給食の時間、俺は同じクラスのかな子がこっそりパンを持ち帰るのを目撃した。わざわざ持ち帰るほどパンが好きなのかと思ったが、理由を知って俺はある約束をすることにした。

俺の実家は小さなパン屋だ。両親と三人で切り盛りしていて、俺も中学生の頃から時々手伝いをしていた。閉店時間は夜の八時。どうしても売れ残りは出てしまう。朝焼いたパンは翌日まで味が持たないから、残った分は袋に詰めて裏口のゴミ箱に捨てていた。

もったいないと思いながらパンを詰めるのが常だった。両親が心を込めて作ったパンが誰の手にも渡らず捨てられていく。俺が食べても量が多すぎる。翌朝の朝食になることもあるが、それにも限界があった。

俺が通う中学校では週に二回ほど給食でパンが出る。毎日家でパンを食べているから、学校ではむしろ米がいいと思ってしまう。仕方なく食べていると、目の前に座っていたかな子が何やらこそこそしているのが目に入った。

かな子は今年初めて同じクラスになった。別々の小学校だったから、入学してから存在を知った感じだ。そのかな子がこっそり給食のパンを手提げ鞄に詰め込んでいる。小麦粉アレルギーならわざわざ持ち帰らないだろう。不思議に思い、俺はしばらく様子を見ることにした。

すると先生が余ったパンを確認して言った。

「あら、パンが余ってるわね。欲しい人いる?」

「はい!」

かな子が勢いよく手を上げた。先生は余ったパンをかな子に渡す。給食のパンを食べずにわざわざ持ち帰るのはなぜなのか。その日、初めてかな子に興味を持った。

放課後、俺はホームルームが終わるとすぐに教室を出た。夕方から店の手伝いがあるからだ。昇降口で靴を履こうとすると、かな子が前にいた。

「あれ? かな子?」
「修平君も帰るの?」

うん、と答えながら俺はかな子の手提げ鞄の中身を指さした。給食の時に食べなかったパンと先生からもらったパンが見えている。

「持って帰るのか?」
「うん。ちょっとね」
「わざわざ持ち帰るほどパンが好きなのか?」
「えっと、違うの。これは弟と妹にあげるの」

驚く俺に、かな子は事情を説明してくれた。昨年両親が離婚し、弟のカ太、妹のゆ香、そしてかな子は母親についてきたのだという。幸い住むアパートはすぐに見つかり、学校が変わることなく通えている。母親は毎日朝早くから夜遅くまで働いているが、親子四人の食費はかなりきつい。毎日食べるのがやっとだから、給食でパンが出る日は持ち帰っていたのだ。

「そうだったのか」
「私はあんまり食べないけど、弟と妹は食べたがるの」
「弟と妹はいくつ?」
「弟は小学三年生で、妹は保育園」
「そっか。かな子はパン好き?」
「うん。好きだよ」
「何が好き?」
「うーんと、クロワッサンとかかな。パリパリして口の中にバターの香りが広がって美味しいの」

俺は少し迷った後、口を開いた。

「あのさ、かな子。俺のうち、パン屋なんだ」
「そうだったの?」
「うん。それで毎日売れ残りのパンが出るんだよ。賞味的にはまだ食べられる。だからこれから毎日、売れ残ったパンを届けてやるよ」

かな子は驚いた顔をした。

「うん。でも、なんか悪いよ」
「いいって。捨てちゃうのはもったいないじゃん。うちは俺と両親の三人だけだし、食べきれないから余っちゃうんだ」

俺の提案にかな子は何やら考え込んでいる。廃棄予定ではあるが、まだまだ食べられるものだ。俺も小学生の頃、両親にどうして捨てるのか聞いたことがある。すると両親は顔を曇らせ、衛生面のことがあるから仕方ないのだと言っていた。それでも売れ残ったまま捨てるくらいなら、食べてくれる人にあげたほうが絶対にいいと思う。

「お金はいらないよ。私たちだけで決めちゃっていいのかな? お父さん、お母さん、怒らない?」
「俺の親も、捨てるのは心苦しいって言ってたから大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えるね」
「うん。じゃあ住所教えて。店閉めたら届けるから」
「うん。何時くらいになる?」
「店は夜の八時に閉めて、そこから閉店作業だから八時半くらいかな」
「うん。分かった。ありがとう。はい、これ、うちの住所」

かな子は可愛いメモ用紙に住所を書いて渡してくれた。この町内なら俺の家からそう遠くない。自転車を使えば八時半前には届けられそうだ。

その日はいつもより楽しく店の手伝いができた。母に「何かいいことあった?」と聞かれたが、適当にごまかした。中学生の俺が同級生のためにできることはこれくらいだ。もう少し大人だったら違う手助けの方法もあったかもしれないが、当時の俺にはこれしか考えが及ばなかった。

閉店作業の時間になり、いつものように大きい袋を用意していると、父に声をかけた。

「父さん、あのさ。このパン、いくつかもらっていいかな?」
「夜食にでもするのか?」
「うん、そうなんだ」

父は黙って俺を見ていた。何か気づいたのかとドキドキしていると、父はニコッと微笑んで俺の頭を撫でた。

「いいぞ。賞味期限は今日だから、食べ切れる分だけにしとけよ」
「うん。ありがとう」

俺は別の袋にパンを詰める。かな子が好きだと言っていたクロワッサンも忘れない。それを見ていた母が声をかけてきた。

「修平、それどうするの?」
「え? ああ、夜食にしようと思って」
「そんなに食べきれるの?」
「明日の朝までには食べきっちゃうよ」
「そうならいいけど」

母は疑い深そうに俺を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。隠れて選んでいたら面倒なことになりそうだ。俺は急いでパンを袋に詰め込んだ。かな子のお母さんの分も入れたらかなり膨らんだ。ちょっと入れすぎたか。でも食べ盛りの弟がいるんだから大丈夫だろう。

俺はパンが潰れないようにそっと紙袋に入れ、玄関の脇に置いた。そして店に戻って残りのパンを廃棄用の袋に入れ、裏口へと運んだ。

「ちょっと散歩してくるね」
「もうすぐ八時半になるわよ」
「早めに帰るよ」

それだけ告げると、俺は自転車にパンの入った紙袋を積んだ。学校帰りにかな子が教えてくれた住所まで自転車を飛ばす。住宅地の中にある古いアパート。メモと同じ部屋番号を確認し、少し緊張しながらインターホンを押した。

「はい」
「あ、修平だけど」
「修平君。ちょっと待ってね」

インターホン越しに聞いたかな子の声は、なんだかちょっと可愛かった。玄関の扉が開くと、パジャマ姿のかな子が現れた。

「修平君、来てくれたんだ」
「うん。約束したからね。はい、これ」
「わあ。こんなにたくさんいいの? ありがとう」
「うん。売れ残りでごめんだけど、かな子が好きだって言ってたクロワッサンもあるよ」
「嬉しい。ありがとう」

パンを渡すと、後ろから兄弟がやってきた。弟のカ太と妹のゆ香だ。ゆ香はかな子の服の裾を掴みながら小さな声で言った。

「お兄ちゃん、パン屋さんなの?」

俺は膝を折って顔の高さを合わせた。

「うん。そうだよ。売れ残りだけど、よかったら食べてね」
「お兄ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして。じゃあね」

静かに扉を閉めると、そのまま家の中に入っていった。急いで家に向かったが、ずっとドキドキが止まらなかった。

それから俺は毎晩のように売れ残りのパンを袋に詰めてかな子の家に持っていくようになった。不思議なことに、両親は何も言わなかった。ただ毎日閉店時間になると聞いてくるのだ。

「修平、今日も売れ残りのパンいるか?」
「うん」
「袋はこれでいい? 足りる?」
「うん。大丈夫」
「早く帰ってきなさいよ、散歩から」
「ああ、うん」

どこに行っているとか、何をしているとか、一切聞かなかった。おそらく両親は俺が何をやっていたか気づいていたんだろう。今なら分かるが、当時の俺はバレなくてラッキーくらいにしか思っていなかった。それに、廃棄のパンの量が少し多くなっていたから、後から考えればバレていたのかもしれない。

そんな生活が一年ほど続いた。最初のうちは警戒していたカ太も、俺がただパンを届けているだけだと分かると懐いてくれるようになった。かな子のところには父親がいないというのもあったのかもしれない。

「お兄ちゃん、いつもありがとう」
「いっぱい食べてくれて、俺も嬉しいよ」
「修平君、毎日ありがとう。でも無理はしないでね」
「大丈夫だよ。売れ残りを食べてもらえるのは嬉しいからさ」
「私たちも、美味しいパンが食べられて嬉しいよ」

俺とかな子の関係は良好になっていった。売れ残りを廃棄しなくて済むし、かな子は兄弟とパンを食べられる。こんな関係がこのまま続けばいいなと思っていた。

二年生になっても俺たちは同じクラスになり、以前よりも話すことが増えた。三年生になっても、悪天候でない限り俺は毎日のようにかな子の家にパンを届けていた。

かな子と出会って三度目の夏。その日は終業式で午前中で学校が終わり、俺はかな子と一緒に帰っていた。

「今日も閉店後にパンを届けに行くから」
「うん」

なんとなく、かな子の様子がおかしい。いつもは明るいのに、朝から落ち込んでいるように見えた。テストの結果が悪かったのか。俺たちは今年受験生だ。一学期の終わりにあった期末テストの結果が原因か。しかし俺の質問に、かな子は首を横に振った。

「どうしたの?」
「あのね、実は引っ越すことになったの」
「え? 引っ越すの?」
「うん。お母さんのおばあちゃんが遠くで一人暮らしをしているの。何でも怪我をして介護が必要になったとか。おじいちゃんはすでに亡くなっていて、頼れる身内もいない。解雇のこともあって、同居することになったの」
「そうなんだ。いつ引っ越すの?」
「夏休みにはこっちにいない」
「そっか。じゃあ高校もあっちなんだね」
「うん。ごめんね」
「謝ることないよ」
「引っ越し日は…明日には。だから修平君が持ってきてくれるパンを受け取れるのは、今日までかな」

突然のかな子の引っ越しに、俺は戸惑ってしまった。しかも一年以上続けていたパンを届けるという日課が今夜で終わってしまう。なんだか胸の奥にぽっかりと穴が開いてしまった感じがした。

「もっと早く言おうと思ったんだけど、ごめんね」
「いいよ。言い出しづらかったのは分かるからさ」
「ごめんね」
「かな子が謝ることじゃないよ」

俺たちはそのまま一旦別れてそれぞれの家へと帰った。家に着くと、俺は自分の部屋でぼんやりしてしまう。ずっとかな子の家にパンを届け続けられると思っていた。それがあっさりと終わってしまうことに心が追いつかない。

「修平、どうしたの?」
「なんでもない」

親に本当のことを話すわけにはいかない。俺はずっと黙ってかな子の家にパンを届けていたのだから。

その夜、俺はいつものようにかな子の家にパンを届けた。玄関の前に立ちインターホンを鳴らすと、かな子が珍しく私服で出てきた。片付けの最中なのかもしれない。

「これ、ありがとう」
「修平お兄ちゃん、うちのパンも最後か。お姉ちゃんに聞いたよ。引っ越すんだよな」
「うん。もうお兄ちゃんちのパンが食べられないのは寂しいな」
「ゆうかも」
「ゆうか、ありがとうな。またこっちに戻ってきたら、うちの店に来てくれよな」
「うん。絶対に行く。ゆうかも行くよ」
「待ってるからな」
「修平君、今までありがとう」
「かな子も、向こうに行っても頑張れよ」
「うん。本当にありがとう」

これで最後か。子供の俺たちは親の都合に従うしかない。寂しいけど仕方ないんだ。引っ越しの前日だというのに、かな子のお母さんはいなかった。いつも俺と入れ替わりのように帰ってくるって言ってたけど、こんな日も仕事なのか。一度も会ったことはないけど、かな子を通して何度かお礼を言われたことはあった。

かな子は夏休み明けには学校に来なかった。引っ越してから、俺の心の穴はなかなか埋まらなかった。それでも無事に地元の高校に合格した。高校に進学しても店の手伝いは変わらずやっている。その頃には両親も三人だけでは厳しいと思ったのか、パートさんを数人雇っていた。

高校卒業後、俺は大学には進学せずに実家のパン屋に就職した。父の後を継ぐつもりで、サポートをしつつパン職人としての修行に励んだ。小さい頃から手伝いをしていたからか、要領を得るのは早かった。

それから数年が経った。俺が一人でレジを打っていると、一人の女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

俺が声をかけると、女性は軽く会釈をした。焼き上がったパンを並べながらちらっと見ると、この辺りでは見かけない人だ。女性はたくさんのパンをトレーに乗せていた。

「お会計、お願いします」
「はい」

あまりの量の多さにびっくりしながらレジを打っていると、女性が声をかけてきた。

「修平君」
「え?」
「久しぶりね。覚えてる? かな子よ」

まさか。あのかな子?

「え、あのかな子?」
「そうだよ」

たくさんのパンを買ってくれた女性は、確かにかな子だった。あの日から一度も会っていなかったから、約十年ぶりの再会だ。

「帰ってきたのか?」
「うん。会社の転勤で、先月からこっちで暮らしてるの」
「そうなんだ」
「懐かしくてぶらっと散歩してたら、そこのガラス窓から修平君が見えたの」
「そうだったのか」
「お店まだやっててよかったよ。嬉しいな。これからはいっぱい通うね」
「おう、楽しみにしてる。ああ、そうだ。連絡先、交換しないか?」
「いいよ」

かな子はポケットからスマホを取り出し、連絡先を交換した。約十年ぶりにあったかな子は、可愛いというより綺麗な女性になっていた。

そこから俺たちは連絡を取り合うようになった。俺もかな子も二十五歳。かな子は大学まで進学し、卒業後に入社したのが今の会社。今年の頭に異動が出てこっちに引っ越してきたそうだ。会社からうちの店は近いらしく、毎日仕事帰りに寄ってたくさん買ってくれる。

「あの頃とは真逆だな」
「そうだね。あの頃は修平君が毎日ここのパンを届けてくれて、懐かしいな」
「本当にね」

かな子が来るのはいつも二十時前だ。閉店時間は昔と変わっていないから、軽く閉店作業を済ませて彼女を送る。一緒に帰るのも懐かしいなと思った。

再会してから一年が経った頃、いつものように閉店間際に来たかな子を送っていると、彼女が言った。

「修平君ちのパンは、冷めても美味しいね」
「そりゃ嬉しいね」
「これからもずっと、修平君が作ったパン食べたいな」

その言葉に、俺は思わず足を止めてしまった。

「修平君。じゃあ、結婚する?」

俺は自分が抱えていた気持ちを吐き出した。

「かな子が引っ越すって分かった時、すごく辛かった。もう会えないんだなって思って。それで大学も行かずに実家のパン屋をついで、ずっとパンを焼いてた。いつかかな子が来てくれるかもって思って。そしたら本当に来てくれて、すごく嬉しかった」
「私も、また修平君ちのパンが食べられて嬉しかった。再会してから毎日また会えるようになって、どんどんあの頃の気持ちが蘇ってきたよ。この十年間、ずっとしまい込んでた思いが溢れてくる」

俺はもう一度彼女を見て言った。

「だから、俺と一緒になってくれないか」

かな子は何度も頷いた。

「私も引っ越してからずっと寂しかった。もう二度と修平君に会えないんだなって。それがずっと心残りだったの」
「かな子がここに転勤になってよかった」
「うん。私でよければ、喜んで」

この日、俺たちは十年越しの思いを互いに打ち明けた。こうして俺たちの交際が始まり、一年後には互いの家に挨拶に行った。

「そうか。君がかな子ちゃんか。修平がずっとパンを届けてた」
「お父さん、知ってたの?」
「当たり前だ。お前が何かやってるのは気づいてたよ」
「そうだったんだ」
「無事に再会できてよかったわね」
「はい。転勤でこっちに来て」
「そうなの? ありがとうね。修平のことをこれからも支えてあげてね」
「もちろんです」

さすがは親だ。俺なりに隠していたつもりだったけど、気づいて見守ってくれていたのだろう。その後、かな子のお母さんにも同じく挨拶に行った。初めて会ったけど、遺伝子はすごいな。めちゃくちゃ美人だった。

その日はカ太もゆ香もいた。

「修平お兄ちゃんが姉ちゃんの結婚相手!」
「わあ、おめでとう」
「修平お兄ちゃんが本当のお兄ちゃんになるんだね」
「またお兄ちゃんちのパンを食べに行くから」
「私も」
「おう。二人とも、待ってるからな」

半年後、俺たちは結婚した。入籍後、実家近くのマンションで暮らし始めた。かな子は結婚を機に会社を辞め、パン屋の手伝いに入ってくれた。

「かな子、これからもよろしく」
「こちらこそ」

中学生という子供の頃の思いが実り、十年の時を超えて実ったのは奇跡だったと思う。俺のことを見守ってくれていた両親には感謝しかない。あの頃の思いを大切にし、これから家庭を築いていくつもりだ。

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