と離婚した後、私は彼の会社もやめている。次の就職先はまだ探している最中だ。今はフリーランスとして自宅で仕事をしている。ただ、それだけで生活できるほどの収入は得られていなかった。
「時間だけならありますので。」
皮肉ではなく正直に答える。義父は切羽詰まった声で言った。
「頼む。助けてくれないか?」
「はい。何のことですか?」
彼が私に助けを求めてきた理由は分かっているけれど、わざとぼけてみた。
「本当は分かっているんだろう。うちの庭とかに知らない人が入ってくるんだよ。」
「それ、女性ですよね。」
「そうだ。しかも彼女は妙なことを言うんだよ。『現状を確認しているだけだ』って。」
話を聞いた途端、吹き出しそうになってしまう。これこそが私の仕掛けだった。
「警察には連絡しましたか?」
「私も通報しようとしたけど、女性が言うんだ。『住居侵入には該当しない』って。私はわけが分からなくて…」
かなり混乱している様子だ。かわいそうなので種明かしをしようと考えた。
「仕方ないですね。詳細をお教えしますから、そちらへ伺っても構いませんか?」
「ああ、すぐに来てくれ。頼む。」
そこで通話を終えた。私は必要な書類を持ち、ゆかに電話をかける。
「もしもし、ゆか。一緒に来てくれる?」
「あら、もう種明かしをするの?」
「ええ。お父さんがギブアップみたいだから、すぐに来てちょうだい。じゃあね。」
要件を伝えるとすぐに電話を切った。そのまま家を出てタクシーに乗り込む。まっすぐに義父が待つ二世帯住宅へ向かった。
家の前でタクシーを降りると、ちょうど庭の方から声が聞こえてくる。
「あんた誰よ?勝手に入らないで。」
義母の声だ。私は笑いをこらえつつ庭に入った。
「外まで声が聞こえていますよ。」
「あんた、何しに来たのよ。」
声を荒げる義母。その義母と向かい合うように女性が立っている。彼女を一瞥してから、私は冷静に応じた。
「仕方ないじゃないですか。お父さんに呼ばれましたので。」
「はあ。ちょっと、あなた。」
義母が家の中に向かって叫ぶ。するとすぐに義父が飛び出してきた。
「ああ、待っていたよ。さおりさん。」
「ご無沙汰しております。高典とあみは外出中だ。」
義父がため息をつく。そこで彼は私の隣にいる女性に気づいた。
「彼女だ。彼女が家に勝手に入ってきて…」
「大丈夫ですよ。彼女は村井ゆか。私の友人です。」
隣にいた女性がゆかだと義父に紹介する。
「友人?」
「え、どういう…」
義父はまだ分からないらしい。私はニヤニヤしながら話を続けた。
「実は私の家の持ち分を彼女に売ったんです。」
「あ、売った?」
あっけにとられる義母。そんなことはお構いなしに言ってやる。
「はい。売りました。だからこの二世帯住宅の1/3は彼女のものですよね、ゆか。」
「何度も言いましたよね。不法侵入ではないと。」
リナが高典に騙されたと気づいた直後、私は彼に復讐する方法を考えた。最初に検討したのは詐欺での告発だ。だがこれはすぐに断念した。前にも話したように、執行猶予がつく可能性が高いからだ。そこで私は他の案を考えた。何かいい方法はないだろうか。彼と義母、あみの3人にダメージを与えられるとっておきの方法を。
色々と考えた結果、あることを思い出した。それが二世帯住宅の名義だ。勝手に家を建てると決められた私は、住む権利を正当に主張できるように共有名義にしてもらっていた。これを活用しようと考えたわけだ。
一般的に単独名義の不動産は簡単に売却できる。名義人が売却を決め、不動産会社などと交渉して手続きをすればいいからだ。しかし共有名義の場合は少し面倒になる。まず名義人が全て賛成しなければ売却はできない。誰か1人でも反対した時点で、法的に売却が認められないのだ。ただし自分の持ち分だけを売却することは可能になっている。私はこの抜け穴を使うことにした。
そこまで話してから義父に告げる。
「そういうわけで、私はこの家の持ち分を彼女に売りました。」
「私は正式な手続きを経て購入しました。だから現状を確認する権利があります。」
ゆかも私に続く。義父はすぐに理解できたのか、何も言わなかった。
「何よそれ。勝手に売ったとか認められないわ。」
義母には難しかったようだ。鬼の形相で反論を始める。
「ここは私たちの家よ。他人が入ってこないでくれる?」
「先ほども説明した通り、この家の持ち分を私が買ったんです。」
「はあ。知らないわよ。他は出ていきなさい。」
追い払うような仕草をする義母。その時ちょうど高典とあみが帰宅した。騒いでいる私たちに気づき、こちらへと回り込んでくる。
「なんだ騒がしいな。」
「あ、社長、どうも。」
「あ、村井…」
高典が眉をひそめる。すぐに私に気づき、彼は文句を言い始めた。
「なんださおり。不法侵入か。通報するぞ。」
「そんなわけないでしょ。」
「でも勝手に庭に入り込んでるじゃないか。俺は立ち入りを許可した覚えはないぞ。」
私のことを怒鳴りつける高典。勝ち誇った顔をしている。どうやら自分が有利な立場だと誤解しているようだ。仕方がないので現実を突きつけてあげた。
「私は彼女の許可を得てここにいるの。」
「彼女って、村井か?」
「ええ。彼女の持ち分はこの家の1/3。ここまで言えばもう分かるわよね。」
遠回しな言い方をしてみる。彼は少し考えて、はっとした。
「まさか、お前の名義の…」
「はい、正解。私の持ち分を彼女に売ったの。証拠の書類もあるわよ。」
「お前、なんてことをしてくれたんだ。」
高典が大声をあげる。私は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「別に私の勝手でしょ。自分の持ち分を売っただけだから。」
「でも、そんなことをしたら…」
彼の動きが止まる。私が思っていたよりも賢いようだ。
「なんだ、もう気づいたのね。じゃあゆか、言ってあげて。」
「え、では今月から家賃を払ってくださいね。」
ゆかが前に手を出す。高典と義父はこの展開を分かっていたのか、呆然としていた。
「家賃?あんたバカなの?ここは私たちの家よ。」
「知っていますよ。でも私の持ち分もありますから。」
「人の家に来て家賃を請求するとか、警察を呼ぶわよ。いいの?」
強気な義母。そんな彼女を止めたのは義父だった。
「やめなさい。警察を呼んでも無駄だ。」
「はあ?どうして?こんなのただの脅しじゃない?」
義母は自信満々に告げる。しかし義父は静かに首を横に振った。
「民法に明記されていることだが、共有者は自分の持ち分に応じて共有物を使用する権利が認められている。要するに、目の前にある二世帯住宅の1/3を使用する権利がゆかにはあるということだ。」
権利はあるとしても、実際に使っているのは義父たちだけ。ゆかは共有物を勝手に使われている立場だから、使用料を取ることができるというわけだ。
「同様のケースは稀にありますよね、お父さん。」
「ああ。共有物を無償で使わせるつもりがないと言われれば、こちらは応じるしかない。」
義父が断言する。事実、その通りだ。法的にはゆかの主張が正しいのだから。
「相場から考えると、一軒家で10万円くらいなので、その3割、月に3万円でどうですか?」
「待ってくれ。それは…」
「断りますか?じゃあ仕方ないですね。共有分割請求の訴訟を行うことにします。」
ゆかはきっぱりと言い放った。共有分割請求は、共有状態を解消するための方法を決める裁判といえば分かりやすいだろう。解決方法はいくつかあるが、金銭で支払いをするか現物を分けるかのいずれかになるケースが多い。
「にしても、結果次第では家を手放さなければならなくなるわ。」
「分かった。持ち分を買い取らせてくれ。それでいいだろう。」
「どうする?さおり。」
決定権を持っているのはゆかだ。それなのに私に意見を求めるということは、彼女が私に落としどころを聞いてきているのだろう。
「そうね。あなたが私から買い取った金額の倍なら、売っても十分に損はないと思うわよ。」
「なんだよそれ。おかしいだろ。」
高典が声高に叫んだ。
「そうよ。どうして倍になるのよ。」
あみまで絡んでくる。仕方がないので私が2人の口を封じてあげることにした。
「嫌なら裁判をすればいいだけよ。家はなくなるかもしれないけど、払う金額は少なくなるでしょうね。」
「う、何よ。」
あっさりと口をつむ高典とあみ。もう彼らに勝ち目はなさそうだ。
「どうするの?好きな方を選んでいいわよ。」
「うるさい。あんたは今、被害者でしょ。」
珍しくあみが的を得たことを言う。
「ええ、そうですね。ではゆか、あとはお願い。」
「オッケー。どうしますか?」
ゆかが私の前へ出る。話す相手が変わったところで、状況は何も変わらなかった。
「分かった。そちらの言い値で買い取ろう。」
「あなたにもお前にも責任があることだろう。」
義父が一括する。事実、私と高典が婚姻関係を続けていればこうなっていなかった。原因を作ったのは高典だが、義母にも責任はある。
「残念だったわね、高典。また借金が増えることになって。」
「は?俺だけが払うわけじゃないだろ。」
「お母さんやあみが払えるのかしら?2人のことだから、もう貯金はないだろう。実際、10万円の損害賠償金を払うのも苦労していたようだからね。あなたとお父さんの2人で払うことになりそうね。」
「うるさい。覚えてろ。村井、お前もな。」
高典がゆかを指差す。彼女は平気な顔で答えた。
「いいですよ。次に会うことがあれば。」
「は、明日職場で会うだろうが。」
「いえ、会いませんよ。私、あなたの会社をやめますから。」
原因が高典にあるとはいえ、トラブルの中心にいたのはゆかだ。この先も彼と同じ職場で働くのは難しいだろう。私はそう考えていたから、最初は別の人に頼もうとしていた。けれどこの計画を話した時、彼女は私にこう言ってくれたのだ。
「友人を落とし入れるような人の会社にいつまでもいるつもりはないわ。いい機会だから、その計画に乗ってあげる。」
「いいの?」
「彼に大ダメージを与えてから会社をやめてやるわよ。」
彼女の言葉が心強かったのは言うまでもない。
ゆかは目の前の高典を見ながら笑顔で告げる。
「退職願いは後日します。それで構いませんよね。」
「は、そんなわけ…」
「だめですか?じゃあ高木さんに頼みますね。」
高木の名前が出た途端、高典が仰け反る。どうやら私との離婚の時に痛い目を見たことで、彼の名前にはトラウマがあるようだった。
「ではあとは弁護士を通してお話しましょう。」
「分かった。」
しぶしぶ義父が頷く。
「ではお父さん、お世話になりました。」
「ああ。」
「それじゃあね、高典。頑張って借金を返してね。」
最後に高典に言ってやる。彼は無言のまま悔しそうに俯いていた。
その後、ゆかは高木と知り合いの不動産会社に仲介してもらい、二世帯住宅の持ち分を売却したそうだ。金額は私が彼女に売った時の倍。義父はこちらの言い値で持ち分を買い取った。私は家を建てる際に出したお金の大半が戻ってきたし、ゆかに至っては倍になっている。互いに儲かったということで、こっそりと乾杯した。
これで話は終わったと思っていたが、そうでもなかった。持ち分を買い取ったのが気に入らなかった義母は義父と大喧嘩。互いの主張がぶつかり合い、ついには離婚することになったそうだ。私は義母に原因があると思ったが、彼女は義父が悪いの一点張り。最後まで譲らず、今は離婚裁判の真っ最中だ。結果がどうなるかは分からないけれど、義母が得をすることはないだろう。
さて、義父と義母が離婚すれば問題になるのが財産分与だ。二世帯住宅をどうするかでかなり揉めているらしい。あみは「自分が住む」と主張しているけれど、高典たちが認めるかどうかは不透明だ。勝手な想像だが、彼も所有権を主張して売却することになると思う。私がそう考えている理由は一つ。彼の高典の会社が倒産の危機に瀕しているからだ。
例の一件の後、ゆかが会社を辞めてしまった。さらに私やあみとのトラブルを知った数人の同僚が退職する。ある程度の退職者が出ると、あとはドミノの連鎖だった。人数が減ったことで一人当たりの負担が増える。限界を感じた人がやめてしまい、さらに仕事量が増す。あとは退職する人が出るばかり。あっという間に会社は人手不足に陥った。
そこに追い打ちをかけたのが私とゆかの呼びかけだ。私たちは高典の会社を辞めた人に声をかけ、新しい会社を起業した。業種は今までと同じIT関係。言い方は悪いかもしれないが、人員不足になり、彼の会社が受けきれなくなった仕事を根こそぎ奪い取った。私たちの会社はすぐに大きくなり、高典の会社は干上がるように衰退した。彼は人員を確保するために必死に駆けずり回っているそうだが、社員はほとんど残っておらず、倒産は時間の問題だと思われる。
このまま倒産すれば、社長名義の有資産は全て高典の借金になる。私への離婚の慰謝料などでお金を使い果たしている今、彼に借金を返す余裕はないはずだ。どうなるのか本当に楽しみで仕方がない。
ついでに私の現状も話しておくが、随分と忙しくなった。先に話したようにゆかと起業したからだ。便宜上、私たちは共同経営者ということになっている。しかし社長業をしているのはほとんど私だ。
「ねえ、ゆか、お願いだから社長の仕事もしてくれない?」
「無理よ。私ができるのは事務かエンジニアだけ。人と話すのは得意じゃないもの。」
「それは私も同じよう。全く。」
ため息をつく。口では文句を言っているが、本音では彼女に感謝していた。もしもゆかが誘ってくれなかったら、私は今もフリーランスで仕事をしていただろう。別に悪くはないが、生活できているかどうか怪しいところだ。収入も不安定だし、将来的な不安もある。
「誘ってくれてありがとう、ゆか。」
「ん?どうしたの?急に。」
「なんとなくお礼を言いたくなっただけ。」
笑顔でごまかした。その時、私のスマホが鳴る。電話をかけてきたのはリナだ。
「お姉ちゃん、家のことだけど…」
「どうしたの?」
「あのね、彼と住んでもいい?結婚しようって言われたの。」
こんなに嬉しい報告はない。でもリナは離婚した私に遠慮しているような口ぶりだった。
「おめでとう、リナ。彼と仲良くするのよ。」
今の私が言えることはこれだけ。ようやく前を向けたばかりなのだから。



