夜十時を過ぎた団地の廊下で、ポストの蓋が乾いた音を立てて跳ね上がった。たった一枚の薄い紙が滑り落ちた瞬間、私の人生は静かに変わり始めた。六十九歳、千葉の古い団地に夫と二人で暮らし、私は毎日レジに立ち、夫は交通誘導員をしていた。でも本当は三人で住んでいた。四十二歳の息子は七年間部屋に閉じこもり、ドアの前には食事を置くだけ。誰にも言えない嘘を、私は何年もかけて丁寧につき続けてきた。市役所からの封…

夜十時を過ぎた団地の廊下で、ポストの蓋が乾いた音を立てて跳ね上がった。たった一枚の薄い紙が滑り落ちた瞬間、私の人生は静かに変わり始めた。六十九歳、千葉の古い団地に夫と二人で暮らし、私は毎日レジに立ち、夫は交通誘導員をしていた。でも本当は三人で住んでいた。四十二歳の息子は七年間部屋に閉じこもり、ドアの前には食事を置くだけ。誰にも言えない嘘を、私は何年もかけて丁寧につき続けてきた。市役所からの封...

夜の十時を過ぎた古い団地の廊下で、金属製のポストの蓋が乾いた音を立てて跳ね上がった。一枚の薄い紙が滑り落ちる音がした。その音が、松崎芙美の人生を静かに変えていった。

千葉県の郊外に建つ古い光栄団地。エレベーターのない四階建てで、廊下の蛍光灯は一本だけがまだ生きていた。芙美は六十九歳。近くのドラッグストアで週に五日、午後三時から八時までレジに立っている。背丈は百五十三センチほどしかないが、背筋だけは一度も丸めたことがなかった。それが彼女の密かな誇りだった。

夫の松崎茂雄は七十一歳。工事現場で交通誘導員をしていた。口数が少なく、仕事から帰ると決まってベランダで一服するのが習慣だった。二人が暮らすのは402号室。六畳と四畳半の二間と狭い台所、風呂。昭和の時代に建てられた古い部屋だった。

この部屋にはもう一人住人がいた。息子の松崎和也、四十二歳。彼は七年間働いていなかった。部屋に閉じこもり、昼と夜が逆転した生活を送っている。食事は母親がドアの前に置いていく。ドアは内側から鍵がかかっていた。このことは団地の誰も知らない。芙美は誰にも知られないように、何年もかけて少しずつ丁寧に嘘をつき続けてきた。

十月の初旬のある夜。芙美は閉店間際のドラッグストアで、担当のパート店員が半額シールを貼り始めるのを待っていた。棚の整理をするふりをしながら自然な動線で近づき、端の方に置かれた幕の内弁当を一つだけ手に取った。自分のレジではなく、隣のセルフレジでバーコードを通す。外に出ると十月の風が首元に触れた。

団地に近づく途中、共同のゴミ置き場の前に立ち止まった。収集日でもないのに、分別されていないゴミ袋が一袋置いてある。芙美は手袋をした手でペットボトルだけを取り出し、自分のエコバッグに入れた。明日の資源ゴミの日に出す。誰に頼まれたわけでもない。ただ、この団地のゴミ置き場が汚れていたら、自分たちの住む場所が汚れているように思えた。

四階への階段を登り、401号室の前を通る時は音を立てないようにした。夜遅く帰ってきたことを誰かに知られたくない。玄関の鍵を静かに開けて中に入り、台所の小さな電気だけをつけた。半額弁当を皿に移し、電子レンジで温めて箸を二膳並べる。奥の部屋の引き戸の向こうには明かりがなかった。和也の部屋だ。芙美は声をかけなかった。和也の分の弁当は半額シールを剥がしてから小分けにして、ドアの前に置いた。

茂雄が帰ってきたのは九時少し前だった。その夜はベランダにも行かず、手に薄いグレーの封筒を持って台所の椅子に腰を下ろした。表面に市役所の赤い印が押されている。茂雄は弁当を一口食べてから、その封筒を芙美の前に差し出した。

公営住宅入居者の居住実態及び収入状況に関する確認のお知らせ。読み進めると、来年度より入居者全員に対して収入確認の書類提出が義務づけられるという内容だった。特に、十五歳から六十五歳の収労年齢にある同居家族について収入証明または納税証明の提出が必須。提出できない場合、または審査で自活能力なしと判断された場合、家賃補助の対象から外れる。補助がなくなれば家賃は現在の三倍になる。さらに、それでも支払いが困難な場合は退去を求める場合があると書かれていた。

芙美はその文章を二度、三度と読んだ。目がほんの少し揺れた。しかし表情は変わらなかった。封筒を静かに畳んでエプロンの腰紐に挟む。ポケットがないからだ。そして箸を持ち直して、弁当の続きを食べ始めた。茂雄は何も言わなかった。タバコを一本取り出し、立ち上がってベランダに出た。

芙美は流しの横の古い布巾を手に取り、台所の天板を拭き始めた。さっき自分が拭いたばかりの場所だ。でもまた拭いた。乾いていた布巾に水を少しかけ、絞って、また拭いた。拭いても拭いても手が止まらなかった。四十二歳の息子が無職であること。七年間、社会と切り離されたままこの部屋の中に存在していること。それを誰にも言えないまま、この団地で二十年以上生きてきたこと。その全ての重さが、今この薄いグレーの紙一枚に凝縮されてエプロンの腰の部分でじっとしている。手の中の布巾が少しだけ震えていた。

平穏な暮らしはずっと前から平穏ではなかった。ただそう見えるように努力してきただけだ。その努力が、今夜初めて綻びを見せ始めていた。

市役所からの封筒が届いてから四日が経った。芙美はその紙をエプロンのポケットに入れ続け、洗濯する時だけ出して、乾いたらまた入れた。四日目の朝、家計簿を開いた。古い大学ノートに一センチ角の文字で数字が並んでいる。茂雄の月収は十七万円ほど。芙美のパート代は八万円に少し届かない。合計で二十五万円弱。そこから補助後の家賃実質負担額が二万八千円。光熱費が二万円弱。食費が三万円台。雑費を入れると、毎月残るのは多くて三万円台だった。補助が切れれば家賃は三倍になる。二万八千円が九万円近くまで跳ね上がる。計算するまでもなかった。数字は正直だ。

その日の午後、芙美はいつもとは違うルートで職場へ向かった。裏道を黙々と歩き、二駅分ほど離れた大型のディスカウントスーパーを探した。キャベツが九十八円。もやしが一袋十九円。卵が十個入りで百八十円。小さなメモ帳に値段を書き留めた。買い物リストではなく価格の記録だ。帰り道はさらに遠回りをした。正面から入れば、玄関前のベンチで日向ぼっこをしている太田千恵子に会う可能性がある。この団地の婦人会の世話役をしている女性で、話し好きで団地のあらゆる出来事を把握している。芙美はこの十年以上、太田さんとの距離感を測りながら暮らしてきた。

部屋に戻ると、茂雄が先に帰っていた。だが様子がおかしかった。いつもならまずベランダへ出るのに、その日は台所の椅子に腰かけ、上着も着たままテーブルの上に反射ベストを置いていた。

「今日は早いね」

少し間があって、茂雄が言った。

「会社から連絡が来た。元受けが変わるらしい。七十超えた人間は、今回の切り替えで契約を更新しないってことになった。来月末で終わりだ」

台所の蛇口から水がわずかに漏れていた。一定のリズムで滴る音だけが、しばらく台所に響いた。芙美は立ち上がり、流しに向かった。水を流したまま鶏胸肉をパックから取り出し、ボウルに水を張って入れた。手を動かしながら頭の中では今朝計算した数字が並んでいた。茂雄の収入がなくなれば、残るのは芙美のパート代だけ。月に八万円を切る程度。家賃補助が切れれば九万円近い請求が来る。自分の収入より家賃の方が高くなる。

他の家庭であれば、子供に頼るという選択肢がある。息子が社会人であれば、電話一本かければいい。しかし松崎にはその選択肢がない。和也に収入はない。和也に電話する相手はいない。芙美はまな板の上で包丁を動かしながら、和也の部屋の方をちらりと見た。ドアの下の隙間からかすかな光が漏れている。起きているのだろう。

夕食が終わった後、芙美は和也の部屋のドアをノックした。低いくぐもった声で「うん」とだけ返事があった。芙美は扉の前に膝をつき、小さな声で話しかけた。

「お父さん、来月で仕事が終わりになるって。それだけ知っといてほしくて」

ドアの向こうは静かだった。

「団地の家賃も来年から変わるかもしれない。まだ何も決まってないけど」

しばらくして、くぐもった声が答えた。

「……そうか」

それだけだった。

翌朝、ゴミ出しの日。ゴミ置き場の前で太田さんに会った。

「そういえば和也さん、最近どうされてるんですか? 玄関で全然見ないものだから」

芙美はゴミ袋を置きながら答えた。

「おかげさまで忙しくしているみたいで、なかなか帰れないって言ってます」

これは何年も繰り返してきた答えだった。太田さんは少し目を細めた。

「東京の方で頑張ってるのね。うちの息子も横浜で忙しくしてるから同じようなものね」

太田さんは自分の息子の話に移っていった。芙美は表情を動かさずに聞いた。あいづちを打ち、頷き、適切なタイミングで「それは良かったですね」と言った。太田さんが去った後、芙美は自分の手のひらを見た。冷たくなっていた。手袋をしてくるのを忘れていた。「おかげさまで」といった時の自分の声がまだ耳の奥にあった。誰の何のおかげなのか。

階段を登り部屋に戻ると、台所のテーブルに住宅確認の調査表が置いてあった。芙美が封筒から取り出して広げておいたものだ。世帯全員の氏名と年齢、続柄、収労状況を記入する欄がある。茂雄の欄には「収労中」と書いた。芙美が書いた。だが、来月には正確ではなくなる。次の欄、松崎和也、四十二歳、長男。収労状況の欄が空白のまま、芙美の手が止まった。選択肢は印刷されていた。「収労中」「求職中」「就労不能」「その他」。どれに丸をつけても正確ではない。何年も収入がなく部屋に閉じこもっている。鉛筆を持ったまま動けなかった。この調査表は自治会を通じて提出することもできる。つまり太田さんの目に触れる可能性がある。芙美の手の中の鉛筆が少しだけ震えた。結局、何の印もつけずに鉛筆を離した。

その日の仕事中、芙美はいつもより多く間違えた。レジを打ちながら頭の中に数字が浮かんでは消えた。午後五時頃、五十代くらいの女性客が缶ビールを買った。バーコードを通していると、手が滑って缶が一本カウンターの下に落ちた。

「あら、申し訳ございません」

素早く拾い上げて側面を確認した。へこみはなかった。客は一通り見てから「大丈夫よ」と言った。芙美はもう一度頭を下げた。手の中にかすかな震えがあった。

帰り道、団地の入り口に近づいた時、前方に見覚えのある背中があった。太田さんだ。買い物帰りらしくエコバッグを両手に下げている。芙美が立ち止まったそのタイミングで、太田さんが振り返った。目があった。

「あら芙美さん、お帰り。寒いわね。仕事だったの」

「ええ、ちょっとだけ残って作業があって」

太田さんが隣に並んできた。

「そうそう。今日婦人会の集まりがあったのよ。芙美さんも来ればよかったのに」

「誘ってもらえなかったので知りませんでした」

「あら、そうだったかしら。回覧が回ったはずなんだけど。ま、次回は是非。来月集まるから」

玄関の前で別れた。部屋に戻ると、テーブルの上の調査表が裏向きではなく表に返されていた。茂雄が見たのだろう。茂雄の欄には「収労中」と書かれていた。茂雄が自分で書いたのだ。仕事が終わるのに。芙美は何も言わなかった。茂雄も何も言わなかった。和也の欄は空白のままだ。

締め切りの三日前の朝。芙美は長い時間をかけて、和也の収労状況の欄に「その他」と丸をつけた。離行欄には「療養中」と三文字だけ書いた。精神的なものかどうかは分からなかったので、それ以上は書かなかった。和也が病気かどうか、芙美は正式には知らない。病院に連れて行ったのは七年まえに仕事を辞めた直後の一度だけだ。あの時、医者が何を言ったのか完全には理解できていない。ただし、しばらく休む必要があるということだけは伝わった。その「しばらく」が七年になった。

提出方法は三つあった。自治会経由か、郵送か、区役所の窓口に直接持参するか。芙美は区役所への直接持参を選んだ。封筒の裏に小さく書かれた注意書きを何度も読んだ。「記載内容によっては担当窓口でのヒアリングが必要となる場合があります」。療養中と書けば、説明を求められるかもしれない。それでも行くしかなかった。

提出期限の二日前、雨の午前中。芙美は五時半に起きた。インスタントの味噌汁を一口ずつゆっくり飲みながら窓の外の雨を見た。百円ショップで買った薄手のビニールカッパを羽織り、細い住宅街の道を歩いた。バスには乗らなかった。バス停で顔を知っている人間に会うかもしれない。区役所に行く理由は無数にあるが、芙美にはその無数の理由を持ち出す自信がなかった。

三十五分かけて区役所の建物が見えてきた。入り口の前で足を止め、カッパのフードを下ろし、畳んでエコバッグに入れた。髪を整えてから入る。これは芙美の習慣だった。どんな場所に行く時も、入る前に一度立ち止まって服を正す。

住宅関係のボタンを押すと、番号札が出てきた。三十七番。待合いの椅子はプラスチック製のオレンジ色だった。芙美は端の席を選び、背筋を伸ばして座った。壁の掲示板のお知らせを順番に読んでいった。読んでいるふりをすることで周囲からの視線を遮断できる。

「三十七番の方、四番窓口へどうぞ」

四番窓口には二十代後半から三十代前半くらいの若い男性職員が座っていた。芙美は封筒を差し出した。

「住宅確認の書類を持ってきました」

職員は書類にざっと目を通した。目が止まった場所が芙美にはわかった。和也の欄だ。職員は画面に目を移し、キーボードを数回打ってから言った。

「松崎様のご家族で、長男の方が療養中とのご記載ですが、療養中の場合、医療機関への通院実績または主治医の診断書の写しを添付していただく必要があります。お持ちですか?」

「持っていません」

「そうですか。長男の方は現在収入はございますか?」

「ありません」

「収入がない期間はどのくらいになりますか?」

芙美は一秒だけ間を置いた。

「七年ほどです」

職員の指が止まった。顔を上げて芙美を見た。視線は事務的だったが、そこに微細な何かがあった。驚きでも同情でもなく、ただ情報として受け取った時の一種の確認のような目だった。

「長男の方の年齢は」

「四十二です」

職員はまた画面に目を向け、別の書類を引き出しから取り出して芙美の前に置いた。

「現状では、世帯に収労年齢の方がいらしてかつ収入の申告がない場合、家賃補助の継続審査において不利な判定が出る可能性があります。ただし、生活保護の申請をされる場合は別途対応が可能です」

生活保護。言葉が空気の中に置かれた。表紙が薄い桃色のパンフレットが差し出された。

「申請される場合はまず調査が入ります。世帯全員の収入、資産、預貯金の確認の後、扶養義務者への照会を行います」

「扶養義務者への照会というのは、具体的にどういうことでしょうか」

「ご家族の親族の方々に書面にてお知らせが届きます。松崎様のご家族が生活保護を申請したこと、扶養が可能かどうかについてお伺いするための書面です。返答は義務ではありませんが、届くことになります」

芙美は少しの間何も言わなかった。茂雄には長野で農業をやっている兄がいる。芙美にも埼玉で会社員をしている弟がいる。去年の電話で「和也君はどうしてる」と聞かれて、「元気でやってますよ」と答えた。その弟の元に書面が届く。

「書類は持ち帰ってもいいですか?」

「はい、どうぞ」

芙美はパンフレットをエコバッグに入れた。提出した調査表の控えを受け取り、立ち上がった。ありがとうございましたと言って窓口から離れ、待合いの椅子の列の横を通って出口へ向かった。何人かの視線を感じた。あるいは感じただけかもしれない。しかし背中が熱かった。

自動ドアが開き、外の雨の中に出た。カッパを着ようとしてエコバッグをまさぐっていると、顔を上げた。そこに見覚えのある顔があった。太田千恵子だ。太田さんも区役所に来ていたのだ。入口の傘立ての前で、ほぼ正面から顔を合わせた。太田さんの目が芙美のエコバッグと、手に半分ほど出しかけたカッパを見た。それから芙美の顔を見た。最初は純粋な驚き、それから何かに気づいたような間、最後に取りつくろったような笑顔。

「あら、芙美さん、こんなところで」

「太田さんも、何かご用事ですか」

「ええ、ちょっとね、年金の書類があって。芙美さんは」

「住宅の書類を出しに来ました」

「ああ、そうなの。何か変わったことでもあったの?」

「いいえ。定期的な確認だそうで」

太田さんはまた芙美の顔を見た。何かを言いたそうな、しかし言葉を探しているような間があった。

「それじゃあ私行くわね」

「はい。ごゆっくり」

太田さんは自動ドアの中へ入っていった。芙美はカッパを着て、フードをかぶった。雨の中に歩き出した。五歩、十歩。そしてふと立ち止まった。窓口の職員の言葉が頭の中でもう一度再生された。療養中の場合は診断書が必要。生活保護の申請には扶養義務者への照会がある。そして、太田さんがあの目をした。驚きの後に来た、何かに気づいた時の目。あの表情を芙美は何十年もの経験から知っていた。太田さんは何かを察した。確実に何かを。

雨が少し強くなった。芙美は歩き始めた。来た道を戻る。歩きながら足の下のアスファルトを見ていた。水溜まりを避けながら歩く。どのくらい歩いたか分からなかった。気がついたら団地とは反対方向の川沿いの遊歩道を歩いていた。川は雨で増水し、濁っていた。芙美は立ち止まった。風が吹いてカッパのフードが傾きずれた。頭の上に雨が直接落ちてきた。直さないまま立っていた。

四十二歳、収入なし、七年間。それを事務的に口にした。隣の窓口の誰かの耳に届いたかもしれない。待合いにいた誰かの耳に届いたかもしれない。そして太田さんが入口でその後ろ姿を見た。ふと、カッパのフードをかぶり直し、エコバッグを抱き抱えるようにしてまた歩き始めた。団地に戻るために、今度は正しい方向を確かめながら。雨の日は視界が狭くなる。それが今日は少しだけ助かった。

団地の入り口に着いた時計を見ると、区役所を出てから一時間以上経っていた。部屋の中は静かだった。茂雄の靴はなかった。和也の部屋からも何の音もしなかった。台所の椅子に座り、カッパを脱いでハンガーにかけた。濡れた靴を脱いで新聞紙を詰めた。それから布巾を手に取った。コンロを拭いた。ガスの口を拭いた。換気扇の縁を拭いた。台所の壁のタイルを拭いた。流しの縁を拭いた。蛇口を拭いた。ポタポタと水が漏れている蛇口の先を布巾で包んで強く拭いた。手が止まらなかった。床に膝をついて、台所の床を布巾で拭いた。冷たかった。膝が痛かったが続けた。ようやく手が止まったのは布巾が真っ黒になった時だった。

エコバッグの中の桃色のパンフレットのことをもう一度考えた。扶養義務者への照会。弟への書面。茂雄の兄への書面。それが届いた後のことを想像した。弟が電話をかけてくる場面を想像した。「姉さん、どうしたの」という声を。想像した途端、芙美は目をつぶった。目をつぶると区役所の待合い室が見えた。オレンジ色の椅子、視線を下に向けた老人たち、電子音声。それから太田さんの顔。入口で芙美を見た時、あの間のある目が浮かんだ。芙美は目を開けた。窓の外では雨がまだ降り続いていた。

噂というものは、誰かが意図して広めなくても広まる。それが長年同じ場所で暮らしてきた共同体の怖さだ。言葉で伝わるのではなく、態度で伝わる。視線で伝わる。廊下での立ち止まり方が変わり、挨拶の声の温度が変わり、目が合った時の間の取り方が変わる。芙美はそれを皮膚で感じ取った。

区役所から帰ってきた翌日から空気が変わった。最初に気づいたのは、階段の前に座って日向ぼっこをしていた田辺さんという老夫人が、いつもなら軽く手を上げるのに、その日は視線をそらしたことだった。一瞬のことだ。見間違いかもしれないと思った。しかし翌朝、ゴミ置き場で顔を合わせた木村夫婦が、芙美に気づいた瞬間に話を切り上げて立ち去った。これは見間違いではなかった。太田さんが悪意ある噂を流すような人間だとは思わない。ただ、見たことを誰かに話す。話す時に少し色をつける。それが太田さんという人間の性質だった。それだけで十分だった。

一週間もしないうちに変化は明確になった。婦人会の集まりの回覧が、今回芙美の部屋を飛ばして回ってきた。自治会の掲示板から芙美の名前が消えた。偶然かもしれない。しかし偶然が重なった。廊下で顔を合わせれば挨拶はするが、以前のような立ち話はなくなった。何も言われないことが一番重かった。芙美はそれでも毎日同じように起きて、同じように仕事に行き、同じように帰ってきた。背筋を伸ばして歩いた。服のシワを伸ばしてから出かけた。帰り道に半額弁当を一回、ペットボトルを分別した。何も変わっていないように見せることが、今の芙美にできる唯一のことだった。

家の中では茂雄との会話が減った。茂雄は仕事が終わることが決まってから、以前より早く床に着いた。ある夜、芙美が台所で洗い物をしていると、茂雄がベランダから戻ってきた。

「和也は最近どうだ」

「変わりないみたい」

「食ってるか?」

「ドアの前に置いてるから、食べてると思う」

茂雄はそれ以上何も言わなかった。

その翌日の夕方のことだった。芙美が仕事から帰る前、午後四時頃、和也の部屋で物音がした。ドアが開く音がした。茂雄が後で芙美に話したところによると、和也は風呂場に向かっただけですぐに部屋に戻ったという。しかしその数秒間、廊下で茂雄と和也は顔を合わせた。何も言わなかった。ただ一秒か二秒、廊下に二人が立っていた。それだけのことだったが、茂雄は芙美に話した。話す必要があると思ったから話したのだろうと芙美は感じた。

翌朝、和也の部屋のドアの前に食べた後の空の容器が出ていた。いつもは夜の間に芙美が下げるが、昨夜は遅かったので残っていた。その容器の横に、小さく折り畳んだ紙が置いてあった。芙美はその紙を開いた。「ネットで仕事を探してみる」と書いてあった。それだけだった。署名はない。字は和也のものだ。小学生の頃から変わらない、少し右に傾いた字だった。芙美はその紙をエプロンのポケットに入れた。泣きたい気持ちがあった。しかし泣かなかった。泣くのは後でいいと思った。

それから三日後の午後のことだった。芙美は仕事の休憩時間にドラッグストアの裏口の外に出て、古びたベンチに座った。スマートフォンに見覚えのない番号から着信があった。一度画面を見てそのまま置いた。知らない番号には出ない。しかし同じ番号からもう一度なった。

「松崎芙美様のお電話でよろしいでしょうか。こちらキャッシュフロー事業部と申します。長男の松崎和也様の件でご連絡いたしました」

芙美は背筋が冷えた。

「どのようなご要件でしょうか」

「和也様が弊社のサービスをご利用されており、現在確認が取れていない取引がございまして、ご家族の方にご連絡差し上げています」

芙美は電話を切った。ベンチから立ち上がり、裏口から店内に戻った。仕事が終わった後、急いで家に帰った。いつもは寄り道をするが、その日は一度も立ち止まらなかった。

部屋に入ると、茂雄が封筒を手に持っていた。

「俺が先に帰ってきたらポストに入ってた。一枚じゃない」

封筒は三枚あった。どれも発送元は別々だったが、内容はどれも似ていた。消費者金融と審査会社からの支払い請求書。宛名は松崎和也になっていた。金額を足した。八十三万円を超えていた。最初の取引から四か月経って、延滞損害金が加算されている。

芙美は和也の部屋に向かい、ノックをした。返事がなかった。もう一度、少し強めにノックした。くぐもった声が答えた。

「うん」

「開けてもいい?」

間があった。それから鍵が外れる音がした。ドアが内側から少し開いた。芙美は押し開けるのではなく、開いた隙間に声だけ入れた。

「封筒が来てた。三枚。お父さんが開けた。中身、分かってる」

長い沈黙があった。それから「うん」と声がした。芙美はドアの前に立ったまま、何秒か、何十秒か時間が経った。やがてドアが少し広く開いた。和也が出てきた。

七年ぶりに芙美は息子の顔を正面から見た。頬がこけていた。肌の色が悪かった。目の下に影がある。それでも芙美の記憶の中の和也と、顔の輪郭は変わっていなかった。和也は廊下の壁に背中をつけて立った。床を見ていた。芙美は和也の顔を見た。責める言葉が口をついて出そうになった。しかし出なかった。ただこう言った。

「何があったか、話してくれる?」

和也は壁に体重をかけたまま、話し始めた。声が低く、途切れがちだった。三か月ほど前からネット上の求人に応募していた。面接なし、在宅でできる、収入証明不要という条件の仕事だった。最初は商品のレビューを書く仕事のように説明されていた。やがて「中間決済の代理処理」という別の業務を依頼された。自分の名義で商品を受け取り、転送するというものだった。最初の一件は実際に報酬が振り込まれた。それで続けた。五件目あたりで連絡が取れなくなった。後から調べると、受け取った商品は本来の購入者が支払いをしておらず、和也の名義が代わりに使われていた。クレジットカードの不正利用に使われる手口だった。和也の名前で立替え購入した形になっており、その支払い義務が和也に来ていた。

話が終わった時、廊下は静かだった。茂雄がいつの間にか台所の椅子から立ち上がり、廊下の端に立っていた。芙美は気づかなかった。茂雄はすべて聞いていた。茂雄は和也に向かって一歩進んだ。怒鳴らなかった。手を上げなかった。ただ声が低かった。

「四十二にもなって」

それから間を置いた。

「お前、分かってるか? お前がやったことがどういうことか」

和也は壁に背中をつけたまま床を見ていた。

「母さんが毎日立ちっぱなしで働いて、半額の弁当を買って帰ってきて、それで家が回ってた。それをお前は知ってたか?」

和也の体がわずかに揺れた。

「八十万、どこから出すと思ってる? 年寄りの俺たちに、どこにそんな金がある?」

それから茂雄は一言だけ言った。

「お前は母さんを殺すのか」

和也の体がゆっくりと崩れた。膝から力が抜けて、壁に沿って床に座り込んだ。手で顔を覆った。声は出なかった。肩だけが細かく震えていた。

芙美は台所に戻った。布巾を取った。コンロの前に立った。手が動き始めた。ガスの口を拭いた。コンロの縁を拭いた。先週拭いたばかりの場所をまた拭いた。拭いても拭いても手が止まらなかった。力を入れすぎて布巾の端が巻き込まれ、引っ張った時、古い縫い目が破れて指の先が金属の縁に当たった。引っかき傷のような小さな傷だった。細い赤い線が浮き上がり、血が出てきた。ステンレスの台に赤い点が落ちた。芙美は布巾を傷に当てた。抑えた。それでも手は震えていた。

貯金がある。老後のために積み立ててきた貯金が百万円を少し超える程度ある。七年かけて積み上げてきた金額だ。パート代の一部を毎月、崩さずに積み上げてきた。それを全部崩せば、和也の借金は返せる。しかし、それで老後はどうなる? この先体が動かなくなった時、二人で何を頼りに生きるのか?

芙美は傷口を水で流した。冷たかった。水を流しながら考えた。二十年以上団地で守ってきたものが何だったのか。きちんとした家庭、きちんとした暮らし、きちんとした母親。誰にも何も言わずに一人で全部抱えてきた。それが今夜、廊下の壁でずり落ちる息子の姿と、三枚の請求書と、布巾で拭き続けた手の傷口に、全部変わった。流しの縁に手をついて、体重を預けた。それでも声を出さなかった。泣き声を出さなかった。ただ水が流れる音を聞いていた。

茂雄がベランダから戻ってきた。台所の入り口で立ち止まり、流しに向かったままの芙美の背中を見た。何も言わなかった。芙美も振り返らなかった。茂雄はそっと台所の電気を一段落とした。明るさが少し柔らかくなった。それだけだった。言葉は何もなかった。

芙美は蛇口を閉めた。傷口をタオルで拭いて、絆創膏を一枚貼った。それから台所の椅子に座った。テーブルの上に三枚の封筒がまだ並んでいた。もう一度数字を確認した。八十三万七千二百円。損害金を含めた合計額。百万円の貯金から引けば、残りは十六万円ほどになる。それが松崎のすべてになる。

和也の部屋からまた引き出しを開ける音がした。今度は長く続いた。何かを探しているのではなく、何かを整理しているような音に聞こえた。芙美は三枚の封筒を重ねて引き出しの中にしまった。今夜はこれ以上考えることができなかった。台所の電気を消し、六畳の部屋に入った。茂雄はすでに布団に入っていた。芙美も布団を敷いて横になった。天井を見上げた。昭和の時代に作られたコンクリートの天井に、細いひびが一本入っている。引っ越してきた時からあるひびだ。二十年以上変わっていない。和也の部屋から音が止んだ。やがて茂雄の寝息が聞こえてきた。芙美は目を閉じた。閉じた目の裏に、廊下で壁に沿ってずり落ちた和也の背中が浮かんだ。声を出さずに泣いていた息子の、その肩の形が浮かんだ。

人が長年かけて守ってきたものを手放す時、それは一瞬では起きない。少しずつ、少しずつ、重力に引かれるようにゆっくりと落ちていく。落ちながら気づく。守っていたのは、本当は何だったのかを。

十一月の終わり、芙美と茂雄は二人だけで話した。借金については結論は最初から分かっていた。老後の蓄えを崩すしかない。百万円を少し超える預金から和也の借金八十三万円余りを返す。残る十六万円ほどが松崎に残る財産になる。それ以外の選択肢を芙美はすでに頭の中で全部試していた。どれもこの答えに戻ってきた。

団地については、茂雄が先に言った。

「出よう」

芙美は何も言わなかった。

「家賃が上がったら払えない。それより前に、もう出た方がいい」

芙美は台所の窓を見た。夜の窓ガラスに台所の電気が薄く反射していた。自分の顔がぼんやりと映っていた。その顔を見ながら、二十年以上前にこの団地に越してきた日のことを思い出した。和也がまだ小学生だった。ボール箱を運んで家具を並べて、それでもちゃんと暮らして行こうと思っていた日のことを。

「分かった」

芙美はそれだけ言った。

翌日から、次の住む場所を探し始めた。条件は厳しかった。家賃は五万円以下。二人と、できれば和也も一緒に住める広さ。ただし和也についてはまだ分からなかった。一緒に来るかどうか、芙美は聞いていなかった。聞く準備ができていなかった。

三日間調べて、いくつかの物件に絞った。どれも今の団地より条件が悪かった。古い、狭い、遠い。それは当然だった。予算が下がれば住む場所の質も下がる。芙美は絞り込んだ物件を紙に書き出して茂雄に渡した。茂雄は黙って読み、それから一つに丸をつけた。電車の線路沿いの古い木造アパート。家賃は三万八千円。ワンルームで六畳と台所だけだった。今の部屋より大幅に狭い。しかし二人ならなんとかなる広さだった。築年数は四十二年。昭和の末期に建てられたものだ。

不動産屋に電話をし、翌日内見に行った。外から見ると写真より小さく見えた。玄関のドアが金属製で錆が出ていた。中に入ると六畳の畳間だった。窓を開けると線路が目の前あった。ちょうどその時電車が通った。床が振動し、窓ガラスが細かく震えた。若い担当者が「電車は十分に一本くらいなので、慣れると気にならなくなりますよ」と言った。芙美は部屋を確認した。壁紙が少し浮いているところがあった。台所の換気扇が古かった。水回りは清潔だった。茂雄は何も言わず、ただ窓から線路を眺めていた。芙美は担当者に言った。

「こちらにします」

担当者は少し驚いたような顔をした。

「ご検討の時間を取っていただいて構いませんが」

「いえ、大丈夫です」

時間をかければかけるほど気持ちが揺れる。揺れるほど決められなくなる。それは芙美の経験から知っていた。入居は十二月の頭にした。退去の理由を聞かれたが、「家族の事情で」とだけ答えた。

退去の届けを出してから二日後、太田千恵子が玄関先に来た。手にみかを四つ、小さな袋に入れて持っていた。

「引っ越すって聞いたから」

芙美はドアを大きく開けなかった。体半分だけ出して頭を下げた。

「お気遣いありがとうございます」

「急だったのね。どちらへ行かれるの?」

「少し遠いところです」

太田さんはみかの袋を差し出した。芙美はそれを受け取った。

「お世話になりました」

もう一度頭を下げて、太田さんが何かを言いかける前に「準備がありますので」と続けて、静かにドアを閉めた。閉めたドアに背中をつけて、芙美はしばらくの間、暗がりに立っていた。みかを台所に置いて、四つのみかをしばらく見た。二十年以上となり合わせて暮らしてきて、芙美はまだ太田さんという人間を完全には分かっていない。それはおそらくこれからも変わらない。

引っ越しの準備は三人でやった。和也が部屋から出てきたのは準備を始めた二日目のことだった。芙美がダンボール箱を台所に運んでいると、和也の部屋のドアが開いて、和也が出てきた。

「手伝う」

芙美は和也の顔を見た。

「助かる」

それだけだった。和也は台所の食器を梱包した。新聞紙で一枚ずつ包んでダンボール箱に入れた。手際は悪かった。七年間台所に立ったことがないから当然だ。しかし時間をかけながら、丁寧にやっていた。捨てるものの量の方が持っていくものより多かった。二十年分の暮らしがダンボール箱十六個になった。

十二月の初旬の朝、引っ越しの日が来た。天気は曇りだった。気温は低く、息が白くなった。業者は頼まなかった。代わりに茂雄が軽トラックを一台借りた。朝の七時に始めたのは、誰とも顔を合わせないためだった。計算通り、廊下で誰とも会わなかった。三階から一階まで、階段を全部手で運んだ。茂雄が重い箱を担ぎ、和也が中くらいの箱を運び、芙美が小さいものをまとめて持った。

二時間かけて一応の荷物を運び終えた。芙美は一度、階段の途中で振り返った。402号室のドアが見えた。ドアの番号プレートが無機質な光を反射していた。402。この番号を芙美は二十三年間見てきた。朝も夜も、この番号の前で鍵を出した。二十三年分の帰宅が、この番号と一緒にある。芙美は階段を降りた。

最後に部屋に戻り、一人で確認した。台所、六畳、押入れ、風呂場、トイレ。全部空になっていた。台所の天板を見た。布巾は必要ない。それでも芙美は持ってきていた濡れ布巾で拭いた。習慣だった。誰も見ていない。誰に見せるものでもない。ただ拭いた。玄関で靴を履き、振り返らずにドアを閉めた。鍵を管理組合のポストに入れて、エントランスを出た。

軽トラックが道路に止まっていた。茂雄が運転席にいて、和也が助手席にいた。芙美が助手席のドアを開けると、和也が少し体を縮めて芙美が乗れるスペースを作った。三人が横に並んで座った。茂雄がエンジンをかけた。軽トラックが動き出した。芙美は正面を向いたまま団地の建物を見なかった。見ないようにした。しかし軽トラックが角を曲がる瞬間、どうしても目の端に入った。四階建ての古い建物が、灰色の空の下に立っていた。外壁のひびが、遠くからでも見えた。それだけだった。

新しい部屋には昼前に着いた。ドアの前に立つと、すぐにまた電車が通った。床が揺れた。和也が少し身体を固くした。芙美は鍵を開けた。六畳の畳の部屋に入った。内見の時より狭く感じた。茂雄が箱を運び込み始めた。和也もすぐに続いた。芙美は台所に立った。蛇口をひねってみた。水が出た。水圧は弱かった。しかし出た。

午後になり、箱の中身を少しずつ出した。食器棚はない。持ってこなかった。食器はダンボール箱のまま台所の隅に置いた。本棚もない。本は数冊だけ持ってきて、窓の横の壁に立てかけた。家具は最小限になった。六畳の部屋に布団と小さなテーブルと茂雄のテレビだけが置かれた。

夕方、芙美は近所を少し歩いた。線路沿いの道を歩くと二分ほどで小さなスーパーがあった。品数は少ないが野菜は安かった。もやしが十八円。キャベツの四分の一カットが六十円。芙美はそれをメモ帳に書いた。その先にコインランドリーがあった。洗濯と乾燥で六百円。週に一度使えば月に二千四百円かかる。さらにその先に小さな定食屋があった。芙美には関係ない店だが眺めた。歩きながら、この町を把握しようとしていた。どこに何があるか、どこが安いか、どこを通れば誰とも合わずに済むか。新しい場所に越してきた時、芙美はいつもそれをする。二十三年まえも、団地に来た最初の日に歩いた。

部屋に戻ると、茂雄がテレビをつけていた。受信状態が悪く映像が少しぼやけていた。和也は畳の隅に座っていた。芙美は買ってきた食材で夕食を作った。味噌汁とキャベツの炒め物ともやしのナムルだ。狭い台所で古い換気扇を回しながら作った。換気扇の音が大きかった。三人でテーブルを囲んだ。テーブルが小さいから、膝が当たりそうだった。それでも三人で座った。食べながら、誰も話さなかった。電車が一本通った。窓ガラスが震えた。茂雄が味噌汁を飲んだ。和也がキャベツを食べた。芙美はもやしを箸で取った。それだけだった。しかし、それがこの三人が同じテーブルで食事をした、何年かぶりのことだった。

夜、片付けが一段落して、芙美と茂雄が布団を敷いた頃、和也が立ち上がった。台所の方へ行き、棚の上に置いていた紙袋を取った。中から畳んだ服を取り出した。コンビニエンスストアの制服だった。紺色のポロシャツと黒いズボン。胸のところに会社のロゴが入っている。芙美は布団の上からそれを見た。和也はその制服をハンガーにかけながら言った。

「今夜から行く。試用期間が今夜から始まる」

声が低かった。芙美の方を見ていなかった。制服のシワを伸ばしながら、壁に向かって言った。芙美は何も言わなかった。茂雄もしばらく黙っていた。それから短く「そうか」と言った。

和也は洗面所に行き、顔を洗って髪を整えた。芙美はそれを音で聞いていた。七年間、和也の気配がなかった。今夜、それがある。和也が制服に着替えて玄関に向かった。靴を履いた。コンビニの制服に、七年ぶりに外に出る四十二歳の男。その背中を芙美は布団の上から見ていた。

「行ってきます」

和也は玄関のドアに向いたまま、こちらを振り返らずに言った。芙美は起き上がった。立ち上がった。和也の背中に近づいた。和也は少し身体を固くした。芙美が何かを言うと思ったのだろう。叱るか、泣くか、あるいは何か重いことを言うと思ったのだろう。芙美は和也の肩に手を伸ばした。制服のポロシャツの肩のところに、小さなシワがあった。芙美はそのシワを指で軽く伸ばした。一度、二度、なぞるように伸ばした。それから言った。

「気をつけてね。寒いから」

和也はしばらく動かなかった。それから小さく頷いた。ドアを開けた。冷たい夜の空気が入ってきた。そのまま出ていった。ドアが閉まった。廊下を歩く足音が聞こえた。それから階段を降りる音が聞こえた。それから、聞こえなくなった。

ちょうどその時、電車が通った。線路の向こうから近づいてくる音が大きくなり、部屋の前を通る時に最大になり、遠ざかっていった。窓ガラスが揺れた。電車の窓の明かりが壁に一瞬だけ光の帯を作って消えた。芙美は玄関のドアの前に立ったままだった。ドアに手をついた。冷たかった。茂雄が布団の上に座ったまま、こちらを見ていた。芙美は振り返らなかった。目に何かが滲んだ。泣き声は出さなかった。声は出なかった。ただ、目が熱くなって視界がぼやけた。

二十三年間守ってきた体裁が、今夜ここにはない。半額弁当を買うための慎ましさも、太田さんの視線も、区役所の窓口の若い職員の声も、ここにはない。団地の402号室の番号プレートも、昨日捨てた荷物も、老後のために積み立ててきた百万円も、もうここにはない。あるのは三万八千円の家賃の古い部屋だけだ。窓を揺らす電車と、剥がれかかった壁紙と、水圧の弱い蛇口と、大きな音の換気扇だけだ。しかし今夜この部屋には、和也が出ていった気配がある。七年ぶりに夜の外に出た息子の気配が、玄関のドアにまだ残っている。

芙美はドアから手を離した。振り返り、布団に戻った。茂雄の隣に座った。茂雄も何も言わなかった。しばらくして茂雄が立ち上がって、ベランダに出ようとした。しかしこの部屋にはベランダがない。茂雄は窓の前で止まった。窓を少し開けた。冷たい風が入ってきた。茂雄はその風の中にタバコの煙を細く吐いた。芙美はそれを見ていた。六畳の部屋の中で、二人は黙っていた。電車がまた通った。揺れた。

この先のことは何も決まっていない。茂雄の次の仕事も、和也のことも、この先の家賃も、老後の二人のことも、何ひとつ決まっていない。決まっていないまま今夜が来た。それでも今夜は来た。芙美は横になった。天井を見た。新しい部屋の天井にはひびがなかった。真っさらな白いボードだった。古い団地の天井にあったあの細いひびが、今夜からもう見えない。どちらがいいのか、芙美には分からなかった。ただ、違う天井だということだけが確かにあった。

電車が遠ざかっていく音を聞きながら、芙美は目を閉じた。和也が今頃どこを歩いているかを考えた。コンビニまでの道、夜の道、七年ぶりの夜の外。それを考えたら、また目が熱くなった。それは悲しみとは少し違った。どう呼べばいいのか、言葉が見つからなかった。ただ、胸の奥でずっと固く閉じていた何かが、少しだけ緩んだような感覚があった。緩んだから楽になったのではない。緩んだことで、これまで感じなかった痛みが初めて届いてきた。それが何なのかを、芙美はしばらく考えた。答えは出なかった。電車がまた通った。揺れた。茂雄のタバコの煙が、窓から夜空に消えていった。

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