昼休み、俺は部下と並んで席に座り、差し出されたコーヒーを受け取りながら、またいつもの雑談に付き合っていた。仕事ではよくペアを組む、信頼している部下だ。彼はにやにやと笑いながら、俺をからかうように言った。
「聞きましたよ、岡山さん。課長に昇進するんですって?おめでとうございます」
「もうやめてくれよ。なんだよその噂。本人が初耳だっての。こういうの、結局事実無根だった時のショックって、想像以上に大きいんだからな」
情けない声でそう返せば、部下はおかしそうに笑い声をあげた。だがその時、俺たちの話し声がうるさかったのか、同じ同期入社で同じ部署に勤めている白田が、睨むような勢いでこちらを見てきた。彼はわざわざ俺の方へ近づいてくると、まるで品定めでもするかのように、鋭い視線を寄越してきた。
「へえ、岡山課長になるんすか?ああ、俺も出世したいわ」
あからさまではないが、どこか悪意を感じさせるその眼差しに引っかかりを覚えつつも、不確かなことで揉めるのも馬鹿らしい。俺は適当に彼の言葉を流そうとした。
「いやいや、どこから出たのか知らないけど、全くの噂でしかないよ。なんせ肝心の俺が今初めて聞いたくらいだからさ」
そう明るく笑った俺を、白田はなおもじろじろと眺めてきた。彼は部署内では主任の立場にある。何かあれば出世したいというのが口癖の男だ。その割には、頻繁ではないもののサボり癖や遅刻があり、普段の勤務態度からして問題のある人物だった。仕事も雑で、「これくらいでいいだろう」という根性が見え透いている仕上がりが多い。たまにそれが原因で顧客からのクレームに繋がるケースもあった。俺からすれば、だからこそ主任止まりなんだと思うが、怒らせたら面倒な人間だということは他の同期からも聞いていたので、普段はあまり関わりを持たないようにしている。だが今日の白田は、どうにも俺にしつこく絡んできた。
「お前さ、別に顔も普通だし、頭も普通だし、同期の中じゃ全然目立つ存在じゃねえのにさ。なんでお前が課長で、俺が主任のままなんだよ。本当、世の中おかしいことばっかりだわ」
吐き捨てるようにしてそう言う彼の無神経な言葉に、部下が立ちまち眉を吊り上げたが、俺は苦笑いでそれを制した。気持ちは嬉しいが、ここで無意味に揉めるのは部下にとって何の得にもならない。俺とて、自分が出世できないのは周囲の見る目がないせいだと言わんばかりの白田に苛立ちを感じないわけではなかったけれど、ここは穏便に受け止めることにした。
「うーん。きっと白田くんにもタイミングがくれば、あっという間だよ。俺たちには俺たちのペースがあるってことじゃないかな。焦らずゆっくり、真面目に向き合っていたら、いつか絶対に認めてくれるさ」
だが俺は少々、彼のことを舐めていたらしい。先ほどの言葉は俺の本心からのものだったのだが、白田はどうやらそれを上から目線のおためごかしだと受け取ったようだった。
「課長に昇る方のお言葉はやっぱり違いますね。いやあ、ありがたい。ありがたい。部下にもこんなに慕われてりゃ、そりゃそんな綺麗事も出てくるってもんだ」
嫌味たっぷりな様子で言葉を引きずらせ、そう言い返してきた。それから彼は、今にも殴りかかりそうな勢いで再び俺を睨んでくる。
「自分が課長になるからって、なんだよ。偉そうに。俺、そういう綺麗事ばかり言う奴が一番嫌いなんだよ。つーか、お前みたいな凡人と一緒にされたくねえんだよ。こっちは俺はな、ここで終わる人間じゃねえの」
こうして怒鳴るだけ怒鳴った後、白田はわざとらしく足音を鳴らしてその場を去っていってしまった。呆気に取られたようにしてその姿を見送った部下が、一拍置いて口を開く。
「ちょっと何なんですか、あれ?本当に白田さんって、扱いづらい人ですよね。こっちとしては自分の勤務態度と仕事の雑さをきちんと認識してから物事を言って欲しいんですけど」
鼻息を荒くする部下を、俺はまあまあとなだめる。
「確かに白田はちょっと問題はあるけどさ、今まで一緒に仕事してきたんだし、見守るつもりで大らかに接していこうよ。もしかしたら、そのうち本人も態度を改めてくれるかもしれないし」
のんびりとそう口にする俺を、部下は呆れたように見つめた。
「もう岡山さんは優しすぎるんですよ。でも本当に白田さんには気をつけてくださいね。何するかちょっと分からないところがある人ですし」
「うん。心配してくれてありがとう。さあ、そろそろ仕事に戻ろうか」
それからしばらくは何事も起こらず、俺はいつも通り仕事に励んでいた。だが、そんな日々も長くは続かなかった。その日、俺はこの会社のトップである坂本社長から、突然社長室に呼び出されたのだ。
普段はあまり関わりもない社長からのいきなりの呼び出しに首をひねりつつ社長室へ向かえば、そこには部屋の主である坂本社長だけでなく、なぜかあの白田の姿もあった。なぜここに白田が?俺の頭は疑問でいっぱいだったが、とにかく要件を聞こうと社長に問いかける。
「あの、それでご要件というのは」
だが口を開いた俺に、坂本社長は途端、厳しい視線を向けてきた。
「岡山君を呼んだのは他でもない。実は君には、とある女性社員に対するセクハラ行為についての申し立てがかかっている。何か申し開きはあるかね?」
「は、セクハラ?」
その単語があまりにも突然すぎたため、俺は思わずポカンと口を開いてしまった。セクハラなんて、そんなこと俺は絶対にしていない。一体どこをどうしたら、そんな嫌疑が俺にかかるというんだ。もちろんハラスメントというのは、加害側ではなく被害者側がどう受け取ったのかが重要なのは分かっている。だがそもそも俺は、自ら不用意に他人のパーソナルスペースやプライベートへ踏み込んだりしないようにしている。リスク回避としても有効な手段だろうが、仕事をする場においてはそれが周囲への基本的なマナーだとも思っているからだ。
「お言葉ですが、セクハラなど私には全く身に覚えがありません。私は常日頃から節度を持った距離で他の社員たちと接しています。どうかなら周囲の人間にも確認してもらって」
だが俺の訴えを掻き消すようにして、今度は社長のそばに立っていた白田が、ニヤニヤと俺を見やりながら口を挟んできた。
「へえ、岡山君って、こういう時そんな言い逃れするタイプだったんだ。かっこいいんだか、こんな真面目一辺倒な顔してしてることは、そこら辺のクズと変わりないとか、マジ受けるんだけど」
いかにも小馬鹿にした様子でこちらをじろじろと眺めてくる彼に、俺もさすがに言い返す。
「だから言い逃れも何も、本当に身に覚えがないんだって」
「ええ?それを聞いても、同じことが言える?」
するとその時、白田がクスクスと肩を揺らしながら、自身のスーツの内ポケットから何か小型の機械を取り出した。よく見ると、それはボイスレコーダーのようである。そして彼は不敵な笑みを浮かべながら、そのボタンを押した。
やがて雑音と共に再生されたのは、「やめてください」という女性の悲痛な叫びだった。
「こ、これは」
呆気に取られる俺を、白田は得意満面の笑みでペラペラと話し出す。
「これは君が確かにセクハラしていたという動かぬ証拠だよ。君がなんとなく挙動不審だったこと、俺は前から気づいててね。ある日君の後をつけたのさ。そしたら決定的な現場に遭遇したってわけ」
「そ、そんなわけないじゃないか。嘘をつくな。俺はそんなこと一度だってしたことない」
必死に反論した俺だが、白田に動じた様子はない。彼は手元のボイスレコーダーをこれ見よがしに掲げると、大げさに肩をすくめて俺を見下した。
「またまた、そんな言い訳したって、こっちには動かぬ証拠ってもんがあるからね。君の怪しい行動に気づいて、念のためボイスレコーダーを持ち歩いておいて大正解だったよ」
「そんな、待ってくれ。さっきのを、もう一度聞かせてくれ。女性の声以外にも、俺の身の潔白を証明してくれる何かが聞こえるかもしれない」
それに、先ほどの悲鳴は、どこかで聞いたような声だった。不思議な既視感を覚えつつ、白田の持つボイスレコーダーに手を伸ばす俺。しかし白田は、まるで俺に見せつけるようにしてボイスレコーダーを内ポケットにしまい込んでしまった。そして不快そうな表情で、冷たく俺を見下してくる。
「なんだよお前。俺にケチつけるつもりか。大事な証拠を渡せるわけがないだろう」
「いや、けど」
「ああ、真面目だけが取り柄だと思ってたのに、お前には本当に失望したわ。セクハラするわ、言い逃れするわ。本当に恥知らずとはこのことだな」
「だから俺は、本当にやってないんだって」
だが白田との言い争いを遮るようにして、今度は坂本社長が俺を容赦なく睨みつけてきた。
「黙りなさい、岡山君。こうして動かぬ証拠がある以上、今更言い逃れようとしても無駄だということがわからんのか。君のような人間は我が社にいる資格などない。今すぐこの会社から出ていきなさい」
社長室に響き渡るその怒声に、俺は圧倒されてしまう。坂本社長はどうやら白田の嘘を全面的に信じてしまっているらしく、俺の言うことなどには耳を貸す様子もない。どうしてだ?どうしてこんなことになっている?よく調べもせず、白田の言葉だけを取り上げるその頑なさに、俺は正直頭の片隅で不信感を抱いた。だが坂本社長は、俺にまともな判断をさせる暇を与えないかのように、問答無用でこう突きつけてくる。
「君には今すぐ自宅謹慎を命じる。後日、正式に解雇通告をするから、その覚悟でいなさい」
そして俺は、その言葉通り、何の調査もされることなく会社を首にされたのだった。
ちなみに妻には、謹慎中は体調不良だと嘘をついてやり過ごしていたが、正式に解雇されたその事実を受け、隠し通せるものでもないと全てを打ち明けることにした。
「俺は絶対にやっていないんだ。でも、こうして会社を首になってしまった以上、君にも迷惑をかけることになる。もし君が望むなら、離婚にも応じるよ」
解雇処分にされた原因が原因だけに、事実無根ではあるものの、妻にも不名誉な噂が立つくらいなら、いっそ別れた方がいいと俺は考えていたのである。だが妻はそれを、けろっとした様子で否定した。
「もう、何言ってんの?私は絶対に離婚なんてしませんからね。というか、そうなの?あなた、あの会社をやめたのね。じゃあ今夜は、お疲れ様会としてすき焼きにでもしましょうか」
妻はむしろ、俺が会社をやめたと知るや、妙に嬉しそうな態度を見せたのである。なぜか急に上機嫌になった妻に戸惑い、俺は思わず声をあげた。
「え?いや、だからな、俺は会社を首になって」
「もう、その話は今聞いたわよ。これよりあなた、お買い物頼んでいいかしら?」
しかしそんな俺に構うことなく、彼女は早速夕飯の支度に取りかかり始めたため、その話題はうやむやのまま流れていってしまったのだった。
それから数日、普段はなかなか手伝えない家のことを妻と一緒に行いながら、俺は今後の身の振り方について考えていた。だがそれにつけても、俺の解雇に妻があれほど嬉しそうだったことが腑に落ちない。そして俺は思い切って、本人に理由を尋ねてみることにした。
「え?私が嬉しそうにしていた理由?」
すると彼女は、何かを試すようにして少し黙っていたが、やがて明るい笑顔を浮かべて告白してきた。
「それは、あなたの元同僚にでも聞いてみたらどうかしら?」
いまいち答えになっていないその返答に困ってしまいながらも、俺は部下へ電話をかけることにした。
「岡山さん、もう電話もメールも帰ってこないから、本当に心配したんですよ」
相手は、いつか白田の態度に怒っていた彼である。彼からは俺の安否を確認する電話やメッセージが何件か入っていたのだが、俺も心の整理がつかず、そのままにしてしまっていたのだった。
「すまなかったな。色々と突然だったものだから、ちょっとどう返していいかわからなくて」
そんな詫びを入れ、俺は早速社内の様子を問う。すると部下は、ほとほと疲れたという声で現状を話してくれた。
「どうしたもこうしたも、今すごいことになってて。ひっきりなしにクレームの電話がかかってくるものだから、みんなその対応に追われて、通常業務なんてできない状態なんですよ」
仕事上で何か大きなトラブルでもあったのかと慌てた俺だが、その気配を察したのか、部下が「そうじゃなくて」と俺の思い違いを訂正してくれる。
「クレームは主に人権団体とか、ネットニュースでセクハラのことを知った顧客からです」
言いながら盛大なため息をもらす部下だが、俺はそれを聞いてさらに慌ててしまった。あの件がマスコミや世間に漏れたのだと思ったからだ。嫌疑疑惑については丸きり出たらめなことであったが、このご時世、一度噂が広がってしまえば憶測が憶測を呼んで、思わぬ誰かが二次被害を被ることもある。部下たちにもきっと迷惑をかけているだろうと申し訳ない気持ちでいっぱいになった俺は、スマートフォンを握りしめて謝罪を口にした。
「どうか本当にすまない。俺も何がなんだかよくわからないまま解雇になってしまったんだが」
「いや、そんなのは」
「いや、言い訳だな。君たちにまでこうして面倒をかけているんだから」
だが一拍置いて、帰ってきたのは「違いますよ」という元部下からのきっぱりとした否定だった。
「フレーム対象になってるのは、岡山さんじゃありません。世間から突き上げられてるのは、坂本社長ですよ」
「え?」
予想外の返答に、俺はわけが分からず絶句してしまう。そんな俺に構わず部下は続けた。
「もしかして岡山さん、しばらくニュースとか見てませんね。とにかく、一度ニュースを見てください。すみません、呼び出し受けたんで、ちょっと一回電話切りますね」
電話の向こうでは、彼の言う通り電話の着信音がひっきりなしに鳴り響いていて、それに答える社員たちの困惑しきっている声も複数聞こえてきた。きっと彼もその対応に追われているのだろう。忙しい中、こちらの電話に出てくれたことへ感謝しながら、俺は言われた通りにテレビをつける。そういえば謹慎中から、俺は一切世間のニュースに触れていなかった。そんな余裕がなかったというのが正直なところだ。時間はちょうど昼過ぎ、ワイドショーの時間である。すると画面では早々に、坂本社長の顔写真が大きく映し出されていた。そしてその横には、「社長のセクハラ疑惑に揺れる企業」という扇情的な見出しが踊っている。
「なんだこれ?どういうことだ?」
そこへキッチンの片付けを終えた妻がやってくる。そして俺がテレビを見ながら固まっていることに気づいたのだろう。彼女はまず、立ったままの俺にソファーへ座るよう勧め、また自身も同じく腰かけながら、ゆっくりと口を開いた。
「私の友人が、あの会社に務めていること、あなたも知ってるわよね」
開口一番、妻はそう言った。もちろん知っている。その友人と妻とは学生時代からの中だ。俺が妻と知り合った当初、妻が自身の友人と同じ会社に務めていると知り、一気に親近感が湧いたのだと聞いたことがあった。彼女は俺たちの結婚式にも参加してくれたし、同じ部署にはなったことがないが、それからもプライベートで何度か顔を合わせている。頷く俺に、彼女は続けた。
「実は彼女、数ヶ月前からセクハラを受けていたらしいの。相手は坂本社長よ」
「え?」
思っても見なかった話に、俺は仰天してしまう。同時に、あの時社長室でボイスレコーダーを聞かされた時の既視感の理由が分かった。そうだ。あの声は、言われてみれば確かに妻の友人の声ではないか。録音越しでも明らかなほどに痛ましい悲鳴を思い出し、俺は思わず彼女の心痛を想像して言葉をなくした。
始まりは彼女の人事移動だった。妻の話を要約するとこうだ。坂本社長からのセクハラは、妻の友人が人員補充のために秘書課へと配属されたことがきっかけだったという。最初は少し馴れ馴れしい程度だったらしいが、その手口は日を追うごとにエスカレートしていった。精一杯拒否をしても、坂本社長は必要以上に彼女に付きまとう。次第にノイローゼ気味となっていた友人は、たまたまその時連絡を取ってきた妻に泣きついたようだった。そしてそのことを打ち明けられた妻は大いに怒り、証拠を掴んで、しかるべきところに訴えるようアドバイスした。それを受けて友人はボイスレコーダーを用意し、隙を見て社長からセクハラ被害にあった瞬間を録音したのだという。だがここで問題が起こった。万が一落としてしまわないようにと、友人は自身のデスクの引き出しにそれをしまっていた。これなのに、会議で数時間デスクから離れた隙に、ボイスレコーダーは引き出しからなくなっていたのだという。
「そんなことが」
初めて聞く話に驚く俺に、妻は眉を潜めていった。
「友人は、ボイスレコーダーを盗んだのは坂本社長だって確信したようなの。そして社長の元へ抗議しに行ったのよ。けれど、いくら彼女が訴えようとも、肝心の証拠は紛失してしまっている。それを良いことに、坂本社長は余裕たっぷりで白を切り通したらしい」
それはひどい。けれど、あの社長ならやりそうなことだとも俺は思った。というか、今の話と合わせると、俺が社長室で聞かされたあのボイスレコーダーは、おそらく妻の友人が紛失してしまったものだったのだろう。それに今思い返せば、あの場で再生されたのは女性の悲鳴の一部分だけだ。当然、加害者である坂本社長が意図的に、そこだけ切り取ったに違いない。
「でね、友人は、とある人権団体にその話を持ち込むことにしたのよ。その団体は以前から同じようなケースで被害にあった人を支援してくれていてね。近いうちに社長に対する抗議活動も行われるって、私知ってたの」
「ああ、だから君はあんな態度を見せたのか」
そこで俺は察した。俺が解雇になったことを、なぜ妻があんなに喜んだかということを。抗議活動が世間的に認知されればされるほど、必然的に会社のイメージは悪くなる。妻としては、その前に俺に転職を進めるつもりであったようだ。
「さすがに私も、あなたが坂本社長に代わって犯人にされてしまうなんて予想もしていなかったけれども、今回のことで戸惑いなんて全くなかったわ。絶対あの社長には報いを受けさせてやる」
妻の友人は、今でこそ加害者である坂本社長と戦えるほどに安定しているそうだが、一時期はセクハラ被害のせいで食事も喉を通らず、睡眠障害を抱えるほどに心身のバランスを崩していたようだ。疲れ果てた姿にショックを受けた妻は、彼女のために一緒に戦うことを誓ったのだという。その話を聞いて、俺は妻を誇りに思うと同時に、自分にできることがあれば何でもすると協力を申し出たのだった。何せ俺は、坂本社長と白田を除けば、ボイスレコーダーが彼らの手元にあることを知っている唯一の人間だ。妻の友人、そして俺の証言を合わせれば、あくまで白を切り通すつもりらしい社長側に対しても、何か有利に立てることもあるかもしれない。
「ありがとう、あなた。さあ、ここからは反撃の時間よ」
さて、その間にもあっという間に騒ぎは大きくなり、ついには坂本社長がセクハラについての弁明会見を開く事態となった。その場で社長は最初こそ「彼女の誤解だ」「ありえないことだ」と突っぱねていたのだが、最前列に陣取っていた百戦錬磨の記者たちに、そんな一辺倒な言い訳が通用するわけもない。核心のないことだけを繰り返す坂本社長へ、記者たちの鋭い質問が続く。
「被害者側が録音したボイスレコーダーを、あなたたちが盗み出したという証言もあるようですが」
「それも、坂本社長、あなたを貶めるために、1人の社員を犠牲にして、公的に辞めさせたそうじゃないですか?」
「それもその方は、あなたたちが確かにボイスレコーダーを所持していたと証言されてますよ」
「証拠隠滅の上に隠蔽工作ですか?これは相当に悪質な手口と見なされても仕方ないのでは?」
「えー、それはその」
度重なる記者たちの厳しい追求に、追い詰められていく坂本社長。そしてついに坂本社長は、うっかり口を滑らせる。
「ええい、うるさい!雑音がひどくて、女の悲鳴くらいしかまともに取れていない、あのボイスレコーダーが一体何の証拠になると言うんだ!」
そうなった直後の坂本社長の顔を、俺はいつまでだって覚えているだろう。結局その発言が何よりの証拠となり、坂本社長によるセクハラの事実、そして被害者からボイスレコーダーを盗んだことが、芋づる式に明らかになったのだった。
さて、その後の人権団体からの広告によると、実際にボイスレコーダーを盗んだのは白田だったらしい。坂本社長に提案されたのだそうだ。「出世をさせてやるから、言う通りにしろ」と。というか、そもそも白田は偶然、坂本社長がセクハラ行為をしている現場に遭遇したことがあったようだ。坂本社長はその口止めの意味も込めて、白田を巻き込むことにしたのだろう。だが当の白田は、聞き取り調査において「社長に協力するよう脅された」「自分は何も悪くない」と言い張っているとのこと。そしてボイスレコーダーの窃盗容疑に関しては、今も坂本社長と白田の両者で罪の擦り付け合いが勃発しているらしい。
そんな加害者側の泥仕合に構わず、社内では粛清が進んでいるそうだ。当然のことながら、坂本社長はセクハラや隠蔽体質といった様々なやらかしを叩かれ、社長の座を追われることとなった。ちなみに坂本社長から被害者には正式に謝罪があったようだが、ここまでこじれてしまったものを謝罪のみで許すことは、被害者側も到底できず、示談は不成立に終わっている。今は人権団体の後押しを受けて、刑事・民事両方での訴訟の準備に入っているとのこと。また、坂本社長と結託していた疑いがあるとして、白田も会社からの追放が決まった。俺が思うに、この件がここまでの騒ぎになったことで、彼が今後まともな再就職に恵まれることは絶望的だろう。
一方、俺の解雇の件についても、改めて調査が入った。結果、その処分は不当であると認められ、坂本社長から慰謝料が支払われることが決定した。セクハラの民事訴訟における判決が確定すると、そちらの慰謝料も合わせて、額は相当なものとなる見込みである。結局騒ぎがある程度収まるまでは、数ヶ月を要した。その間、あの会社に務めていた社員たちは、ほぼ別の企業へと転職したらしい。俺を心配してくれていた部下も、無事大手の良い企業へと転職できたようで、お互いの生活が落ち着いたら、ゆっくり飲もうと約束している。
さて、俺は俺で、異業種とはなるが、この度めでたく再就職を果たした。この一件で、業界全体にも風当たりは強くなっていたため、それならばと思い切って、新しい場所へ飛び込んでみることにしたのだ。1から覚えなければいけないことが山積みではあるが、それでも俺は案外、そういう忙しない毎日を楽しんでいる。今まで平々凡々と暮らしてきたけれど、自分では気づかなかったこんな一面があったのだなあと、関心しているくらいだ。真面目しか取り柄がないけれど、その真面目こそが俺の一番の強みだとも思っている。新しいことにも真っ向から逃げずに、真面目に取り組む。そうしていれば、そこが自分の新たな居場所となるだろう。これからも道を踏み外すことなく、地に足をつけ、一歩一歩着実に歩んでいこうと、俺は改めて誓ったのだった。



