「工場勤務の貧乏人さんは欠席でいいわ。私、くみ子さんに来てほしくないです」。兄の結婚式当日、朝から準備していた私にかかってきた電話で、兄嫁がそう言い放った。兄が間違えて招待状を送っただけだから、と。私は55歳、主婦で工場のパートをしている。その日は夫も仕事を休んで式に出席する予定だった。兄が結婚すると聞いた時は、性格はいいのに顔が残念な兄をついに誰かが選んでくれたと、心の底から喜んだ。式場に…

「工場勤務の貧乏人さんは欠席でいいわ。私、くみ子さんに来てほしくないです」。兄の結婚式当日、朝から準備していた私にかかってきた電話で、兄嫁がそう言い放った。兄が間違えて招待状を送っただけだから、と。私は55歳、主婦で工場のパートをしている。その日は夫も仕事を休んで式に出席する予定だった。兄が結婚すると聞いた時は、性格はいいのに顔が残念な兄をついに誰かが選んでくれたと、心の底から喜んだ。式場に...

私の名前はくみ子。55歳の主婦で、近所の工場でパートとして働いている。一人息子は大学を卒業した後、自分のやりたいことを追いかけて家を出た。今は夫と二人暮らし。初老の二人の暮らしは静かなもので、息子が時々送ってくるメールが私の日々の癒やしだ。

夫は58歳で、もうすぐ定年という年なのに、私がいつも健康に気を遣った食事を出してきたおかげか、今でも現役で働いている。今日も夫は朝早くから仕事に出かけた。私もパート先の工場へ向かうため、準備を始める。

工場勤務というとなんとなく下に見られがちだが、実際にはなくてはならない仕事だ。私が勤める工場では有名なお菓子を作っていて、その商品はスーパーやコンビニのどこにでも並んでいる。私たち工場で働く人間がいなければ、こんなふうに世の中に製品が届くことはない。そう思うと、自分の仕事が誇らしく感じられるのだった。

その日も私は仕事をいつも通りに終え、近所のスーパーへ買い物に来ていた。買い物メモを確認しようとスマホを取り出すと、一つ上の兄からメッセージが届いている。近いうちに結婚する。短い文面だったが、私は目が飛び出るほど驚いた。兄の誠は性格はいいのに顔が残念で、いつももったいないと思っていたのだ。

そんな兄がついに結婚する。聞けば相手は三十歳の26歳。上司に連れて行かれたキャバクラで知り合ったのが二人の出会いらしい。慌てて電話をすると、なんと兄からのアプローチではなく、相手からの猛アピールで付き合い始めたという。兄はこの辺りでは有名な会社に長年勤めている。もしかして給料目当てではないかと、悪い想像をしてしまう。

しかし、もしかしたらすごくいい子かもしれない、と思い直した。私も工場勤務という理由で、人から偏見の目で見られたことが何度かあった。毎日同じことの繰り返しで大変そう、と言われた言葉が頭をよぎる。職業だけで人を判断してはいけない。私は今はとにかく兄の結婚を喜ぼうと思った。

今度挨拶のために集まろう。兄の提案に私は賛成し、その日のやり取りは終わった。

後日、私と母、そして兄と兄嫁で食事に行くことになった。夫は仕事が忙しく時間が作れなかったため、後日改めて挨拶をしに行くという流れになった。

兄嫁は一体どんな人なのだろう。かなり年下の若い子だから緊張してしまう。ドキドキとワクワクが混ざった感情で、私は前日の夜もあまり寝つけなかった。

だけど、予約しておいた店に向かうと、緊張を吹き飛ばすほどの驚きが待っていた。兄嫁はすでに妊娠していて、お腹が大きくなり始めていたのだ。

「紹介するよ。僕の嫁のあねです」
「どうもこんにちは」
「あねとは付き合って三ヶ月での電撃結婚なんだよね」

照れながら話す兄を見て私は、三ヶ月でそんなに大きくなるものかと首をかしげたが、成長は人それぞれかと納得して席についた。

「座ったし、今日はいっぱい食べちゃおう」
「ええ、お腹の赤ちゃんのためにも遠慮せず食べてね」

兄嫁はメニューを眺めると、一番高いステーキを頼んだ。私はつわりがひどくて水も満足に飲めない時期だったというのに、兄嫁はかなりタフな体なのかもしれない。このまま元気な赤ちゃんが生まれてくれたらいいなと、私は微笑んだ。

「そういえば、くみ子さんってどこで働いてるんですか?」
「近所の工場よ」
「え、工場勤務なの? お兄さんはエリート社員なのに、苦労してるんですね」

突然の言葉に、私は母とともにポカンと口を開けて停止した。頭の理解が追いつかない。けれど、いつも工場なんて言われた時に言い返していた言葉を、私はとっさに口に出した。

「工場と言っても、環境はすごく整っているし、お友達もたくさんできたから楽しいわよ」
「でも工場ってきつい仕事ですよね。私だったら絶対できないな。すごいですね」

一見褒めているように聞こえるが、あからさまに見下した態度だ。どうしようかと頭を悩ませていると、ちょうど料理が届いた。

「さ、さあ、料理も届いたし食べましょう」

母が手を叩きながら何とか場を取り仕切り、互いに食べ始める。これだけ妹が馬鹿にされているのに、兄はというと、デレデレと兄嫁を見つめている。恋愛経験がほとんどなかった兄は、すっかり兄嫁に毒されてしまったらしい。見ていられなくなり、私は手元の料理に視線を落とした。

結局、食事会は空気も悪く、すぐにお開きとなった。兄嫁は自分の発言に何も思っていないらしく、デザートも食べたかったな、と文句を言う始末。これは先行きが不安だなと、私は思わずため息をついた。

そんな私の悪い予感は当たってしまう。兄から結婚式の式場やプランをかなり豪華にしていると聞かされ、自分の貯金でなんとかなるのかと心配していた。独身で趣味もない人間だったから、貯金はそれなりにあるだろうと思っていたのに、兄は言われるがままに兄嫁へブランド物を買い与えていた。さらにお小遣いと称して毎月十万円近く渡していたらしい。

兄が母や私に頭を下げて金を借りに来たことで、その事実が発覚した。優しい性格の兄は、願い事や頼み事を断るのが苦手だ。その性格を利用する兄嫁に、私はふつふつと怒りが込み上げた。

「そんな嫁、私はどうかと思うけど」
思わず出た言葉に、兄はひどく気分を害したらしい。
「彼女には僕がいないとダメなんだ。それに若い子にはおしゃれをさせてあげたいし。お前みたいなしくしゃくしたおばさんになる前にな」

性格だけはいいと思っていた兄がそんなことを叫ぶものだから、私はぎょっとした。言い慣れていない感じがしたから、もしかしたら兄嫁にいろいろ吹き込まれたのかもしれない。結局私はこの結婚に賛成できないということで、資金調達には協力しなかった。

二ヶ月後、結婚式の招待状が我が家に届いた。もちろん出席に丸をつけ、結婚式当日を待った。

結婚式当日、私たち夫婦はバタバタと準備をしていた。こういう年になってから誰かの結婚式に出席するなんて、息子の時以外はないと思っていたが、今のところ中止の連絡は来ていない。なんとかうまく資金繰りができたのかとほっとしていると、兄嫁から電話がかかってきた。

「もしもし、あねです。ごめんなさい。誠さんが間違えて結婚式の招待状を送っちゃったみたいで」

間違えたも何も、私は兄の妹だし、参加する権利はある。夫が勝手に断りを入れたとも思えない。誰かと勘違いしているのだろうか。

「ご連絡ありがとう。もちろん今日は出席させてもらうわね」
「え、私、くみ子さんに出席して欲しくないです」
「はあ?」
「だって元職場の子とか、学生時代の友達がいっぱい来るんですよ。そんな中でくみ子さんみたいなおばさんが来るって知られたら、最悪じゃないですか」
「だからって、そんなこと」
「それに誠さんがお金のこと頼みに行った時、くみ子さんは出してくれなかったでしょう」

確かにそれを言われたら、何も言い返せない。ただお金を渡さなかったのは、私なりの結婚への反対の意思表示だ。実際に断っておいてよかったと、心底思う。こんな非常識な人と兄を結婚させるのは間違いだ。

「旦那さんの稼ぎもないから、きつい工場のパートなんて言ってるんでしょ」
「そういうわけじゃ」
「そんなおばさんがヨレヨレの何十年前のドレスなんて着てきたら恥ずかしいし。まあ、ご衆議の無駄だから欠席でいいわ。工場勤務の貧乏人さん」
「わかりました。でもきっと後悔しますよ」
「何? 一丁前に脅し? 全然怖くないし。ただの工場員に何ができるの? じゃ、こっちは楽しくやるから。くみ子さんはしっかりおるすばんしててね」

そう言って、こちらの話も聞かずに電話を切った。無機質なツーツーという音だけが残る。戸惑いと怒りで何とか立ち直りそうになったが、私があまりの出来事に硬直していると、夫がネクタイを締めながらこちらを伺った。

「どうした?」
「いや、なんかね、あねさんが私には出席しないでほしいって」

私がそう言った瞬間、夫の顔つきが変わった。普段は穏やかであまり表情を出さない夫が、怒りのような表情を浮かべた。私はビクッと体を震わせた。

「スマホを貸しなさい」

夫はそう言って私のスマホを使い、兄と兄嫁にメッセージを送った。「君たちがそんな対応をするなら、こちらにも考えがあります」。そして夫はそのまま会社用の携帯を使って何かを打ち始めた。

二時間後、私は夫と会場の前にいた。私は途中まで着ていた着物をやめて、夫はスーツ姿だ。私たちを見つけて駆け寄ってくる父母。しかし二人は私たちの服をまじまじと見つめて、目を丸くした。

「どうしたんだ、その格好は。早く支度をしないと間に合わないわよ」
慌てて控室に連れて行かれそうになるが、私はようやく口を開いた。
「ごめん。兄嫁のあねさんから連絡があって、私には出席しないでほしいんだって」
「え、でも兄の晴れ姿は見たかったけど、仕方ないわよね。一体どうしてそんなことを」

両親が困惑していると、親戚一同が集まってくる。みんな口々にどうしてそんな格好で来たのかと問いかける。両親にしたのと同じように返事をすると、親戚一同は絶句し、その後ざわめき出した。

「旦那の妹を呼ばないなんて、なんて非常識なんだ」
「自分の勤める会社がくみ子さんの夫である正彦さんが立て直したと知っての愚行か」
「こんな結婚式、めでたくも何ともないわ」

小さな批判の声はどんどんと大きくなり、会場を埋め尽くした。それもそのはず、兄の誠が勤める会社は、夫が立て直した会社なのだ。夫は経営コンサルタント事業を行っており、この辺りの個人商店や中小企業を盛り上げてきた。そのおかげで地元を離れた若者たちが戻ってきて、町はかなり元気になった。今ではその若者たちと最近の流行に合わせた店の出店計画も進めている。とにかく地元の人間から尊敬される人なのだ。

そして私は地元の大きなボランティア団体の団長をしている。ボランティアだけでは賄えないため、今は身を粉にして働いている。町には夫のおかげもあり、子育て世代が増え、働くママさんが多くなった。そんな働き盛りの世代のために、預かり保育のボランティアや、私の収入とみんなの募金で児童館のリニューアルなども行っている。そう、私たち二人はこの町に欠かせない存在なのだ。そんな二人をのけ者にしようとしたのだから、騒動が起きても仕方がない。

騒ぎを聞きつけて、今度は夫の会社の社員や兄の会社の社員たちが駆けつけた。まさか奥様がそんなことになっているとは知らず、兄の直属の上司が怯えながら謝罪をする。

「お前たち、今日は帰るぞ」

そう言って、兄の会社のメンバーは次々にいなくなった。退出する足音に続いて、ご祝儀代を返してほしいと受付に頼む声が聞こえる。私の世話になってきたママさんたちも、私の元に集まってきた。

その中で、元々キャバ嬢をしていたという若い女性が私に話しかけてきた。
「私、実はあねと職場で知り合ったんです。あの子、旦那さんと出会う前に赤ちゃんができたって喜んで話してきたんですけど」
「まさかとは思ったけど、あの大きくなったお腹は多分……」
そう言って泣き始めた女性を、私はそっと撫でてやった。

私も少しおかしいと思っていた。しかし兄が選んだ人を悪く言うのはよくないと、そういう気持ちを蓋をしていた。さらに彼女は続けた。
「あと、本当の父親とあねはギャンブルにのめり込んでいて、多額の借金があるはずです」

これで全て納得がいった。つまり、子供を育てる費用や借金を兄の誠に肩代わりさせ、自分たちは裏で密会をしようとしていたのだ。

こんな騒ぎが起きているとは知らず、新郎新婦の二人が登場してくる。普通なら拍手や歓声が飛ぶはずのその場面に、批判の声が絶えず飛んだ。
「何を考えているんだ?」
「恩をあだで返すつもりか」

次々と浴びせられる罵声に、兄も兄嫁も困惑している。そして二人がこちらを見て、ずかずかと近づいてきた。

「くみ子さん、あなたが何か吹き込んだんでしょう。せっかくの結婚式に何をしたんだ?」
私は救いのない人間を見るような目で見つめ返した。
「私、この嫁はどうかと思うって言ったよね。あの時は聞き入れてもらえなかったけど、改めて言わせてもらうわ」
「僕のあねに何てことを言うんだ」
「こちらからも、この結婚には賛成できないと言っておこう」

兄は夫の顔を見るなり、見る見るうちに顔を青くした。夫は経営コンサルタントとして、兄の会社の立て直しを手がけていたのだ。

「お世話になっております」
「建前の挨拶はいい。君の本意は分かったから」

だらだらと冷や汗をかきながら頭を下げる兄を、兄嫁はきょとんとした顔で見ている。
「誠さん、どうしてこんなおじさんに頭下げてるんですか? あなたはエリート社員なんだから、もっとビシッとしなきゃ」
「うるさい」

兄がピシャリとそう言い放つと、あねの頭を掴んで一緒に深々と謝った。兄嫁は理解が追いついていないようで、ギャーギャーとわめいている。

「うちの会社と君の会社の人間は帰らせた。ある程度、どんなことが起きているのかしっかり話させてもらったから」
「私、あねさんに結婚式に出席しないように言われたのよ」

夫の言葉を聞いて、兄は私と兄嫁の顔を見比べる。
「そんなこと、一切聞いてないぞ」
「あと残酷なことを言うけど、彼女のお腹に宿っているのはあなたの子供じゃない。さらにはあなたの給料を当てにして、多額の借金を背負わせようとしていたわ」
「んだって」
「嘘だと思うなら、買い与えたブランド全部を見せてもらったら? おそらくほとんど全てが質屋に行ってるから」

兄は絶句してフリーズしてしまった。
「君の昇格の話はなくなるだろう。こんな女性に簡単に騙されてしまっては、せっかく立て直した会社が無駄になりかねないからね」
追い打ちをかけるように夫がそう言って肩を叩くと、兄は膝から崩れ落ちてしまった。

あねは怒りで顔を歪めながら私を見上げる。
「せっかくうまくいってたのに、あんたのせいで台無しよ」
しまったという顔をして慌てて口を閉ざすが、口から出てしまった言葉は取り返しがつかない。そこで彼女は吹っ切れてしまったのか、ゲラゲラと笑い出した。

「こんな人、給料目当てじゃなきゃ誰が結婚すると思う? しかも私みたいに若くて美人な女が、おっさんなんかと。おっさんはさっさと墓に入って、保険金だけ渡せばいいのよ」

言い放った後、テーブルにあったフォークを持ち、私に向かって襲いかかってきた。悲鳴をあげる私の横で、夫があねの足首を蹴り、バランスを崩させる。盛大に転んで、しばらく動けなくなったあねを、会場の警備員が捕まえてそのまま連行していった。

「知り合いの弁護士の連絡先だ。こうなったらあの女にたくさんの慰謝料を払ってもらおうじゃないか」
泣き崩れる兄に、夫は小さなメモを渡した。

「目が覚めるのが遅かった。あの時、くみ子の忠告を聞いていれば」
そう言って謝罪する兄には、少しだけ同情してしまった。

こうして壮絶な数ヶ月は幕を閉じた。

その後、兄はわずかに残された貯金を使って弁護士を雇った。頭の弱いあねはすぐに男と会っている姿が見つかり、今は集めた証拠をもとに、あねと男に慰謝料を請求しているところらしい。兄はすっかり心を入れ替え、もう悪い女には引っかからないようにするよと落ち込んでいた。その姿を見て、昇格の話こそなくなったものの、会社にはそのままいられることになったらしい。兄は優しい人だから、兄にも人生を共にできるようなパートナーとの出会いがあってほしいなと思う。

「ねえ、助けてくれてありがとうね」
「いや、気にするな。くみ子が傷つけられたと知って、自分が制御できなくなっていたからな」
恥ずかしそうに頬をかく夫。これからも大事にしようと、私は心に誓った。

私の名前は静香。32歳。夫の謙とは結婚して五年が経つ。元々は私の実家で両親と同居していたのだが、父が病気で亡くなってからは、私の母と夫の三人で同居している。夫とは共働きなので、母が家事をサポートしてくれて、かなり助かっていた。

ある日、夫から母と私に、隣町に住む義兄一家に関する大事な話があると切り出された。来月、義兄の転勤が決まったという。転勤先はかなり遠方のようだ。子供たちの学校のことや身重の義兄嫁のことを考えると、単身赴任がいいだろうと決心したのだとか。そこまではいいのだが。

「俺が単身赴任する一年間、妊娠中の嫁と子供たち四人を、お前の家で預かってくれ」
そう義兄に頼まれたのだそうだ。ちなみに義兄一家は賃貸暮らしで、義兄嫁たちがうちと同居することで単身赴任中の家賃を浮かせたいらしい、と夫の説明で知った。

我が家がいくら一軒家とはいえ、そんな大家族を引き受ける余裕なんてない。それに義兄嫁のエミリさんとは、年に数回の親族付き合いでしか会わないような間柄で、別段親しくもない。それだけの関係の義兄嫁とその子供を、いきなり自宅というプライベートな場所へ引き入れるのは、どうしても抵抗がある。しかも子供たちは全員男の子。一番上の子は十七歳で落ち着きもあるが、他はみんなまだまだやんちゃだ。

「いくら何でも急すぎるし、無理よ」

私は反対したが、夫は義兄の頼みを聞き入れたい様子だった。

「エミリさん、今年で三十七歳だろう。高齢出産になるし、兄貴としてはそばに誰かいてほしいんじゃないかな」

夫は他にもいろいろと言っていたが、正直私の頭の中はそれどころではない。その時、ふと義母の顔が頭をよぎった。

「そもそもお母さんに同居してもらえばいいんじゃないの?」
いい考えだと思ったが、夫は首を横に振る。
「実は母さんとエミリさんは仲が悪いらしい。一応俺も母さんに聞いてみたけど、是非静香さんに協力をお願いしたいって言われたよ」

その言葉を聞いて、妙に納得してしまった自分が恨めしい。義母は自分の嫌いな人をとことん遠ざけたい性格の人だ。義兄嫁との同居なんて考えられないと、突っぱねたのだろう。それに義父の残した遺産で豊かな生活を楽しんでいる義母にとっては、自分の自由が減る面倒ごとという認識なのかもしれない。いずれにしても、私にとっては迷惑な話だ。

「家族なんだから助けるのは当然だろ。頼むよ」
夫はいつになく真剣な表情だ。今まで兄弟仲は良くも悪くもないという印象だったのに、ここまで必死に義兄の助けになろうとする姿勢に、私は違和感を覚える。

「私も反対だわ」
私が考え込んでいると、黙って聞いていた母が口を開いた。
「謙さんは忘れているみたいだけど、ここは私の家よ。勝手に話を進めないでくれるかしら」

母の一言で、夫の顔色がさっと変わった。
「嫌だな、お母さん。もちろんですよ」
夫は愛想笑いを浮かべている。
「そうよね。そんな勝手な人じゃないわよね」
口元は笑っているのに、母の目は全く笑っていない。そんな母の表情を見て、夫はこれ以上何も言えなくなったようで、また後日話し合おうとだけ言い残して、すぐに自室へ引っ込んでいった。

以前、夫は趣味の車にお金を注ぎ込み、私に内緒で多額の借金を作ったことがある。母と今は亡き父が肩代わりをして、その時はこっぴどく叱られたのだが、それがきっかけで同居を開始したこともあり、夫は未だに母に頭が上がらないのだ。

「お母さん、ありがとう」
私が母に感謝を伝えると、母の表情はいつもの穏やかなものに戻っていた。
「いいのよ。この家の名義がまだ私なのは本当だし」
それと、と母は続ける。
「私にとっては、そのお嫁さんもその子供たちも赤の他人だもの。反対したくもなるわよ」

この言葉を聞いて、私は自分の感情にしか気が回っていなかったことに気づき、恥ずかしくなった。そんな私を見かねたように、母は苦笑する。

「静香は優しいから、相手が困っていると強く断れないかもしれないけど、本当に無理なら私を悪者にしてでも断りなさい。後悔してからじゃ遅いのよ」

母の言葉には、なんだか妙な重みがある。私が知らないだけで、母も似たような苦労を経験したのかもしれない。ふと、夫の「家族だから助けるのは当然」という言葉が頭に蘇る。実際に助けるのは夫ではなく、私と母がメインになるだろうということは簡単に想像できた。しかも私も仕事で平日は不在となるので、その負担は母に集中するだろう。何も関係ない母に負担がかかるなんて、私が耐えられない。

「明日、仕事から帰ったらお兄さんに電話して断るわ」

母と話して、少し頭が冷静になれた気がする。私は改めて母にお礼を述べ、自室へ戻っていった。

私は義兄に断りの電話をするため、いつもより早く帰宅した。スマホを手に取ると、仕事中の時間帯に義兄嫁から着信があったことに気づく。

「同居の件じゃないの?」
そばにいた母がそう言い、私も同感だった。この際、断る相手は義兄嫁でもいいかと安易に考えた私は、義兄嫁に折り返し電話をかける。ちなみに、電話のやり取りを見守りたいらしい母の要望で、スピーカーモードでの通話だ。

数回のコールで、義兄嫁は電話に出た。
「あ、静香さん、お久しぶり」
義兄嫁の声が、騒がしい子供の声と一緒に流れてくる。子供たちがそばで遊んでいるらしい。
「エミリさん、お久しぶりです。お電話をいただいたようですが」
「そうなのよ。お礼を言おうと思って。悪いわね。旦那が単身赴任している間、お邪魔させてもらうことになって。子供にもよく言い聞かせておとなしくしているように言うから、よろしくお願いするわ」

すでに同居が決定しているかのような義兄嫁の口ぶりに、私の口元がひくっと震えたのが分かった。しかしここで感情的になるわけにはいかない。

「お言葉ですが、同居は無理ですよ。それを伝えようと思って、お電話したんです」
私の言葉に、義兄嫁は「そんな」と悲しげな声をあげた。
「じゃあ、私たちどこで暮らせばいいの?」
鼻をすするような音をさせながら訴える義兄嫁。
「今住んでる賃貸に住み続ければいいじゃないですか」
私が呆れたようにそう言うと、
「だって、その方が家賃と生活費が浮くでしょ」
きょとんとした子供のように、義兄嫁は答えた。
「家賃はともかく、生活費は普通払うと思うんですが」
「嘘でしょ? 家族なのにお金取るの?」

お世話になることだけ考えているのが目に見えて分かる義兄嫁の発言に、私は呆れを覚えた。断固拒否の気持ちが改めて固まり、私は言いたいことを一旦横に置く。

「やっぱりエミリさんたちとの同居は無理です。お兄さんにもそう伝えてください」
「でもすごく大変なのは分かります。だから毎日は無理ですけど、私もできる範囲でエミリさんをお手伝いするというのはどうですか? お買い物や通院の援助があるだけでも、エミリさんも助かるんじゃないでしょうか」

私の提案に対し、義兄嫁はペラペラと話し始めた。
「うちの子はおとなしいし、聞き分けのいい子たちだから大丈夫。それに静香さんのところには子供がいないから、育児の練習にもなると思うわよ。子供できる気配もないしね。あなたのお母さんだって、孫ができたみたいできっと喜ぶわ。だから静香さんたちにも、私たちとの同居のメリットはあると思うの」

子供がまだいないからとか、余計なお世話なんですけど。義兄嫁はもう何が何でも自分の意見を押し通したくて仕方ないらしく、今この瞬間も同居でいかにお互いにメリットがあるかを一方的に話し続けている。逆になんでそこまでして、とさえ思えて、私は義兄嫁が怖くなった。

私が何も返事ができないでいると、義兄嫁は急に冷たい口調になる。
「静香さんって、思っていた以上に冷たい人だったのね。そんな奥さんで謙君もかわいそう。私はこんなに大きいお腹を抱えているのに。これで何かあったら、静香さんのせいだからね。ああ、ストレス溜まる。お腹の子に影響ないといいな」

そこまで言い放ったところで、「ツー」という不快な音が鼓膜を叩いた。電話を切られたのだとすぐに理解したが、義兄嫁のあまりの非常識ぶりに、私はさらに呆然としてしまう。

「やれやれ。すごい人だったわね」

母がそう言うと同時に、テーブルに置いたのはボイスレコーダーだった。
「お母さん、これ」
私が目を丸くしていると、母はそのままそっと私の方に寄せた。
「こういう時は何かと便利だから、あなたが持っていなさい」

ボイスレコーダーには、録音完了の四文字が表示されていた。少し気が抜けたが、私はありがたくそれを借りることにした。借りたのはいいけれど、このまま使わずに解決したらいいな。この時の私はまだ知らない。後にこのボイスレコーダーを貸してくれた母に、深く感謝することになるということを。

義兄嫁との電話から二日が経った、仕事の帰り。夫から電話があった。
「何時に帰る?」
「今帰ってるところだけど、どうしたの?」
私の問いに対し、夫はさらりと言った。
「今から兄貴たちが子供と一緒にうちに来るから、夕ご飯の材料をお願いしたいんだ。ああ、カレーとか簡単なものでいいよ。デリバリーでもいいし」

私は正気を疑った。もちろん義兄一家が来るなんて話は寝耳に水で、約束した覚えもない。しかも我が家と義兄一家を合わせると、九人分になる。急に来られるだけでも迷惑なのに、仕事から帰って一息つく間もなく大人数分のカレーを作れというのだ。

「カレーは簡単じゃないから。しかも九人分よ」
欲のない声で淡々と聞き返す私に、嫌な気配を感じたのだろう。
「あ、はは。じゃあなんかデリバリーで適当に頼んどくわ」
夫は愛想笑いで取り繕い、そのまま通話が終わった。

私はスマホを片手にため息をついた。義兄一家が来る理由など、どうせまた同居するしないの話だろう。義兄嫁にはっきり断ったことで解決した気持ちになっていた自分が情けない。義兄にも直接電話するべきだった。「無理だと伝えておいて」と言ったが、おそらく義兄嫁は義兄に話していないのだろう。でなければ、うちに来る理由もないはずだ。

それよりも、と私はスマホに目を落とす。あれだけ反対したのに、そんなにお兄さんやエミリさんたちにいい顔をしたいの? 私や母の気持ちは考えないの? そんな夫って必要? ぐるぐると、夫に対する暗い感情が私の中で渦巻く。

考えていても無駄だ。とにかく帰ろう。私は大きく息を吸い、嫌な感情と空気を一緒に吐き出して、再び歩き始めた。

私が家に帰ると、すでに義兄一家は到着していた。すぐにでも本題に入りたいところだったが、子供たちもいる手前、しばらくは雑談するしかない。一番上のお兄ちゃんが弟たちの面倒をよく見てくれているおかげか、最後に会った時よりも子供たちがお行儀よくなっていたのには、少し感心した。

夫が頼んだ料理が届き、食事を終えると、母が私に目配せをする。母が子供たちを隣の部屋に連れて行き、面倒を見てくれている間に、私は話を切り出すことにした。

「エミリさんたちとの同居のことなんですけど」
私がそう言うと、義兄は申し訳なさそうに言った。
「我が家は子供が多く、少しでもお金を浮かせたいために無理を言ってしまって、本当に申し訳ない。生活費などはきちんとお支払いするので、なんとか頼めませんでしょうか?」

やはり私が義兄嫁にはっきり断ったことは伝わっていないようだ。頭を下げる義兄を横目に、義兄嫁は私の夫との雑談に花を咲かせている。義兄嫁はいつも年相応の話し方なのに、今日に限ってなぜか体をくねらせ、猫なで声で話していて気持ちが悪い。義兄嫁に何か言ってやりたい気持ちはあったが、私はひとまず見ないふりをした。とにかくもう一度はっきり拒否して、お帰りいただこう。

「申し訳ないですが、同居は無理です。夫がどう言ってるかは知りませんが、この家の名義人の母も同様に反対している以上、何度話し合っても無意味だと思います」
「そうですね。弟もきっとよかれと思って同居を提案してくれたんだと思います。つい甘えようとしてしまい、すみませんでした」

義兄の言葉に、私は首をかしげる。同時に、一瞬夫と義兄嫁の表情が強張るのを、私は見逃さなかった。今の義兄の口ぶりだと、同居は夫から提案したように聞こえる。義兄嫁との同居は、義兄から夫に提案されたのではなかったのか?

「いえ、分かっていただければそれでいいんです」

私は目線を夫に向けたまま微笑んだ。夫は私と目を合わせようとしないし、義兄嫁も明らかに動揺している。その空気に何かを感じ取ったのか、義兄はそのまま義兄嫁と子供を連れて帰ることにした。

義兄たちが帰って片付けを終えた後、私は夫を探していた。何かがおかしい。きちんと夫を問い詰めなければ、と私は思っていた。しかし夫はリビングにもいない。洗面所に差しかかった時、ひそひそ声が聞こえて、私は足を止めた。耳を寄せると、その声の主は夫だとすぐに気づいた。私はボイスレコーダーをオンにする。

おそらく電話だろう。夫の声しか聞こえない。
「大丈夫。引っ越してきちゃえば、静香もお母さんも無茶はしないさ。早くエミリと一緒に暮らしたいよ。ああ、俺も愛してるよ」

心臓が跳ね上がるような衝撃が胸を走った。今までの夫の言動に対する違和感に、急に納得がいった。夫は義兄ではなく、義兄嫁の味方をしていたのだ。義兄嫁と浮気していたという事実に、目の前が暗くなる。しかも話し声の内容から察するに、無断で引っ越してきてなし崩し的に同居しようと企んでいるらしい。

電話が終わったのだろう、夫が洗面所の引き戸をガラリと開けた。その引き戸の真ん前にいた私と、しばらく無言で見つめ合う。最初に口を開いたのは夫だった。

「これは違うんだ」
「何が?」
聞き返す私の顔を見て、夫の顔は面白いくらいに青ざめていた。ボイスレコーダーが作動していることも知らない夫は、その場に崩れるように膝をつき、流れるような動作で私に土下座した。
「離婚は勘弁してくれ」

謝罪の前に保身に走る夫の姿に、嫌悪感が止まらない。廊下の影から母が「あらあら」とこちらを見ている。そんな異様な空気の中で、夫は床に頭を擦りつけながら、いろいろと自白した。

夫が言うには、義兄嫁とは私と結婚する前から男女の関係だったそうだ。義兄嫁たちが我が家で同居するという話も、元々は義兄嫁が言い出したことらしい。同居できれば堂々と謙君と一緒にいられるわ、そんな浅ましい義兄嫁の考えに夫は乗り、さも両者合意と言わんばかりに義兄に自分から我が家での同居を持ちかけたそうだ。

「気持ち悪い」

私がそう言うと、夫はすがるような目を向けてくる。正直、今すぐ目の前から消えてほしいくらいだ。

「しっかりこのことはお兄さんに伝えますから。あなたとエミリさんには慰謝料を請求しますし、離婚もしてもらいます」

私の言葉に、夫はがっくりと肩を落とした。

それからの私の行動は早かった。翌日には義兄に会う約束を取り付け、録音データのコピーを義兄に手渡してことの経緯を説明した。義兄嫁と私の電話のやり取り、そして義兄一家訪問後の夫の電話の録音。その内容と事実に、義兄はショックを受けていたが、思い当たることは前からあったようだ。私が夫との離婚と、夫と義兄嫁に対して慰謝料を請求することを伝えると、義兄は自分も離婚するだろうと寂しげに話していた。

私たちの離婚が成立してからほどなくして、義兄夫婦も離婚した。義兄の希望で子供たちのDNA鑑定をしたところ、義兄嫁のお腹の子供が夫の子供だと判明したそうだ。私が渡した音声データもあり、離婚はスムーズだったらしい。他の子供たちは全員義兄に引き取られ、転勤先で仲良く暮らしていると聞いた。奔放な義母も、さすがにと思ったのか、いろいろと援助し始めたようだ。

義兄嫁と夫は現在一緒に暮らしているらしいと噂で聞いたが、それぞれ私や義兄への慰謝料で困窮している様子。赤ちゃんが生まれれば、さらに苦しい生活になるだろう。自業自得だし、ふさわしい罰だと思う。

話を聞いてくれて、ボイスレコーダーを貸してくれた母には感謝ばかりだ。私は義兄嫁と夫からもらった慰謝料で、母と二人、親子水入らずで旅行でも楽しもうと思っている。

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